第7話 酒席

7-1 移動

 エレベーターで1階に降り、警視庁本庁舎を出た2人は、前方150メートルの場所に、玉井の姿を認めた。

 玉井は、2人に背を向け、どこかに向かおうとしていた。どこに向かおうとしているのか。

 どこでも良いが、2人とは別方向であるのはありがたかった。恐らく、葵と楓の2人は、

これから、

 <月見亭>

で、色々と仕事の愚痴を言うだろう。特に、公安への非難が大量に出るだろう。もし、<月見亭>まで、一緒となると、-あまり、考えられないことだが-勿論、公安の愚痴を言うこと等、不可能である。

 葵は、左隣にいた楓を左肘で小突いた。

 「早く、この場を離れよう」

という合図である。

 楓は合図に気づき、無言で、葵と共に、桜田門駅の地下鉄乗降口へと降りた。

 2人は、改札口を通り、ホームへと入った。

 「さっき、ごめん」

 葵が楓に詫びた。

 「あ、あれ、別にいいよ、玉井警部に気づかれたら、あの時点で、不審がられたかも」

 警察は、犯罪捜査のための組織である。しかし、多くの組織同様、所謂<セクショナリズム>を抱えている。ことに、今回の劉仁宏殺人事件のように、大がかりな事件、換言すれば、

 <国家の大事>

にも関わりかねないような事件において、各課間のセクショナリズムが大きく出ているようであった。葵の先の怒りもそれ故のことであった。

 そんな状況の下、捜査一課の課員2人が連れ立っていたら、何等かの公安に対する

 <挑戦>

ととられることもあるかもしれない。

 もっとも、葵と楓は、そんな

 <挑戦>

を相談するつもりはないものの、公安を含め、周囲というより、

 <上>

の解釈次第では、どのように扱われるか、分からなかった。

 かつて、そう、半年ほど前、2人で連れ立って

 <月見亭>

に行った時、同様、地下鉄と電車を乗り継いで、同所に向かう2人であった。

 地下鉄の車内で、ロングシートに並んで座った2人は、しかし、互いに何を言って良いのか分からず、沈黙の時間となった。

 暫くして、5分程、経ったであろうか、楓が葵に話しかけた。

 「大丈夫?葵」

 「うん、大丈夫」

 しかし、それ以外に何と答えてよいのか、分からない。言いたいことが沢山、有るようで、心中での整理ができいないようなのである。

 「大丈夫?今日、やっぱり、やめる」

 「大丈夫。言いたいことはたくさんあるけど、何か、心の整理がつかない。途中の乗換駅迄、少し、眠らせてくれる?」

 「了解」

 その回答を聞くと、葵はロングシートの上で目をつぶり、少し眠った。乗換駅迄は、15分ほどの時間である。

 かえでは、自身の右わきで暫くの眠りに入った楓を見つつ、自身にも思うものがあった。

 「今度の私の担当事件は、大規模窃盗事件。資産家やら、金持ちの家々から、現金やら、宝石やらを盗み出す窃盗団が、私の取り組むべきホシ」

 そのように、自身の取り組むべき

 <非日常>

によってなされる刑事としての

 <日常>

について、振り返ってみた。

 「お金ねえ」

 楓は、心中にて、呟いた。彼女は、葵が寝てしまったことで、車内には、色々な同乗の乗客がいるにもかかわらず、1人の世界になってしまっていた。

 <1人の世界>

になってしまったことによって、

 <自身の世界>

に耽溺していたのであった。

 「でも、お金っていうけれども、そんなにお金が必要なことって、何かあるのかな?」

 楓は、自身の世界を振り返ってみた。

 「私だって、当然、毎日の私生活とかにお金はいるよね。今だって、お金が必要な場所に行こうとしているわけだし、光熱費、日々の交通費・・・・・」

 しかし、何かしら、振り返ってみると、勿論、ある種の

 <楽しみ>

に資金が必要な場合もあるものの、その多くは、

 <衣・食・住>

を中心に、日々の生活の基本たるものが中心であるようである。日々の出費が

 <生活の基本>

等に限られていることが多いからこそ、彼女自身は、それなりに、通帳内に資金もあるのである。まあ、とりあえず、生活には困らないであろう。

 そんな楓からすれば、

 <強盗>

やら、

 <窃盗>

等の犯罪に手を染める理由は全くない。

 ましてや、彼女は、

 <警視庁捜査一課>

所属の警部補にして、刑事である。

 そう言ったキャリア、立場からすれば、勿論、犯罪など、とんでもないことである。

 しかし、犯罪という

 <非日常>

に日々、取組む立場としては、場合によっては、順調に人生を進んで来たはずの所謂、

 <エリート>

が些細なきっかけが原因で転落し、犯罪に手を染める例、あるいは、些細な気のゆるみが原因で犯罪者に転落していく例も見て来た。

 ここ最近、自身が取組んでいる窃盗団の件とて、背後にそうしたものがある可能性は、充分に考えられた。

 自分の傍らで眠っている葵を見つつ、楓は、

 「色んな人生があるけどね、人生はどこにいても、落とし穴が空いているし、何があるか分からないし」

 楓も、やはり、刑事の女である。何かあると、自身の担当の事件と関連付けて、考える癖があるようである。

 そうこうしているうちに、葵と楓を乗せた地下鉄は、彼女等2人の乗換駅に近づきつつあった。

 停車駅で車窓の外を見ると、乗換予定駅の1つ前の駅であった。他の駅と同じく、人々の乗降が終わると、地下鉄はすぐに走り出した。

 「葵!」

 楓は、右わきの葵の肩を多少、強く揺すぶった。

 「え!?」

 葵は、目を開いて、驚いたように眠りから目覚めた。この様子だと、15分という短い時間とはいえ、ある種、熟睡していたようであった。

 「次で、乗換駅!」

 「あ、ごめん、了解」

 葵も、眠っている間、自分の世界に耽溺していたのかもしれない。しかし、短いとはいえ、睡眠をとったことによって、かなり、頭はスッキリしたらしい。楓は改めて、

 「大丈夫?」

と声をかけようとしたものの、その言葉を待たずに、

 「さ!行こう!」

と、逆に楓を先導する形で、乗換駅を降り、乗り換えホームに向かった。

 「葵は、山城警部補としての、元気の良さを取り戻したね」

 警視庁本庁舎を出る時、何かしら、楓は、葵のことが心配になっていた。心配だからこそ、葵は、

 <月見亭>

に誘ったのではあるものの、そのこと自体がかえって、

 <余計なお世話>

になるかもしれない、とさえ思った。しかし、この調子ならば、とりあえず、

 <余計なお世話>

にはならずに、済むようである。

 葵が改めて言った。 

 「さ!行こう!」

 そう言うと、葵は入線して来た電車に葵を先導するように、乗車した。

 「うん」

 楓も、葵に続いて電車に乗り込んだ。

 楓は言った。

 「正直ね、葵のことが、ちょって、心配だった。さっきの本庁のデスクでの怒りの表情やら、地下鉄の中で疲れて眠っていたことやら、があったからね」

 「私だって、色々、あります。<月見亭>で大いに話しましょう」

 「そうね」

 葵は、今の時点ですでに、

 <月見亭>

にて、色々、話せるという、普段、つまり、いつもの

 <日常>

では、話せないことが話せそうだ、という

 <非日常>

が楽しめる、ということが楽しみなのかもしれない。

 しかし、気兼ねなく話さる、というのも、一種の

 <日常>

のはずである。そう思うと、

 <月見亭>

で過ごす時間は、

 <日常>

というべきなのか、それとも、

 <非日常>

と言うべきなのだろうか。

 両者の境界線ははっきりせず、何だか、よくわからない話である。

 <日常>と<非日常>

の境目はどこにあるのだろうか。

 こういったことを、楓は何となく心中にて、漠然と思った。それは、葵も思っているかもしれなかった。


7‐2 <月見亭>での会話

 「こんばんは」

 楓は依然、葵を連れて来たように、挨拶し、葵を先導するように、

 <月見亭>

に入店した。

 「いらっしゃい、刑事、お二方!」

オーナーの新井は、葵と楓の2人の姿を認めると、元気よく挨拶した。

 「今日はお2人で、お揃いだね」

 「ええ、そうなの、ちょっと楽しみたくて」

 楓と葵は、いつものように、カウンター席に座った。

 「何、飲みます?」

 新井が2人の前にメニューを差し出しつつ、

「今日は、熱い熱燗とかは注文しないの?」

と、楓に聞いた。

「あ、ここ、そんなものがあるんや」

 葵は、少し、場違いとも思われるものがあることに驚いた。しかし、

 「私は、まずビールかな?」

と、葵は、ビールを所望した。寒い冬なので、熱燗の日本酒等でも良さそうなものの、和風居酒屋でもないので、何となく、熱燗は、この場には似つかわしくないように思われた。

 <月見亭>

の店内は暖房が効いているのであろう、暖かい。店内に入ると、葵の身体を包んでいたかのような先程までの、身体を冷やしていた冷気は、ほどけていった。そのこと自体が、

 <月見亭>

が、2人を歓迎してくれているかのようであった。

 身体が暖かくなっている時には、冷たいビール等でも問題ないはずである。

 「じゃ、私もビール」

 楓も同じくビールを注文した。

 「とにかく、店内は暖かいでしょう。だから、冷たいものの方が良いのよ」

 楓は、葵が思っているのと同じ発言をした。

 「なるほど」

 新井は、

 <納得>

の返事をした。

 つまみとしては、2人は、チーズの盛り合わせとクラッカーを注文した。

 細長いグラスに注がれたビールと陶器の皿に盛られたつまみが、カウンターに置かれると、葵と楓の2人は、

 「お疲れ様」

と、互いに言い、軽く乾杯すると、まずはビールを半杯程、飲み干した。

 「ほんと、お疲れさん」

 楓はそう言って、葵を労った。

 「今回の件、大変だったね」

 「まあね、でも、与えられたことは、自分なりにやったつもりだし」

 楓は、少し、何かしらのためらいのような表情を見せた。

 「どうしたの?」

 葵は、楓に問うた。

 流石にやはり、葵も又、

 <刑事の女>

である。相手が同僚とはいえ、わずかな表情の変化も見逃さない。

 楓が、心中を見透かされたことを悟ったかのように言った。

 「悔しかったでしょう」

 「公安に捜査の主導権を握られ、捜査資料の提供をさせられたってことについて?」

 「そう」

 「ま、そうね」

 確かに、それは、悔しいことであった。葵にしてみれば、積み重ねた努力が横取りされたにほかならなかった。

 しかし、楓の

 「悔しかったでしょう」

という、言葉に、結局癒された葵である。楓も又、捜査一課の課員にして、また、同じく警部補の階級を持ち、そして、警視庁という組織の一員である。そこには、表面的ではない、葵の心中を察したものが、楓の表情がらも読み取れた。

 「まあね」

 葵は、改めて

 「まあね」

という、どうとでも解釈し得る台詞を口にしつつ、それでも、なかなか、整理できないかのような心中を整理しようとした。

 「劉仁宏氏の件についての捜査の主導権をとられてもうてから、うちには、新しい事件はいまだ振られとらん。近日中に、楓をはじめ、他の課員のバックアップ、ということを言われるかもしれんけど」

 そう思いつつ、グラスに半分、残っていたビールを飲み干すと、

 「マスター、もう一杯!」

と、更なる一杯を所望した。新井は、

 「了解、只今!」

と勢い良く、応じると、

 「お待ちどう!」

と、葵の前に、更なるビールを置いた。

 葵は、再び、細長いグラスビールを半分ほど飲み干すと、何かしら、溜まっていたものを吐き出すように、

 「ぷはあ」

と息を吐いて、言った。

 「ちょっと、お暇をもらおうと思っているの?」

 「え?」

 楓は聞き返した。

 「まさか、それ、おいとま、つまり、退職ってこと?」

 楓は表情を変えて問うた。

 「違うよ、有休が溜まっているんでね、10日ほど、使わせてもらおうかと思っているのよ」

 葵本人の口から、

 <辞職>

が否定されたことによって、楓は安どの表情になった。

 毎日、毎日、犯罪という

 <非日常>

に取り組んで暮らすことを

 <日常>

として来た葵であった。正直言えば、

 <非日常>

という

 <日常>

から離れてみたい気も時々はしていた。捜査から外されることになった今が、ちょうど、その好機であろう。

 葵は日々、疾走して来た。故に、疲れが出ているのかもしれなかった。これ以上、疲れがひどくなると、それこそ、毒母・真江子の

 「もう、帰ってらっしゃい」

にふらふらと、耳を傾けそうで、それは、彼女にとって、一大恐怖であった。

 「そうか、お疲れさん。それじゃ、戦士の休息ね。新たな人生とキャリアの一歩だよ」

 楓は、そう言うと、

 「マスター、葵の人生祝い!もっと、ビール頂戴!それと鶏肉の盛り合わせを豪勢に大盛りで!」

と新たな注文を取った。

 「了解!サービスさせていただきます!」

 新井も元気よく、返答した。

 「ちょっと、そんなにたくさん注文したら、お代が・・・・・」

 葵が咎めた。

 「いいの、いいの、私のおごりだから」

 「そんな!」

 「大丈夫、私も、少しサービスさせていただきますわ」

 新井が2人の会話に口をはさんだ。

 「お待ちどう!」

 15分ほどして、調理された鶏肉の大盛り合わせが、カウンターに置かれた。

 2杯のビールによって、既に少々、酔っていた葵は、内心、

 「すごい、豪勢な鶏肉の盛り合わせ、食べきれへんかも」

と酔いながら、思いつつ、

 「楓、ごめん、やっぱり割り勘にしよう、楓に悪いよ」

 「いいから、いいから、じゃ、改めて、乾杯!マスターもご一緒に!」

 そう言って、楓が音頭をとり、3人は乾杯した。

 葵は、楓の気遣いに少々、涙ぐみそうになった。

 「楓、そして、マスターの新井さん、ほんま、おおきに。マスターは商売なのに、サービスしてくださって、えらい、すんません。ほんま、ありがとうございます」

 心中で御礼を述べると、葵は3倍目のビールを口にした。

 せっかく、楓と新井が場を作り、盛り上げてくれたのである。ここは、その

 <場>

に乗らねば、かえって非礼であり、また、御礼をしたことにはなるまい。葵は、3杯目のビールを一気に飲み干した。

 季節は冬であり、1月である。外の空気は冷え込んでいる。しかし、

 <月見亭>

の中は、暖かい暖房があるからのみでなく、3人の遠慮なき飲み会のためか、極めて、暖かい空気となった。外の暗い夜空の黒い色とは対称的なものであった。


7-3 都内某居酒屋

 夜の黒い色は、都内全域を包んでいた。当然というべき

 <日常>

の姿である。しかし、都内は、-大概は、非常時以外は、これも又、<日常>の姿ではあるものの-あちこちで街路灯が煌々と明るく、照っていた。

 警視庁公安課警部・玉井康和は、都内某所の一杯飲み屋というべき居酒屋に入った。

 この居酒屋は、以前にも来たことのある飲み屋である。椅子やテーブルもあるが、カウンダ―付近は立ち飲み形式になっている。また、外にもテーブルが置かれてあり、そこで飲む客も少なくない。故に、寒い冬でも、熱気は店の外まで伝わってきている。出入り口には、通常、扉はなく、正面は大きく開かれている。

 <内>

 と

 <外>

が仕切られていないので、言うなれば、

 <開けっぴろげ>

の空間である。夏も冬も、ある種の

 <熱気>

が無意識に感じられる場所であった。特に、冬は、空気が寒いので、こうした光景は、それこそ、意識せずとも、心身を温めてくれるものがあった。

 彼は、電灯の他に、人々の雑談等が明るさをなしている店内に入って行った。

 「へい、らっしゃい!」

 <コ>

の字型のカウンターの中にいた店員の1人が、玉井の姿を認めて、彼に声をかけた。

 「あ、いつもどうも」

 玉井は、声をかけてくれた店員に挨拶をした。

 店員は、

 「いつも、ありがとうございます!」

と、威勢よく返した。

 既に、何度か来ているので、玉井の顔は、店員たちにも、一定程度は知られているのであった。

 「熱燗を一杯!」

 玉井は注文を入れた。

 「かしこまりました、喜んで!」

 再び、威勢の良い返事が返って来た。

 玉井は、こうした威勢のよさが気に入っているのであった。

 1人で飲むのも良いが、しかし、それでは、何か、心に重いものをかえって、感じてしまうことも少なくない。だので、1人で入っても、何かしら、騒々しい雰囲気が、心に賑わいを与えてくれる状況が気に入ってもいるのである。

 というか、様々な一種の雑踏、言い換えれば、ある種の

 <社会>

の縮図、つまりは、多くの人々の

 <日常>

の中に身を置くことによって、

 「俺も、1人の<社会>の一員、別に<社会>からかけ離れた存在ではない」

 と、自身の立場をある種、心中にて確認したかったのかもしれない。

 こういった居酒屋で、酒を飲むというのは、緊張した自身の

 <日常>

から解放されたいからであり、ある種の<非日常>を味わいたいからでもあろう。

 警察組織においては、

 <公安課>

は、ある種のエリート組である、といっても良かった。故に、所謂

 <社会>

の大多数をなす

 <一般市民>

にとっては、半ば、テレビ画面、或いは、インターネットの動画、画像等の中の世界でしかない首相等、

 <VIP>

等と接触する機会もあった。

 子供の頃、インターネット等の世界で、

 <偉い人>

の世界にあこがれたり、古風な遊びながら、

 <○○ごっこ>

において、やはり、何らかの形での

 <偉い人>

にあこがれたことがあった。しかし、

 <○○ごっこ>

の世界での

 <偉い人>

は、子供の世界の中での<偉い人>、つまり、強いやつのものであって、玉井には、あこがれているだけで、その地位は殆ど、廻って来ることはなかった。だので、自分が容易に1人で<偉い人>になれるゲームの世界に耽溺したりもしたのであった。

 しかし、インターネットの世界とも関連するゲームの世界に耽溺している間に、数時間が過ぎ、

 「こら、康和、何してるの?いつまでゲーム!?」

という母をはじめ、当時の大人の声に、彼自身の

 <自身を≪偉い人≫たらしめる彼自身の世界>

は度々、破られたものであった。

 しかし、現在、彼は、本物の

 <偉い人>

と接し得る<エリート>的地位にいる。大学を卒業する時、同級生達からは、玉井が試験に合格したことによって、そうした地位を得られたことをうらやましがられた。2030年代の今日、本来は

 <組織の立て直し>

を意味するはずの言葉である

 <リストラ>

が、労働者の解雇と同義語になり、かつてあったような生涯に渡る雇用の保障は今日、どこにもないからである。

 しかし、玉井のその地位もまた、まさに、

 <偉い人>

によって、保障されている地位であり、何等かの<偉い人>が<リストラ>を発動すれば、その<リストラ>によって、一挙になくなるかもしれないもろいものかもしれなかった。

 故に、彼の生活という

 <日常>

というものも又、常にもろいものかもしれなかった。衆院議員という立場にいながら、あっさり、死に追いやられた劉仁宏の姿が、それを具体的に物語ってもいた。

 劉仁宏の死は、劉仁宏をリストラせんことを望む、何等かの力が働いていたと考えられた。

 そこには、企業から解雇される労働者と国家権力から解雇される公務員という立場の違があるのみだった。

 玉井は、色々、考えているうちに、

 <非日常>を味わいたいつもりが、それこそ、ある種の<安定がない>という意味での

 <日常>

に自身で自身を引き戻していたことに気づき、思わず、苦笑した。

 玉井は、カウンターに出された熱燗を、一気に飲み干した。一気飲みは危険と分かっていつつも、最初の一杯は、一気に行くのが、彼の流儀であった。一気に、

 <日常>

から、

 <非日常>

へと移りたいのである。

 一気に飲み干した熱燗は、寒い中、ここまで移動して来た彼の内臓にしみいり、体内から、玉井の身体を温めた。

 「ぷはあ、うまい」

 一気飲みの熱燗によって、ある種の

 <非日常>

への扉は開かれたようであった。思わず緊張の糸とでも言うべきものが切れた気がした。

 「よう、兄ちゃん、いい飲みっぷりだな」

 「?」

 玉井は思わず、左隣を見た。先程、隣に入った男性客の声だった。

 彼は、玉井の隣に入った時から、少々、酔っていたようであった。但し、ここでは、こうしたことは良くあるので、気にはしていなかった。30代の玉井よりは、年配の男性である。60歳前後の年齢であろうか。既に酔っているところを見ると、この酒場の他の場所で飲んでいたのか、或いは、梯子酒でもしていたのかもしれない。

 「よう、兄ちゃん、あの劉仁宏ってのが殺されたのをどう思うよ」

 「え?」

 玉井は、この男性客の言葉によって、またまた、

 <日常>

に引き戻されてしまった。玉井自身も、少し、酔いが回り始めていたものの、

 <挑発>

ともとれる、この言葉にのるわけにはいかなかった。

 <警視庁公安課警部>

であることが知れたら、それこそ、大変な騒ぎになるかもしれない。この場は、適当な言葉で流すしかなかった。

 「さあ、どうでしょう」

 「どうでしょう、じゃあねえよ、外人どものせいで、俺らの仕事が奪われるかもしれないし、まして、外国人に参政権など与えたら、俺達の生活はどうなるんだ!?」

 「お仕事、大変ですか?」

 「大変も何もねんだよ、俺ぁ、爺の代から引き継いだ商売をやってんだが、外人どものせいで、しょうばいあがったりになるかもしれねえんだ」

 店内にも外国人店員、あるいは、(定住)外国人客がいるかもしれない。場合によっては、そうした人々と口論、あついは暴力沙汰にならないかと気をもみつつ、玉井は、

 「ほんと、大変でらっしゃるんですね」

と少なくとも、表面上、彼に同情する態度をとった。

 「そうさ、だから、次の選挙では、愛国誠民党に入れるんだ」

 「そうですか」

 「俺達、弱きものは、強いおかみに頼るしかあないんだ」

 カウンター内での接客をしつつも、

 <会話>

を聞いていた一店員が言った。

 「お客さん、大丈夫ですか?」

 「馬鹿にすんな、俺ぁ、大丈夫だ」

 <大丈夫>

とは言いつつも、既に男性はかなり酔っている様子である。

 彼自身の台詞から、この男性は男性で、苦しい日々を送っているのがうかがえた。それがこの男性の

 <日常>

であり、彼も又、ある種の

 <非日常>

を求めたくて、ここに飲みに来ているのだろう。

 酔いつつも、男性は勘定をし、カウンターを離れた。

 玉井は、

 「とにかく、大騒動にならなくてよかった」

と離れ行く男性を一瞬、見送ると、カウンターの方に向き直った。

 しかし、次の瞬間、大音響が響いた。玉井も含めて、店内にの客が一斉に、そちらを振り向いた。

 <愛国誠民党>

支持を訴え男性が、酔った、というより、泥酔のあまり、転んで倒れたのであった。

 数人の店員が彼を抱き起し、

 「大丈夫ですか?」

と声をかけた。大きなけがはしていないようである。

 男性店員の1人が声をかけた。

「さ、もう帰りましょう。タクシー代はとりあえず、私が立て替えておきます」

 そう言うと、彼をも含めて、数人ががかりで、泥酔男性客は店外へと連れ出された。店員がタクシー代を立てかえているところを見ると、男性は常連として、この店のお得意さんなのかもしれない。或いは、お得意さんとはいえ、常習犯的な迷惑客なのかもしれない。

 店外へと去り行く、男性を見送りつつ、

 <非日常>

を楽しまんとしていたにもかかわらず、

 <日常>

へと引き戻された玉井であった。

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