キヨさんの願い

ー壱ー

 社務所の中は味気ないものだった。玄関口で靴を脱ぎ、敷居の石の階段を踏んで上ると、短い廊下はすぐに終わり、奥は6畳の小さな部屋だった。奥のガラスの引き戸の先にキッチンがあるのか、その中へとみーこさんは消えていき、残った父親が僕のために座布団を置いてくれた。


「狭いですが、どうぞ座ってください」

「あ、ありがとうございます」


 本当に狭いんですね。なんて思わず言いそうになった素直な僕は、奥から戻ってきたみーこさんの姿を見て、その言葉を引っ込めた。


「このかりんとう饅頭すごく美味しいんですよ」


 麗しいみーこさんは嬉しそうにお盆に乗せた急須と湯飲み、そして白い箱の蓋を開けて中身を僕に見せてくれた。


「かりんとう饅頭ですか?」

「外はカリッとしているお饅頭なんですが、すごく美味しいので是非どうぞ。あっ、お茶も入れますね」


 なんと気が効く若者なのだろうかと僕は感心しながら、視線はみーこさんの言うかりんとう饅頭へと向けた。


「お前、煩悩の塊だな」


 そんな声が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。この部屋の中には、麗しのみーこさんとその父親の姿しか、僕には見えないのだから。


「此の期に及んで、まだそんな事言ってるのか」


 此の期に及ぼうが及ばなかろうが、僕はなにも見えない。空耳が少し聞こえる気がするが、きっと蝉の鳴き声か何かの聞き間違いだろう。

 気を取り直して、僕はかりんとう饅頭を一つ手に取った。みーこさんは「どうぞ」と言いながら湯飲みに緑茶を注ぎ入れてくれている。僕は軽く会釈をした後、かりんとう饅頭に視線を落とす。正直一口で食べきれるサイズだが、ここは上品さをアピールして二口に分けて食べることにした。すると——。


「う、うまい……!」

「でしょう!?」


 みーこさんは興奮して前のめりだ。けれど僕もこの饅頭の美味しさに前のめりだ。外はカリカリ、中は饅頭の柔らかさがなんとも言えない。

 正直僕はかりんとうなんてご年配の方が食べるようなものは好みではない。亡くなったじーちゃんが好きだったけれど、幼少時代の僕はいつもポテトチップスやらチョコレートを選んで食べていた。

 僕の嗜好が年寄り臭くなったとは断じて思わない。そんなことを言う奴がいたら、僕は拳を振り上げてしまうかも知れない。


「お前の嗜好はジジイだな」


 僕は思わず拳を突き上げそうになった。けれど目の前でみーこさんの父親が首を傾げ、みーこさんも「左右はさっきから何言ってるの?」って麗しくも疑問な様子を見せている。

 それを見て僕は肩を大きく回した。


「今日は祖母の手伝いをしていたので、とても肩が凝ってしまいました」

「そうでしたか」


 僕の言葉を真に受けて、お二人は再び朗らかな様子でお茶を飲んでいる。


「ところで、まだお名前を伺っていませんでしたね」


 言われてみれば、そうだった。社会人として失念していた。みーこさんもみーこさんの父親も自己紹介をしてくれたと言うのに、僕はその礼儀を欠いていた。


「大変失礼いたしました。僕は佐藤さとう雅人まさとと言います」


 正座をしていた僕は足を整えた後、きちんとした形で頭を下げた。すると、目の前に座る神職に仕えるお二方も、頭を下げてくださった。


「佐藤さんですね。こちらには後どれくらいいらっしゃる予定なのでしょうか?」


 そう聞いたのはみーこさんの父親だ。僕は一口お茶を口に含み、口の中を潤わせてから笑顔を見せてこう言った。


「そうですね、3週間ほどいる予定です。こちらには祖母が一人で住んでいますので、年老いた祖母が心配で長い休暇を取ってしまいました」


 もちろんこれは嘘だ。僕は結婚を考えていた彼女との破局から、落ち込んだ気持ちを持ち直すための休息のため、田舎へ単身やってきたのだ。

 これはいわば、僕のリフレッシュ休暇である。

 けれど今言った理由が大嘘かといえばそうじゃない。ばーちゃんが心配なのも本当なのだから。


「そうなんですね。そんなに長い間お休みを取られて会社の方は大丈夫なんですか?」


 麗しいみーこさんの心の中の疑問が顔に表れている、と僕は思った。素朴な疑問をその表情に乗せながら、そう聞いてくる様子が、純真無垢とは彼女のような女性を言うのではないだろうか、という疑問を僕に投げかけた。


「大丈夫とは言い難いですが、溜まっていた有休消化をする良い機会ですから。何か理由でもないと一生有給を溜め続けることになってたでしょうし、働き出すと根を詰めてしまう性分なので、健康にもよくないと思いますしね」

「そうでしたか。しかし働きすぎは、現代病の一つでもあるのかもしれませんね」


 そんな風にみーこさんの父親は言ったが、働き蜂だった僕はそれを痛いほど実感している。僕は病的に働いてた。残業も当たり前で、日々の生活はおざなりだった。

 仕事に打ち込む姿を彼女にも褒められ、それが拍車をかけたが、今考えれば言葉を真に受けて彼女をおざなりにしてしまったのがいけなかったのかもしれない。

 今となってはもう全てが取り返しようもない過去なのだが。


「ところで、あの依頼というのはなんなのでしょうか?」


 僕はそう言いながら、麗しのみーこさんが大事そうに神棚の前に置いたあのメモを指差した。

 それは僕が、この神社の入り口で出会った、見知らぬおばあさんからの預かりものだった。


「神社の階段下にある掲示板に貼られていた新聞を読みましたが、占い調べるというのは一体どういう……?」


 僕はなんとも胡散臭い言葉を並べていた、あの学級新聞のような紙面が気になっていた。


「うっ……!」


 正座をしている僕の指を思いっきりつねられ、久しぶりに正座をしていたせいで痺れ始めていた僕の足が悲鳴をあげた。

 感覚を失いかけていた矢先の出来事。むしろ感覚が消え去った後だったらよかったものを……と僕は恨めしい視線を隣に座る左右に向けた。


「大丈夫ですか? 気にせず足を崩してくださいね」

「あっいえ、ありがとうございます」


 みーこさんの優しい気遣い。けれどこの痛みはそう言ったものではないのだ。

 僕の隣に座る左右は、何事もなかったかのような顔をしている。それがまた僕の腹わたを煮えくり返させる。

 いや、落ち着け、落ち着くんだ、雅人。見えない存在にわざわざイラつく必要などないのだから。ここには子供の姿をした神使などいない。少なくとも僕にはその存在が見えていないのだ。

 隣で左右がなにやらブツブツと言ったように思うが、僕は気にも止めない様子でみーこさんの父親が話し始めるのを静かに待った。


「ここの神社はすでにご存知のように、ねずみが神使なんです」

「ねずみが神使とはなかなか珍しいのではないでしょうか? 僕の浅い知識で言えば、神使とは狐や狛犬だけなのかと思っておりましたが……」

「ええ、そうですね。一般的には狐や狛犬が多いかと思いますが、他にも亀や猿、鷹なんていうのもあったり、要は別の生き物も存在するんです」


 要はなんでもありと言ったところだろうか。

 僕がそう思った瞬間、再び僕の足に何か異変が起きたように感じた。だがすでに僕の足は無痛状態という神の領域に達していたため、蚊に噛まれようが蜂に刺されようが今の僕は無敵だ。

 ザマーミロと攻撃をしてくる謎の人物に言ってやりたいところだ。


「この神社には大国主命おおくにぬしのみことという神様を祀っているのですが、その大国主命が火攻めに遭遇した際に助け出したのが、ねずみだったのだと古事記では記されているんです」

「……なるほど。ということは、この神社の神使が狛ねずみなのはその話からきているのですね」


 僕は思わず隣に座っている左右に目を向ける。すると左右は僕の方にガンを飛ばしながら吐き捨てるようにこう言った。


「こっち見るな。バカがうつる」

「なっ!」

「そもそもお前、俺が見えてないんじゃなかったのか?」

「こら、左右! なんて口の聞き方をするの!」


 とことん生意気なガキだ! こいつが神様を助けた神使だなんて、天と地がひっくり返ってもありえないだろう。

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