第6話 切替
6-1 再訪
今日午前で、数日間の銃砲店、古武術店巡りは一応、終わった。結局、犯人に至る手掛かりはつかめなかった。
葵は、都内のファミリーレストランで、昼食をとった後、今回の劉仁宏殺人事件の最初の現場である、劉仁宏の遺体の発見現場に戻った。
葵は、その最初の現場で、左手首につけていた腕時計を見てみた。時計の針は、間もなく、
・午後2時
に差し掛からんとしていた。
しかし、やはり、まだ1月の冬である。空は晴れているものの、何かしら、その青空の青さには明るさが足りず、暗い感じである。空気も冷たく、大雪が降った先日ほどではないとはいえ、まだ冷えるものがある。
葵は軽く空を見上げてみた。
何かしら、暗い感じの空は、今回の事件の
<複雑性>
というか、何かしらの、つかみどころがない
<曖昧模糊>
を表わしているかのようであった。
もし、今回の事件が、半ば、
<単純>
で、解決し易さが想定される、とすれば、空の色は、何かしら、もっと明るく、澄んだ色であるようにも思われるのである。
「今回の事件は政治がらみやし、背後にきっと、何か、複雑なものが控えているんやろうな」
葵は、見上げた空の色から、そのようなことを思った。
「現に、ここ数日、色んな銃砲店やら、古武具店やら、廻ったけれども、収穫はゼロやった。努力した割には、結果は出えへんかった」
捜査は無駄の積み重ねである。その無駄の積み重ねが、事件の
<真相>
あるいは、
<真犯人>
等へとつながるのである。勿論、これ等のことは、葵とて、もともと、承知のことである。
しかし、今回の
<劉仁宏殺人事件>
については、捜査の主導権は、公安が握っている。
<無駄>
という、言葉で表現されながらも、努力を積み重ねるのは、その先に、
<真犯人>
にたどりつき、
<犯人逮捕>
という功績を立てうるからである。換言すれば、犯罪という
<非日常>
から、平和な
<日常>
を守り得た、或いは、平和に貢献し得た、という満足感があるからであろう。そして、それは、
<自分が主人公になって、なし得た>
となれば、一層、充実感のあるものであった。
しかし、今回は、事件の性格からか、捜査において、それらはない。
暗い色の青空は、そうした葵の心中をも代弁しているかのようであった。
「刑事さん」
「はい?」
河川敷の土手上の路上で冬の空を見上げて、自分の世界にふけっていた葵は、突然、背後から声をかけられた。葵は思わず、背後を振り返った。
江幡夫妻だった。
葵は、夫婦の方を向き直ると、改めて言った。
「あ、すみません。以前、劉仁宏氏の殺人の件でお邪魔した時には、お世話になりました」
葵からの捜査協力への改めての御礼に、夫妻は、
「あ、いえいえ、私どもこそ、いつも、お世話になっとります」
と、半ば、笑顔で返した。
夫妻はそれぞれ、スーパーの買い物袋を手にしており、中には、肉やら、野菜やらが入っていた。買い物の帰りらしい。
「お買い物の帰りだったんですか」
葵の問いに、妻の華子が、
「ええ、そうなんです」
と答え、さらに言った。
「今日は孫がうちに遊びに来ましてね。今夜は、孫のためにカレーを作ってあげるんです」
「そうなんですか」
いつの時代も、子供たちはカレーが好きなようである。葵も、好き嫌いが特にある方ではなかったものの、学校の給食でカレーが出ると、嬉しかった記憶がある。
「お子さんは、おいくつなんですか」
夫の勝正が答えた。
「8歳なんです」
「そうですか。可愛い盛りでしょう」
「ええ、ただね、わがままは言うし、大変です」
葵は、刑事という職業柄、好奇心が旺盛である。捜査は、様々な情報を集めることによって、成り立つからである。
「お孫さんは、普段、離れたところにおられるのですか」
「ええ、普段、別の場所にいます。○○区に私の娘と夫と子供の4人でくらしているんです。ここも都内とはいえ、23区ではないのでね。去年あたりから、時々、気晴らしとして、私等のところに来るんです」
東京は、言うまでもなく、極めて広い。
コンクリート・ジャングルの場所もあれば、自然豊かな場所もある。多様な顔を持つのが、東京である。そして、それ故に、
<東京>
は、人間の
<社会>
のまとまった
<見本>
と言えた。
<7~8歳>
といえば、葵も勿論、当時の年齢ではまだ、小学生であった。
葵は小学生時代、基本的に、一律220円で乗車できる京都市営バスに乗って、移動したことはあるものの、その範囲と距離は、東京ほどの広さを有してはいなかった。
それに比較すると、東京は何もかもが複雑である。様々な風景といった様々な
<顔>
を、地下鉄を含め、鉄道網が複雑に連結しているのが、東京の姿である。人間の
<社会>
のまとまった
<見本>
というべき東京は、それ故に、日本という国全体の縮図でもあり、また、それ故に、その姿からして、1つの
<国>
というべきものかもしれなかった。
「8歳の子供には、せやから、<国>の中を移動する一種の冒険旅行なのかもしれんし、ゴールに到達できた喜びはひとしおかもしれへんな」
葵には、<冒険旅行>を終え、祖父母の家という
<ゴール>
に到達できたという喜びを子供たちが感じている様子を想像した。
子供なりに、否、未成熟の子供だからこそ、
<冒険>
の目的を達成した時の喜びはひとしおであり、自身の力で目的を達成したという達成感は大きいのではないか。
そのことについて確かめるべく、葵は、問うた。
「ご夫妻の御自宅に着かれた時のお孫さんはきっと、笑顔でしょう」
「ええ、着いた、という喜びからか、笑顔ですよ」
葵の思った通りの回答である。こうしたことについては、葵は刑事であることから、勘が鋭いものがあった。
「ただね」
夫の勝正が言った。
「最近は、怖い人もいるから注意しなさい、と孫たちには言っています」
「怖い人とは?」
葵は、問うた。しかし、回答の予測はつく。今回の劉仁宏殺人事件の件で改めて、話題になっている
<(定住)外国人>
のことであろう。
「最近、言葉の通じない外国の人も増えているからね、怖いこともあるかもしれないから、気をつけなさいって、気をつけなさいって言っているんです」
「お孫さんが心配なんですね」
「はい」
江幡夫妻からすれば、孫可愛さゆえに、自然と出た言葉であり、そこに、悪意はないのであろう。しかし、それこそが思い込みによる偏見であると言えた。
しかし、それを今、この場で論じても仕方のないことであった。無理に論じれば、江幡夫妻の孫の待つ自宅への帰宅は遅くなり、意見が対立すれば、夫妻の気分を害し、その影響で、お孫さんまで苦しめてしまうかもしれない。
そこに、声がさらにかかった
「あら、江幡さん」
6-2 若い母子
「あら、原田さん」
「土手の下の方を歩いていたら、そこから江幡さんが見えましたものですから、この子と一緒に上がって来たんです」
華子が葵に言った。
「こちら、私の御近所の原田さんという方なんです」
葵は、改めて自己紹介した。
「お初にお目にかかります。私、警視庁捜査一課の山城葵と申します」
そう言うと、自身の財布から、自身の名刺を取り出した。
そこには、当然のごとく、
・警視庁捜査一課 警部補
山城 葵
とあった。
「あら、刑事さんなんですか?」
原田遥は、少し驚いたような声となった。
「あい、不束ながら」
「あ、このおばさん、見たことある!劉さんって人が殺された時、何か、見かけた気がする」
葵は内心、ムッとしつつ、
「私はまだ、30そこそこ、まだ若いのよ!」
と、その男児に、心中にて、
<反論>
した。その瞬間、その男児をにらみつける表情になっていたかもしれない。
葵の心中の声は、遥の方から具体化した。
「こら、幸作、何てこというの!」
何かしら、響きのある言葉であった。幸作としては、自分の頭上から響きのある声がかかったからか、自身の頭上に落雷したように思えたのかもしれない。先程まで、威勢の良かった幸作は、縮こまってしまった。
「すみません、うちの幸作がいきなり、失礼なことを」
「あ、いえいえ」
そう言いつつ、葵は、
「う~む、しかし、この君に少し、きつく当たったのが、お母さんを通して、分かってしまったかな?傷つけたら、ごめんな」
と内心、葵は、幸作に詫びた。
「この子は幸作君、とおっしゃるんですか」
「はい、コウサクといって、幸せに作る、と書くんです」
「そうですか」
「私は、母の遥と言います」
「ハルカさん、とおっしゃるんですね」
「はい」
遥も、江幡夫妻と同じ、スーパーの買い物ビニール袋を持っている。やはり、買い物帰りらしかった。
先程、母の遥からの落雷によって、一瞬、縮こまっていた幸作ではあったものの、
「刑事さんは、この前の劉仁宏さんの殺人の件で、ここにこの前、来てたの?」
と問うて来た。
「そうよ、私は、そのために動く刑事なの」
「犯人は誰なの?」
「さて、誰でしょう」
華子が言った。
「警察でも、目星は着いていないんですか?」
「ええ、それが色々とありまして、私どもとしましても、今の時点では、なかなか目星がついていないんですね。皆様には、ご迷惑とご心配をおかけして、申し訳ありません」
「僕が刑事さんなら、きっと、解決してみせる」
幸作が、所謂
<大人の会話>
に参戦して来た。
遥が、半ば、苦笑を浮かべながら、言った。
「すみません、この子、幼稚園でも、刑事ごっこが好きで、そのことでいつも得意になっているんです」
「刑事ごっこか・・・・・」
葵は、遥の話を聞きつつ、内心、思った。
「せやけど、幸作君は、捜査初日に現場での私の姿を何かの形で見て、そして、覚えていた。どんな形で見たのかは分からないけど、記憶力は良い。しっかり、記憶をたどれるところでは、刑事の素質があるかもしれへんな」
遥が改めて詫びた。
「すみません、この子が勝手なことを言いまして」
「いえいえ」
そう言って、葵は、幸作の方に向き直ると、腰をかがめつつ言った。
「だけど、幸作君は、私のことをよく覚えていてくれたね」
「うん、家に帰った後、刑事さんがテレビに、映っていたのを見たよ」
なかなか、鋭い。テレビに映っている女性を識別できるとは、優れた能力である。これは、いよいよ、刑事の素質アリではないか。
葵は言った。
「幸作君だったら、将来きっと、良い刑事さんになれるよ。頑張ってな」
「うん、ボク、刑事さんになる!」
「それじゃ、お仕事中、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。もう、引き揚げますので」
そう言うと、遥は、幸作を促して、自宅アパート方向に向かった。
「それじゃ、私等もこれで」
と江幡夫妻も、自宅方向に引き上げていった。
葵も、警視庁に引き揚げんと、改めて、腕時計を見た。
・午後2時55分
である。
「いかん、いかん、時間が経ってもうた。早よ、戻らんと」
そう言うと、慌てて、最寄り鉄道駅の方に速足で歩きだした。
「幸作君が大きくなって、それこそ、<名刑事>になるころには、この国でも、<外国人>が、それこそ、<外国人>というだけで、不審がられるような社会はどうなっているんだろうか」
葵は、歩きつつ、そんなことを思った。
劉仁宏が殺害されて以来、様々なことが言われて来た。特に、インターネットの掲示板上には、
「そもそも、外国人が、半ば<移民>として、日本に来るから、劉仁宏殺人事件のようなことが起こるのだ」
「外国人追放のための法改正を戦い取らなければならない」
等の、差別的書きこみが多くなされていた。こうした書き込みに対し、
<グッドグッド・マーク>
が多数、計上されていた。
勿論、こうした
<差別的書き込み>
は、劉仁宏が殺害される以前から多くなされていた。しかし、今回の劉仁宏殺害事件は、さらに、日本の
<社会>
に大きく、波紋を呼んでいるようである。 これらが、203X 年の日本の<社会>の現実であった。
そうした声を受けてか、現在の与党・民政自由党より、更に右寄りで、党是の1つに明確に
<外国人排斥>
を掲げる
<愛国誠民党>
なる極右政党が台頭して来ていた。
現在、日本の国政は、女性首相・高田初江が率いる民政自由党が政権与党ではあるものの、野党第一党である左派政党の
<民主労働党>
による
<左>
からの攻撃と、
<愛国誠民党>
のような
<(極)右>
からの板挟みにあっていると言って良い状況であった。
政情と、それを支える
<社会>
そのものが、不安定な状況にある今日の日本では、幸作が
<名刑事>
になる前に、現状がどうなるか、が喫緊の課題であった。
但し、如何なる人間も、葵を含めて、今日、即ち
<今、現在>
を生きているので、これは、当然と言えば当然のことではあるが。但し、この <今、現在>がやがて、
<将来>
をつくることになるのである。
足早に歩き、駅に着いた葵は、スマートフォンの電子装置を切符売り場のバーコードにかざし、地下鉄・桜田門駅までの切符を購入し、ホームに入った。
そこに丁度、列車が入って来た。すぐに、列車に乗り込むと、ロングシートに座った葵は、スマートフォンで、インターネットニュース等を見始めた。
その内容はやはり、
<劉仁宏衆院議員殺人事件>
に関するもので、多くが占められていた。
インターネットの世界も又、
<社会>
の一部というか、この複雑な
<社会>
の内容を写し出す鏡である。既に、<劉仁宏衆院議員殺人事件>という犯罪という
<非日常>
によって、その項目は多くが占められていた。
しかし、
<社会>
の多くを占める各
<個人>
は、個々に生活があり、ニュースを気にしつつも、自身の日々の
<生活>
を優先させていることであろう。先の江幡夫妻や原田母子は、その具体的な姿の1つであった。
6-3 帰庁
電車、地下鉄と乗り継いで、葵が警視庁から本庁舎に帰宅した時には、時刻は既に、
・午後4時30分
になっていた。捜査一課の部屋に入ると、
「おかえり、山城君」
と本山が声をかけて来た。何か、憮然とした表情である。葵には、
「どこで油を売っていたんだ」
という非難の表情にも見えた。
しかし、とにかくも、
「只今、戻りました、本山警視」
と返礼をした。
葵はまず、自身のデスクの上に、自身の鞄を置き、聞き込みの結果を整理しようとした。
「山城君、ちょっと」
葵は、本山に促されて、いつかのように、捜査一課の部屋の一遇にある応接セットの出入り口方向に座った。応接セットのテーブルをはさんで、本山が壁側、つまり、外の窓を背後にする形で、ソファに座った。
「山城君、それで、何か、ここ数日、銃砲店や古武具店巡りでわかったことはあったかね」
「いえ、ほとんど、これといった本件に関連するような情報は入りませんでした」
「うむ」
本山は、その回答を葵から既に予測していたかのようにうなずいた。
葵が口を開いた。
「鑑識や監察医からの報告でも、劉仁宏氏が、それこそ、殺傷能力が高い米国××社製ライフルで殺害されたことは、間違いない。しかし、色々、山城君も含めて、我々、捜査一課の課員が動いてみたものの、凶器にあたる米国××社製ライフルについては、日本国内では、どうも、所有者はいないらしい」
それならば、米国××社に、日本の関係者に対して、同ライフルを販売した形跡等がないのだろうか。
「でしたら、電子メール等で、××社に連絡を取ってみては?」
「それも既にやったよ。しかし、不審な人物はとりあえずいないようだった」
「う~む」
葵は思わず、心中でうなった。そして、一瞬、天井を仰ぎ見た。
「××社が、電子メールで不審者はいないって言うたとしても、何か、隠しておるんかもしれん。だとしたら、何を?あるいは、劉仁宏氏を殺害した××社の銃は、複数の関係者を通して、何等かの所謂
<迂回ルート>
を経て、分解した上で、部品ごと、日本に運び込まれたんかもしれん。勿論、運び込みの際には、例えば、輸入申請の書類等には、
<工作機械類>
と書く等して・・・・・」
「山城君」
本山が声をかけた。
「え、あ、はい」
先程から、自身の事件捜査の世界に半ば、耽溺していた葵は、本山の声に、その世界を破られ、上司の本山と対面しているということを半ば、おろそかにしていたようである。
その本山の声によって、
<現実の世界>
に引き戻された葵は、少々、驚きの表情となった。
しかし、 <現実の世界>に引き戻された葵は、改めて言った。
「本山警視、国際的な大事件かもしれませんが、銃については、ICPOを通じて、国外の警察に捜査協力を要請する必要があるんじゃないでしょうか」
「実は、私もそれは思っていた」
そう前置きしつつ、本山は言った。
「しかし、実は、山城君がいない間に、公安の方から電話があってね。この件については、政治関係の問題、場合によっては、国の安全に関わる可能性もあるので、今後は、公安がすべて取り組む、という連絡があったんだ」
「やられた」
葵は心中にて、くやしまぎれの台詞を吐いた。
<政治関係の問題>
あるいは、
<場合によっては、国の安全に関わる可能性>
と言えば、それはその通りかもしれない。
しかし、その言葉の裏側には、
「君等、捜査一課は、凶器の特定といったことにさえ、頼りにならない。後は、エリートたる公安の我々が何とかするから、諸君は手を引き給え」
という侮蔑があるようにも思われた。
葵は思わず、怒りの表情になった。
本山は、その表情から、葵の屈辱感を感じ取ったのであろう、諭すように言った。
「山城君、悔しいかもしれない。しかし、警察もやはり組織だ。組織の論理で動いているのは分かっているね」
勿論、そんなことは了解済みである。
「すまない、山城君が集めたこれまでの資料等は、電子メールに添付して、公安の方に送ってやってくれ」
<敵>
に、今まで集めた資料を送る、ということは、これまでの努力を敵に奪われることでもあり、しかもそれを、
<被害者>
の側の自身が進んで行なうことでもある。二重の意味での屈辱であった。しかし、
<組織の論理>
の前には、葵自身が個人で逆らうことは不可能であった。
「分かりました、警視」
本山の指示に従わざるを得ない葵は、自身のデスクに戻り、改めて、資料の整理を始めた。
デスクの業務用パソコン内に、ワードで書いたものについては、項目ごとにファイルをつくり、転送用フォルダとした。又、手書きの捜査メモに関しては、自身のスマートフォンで写真に撮り、それをノートパソコンに転送した上で、各項目ごとにファイルに入れ、更にフォルダ化した上で、転送の準備をした。
自身の努力の積み上げを、
<組織の論理>
によって、ある種の<敵>に奪われることについて、最早、何と言って良いのか分からない葵である。
換言すれば、ある種の
<降伏宣言>
でもある。
<努力の成果>
を奪う相手のために自ら行動せねばならない自身の立場に、葵は改めて怒りの表情となった。
その時、彼女のデスクを指で軽くたたく音がした。
「?」
音の主は、正面の楓であった。
楓は、同僚としての葵が、怒りの表情を顕わにしていることに、心配したらしかった。
楓の表情を見れば、別に、葵を責め立てるのではなく、又、所謂、
<高いところ目線>
による、説教調の表情でもなかった。
「毎日、お疲れ様。お互い、本当に悔しいよね。私も結構、葵の悔しい気持ちが分かる」
という表情だった。
塚本楓は、警視庁入庁以来の同期の同僚であると同時に、友人であった。その彼女が、葵の立場と心情を察してくれたのであった。ここ最近は、それぞれ、別件の担当であったため、デスクが向かい合っているとはいえ、職務中に言葉を交わすことや、昼食をともにるることも、かなり減っていた。
しかし、そんな状況にあっても、楓は、葵のことを忘れずにいてくれたようであった。
葵は、友人の心遣いに少しく嬉しくなり、怒りの感情もいくらか、和らいだようであった。
楓は、少し、にこやかな表情になると、酒のお猪口を傾ける仕草をとった。
「月見亭?」
葵の質問に対し、
「うん」
と、楓は、促した。楓は小声で、
「さ、早く、今日の仕事を片付けて、自由時間を作ろうよ」
「ありがとうね」
葵も感謝の言葉を述べると、自身だけで、怒りの世界に耽溺し、怒りに任せた表情であったことを、少々、恥ずかしく思った。
とにかく、現時点での作業を何とかしないと、
<自由>
が来ないことだけは確かであった。
葵は、再び、先程からの転送作業に戻った。
「いかん、いかん、怒りに身を任せていたら、作業自体にミスをしてしまう。そうしたら、うちはかえって、公安等から、駄目な刑事とされてしまうかもしれない。そうなったら、いよいよ、まずいことや」
その日の楓との
<自由>
に向けて、作業を続けた葵は、午後6時頃に作業を終え、楓と共に、一課の部屋を出た。向かう先は、勿論、
<月見亭>
である。
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