第1話 犬神②

 

 「午前零時を過ぎた辺りから、『犬神』は現れる、ということでしたよね」と僕が口火を切ると、剣持さんはふわりとした髪を後ろに流し、

 「あれは間違いなく『犬神』ですわ」とうなづいた。

 「それなんですけど」瑠璃乃は小学生の様に片手を挙げる。

 「どうしてそう言い切れるのです?薫くんから聞いた限りでは、その『犬神』とやらは、よくいる雑霊と特徴が大して変わらないものだったのですよ」

この歯に衣着せぬ物言いは、探偵モードの特徴だ。

瑠璃乃が仕事に取り掛かる合図である。

言い淀む剣持さんは、何かを躊躇しているかのようだった。

 「何か心当たりがあるのね?」

 「たいしたことじゃ、ないのですけれど」

 「どんな些細なことでも構いません。そのような欠片を拾い集め、真実を導き出すのが私の仕事ですから」

 心細そうにしていた剣持さんは、瑠璃乃の言葉に勇気づけられたみたいだった。

 「実は、2週間前まで犬を飼っていたのです。ライチという名前のシベリアンハスキーですわ。それが、突然死んでしまって……」

「それは、あなたのお父上である吉次郎さんが亡くなった後、ということですよね?」 

「そうですわ」

「ではそのライチちゃんと……」

「ライチは男の子ですわ」

「ライチくんと……何らかの繋がりがあると考えていると?」

「もしかしたら、と」

「つまり、あなたの命を狙う何者かがライチくんを殺害した。そして霊的存在としてあなたにけしかけた可能性もあるわけですね」

 瑠璃乃は椅子に深く腰をかけ、その細長い足を組んだ。

 使用人が見たという白い影も、ハスキーとなれば納得がいく。

「あの子、高いものから順に壺を壊していくんですもの。お父様から何度お叱りを受けたことか」

剣持さんの言葉には、困ったような懐かしいような、様々な思いがまざっていた。

「それと、もうひとつ聞きたいことが。その亡くなったライチちゃん……」

「ライチは男の子です」と芹田さん。

「……仮にライチくんが零時に現れる霊だったとしましょう。でもそれは、犬霊であって『犬神』ではない。なぜなら、犬神とは自然に発生するものではないからです。霊とは、信仰がなければ神にはなれないんですよ」

探偵はその青い瞳で剣持さんを直視する。

「彼が亡くなった時……一体何があったんです?」

「そ、それは……」

 剣持さんは目を背ける。

その時だった。


 「いやあああああ!!」

 

劈くような悲鳴が、屋敷中に響き渡った。

「今の時刻は!?」

 瑠璃乃に急かされ、腕時計を確認する。

 「23時40分。そんな、まだ犬神は現れない時間のはずなのに」

 僕達の来訪が霊を刺激してしまったのだろうか。だが今まで誰かが襲われたと言う例はないはずだ。

 「あり得ませんわ」剣持さんの声は震えている。

 「中庭のほうからです!」芹田さんは剣持さんの肩を抱き、その体を支えている。

 「薫くん急いで!君が移動してくれなきゃ私も現場に向かえないんだから!」

 「分かってるよ!」

 広間の出入り口へ走り、分厚い木製の扉を押して廊下へ出る。

 中庭の場所は回廊を進んだ右手にあった。大理石の手すりの先に庭園が見えた。

 「むこうよ!」

 中庭の中心部。石でできた噴水の下あたり。

 瑠璃乃が示した先には血溜りが広がり、その真ん中に、メイド服姿の女性が倒れていた。

 「だっ、大丈夫ですか!?」

 すぐさま駆けつけ、脈を図る。首筋は暖かく、呼吸も安定していた。

意識を失っているだけで、命に別状はなさそうだ。

「ちょっと失礼!」瑠璃乃はそう言うと、いきなりメイド服を力づくに引き裂いた。

 肩から胸のあたりまでが勢いよく露出する。

「おい何やって……」

「見て。彼女、怪我をしてない」

そう言われて目を向けると、女性の肢体に傷は一つも無かった。

「じゃあ、この一面の血は一体誰の」

「さぁね。ただこれだけの量だ。それに庭中に充満した獣の匂い。人間以外のものの可能性もあるわ」

それじゃあ、やはり犬神の仕業なのか。

その瞬間、僕は血溜まりの中に奇妙な窪みがあるのを見た。

「なんだこれ」

何かが這いつくばった跡。

引き吊られたような血痕の先で。

憎しみに満ちた獣の眼が、僕たちを捉えていた。


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