第4話 捜査方針
4-1 合同会議
全体が暗くなった会議室の中で、パワーポイントの内容が会議室正面のスクリーンに映し出された。
劉仁宏の死因は無論、銃器による射殺である。まず、スクリーンには、改めて、射殺された劉仁宏の遺体が映し出された。画面の右下方には、
「203X年1月○○日 警視庁附属病院」
の字幕があった。
スクリーンを見るに、当然と言えば、当然のことであるものの、遺体は既に、死後硬直していることがうかがえた。スクリーンのなかで、劉仁宏の死体は仰向けに寝かされ、両目はつむっている。
市原が解説を始めた。
「皆さん、ご承知の通り、劉仁宏衆院議員は、銃によって射殺されたと考えられます。弾丸は、貫通しており、背中から、正面に向けて撃たれたものと考えられます」
このことは既に、葵も、事前配布の資料によって、確認済であった。
市原がさらに続けた。
「劉仁宏氏は、心臓を一撃で撃ち抜かれており、急所を貫通されたことによる即死でした」
背中から撃たれたとすると、どのような銃で撃たれたのだろうか。
銃、と一口で言っても、様々な銃がある。拳銃もあれば、ライフルのような銃もある。これらについて、特定することは、事件解決の鍵となるはずである。
「現場に残されておりました銃弾からは、ライフルのそれであることが判明しました。米国××社製で、殺傷能力が高いものです」
米国は、21世紀の今日に至っても、所謂
<銃社会>
である。銃による犯罪はなくならない。日本では、勿論、民間人による銃器の所持は、基本的に認められていない。しかし、それでも、銃器による犯罪が起きた、ということは、治安問題においいても、何かしら、
<グローバル化>
の流れの下、米国等、治安が、周辺諸国並みに悪化しているとも言える状況でもあろう。
人は誰しも、安全に暮らしたいと、思うものである。故に、かつて、20世紀後半期にあった
<安全神話>
を有していた過去の日本を懐かしむ声が、日本の
<社会>
から出ているのも又、事実であった。
こうした、かつての日本を懐かしむ声が、
「グローバル化が、日本の安全を脅かしている。危険な存在だから、その流れに乗った形の外国人を排斥せねばならない」
といった、所謂
<右翼>
的な思想、運動を強める結果にもなっていた。そうした流れの中で、葵等が、先日、捜査し、逮捕した神崎哲也のような思慮の浅い者が、
<右翼>
的言動を
<格好良い>
と感じて、大した考慮もなく、そうした運動に身を投じている、といった現実があったのである。
しかし、それ以前に、
<米国××社製ライフル>
は、如何にして、日本国内持ち込まれたのか、又、誰の、又、如何なる団体の所有なのか?
これらは、大きな問題である。
葵は、自身のノートに、
・米国××社製ライフルの入手経路
・何者の所有?
簡潔に書きつけた。
市原の説明が続いた。
「私は、一監察医にすぎませんので、ライフルについては、どこの誰が所持しているのかはわかりません。但し、××社製ライフルによって、心臓を撃ち抜かれているのは、劉仁宏氏の遺体を検死した結果、明らかでした」
そのように説明すると、市原は、
「皆さん、ここまでは良いでしょうか。何か質問等はございませんでしょうか」
と暗い会議室の中で、パワーポイントの光に自身が照らされ、スクリーンに影を作りつつ、周囲に問うた。
土田も周囲に対し、
「諸君、何か、質問は?」
と促した。
葵は、先程のメモに関しては、捜査一課員として、メモに取ったものの、今のところ、質問はない。
土田は軽く周囲を見回すと、市原に、
「じゃ、そのまま、続けて」
と、解説続行を促した。
「はい」
市原は一言、軽くうなずくと、
「では、劉仁宏氏の死亡推定時刻に移りたいと思います」
劉仁宏は、いつ、殺害されたのか。
「劉仁宏氏の遺体は、1月○○日、午前8時過ぎ、夜が明けたころに、ジョギング中の地元住民によって発見されました」
葵は心中にて、
「おっしゃるとおりや」
と反応した。
「死亡推定時刻は、当時の午前2時頃であり、発見現場となった河川敷での発見から、5、6時間前かと思われます」
葵は医者ではない。当然、医学方面については、素人である。彼女は、捜査という自身の業務に、市原の解説をしっかりと生かすべく、市原の解説に集中した。
しかし、市原は逆に医者であり、死亡推定時刻等について、検死結果を報告する等以外のことはできなかった。
葵は、心中にて、呟いた。
「ここから先は、当然、うちらの仕事や」
葵等の仕事としては、犯行動機の解明、その背後関係の解明等があるであろう。
市原が言った。
「以上、観察担当医としての、私、市原清志からの報告を終わります」
その直後、先の巡査が、部屋の電灯のスイッチを入れた。室内の電灯が一斉につき、会議室内は一気に明るくなった。窓のカーテンも開かれた。
しかし、現在は冬である。カーテンを開けた途端、陽光が差し込む、といった状況にはなかった。
昼頃に降り始めた雪は、すっかり暗くなった空模様をバックに、現在なお、降り続けていた。警視庁の庁舎を外から見れば、葵達のいる会議室を含め、各部屋の窓の方が明るくっ照っている状況であろう。
警察庁長官にして、会議の司会たる土田が改めて言った。
「さて、諸君、劉仁宏氏の遺体については、今、聞いてもらった通りだ」
そのように言うと、
「藤田君、これまでの経緯の要点をホワイトボードにまとめてくれるか」
と、先の男性巡査に指示した。
藤田巡査は、スクリーンの傍らにあるホワイトボードに、
・凶器:米国××社製ライフル、強力な殺傷能力
・死亡推定時刻:203X年1月○○日午前2時頃
と、先程のパワーポイントを用いた市原の報告内容を黒いペンで、ホワイトボード上に記した。
土田は、藤田がホワイトボード上に記した内容を確認すると、言った。
「諸君、見ての通りだ。我々は、凶器と、死亡推定時刻までは、分かった。現在、既に午後6時を回っているが、15分ほどの休憩をはさんで、その後は、犯人の犯行動機等について、検討したい」
司会の土田の発言によって、合同会議は一旦、休憩となった。
葵はちらと、公安課の代表・玉井の方に目をやった。
玉井は、相変わらず、資料を確認していた。しかし、机の上で拡げていた資料を両手で四角くまとめ、改めて、彼は自身の前に置きなおした。その瞬間、一瞬、玉井と目が合ったような気がした。
葵はすぐに、目をそらした。
葵が、玉井に目をやったのは、やはり、捜査一課の代表として、公安課を捜査上のライバルと見なし、その動きが気になったからなのであろう。玉井も、資料をまとめ直しつつも、葵の動きが気になっていたかもしれない。
何だか、捜査方針がはっきりする前から、何かしら、本来は、
<犯罪捜査>
という点で、一致協力せねばならない者同士で、
<腹の探り合い>
<化かし合い>
をしているような感じである。
「いかん、いかん、何か、訳が分からんことになってきた感じやな」
心中にて、一言呟くと、葵は手洗いに向かった。
休憩時間はそんなに長いわけではない。
しかし、まだ、捜査会議は続くのである。会議の後半にむけて、自身をしっかりと
<整備>
しておく必要がある。
葵も資料をまとめなおした上で、机上に置きなおした。そして、手洗いに向かった。
「しっかり、せいや」
という自身への戒めの言葉と共に。
4-2 会議の後半
「いかん、いかん、もう時間や」
葵は慌てて、手洗いから出ると、会議室に戻った。会議室には、先程の休憩時間に、手洗い等に行っていたのであろう列席者は既にほとんど、戻って来ていた。葵の着席によって、列席者はすべて、戻った感があった。
葵の着席を確認したかのように、土田が言った。
「では、諸君、会議を再開したい」
土田の宣言で、合同会議は再開された。議題は勿論、犯人の
<犯行動機>
である。
「諸君、劉仁宏衆院議員に対する犯行動機であるが、現時点では、いくつかの線が考えられる」
捜査にあたって、捜査の方向性を最初から1本に絞るのは考え物であろう。その線が間違っていた場合、容疑者逮捕からは、全くはずれた方向に捜査が進み、結果として、その事件が
<迷宮入り>
する方向に進む可能性があるからである。
土田は、先程のホワイトボードの隣にある、まだ未記入のホワイトボードに、説明の内容を記入するよう、先の藤田に指示し、
<犯行動機>
について、彼自身の持論を展開した。
「まず、恨みの線だな」
つまり、劉仁宏自身が、私生活において、何等かの恨みをかっているという銭である。
何らかの形で、
<有名人>
となっている者は、それこそ、何らかの形で、
<社会>
という各々の
<個人>
同士のネットワークの中において、
<好奇の対象>
となることが多いのは、いつの時代も同じであった。劉仁宏もその例外ではないはずである。
劉仁宏は、民主労働党所属の衆院議員となる前、というより、日本国籍を取得し、日本に帰化する前から、ある意味の
<交渉者>(ネゴシエーター)
であった。
劉仁宏は、それこそ、
<劉>
という、全く、それまでの日本の常識では
<日本人>
的ではない氏名を持つ、ある種の
<存在感>
ある国会議員として、これまでにも、雑誌、インターネットニュース等で、その経歴が報じられることがあった。それらについては、葵も目にしたことがあった。
それらの報道によると、劉仁宏は、中国籍だったころから、自身の両親の店舗がある商店街での自治会に参加、日本国籍を有する
<土着日本人>
達との交渉事にあたることに努力しており、外国人の関係者の利害を通すことに成功していたこともあったという。
しかし、それによって、恨む者がいたことも確かであった。
<良い場所>
を、同じく、
<社会>
の一員でありながら、しかし、商売敵とでも言うべき存在である
<外国籍>
を有する者達に奪われてしまった、という意味での、その
<原因>
を作った劉仁宏に恨みを抱く者がいたこと等が、マスコミによって、報じられていた。
こうした、生活上の利害対立に付け入るで、
<外国人排斥>
等の所謂
<排外思想>
が日本の
<社会>
を何となく包んでいるかのような昨今の雰囲気であった。否、これは、既に、今世紀に入る前後から既に存在していたものであろう。
しかし、生活上の
<利害対立>
ということで言えば大型スーパー等、大型小売店の進出も、地域の商店街にとっては、脅威のはずである。
以前、この日本では、自由市場を是とする大幅な規制緩和がなされたことがあった。結果として、商店街のある各地域に大型小売店が進出し、商店街が崩壊し、半ば、地域経済の崩壊へとつながった事例があった。
この時、劉仁宏のいる商店街の住民は、有力政治家に請願を出す等して、付近の地域への大型店の進出を防ぎ、自身の地域の自身の利害を護ろうとしていた。
それが、昨今では、外国籍の者達の経済進出であった。
しかし、外国籍の勢力に参政権を与えないことによって、その地域という
<社会>
を定義する力を独占し、
<日本(国籍)人>
に都合の良い
<社会>
を作り出し得る点では、<大型店>の進出が問題となった時よりは、まだ、
<日本(国籍)人>
にとっては、楽な話かもしれなかった。
事件現場に行く途中、パトカー車内にて、葵がスマートフォンにて見た
「最終的には、日本の人たちに都合の良いことになった」
というテレビ記者へのインタビュー回答は、それを具体化したものであったとも言えた。
その意味では、日本国籍を取得したとはいえ、
<外国人参政権>
を主張する劉仁宏は、衆院議員当選以前から、交渉において、
<外国(籍)人>
に有利に動こうとしていたという意味では、ある種の恨みをかっていたとしておおかしくはない存在であった。
葵は、土田の説明を聞きつつ、以上のように、心中にて、ある種のシミュレーションをしていた。
土田は
<恨み>
の線についての、自身の持論を述べ終えた。
土田の言う
<恨み>
については、劉仁宏が個人的に借金をして、相手に返済しなかったという可能性がある等、
<重大事件>
を言いながらも、何か、
<重大性>
が欠如した、所謂、ある種の
<一般市民>
同士というべき民事トラブルの延長のような感のある説明でもあった。勿論、その可能性も否定はできないが。
葵は、思い切って挙手した。
「すみません、土田長官、質問、良いでしょうか?」
「何だ?」
土田が反応し、また、全列席者の顔が葵の方を向いた。
「長官は、劉仁宏氏の殺人の件について、<恨み>ということをおっしゃいましたが、衆院議員の立場として、<恨み>を買うとしたら、その立場によるもの、という可能性はないのでしょうか」
「うむ、その可能性は大いにあり得る」
そう、前置きすると、土田は言った。
「しかし、国会議員も又、人間だ。単純な個人間のトラブルといった線も忘れないで欲しい」
「はい、長官」
土田は、警視庁捜査一課の刑事をはじめ、公安課等の刑事を歴任、エリート路線を歩み、現在の警察庁長官の地位についた人物である。同じく、捜査一課刑事の地位にある葵にとっては、大先輩にあたる存在であり、まだまだ、
<駆け出し>
にあたる葵にとっては、
<犯罪捜査のベテラン>
という意味では、その存在と言葉には、大きな重みがあり、重く受け止めるべき存在であった。
「山城葵警部補だったね」
「はい、土田長官」
「君の努力と有能さについては、私も、君の直属上司たる本山警視からも聞いている。この会議が終わったら、君も一課の部屋に戻ることになるだろうが、そこで、今回のじけんについて、本山君の方から、君の守備範囲についての指示があるはずだ。指示に合わせて、しっかり頑張ってほしい」
「はい、土田長官」
葵は仕事上の激励ととれる言葉を受けつつも、何か、腑に落ちないものを感じた。
「守備範囲?それって、何やの?本件は殺人やし、一課が基本的に担当のはずじゃ」
時刻は既に午後7時半になっていた。
「では、諸君、今、山城君にも言ったように、各々の守備範囲については、各課に事前に伝えてある。今回の捜査会議での説明等を踏まえて、各自、職務を全うするように」
そう言うと、土田は会議の解散を宣言した。
一課の部屋への廊下を歩きつつ、葵は思った。
「う~む、きっと、政治がらみの重大事件だけに、一課だけには任せてもらえんのやな。公安が会議に参加しているのを思えば、それもそうか」
葵は捜査一課室に戻った。
4-3 守備範囲
「おかえり、山城君」
「只今、帰りました。本山警視」
「合同会議、お疲れだったね」
「いえ、今回の劉仁宏氏の殺人の件について、一定のことは分かりました。司会の土田長官から、本件の<守備範囲>について、本山警視から、指示を受けるように言われたのですが」
その言葉を聞くと、本山は、葵に近くの応接式のソファに座るように促し、自身は、葵にテーブルをはさんで向かい合って座った。
「遅い時間からの捜査指示で申し訳ないが」
そのように前置きすると、本山は言った。
「山城君、今回の件だがね、もう既に分かっての通り、ガイ者が現役の国会議員だ。しかも、華人系の帰化日本人、ということもあって、外国が関連しているという噂もある」
<外国>
の勢力が関係しているか否かについては、これからの捜査で明らかになることであろう。
しかし、
<外国>
勢力が関与しているとなると、捜査の主導権は公安の方が握るのではあるまいか。
本山は言った。
「だのでね、犯人の<犯行動機>等については、公安が担当することになった」
葵は心中にて、つぶやいた。
「やっぱり」
予測していた通りの言葉であった。
「で、私の取り組むべき仕事は?」
葵は、先程、土田から言われた。
<守備範囲>
について、問うた。
捜査の主導権が握れないのは悔しい。しかし、それでも、本件は葵の
<事件>
でもある。一生懸命に取り組みたいのである。
「山城君、君には、凶器となった米国××社製ライフルについて、その出所等を調べてもらいたい」
「凶器についての調査ですね」
「うむ、殺傷能力の高いこの米国××社製ライフルだが、射程距離も長い。犯人側は長距離で、照準をつけて、劉仁宏氏を射殺したのかもしれない。凶器について検討、確認することによって、ホシにたどり着く道筋が分かるかもしれない」
「分かりました、警視、やってみます」
「うむ、君には期待しているよ」
そう言った上で、本山は、
「さ、今日はもう、解散だ」
そう言って、本日のいわば、
<業務終了>
を彼女に告げた。
部屋の壁面を見ると、既に壁の時計は
・午後9時10分
になっていた。
今日は、遅くまでの勤務だった。しかし、それは、劉仁宏殺人事件という本件の重大さを具体的に物語っているとも言えた。
葵は、
「失礼します」
と、一言いい、ソファから立った。その上で、自身のデスクに戻ると、コートを左手にとり、右肩に鞄をかけ、帰宅の準備をした。
正面席には既に、楓はいない。今回は、別件の担当であり、その件について、彼女は、本日、既に、
<業務終了>
し、帰宅したのであろう。
葵は心中にて、
「お疲れ様です、塚本警部補!」
と一言、言い、心中にて、楓のデスクに敬礼すると、捜査一課室を出、エレベーターで1階に降りた。
本庁舎を出ると、まだ、雪がちらついていた。街路灯が光っている箇所では、電灯に照らされて、降雪の様がよりはっきりと見えている。
葵の郷里の京都でも、冬に、雪が降る時には降るのである。雪化粧した光景は、
<絵になる風景>
とも言われ、観光客向けの絵葉書にもなっているのである。
しかし、東京の雪景色は、京都ほどには、
<絵になる風景>
でもないのかもしれない。所謂、
<コンクリート・ジャングル>
の傾向があるからだろうか。
こんな時には、葵も、郷里の京都を思い出すことをあるらしい。
しかし、思い出しつつも、
「いいや、あの毒母には負けたない!あんな毒母とは付き合いたくない!」
と心中にてつぶやいた。葵は、
「うちは、自分のことは自分で決めるんや」
と常々、思うタイプである。
「負けたない!」
と改めて思った瞬間、半ば、葵の天地がひっくり返ってしまった。積雪のせいで、滑って、彼女は尻もちをついてしまったのであった。
「ああ、痛たた」
葵は、自力で立ち上がったものの、
「せやから、いつも、注意せにゃいかんやろ!事件に取り組む前に、自分の安全も守れんのかい!ちっと、しっかりせいや!」
<天地がひっくり返る>
という今しがたの教訓を得て、葵は少し、慎重に歩き、地下鉄桜田門駅に向かった。
今しがたのアクシデントは、
「注意せよ、慎重になれ」
という何かの声だろうか。
とにかくも、無事、改札を抜けると、いつものホームに向かった。
2、3分ほどして、これまた、いつもの電車が来た。遠くの方から、まずは警笛が聞こえ、電車車両の正面の車両灯が、地下鉄トンネル壁面をオレンジ色に照らし出す。そして、電車そのものが姿を現し、風を吹かせて、ホームの前を一定距離を走ったところで、停車した。
文字通り、
<日常>
の光景である。
葵の正面で、車両の扉が開いた。降車客が降りたのを確認すると、葵は車内に乗り込んだ。
車内は暖かい。今日の東京は大雪のため、特に冷え込んでいた。地下鉄会社も、乗客のため、少し、強めに暖房を入れているのであろう。
葵はロングシートの一遇に座った。今日は勤務時間が長かったこともあり、疲れもひどい。帰宅しても、自炊する気になれない。
しかし、疲れがひどい故に、又、空腹もひどい。何か、腹の虫が鳴ったようであった。女性としては、ちょっと、気恥ずかしいものを感じた。
「自宅マンション近くの駅に着いたら、コンビニで、コンビニ弁当でも、買うて帰るか。こういう時には、コンビニは、文字通り、便利(コンビニエンス)なものや」
走っている地下鉄の車内にて、葵は早く、目的地についてくれないかと思った。
先程迄の仕事の緊張感から解放されたことによって、
<食>
という、彼女自身の、1人の人間としての、或いは生物としての
<個人>
としての
<日常>
に彼女は引き戻されたのであった。
地下鉄を乗り継ぎ、自宅近くまでの鉄道に乗り、いつもの如く、自宅最寄り駅で下車した葵は、その近くのコンビニで、コンビニ弁当とビール数缶、さらに、ツマミを購入した。
コンビニ弁当については、遅い時間に入店したからか、数点しか残っていなかった。恐らく、もう少し、入店が遅れていたら、全て片付けられて、全く、棚から消えていたかもしれない。
所謂、
<ギリギリ、セーフ!>
であり、
<ギリギリ、セーフ!>
によって、自炊の労苦から解放された葵であった。
相変わらず、積雪で半ば、ぬかるむ道を歩いてマンション前に戻った葵は、エンタランスにて、暗証番号を入力し、エンタランスのガラス戸を開いた。
そこから、エレベーターで自宅階まで上がり、自宅に入室した。
やっと、自身の
<生活拠点>
に戻って来た葵であった。緊張感から解放されたせいか、申し合わせたように、改めて前身の疲れが出た感がした。
「さっさと食べて、さっさと寝ましょうで」
そう言うと、コンビニ弁当を食して、すぐに葵は眠った。缶ビールについては、疲れのせいで、かえって、口にする気になれず、テーブルに置いたまま、葵は消灯した。
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