美樹の決断~①
美樹はシンと会う時間を重ねる内に、ほぼ一日中ベッドの中に潜り込んでいた状態から、徐々に抜け出すことができた。起きている時間を無理しない範囲で増やすよう心がけ、寝ていない時間は小説などを読んだ。また単純に見て笑ったりできるテレビのバラエティ番組を視聴したり、モーツアルトなどのヒーリーング効果のある音楽を聴いたりもした。
できるだけストレスを溜めないよう、そしてリフレッシュできる時間を過ごすよう気をつけ、それでも疲れてきたと感じたらベッドに入って横になる。これを繰り返し続けることで少しずつ心の疲れも取れ始め、力が湧き始めるようになったのだ。
回復に至る過程は井畑の頃に経験済みで、今回が二度目だったこともあり比較的冷静に、自らの体調の良し悪しを判断できてはいた。それでも今回受けたショックからの立ち直りの早さは、シンのアドバイスがあってこそだと言える。
彼が最初に訪ねてきた時は驚いたが、拒絶する気力もなくただ食事を口にすることだけを考えていた。いくら体がだるくても、食べることは重要だと以前の体験から理解していたためだ。
彼が来た時点ではだらしなく着続けている服のまま、頭はぼさぼさで顔もがさがさである姿をみられても、恥ずかしいと考える心理状態ですらなかった。それが幸いしたのか、彼は押し付けがましいことをすることなく、ぽつぽつと彼の父がメンタルを壊して現在二回目の休職中である状態を語ってくれた。
回復する為に様々な方法を試みて効果があったものと無かったもの、あるかどうか不明で止めたこと、逆に効果は分からないけれど続けていることなどを呟き続け、それを黙って聞くことができたのだ。
彼の父親に関しては事前知識があり驚かなかったが、同じではないにせよ似た苦しみを抱えている人の経験談を、近くにいる人から見てどう映るのかを含めて聞くことは、新鮮に感じられた。自身もこのままでいいとは思っていない。心も体も動かず、動かそうとも思えない苦しみから抜け出したいけれど、それができないから余計に辛いのだ。
その為彼から聞く話の中で昔自分も試したことと同じ方法があれば、もう一度やってみたり、やったことがない方法の中から無理せずできそうなことだけを試みたりした。その結果、年末には彼に苦しい思いを口に出してぶつけることができるまでになったのだ。彼はその間、ほぼ黙って話を聞いてくれた。
そこで胸の内を一気に吐きだすことができたからか、急速に体調は改善していった。彼とも会話を交わせるようになり、次に千夜や女将と会話し、両親や兄とも電話でやり取りできるまでになったのだ。話す時間も短く、会話の中身は他愛も無いことばかりだったが、井畑の時と比べても回復度合いが早いように思えた。
これも全て彼のおかげだ。彼の静かな、単なる同情ではない、自然と寄り添いながら体調が良くなることを願ってくれる姿に心が響き、体も動くようになったのだろう。それでも改善したらしたで、新たな壁に直面していることに気付く。それは今後どうすればいいのか、だ。
そのことについてはできるだけ考えないようにしていた。しかし体を休ませる段階を過ぎれば、次に立ちはだかる必ず越えなければならない問題なのだ。
体調不良のまま若竹を去ればいいのか。去るのなら今度はどこへ行けばいいのか。今更井畑へ戻ることなどできるのか。井畑でなければどこがあるのか。それとも体調が万全になるまで休み、若竹に残り続けるという選択肢を取るのか。
しかしここに居続けることへの不安もあった。まだ結論は出ない。考えすぎて答えを出そうとすれば、また心と体に不調をきたしてしまう。それでも休み休みしながら、悩み苦しんでいた。
そんな心の動きを察したのか、土曜の昼ご飯を一緒に食べていた彼が、どうかしましたか、何かあれば話は聞きますからといつものように優しく声をかけてきた。そこで思い切って、年末に彼の前で泣いて告白した時より冷静に、ゆっくりと悩みを話してみた。
彼は黙って聞いていたが、話を聞き終わったところで口を開いた。
「まず今後どこへ行くかを考える前に、何かすることはないかを考えたらどうでしょう。このままでは同じ事の繰り返しになります。若竹に残るにしても問題は解決しなければならないでしょう。それがとても辛いことは、僕も分かっているつもりですよ」
正直痛いところを突かれた。そう、あの問題に蓋をしたまま今後生き続けることは難しい。いずれ表に出して乗り越えなければならないと自身も薄々気付いていた。それでも公表した後の影響を考えると、今はそこまでの勇気が持てない。
苦しんでいることを判ったのか、彼は声のトーンを変えた。
「今日の夕御飯、気分転換して外食でもしませんか。元気をつけるために鰻なんていいと思いますけど。確か和多津さんの親戚に美味しい鰻屋があると聞きましたけど、そこはどうですか。親戚などに会うのが辛いようなら別の場所にしますけど」
回復しだしてからは、時々外に出て買い物などもできるようになっていた。運動不足になってもいけないし、日の光を浴びた方が体には良い。そこで晴れの日はできるだけ外を歩いて下さい、と心療内科の先生からもアドバイスを受けている。
その為近所を散歩する程度はしている。だが外食は部屋に引き籠ってから一度もない。
「無理しなくていいですよ。鰻は少し脂っぽいかな」
彼にそう言われると逆に申し訳ない気がしたのと、鰻と聞いて“ウナギのミタ”の御膳が頭に浮かび、急に食べたくなってきた。これまでは食欲など湧いてこなかったが、やはり大好物の鰻は特別なのだろうか。
それにあの店で顔を合わせるとしたら、健一おじさんや亜里沙と遼だ。あの三人なら余計な詮索や、しつこく絡んだりはしない。気づいた時には返事をしていた。
「いいよ、行こう。予約は私から入れる」
「じゃあ行きましょう! でも割り勘ですよ。時間は六時頃がいいかな。もう少し遅くがいいです? 駒亭には、僕から二人とも夕飯はいらないと言っておきます」
最初彼は目を丸くしていたが、早速気が変わらないうちにと段取りし始めた。
「いいよ、その時間で。ちょっと待って。今、ミタのお店に連絡してみる」
こういう場合、勢いが必要だとすぐにスマホで電話をかけた。出たのは従業員の女性だ。
「今日、夜の六時二名で予約したいのですが。和多津と申します」
そう告げると保留音が流れた。しばらく待った後、電話に出たのは先程の女性ではなく、健一おじさんだった。
「お電話変わりました。もしかして美樹ちゃん?」
和多津なんて名前は珍しいため気付かれるかも、と心の準備をしていたためすぐに返事ができた。それほど心が回復しているのだと、少し力が付いてきたことを実感する。
「そうです。おじさん。ご無沙汰しています。いろいろご心配をおかけしまして」
「そんなことはいいけど、体の具合はどう? 二人の予約らしいけど、一さんと一緒? いやそれだと美樹ちゃんから電話なんてしないか」
おじさんは心配しながらどう話そうかと緊張しているのが、電話越しに伝わってくる。
「体はまだまだですけど少しずつ良くなってきたので、久しぶりにおじさんの焼く美味しい鰻を食べて、精をつけようと思って。もう一人は同じ下宿屋でお世話になっている学園の子なの。六年制の男の子。遼と同じ学年で、前に話したことがあったと思うけど」
「ああ、父親も若竹の六年制卒とか言っていた子か。なるほど。今日六時、二名様ね。個室が空いているから、そこを予約しておくよ」
「いいですか?」
「大丈夫だよ。その方が他の人の目も気にしなくていいし、ゆっくり食べられるだろう」
確かに店には色んな客が来るから、個室以外だと学園の関係者や下手をすれば美樹の噂を知っている生徒や親と、一緒のフロアになることがあるかもしれない。
学園を休んでいる身としては、呑気に鰻なんか食べているのかと非難を受けることもあり得る。だから空いているようだったら個室をとお願いしようと思っていたが、向こうが気を利かせてくれたおかげで助かった。
「じゃあ、お願いします」
「待っているよ。タクシーで来るなら店の裏に停めれば、他の客に会わず個室まで行けるから。別に特別待遇じゃないよ。本来個室のお客さんは、そういう使い方をするんだ」
「分かりました。そうさせてもらいます」
そう言って電話を切った。話の内容をシンに伝えると、
「じゃあ五時半頃にここの前へタクシーを呼びます。それは僕がしますね。もう一度言いますけど、割り勘ですからね。誘ったのはこっちですけど。じゃあ、後で」
彼は笑ってそう言い残し、弁当を片付けて部屋を出た。夕方までにはまだ時間がある。人と長めの会話や、今日のような頭で考えることが多いとまだ疲れるため、少し横になることにした。寝坊しないよう、スマホをアラーム設定にしてから枕元に置く。
夜の外食は久しぶりなだけに不安もあったが、何を着て行こうかと考えだすと楽しみにしている自分がいることに驚いた。そう思えることで心と体が回復しつつあるのだと実感できる。これも彼のおかげだと感謝していた。
表面上では無く、真に自分を理解しようとしてくれる人がいることで、どれだけ有難く力強い心の支えになっているかが身に染みる。このような状態になって初めて胸が痛いほど感じられ、幸せな気分で眠りに着くことができた。
四時にセットしたアラームが鳴り、すっきりと目を覚ますことができた美樹は、髪の毛を濡らさないように気をつけながら、寝汗を掻いた体をお風呂で洗う。着替えて少しばかり薄化粧もしてから、準備万端の状態で待ち合わせの時間がくるのを待っていた。
約束の時間の五分前、車が停まる音が聞こえたので窓の外を覗くと、彼が呼んでくれたタクシーが見えた。早足に階段を降り外へ出ると彼も家の前に着いていて、玄関先では千夜までもが出て来ていた。
「すいません、これから来音さんと外食してきます」
彼女にそう告げると、すでに話を聞いていたのであろう、
「気をつけて行ってらっしゃい。外は寒いから風邪をひかないようにね」
そう言ってからシンに、お願いねと一言告げてから彼女は家の中に入っていった。
「行きましょうか」
彼に促されてタクシーに乗り、行き先を告げると車が走り出した。車内ではなぜか二人は無口になる。話しかけてこないので自然と口を閉ざし、窓の外を眺めた。もうすっかり暗くなっていた。薄暗い住宅街から遠ざかり、繁華街でもあるM駅へ近づくにつれ明かりが灯る店が増えていく。街の景色を久しぶりに見たため、気持ちは高ぶっていた。
健一おじさんの言う通りにタクシーを店の裏口へ停めて降りると、予約した六時より少し早く着いたにも関わらず、待ち構えていたかのように店から若い男性従業員が出てきて中へと案内してくれた。裏口から店に入ったことがなかったため、初めてそこにエレベーターがあることを知った。
いつもは表から入っていたので上の階に行く時は階段を使っていたし、足の不自由な客が使えるようエレベーターも設置されている事は知っていた。だが裏口にあるのはそれとはまた別のものだ。これが誰にも気づかれず店に入る方法なのかと納得した。
案内されるがまま、四階で降りてすぐ左手の部屋へと入る。中央に四人がけのテーブルが一つ置かれていた。個室は以前父と入ったが、あの時は座敷だった。
緊張しながらシンと向かい合わせに座り、いつものうなぎ御膳を二つ注文した。注文を受けて個室の扉が閉められてから、ようやく彼が口を開く。それまではずっと黙っていたが、それはいつものように気遣って余計な事を喋らないのかと思っていた。
しかしそうではなかったことが後になって理解することになる。
「騙したようでごめんなさい。今日はあと二人ここへ来ることになっていますから」
小声でそう切り出されて驚いたが、つられて声を押さえながら聞き返した。
「何? 誰が来るって?」
「一人は和多津さんのお父さん。もう一人は初対面になるけど、僕の伯父が来ます」
「お父さん? それと伯父さんって、来音さんにそんな身内はいなかったんじゃないの?」
予想外の話の流れに混乱し尋ねると、彼は冷静に説明をしてくれた。
「実は僕も最近知ったのですが、捨て子の父には兄がいたのです。父を産んだ本当の両親はすでに亡くなったようですが、伯父はかなり以前から父の存在を知っていたそうです。しかしあえて名乗らすにいたのですが、事情があって最近父の前に現れ、そして僕も会って話をしました」
俄かには信じられない話だったため、思わず疑った口調で彼に問い質した。
「本当に実の伯父さんなの。来音さんは会ったのね。来音さんの家ってお父さんを育てた方が裕福で、経済的には恵まれているでしょ。そういう家庭事情を知って、近づいてきた人じゃないの? それになんでそんな人が私の父とここへ来るって言うの?」
「和多津さん、落ち着いて。僕はその伯父とも何度か会いましたし、実の兄だってことは父がDNA鑑定もしたから、間違いないようです。しかも兄と言っても一卵性の双子だそうで、間違いようがない結果が出たと聞きました。それと和多津さんのお父さんと伯父さんは、あることがきっかけでここ何度か会っていたらしく、顔見知りになっています」
「どうして? あなたに伯父さんがいたのも不思議だけど、その人と私の父が? それにここへ来ようと言ったのは、今日のお昼過ぎに決めたばかりじゃない」
「詳しい事は二人が来たら話しますが、実はこういう機会を待っていました。和多津さんの体調が回復傾向にあって、今後のことをどうしようと考えられるようになり、自分の口でそう言いだしたなら、この場所で一度話をしようと決めていたのです」
「どういうこと?」
「今日和多津さんがまさしくそんな話をしだしたので、僕から鰻を食べませんかと誘ったのはその為です。断られたら無理に計画は実行しない予定でした」
「私が来音さんの誘いに乗ったから、私の父とあなたの伯父さんに連絡したの?」
「騙したわけじゃありません。信じて下さい。それに他の店なら呼びませんでした。場所がここに決まったので急遽連絡したのです。以前から決めていて急な呼び出しにも対応できるよう準備していたので、今二人は向かっています。いつ和多津さんが言い出すか分かりませんから揃って来られない可能性もありましたが、今日は間に合うそうです」
「何を話そうというの?」
これから何が始まるのかが不安になったせいか、急に動悸がしだして胸が苦しくなった。頭も僅かながら痛みだす。その様子を見た彼が慌てて席を立ちあがり、
「大丈夫です。深呼吸してください。和多津さんのお父さんも来ます。体調に異変が出るようなら話は途中でも止めるようにと約束していますから。僕も伯父も和多津さんのお父さんも、無理に話を進めることはしません。鰻だけ食べて帰ってもいいです」
そう言って優しく背中をさすってくれた。暖房が効いた部屋だが、それ以上に彼の手が温かくて気分を落ち着かせる。おかげで徐々に気を取り戻し、動悸と頭痛も治まりだす。
「大丈夫。ありがとう」
美樹の言葉を聞いても心配そうに顔を歪めたままの彼だったが、自分の席にしぶしぶと座った。そこにドアをノックする音がし、注文した御膳を持った従業員が顔を出した。健一おじさんが来るのではないかと身構えたが、違ったのでホッとする。
「まずは食べましょう。せっかくの鰻ですから。美味しそう!」
彼は無理に明るく振る舞っていた。早速美樹の大好物でもあるう巻きに手をつけて口一杯に頬張ると、他人がみたら大げさなほどのリアクションを取る。
「うんまい! これ、超美味しい!」
それでもこの店の味をよく知っている身内としては、思わず自慢してしまった。
「そうでしょ。ここの鰻は絶品だから。私も小さい頃から連れて来て貰っているけど、昔から味が変わらないし、子供も大人も大好きになっちゃうのよ」
美樹も我慢しきれずに、彼と同じくう巻きに箸をつけた。口に入れるとあっさりで、しかし旨味がしっかりとした出汁巻き卵に、カリッと焼かれた鰻の食感とタレの相性が抜群にいい。顔が自然に綻んでしまう。
次にはご飯を口に入れ、かば焼きを箸で一口分だけ切りとって食べた。美味しい。やはりこの味だ。久しぶりの御膳を前に珍しく興奮する。今度は小鉢に手をつけ刺身を一切れつまみ、お吸い物で一度のどを潤す。苦手な肝は入ってない。
そこでただ御膳とだけ注文したことを思い出し、彼も肝抜きになっているかが気になった。健一おじさんは美樹の好みを知っているので、父がいない時は言わなくても肝抜きで出してくれる。だが彼に聞くのを忘れていた。
「来音さん、お吸い物に肝は入ってる?」
丁度お吸い物を手にとり口をつけていた彼は、椀の中身を覗いて確認していたが、
「入ってますよ。そっちにはありませんか?」
逆に不思議な顔で質問を返され、恥ずかしくなった。
「入っているのならいいの。うなぎの肝は好き?」
彼の質問には答えず、再び尋ね返す。
「好きですよ。それに鰻の肝って目に良いって言いません?」
「そうね。勉強しすぎの来音さんには良いかも。眼鏡はかけてないから裸眼?」
「今は裸眼ですけど、最近視力が落ちました。両目ともずっと1.0でしたが、この間計ったら片目が0.7になっていて、少し矯正した方がいいかと思っているところです。コンタクトは面倒くさそうだから、眼鏡にしようかなって」
「確かにバランスが悪いと余計に視力が落ちるかもしれない。眼鏡もいいね。似合いそう」
「そういう外見は余り気にしないので、どっちでもいいですけど。本格的な受験体勢に入ると机に向かう時間も増えるからそろそろ真面目に考えないといけないですね」
「眼鏡ならどういうのがいい?」
「余り派手なのじゃなく、縁無しがいいかな。それだったらシンプルだと思うし」
「いいじゃない」
「ちょうど切りがいいから春休みの間に買って、高二になる四月からかけようかなって」
そんな他愛もない話をしながら、先程までの緊張も忘れて食事を味わっていた時だった。ドアをノックする音がしたので、健一おじさんでも顔を出しに来たのかと思った美樹は、はい、どうぞ、と声をかける。
すると驚いた事に入って来たのは、車イスを押してマスクとマフラーで顔を覆っている男性だった。車イスにも知らない人が座っている。同じく顔はマスクとマフラーで見えず、さらに耳当てとサングラスで全く誰だか分からない。
しかも手に白杖を持っているので、一見すると怪しい障害者にしか思えなかった。だが誰かと問う前に、車イスを押していた男性がマスクを外して顔を露わにしたため、正体はすぐに判った。尋ねるまでも無く父である。
「お父さん!」
そういえば、すぐに父が来ると聞かされていた。それならば車イスに座っている人は彼の伯父さんなのだろうか。父は美樹に謝った後、シンに話しかけた。
「急にごめん、驚かせて。君が来音心君だね。はじめまして。美樹の父の一です。娘がいつもお世話になっているのは、よく聞いています。君に会ったら、しっかりお礼を言おうと思っていました。本当にありがとう」
父は涙ぐんだ声で彼に深々と頭を下げる姿を見て、言葉を失った。そんな空気を吹き飛ばすように、車イスの人がサングラスとマスクを取って話し出した。
「一さん、そう言う話は後で。初めまして美樹さん。私はシンの伯父の鈴木正一です。シン、どこまで話した? 俺達がここに来ることは伝えてあるよな」
「うん。和多津さんのお父さんと、伯父さんが来ることは取りあえず伝えたけど、詳しい話は二人が来てからって言った。でも無理に話は進めないからともね。二人が来るって言ったら和多津さん、驚いたようでちょっと体調を崩しかけていたし」
彼の言葉に鋭く反応した二人は、同時に美樹の方を振り向き心配そうな顔で見つめた。そして父が先に声をかけてきた。
「大丈夫か、美樹。驚かせてすまん。でも何も心配することはない。今日は顔合わせだけでもできれば十分だから」
「急な話で驚かせてしまったね。申し訳ない」
次に謝ったのは正一だったが、さらに驚いたのは彼が座っていた車イスから立ち上がったからだ。てっきり足の悪い人だと思っていたが、どうやら立てるらしい。その疑問を彼が聞いてくれたおかげで理由が分かった。
「何故今日は車イス? もしかしてカモフラージュなの?」
「ああ、俺はしっかり危険人物としてマークされているからね。若竹に近づいたら、そこら中にある監視カメラに俺の顔が認証されて、すぐに特定されちまう。顔と耳を完全に隠して歩いたって、今は歩行認証でばれるらしい。だから一さんと会う時は顔も厳重に隠して車イスで移動している。この時期は助かるよ。マスクとマフラー、耳当てと完全防備しても不思議じゃない。車イスで白杖さえ持ってサングラスをかければ、障害者にしか見えないからね。だけど一さんには椅子を押して貰う手間をかけるから申し訳ないけれど」
「押す程度ですから負担にはなりませんよ。ああ、ここの大将や従業員が入って来るとまずいので、いつものように座ったままテーブルに着きましょう。話はそれからで」
「そうしましょう」
父に促された正一は、再び車イスに坐ってサングラスだけかけ、自分でそのまま器用に操作しテーブルに近づく。父はシンが座っていた席の隣の椅子を素早く脇によけると、そこにできたスペースに彼はそのまま納まった。
その動きと先程の会話から、今と同じ状態で父とは何度か会っていることが理解できた。シンが説明してくれたことに間違いはなさそうだ。
「とにかく私達の食べる分も追加しましょう。話はそれからで」
父が個室に設置された電話の受話器を取り上げ、部屋の名前を告げて二人分の鰻膳を追加注文すると、美樹の座っている席の隣に腰かけた。
「もしかするとお膳は健一さんが持ってくるかもしれないから、それまでは取りあえず雑談でもしていよう。美樹達は今、何の話をしていた?」
父に尋ねられ、眼鏡の話をしていたと答える。
「眼鏡か。頭が余計に良く見えるな」
正一がシンを見て笑う。彼は止めてよと照れくさそうにしていた。
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