動き出した計画~③

「それでは今月中に山の売却が済めば、国交省から地方創生の一環として井畑の特区任命を発表します。同時に和多津家、田口家の所有する山の地下に広がる亜炭鉱の穴を埋める計画を進め、補助金を出す手続きを行います。その為の契約を新たな山の所有者である新会社と締結し、後は経産省と協力している企業に任せていただく流れでよろしいでしょうか。土地の売却手続きは和多津家でされるとして、その他の契約の手続き等は、こちらの広間を使わせていただき先生に立ち会っていただく、というのはどうでしょう」

「そうだな。私も新会社の出資者として名を連ねることだし、遠藤君は国交省と経産省の窓口の人間をアテンドしてくれ。新会社からは茂君と佐知子で正明をここまで連れてくれればいい。県知事やその他の関連企業には私から声をかけておく。それでいいな」

 遠藤の提案を受け入れ、佐知子と茂の方を向き指示した。皆が揃って頷く。正明は名古屋まで出てくることを渋るだろうが、多額の補助金が国から支給されるのだ。本来なら東京に出向かなければならないところを、名古屋で済ませられると話せば来るだろう。

 だが実際に地下の穴へ埋められるものは、国が処分に困っている大量の低放射能汚染土とリニア採掘の為に大量に出る土砂を、特殊な薬品と混ぜ合わせたものだ。

 そのことを知っているのはここに揃っているメンバーでも一部に過ぎず、少なくとも久代には伝えていない。彼女はこの土地売却後に国から多額の補助金を得て田口家が潤い、井畑特区が繁栄される資金として使われると信じているからだ。

 実際には表面上地域繁栄の予算として使われるが、そのほとんどは工事を請け負う企業を通じ、父と畠家一族、田口家では洋子と茂と佐知子が裏金として受け取ることになっていた。義父の正明や次男の広、久代夫婦の手には入らない。

 彼らには和多津家から手に入れた土地を高く国へ売却することで得る利益と、拡大させたミカン産業の収益分があるだけだ。

 ここに同席している定岡や遠藤と名乗る男達にいくら渡るのかは知らない。父から支払われるのか、仕事上の便宜を図ることで見返りを受けることになるのかは、佐知子ですら知りえないのだ。形式上畠家一族も分散して受け取ることになっているらしい。しかし実質裏金の大半を手に入れる父が、全てを采配していることは間違いなかった。

 しかし長い間フィクサーとして様々な裏の計画を実行し、多くの権力や財産を得てきた父も今年で八十三歳だ。そのため今回の計画が無事成功すれば、自分が手掛けてきた大規模な案件は全て一区切り付く為、一線から身を引くとも周囲には漏らしている。

 だからこそ井畑計画は父にとって最後で最大の記念すべき事業であり、なんとしても成功させなければならないのだ。

 まず先に洋子と久代と茂が今回果たす役割を一通り確認された。洋子は正明のことに加え、彼女の実家、“ウナギのミタ”での個室を使い、県や市の役人や計画が始まった際に動く工事業者、特区認定に絡む観光事業者との会合を取り行うよう指示される。

 おそらくそこに呼ばれる業者から、礼金がキックバックされるのだろう。役所の人間が直接受け取る訳にはいかないため、洋子が間に入ってその役目を果たすらしい。久代は忠雄の件の他、茂と広と共に新会社設立に向けての細かい段取りとその後の運営、業者との連携の取り方について確認されていた。

 茂もその話に加わり、重要機密であり形に残ることを嫌った父の指示でメモを取ることは許されないため、ひたすら暗記し何度も説明を繰り返させられている。

 それぞれ役割の確認を終えると、三人は先に部屋から出された。残ったのは父と佐知子、そして定岡と遠藤という男達の四人だ。ここからは他の三人に聞かれると都合の悪い話をするためである。それはもちろん、美樹や若竹のことが絡んだ話だろう。三人が出て行ったあと、すぐに遠藤が頭を下げた。

「先ほどは申し訳ありません」

 名前こそ出さなかったが、美樹の件を思わず口にしたからだ。再度そのことを詫びて父の怒りを納めないと、彼は官僚としての今後の地位を失うことになりかねない。

 父は不機嫌な態度で遠藤の言葉を無視し、佐知子と定岡の方を見た。

「洋子と茂は大丈夫だろうが、お前ら二人で久代が余計な動きをしないよう注意して見張れ。余計な説明をせずしっかりと言い聞かせろ。定岡は引き続き和多津家の監視を続けなさい。久代の動きも特に注意することだ。ほんの少しの綻びも許されない。もし妙な動きがあればすぐに知らせろ。その時は判っているな」

 そこで遠藤の顔を睨み、手刀にした右手で首を掻き切る仕草をした。彼はソファから腰を浮かせ、床に崩れ落ちるように震えながら土下座した。その間に入ったのが、先程までほとんど口を開かなかった定岡という男だ。

「大丈夫です。確かに久代さんは昔から美樹さんを可愛がっていましたが、損得の判らない人ではありません。それに畠家先生を裏切り、計画の邪魔立てができるほどの知恵も勇気も無いでしょう。もちろん監視は続け、おかしな動きがあれば逐一報告を致します」

「分かってはいるが油断するな。気を引き締めろ」

「了解しました。ただ先生もご存じでしょうが、遠藤は私と同窓生で若竹の卒業生でもありますし、色んな意味において使える男です。今回の計画の窓口に選ばれたのですから、今後の更なる努力により上乗せを期待するということでいかがでしょうか」

 定岡は遠藤を庇うというよりも、この失態を利用してもっと国からの補助金や、優遇措置を引き出そうとしているらしい。それを聞いた父は機嫌を直したようで、

「そうか。もっと頑張って挽回してくれるな」

と、口角を上げて遠藤に話しかけた。だがその目は決して笑っていない。

「も、もちろんでございます。日々、少しでも良い条件を引き出せるよう励んでおりますが、より一層先生に喜んでいただけるよう努力し、必ず結果を持って参ります」

 床に額をこすりつけながらそう宣言したため、やっと父は顔を上げて椅子に座るよう促した。彼は恐縮しながら立ち上がり、改めてソファに浅く腰をかけた。

「早速だが遠藤君、最終的に埋め立てる物は決定したのかね」

「はい。省としても優先順位が高く、さらに最もいい条件で引き取れる先を選定させていただきましたが、やはり○×電力が処分に困っている大量の低放射能汚染土に決まりました。電力会社には電気代として電気利用者から浅く広く、処理代として集めている多額の予算があり、国としても特区と絡めれば大きな予算をつけられます。そこで今回の計画は若竹の時とケースが似て、前例があったので働きかけは容易でした。役所は前例のないことは嫌がりますが、逆に前例があれば話が早く進みます。それらを含め、先生が目をつけられた計画は様々な面で好条件が揃っていましたので、高く値がつけられるでしょう。いえ、計画の為に皆から高く支払ってもらいます」

 遠藤は父の手前、そう言い切った。それを聞いて静かに頷く。

「細かい点は任せるが報告はしっかりしろ。定岡を通せば危険性もない。そうだな」

 話題を振られた彼は強く頷いた。

「お任せ下さい。遠藤を通じて省庁や電力会社、鉄道会社など計画に関係する各所へ監視ウィルスを忍び込ませてあり、セキュリティ体制も万全を期しております。少しでも妙な動きがあればすぐに対処できますし、遠藤の話もこちらで事前に把握している限りは、問題なく動いていることは確認済みです」

「そうか。計画推進派は予定通りで安心したよ。問題は反対勢力やマスコミなど、うろちょろと探りを入れて来ている連中達だがそっちはどうだ」

「目立った動きはありません。情報自体限られた人間しか知らされていませんから、マスコミも全くと言って動きがありません」

「普段から圧力をかけているからな。だが注意が必要なのはフリーの記者達だ。あの男はどうした。最近また現れた正一とか言う奴は。今度は姓や顔まで変えているらしいが。あの小娘の周りをうろつき、来音とかいうお前らの同級生に近づくなど目障りな奴だ」

「はい。あの男の出生が井畑の旧炭鉱で働いていた労働者の息子であることは以前ご報告した通りですが、私達の同級生でもある来音修二との繋がりはまだはっきりしません。あるとすれば、養父母の来音夫妻となんらかの関係があったかと思われます」

「来音徳一だったな。しかし奴も嫁も既に亡くなっている。それに来音は若竹の旧炭鉱で財を成した側の人間だ。そんな奴らが育てた捨て子と、井畑から逃げた労働者の息子と一体どんな関係があるって言うのだ。味方どころか正一にとっては、憎むべき相手が育てた子と言ってもいいだろ。なぜその息子に近づいているのだ」

「修二自身も来音夫妻から、井畑や若竹のことを聞かされていたようです。現にその息子のシンという生徒が若竹学園にいますが、私の管理しているIT部に入部させ学園の監視員の仕事の一部を手伝わせています。そこで話をしたところ、若竹の闇について来音夫妻や修二から聞かされ、興味を持っていることを口にしたことがあります」

「それは確かなんだな」

「はい。ですから正一は亡くなった徳一が持っていた情報で、まだ自分が掴んでいないものがあるか確認していたのかもしれません。おそらく計画がかなり進行していることを察知しての行動かと。正一が美樹さんに近づいたのも、和多津家経由で情報を得ようとしたのでしょう。しかし美樹さんは何も知りませんから、得られるものは無いと思います」

「奴らは現在、どこまで知っている?」

「若竹の地下について、何らかの廃棄物が不法に捨てられていることは掴んでいるようです。しかし今更手が出せないと諦めていることでしょう。肝心な情報には触れさせていませんから。さらにシンという生徒を通じ、確実な証拠を掴まない限り計画の阻止は無理だと伝えています。また若竹の繁栄を例に挙げ、決して悪い計画ではないという方向に誘導しています」

「そうだ。こんな問題は馬鹿正直に進めたら何も決まらない。問題の先送りばかりしかできない愚かな国民や政治家がいるからこそ起こるのだ。私達は国の為に少しでも早く問題を解決し、後の世代が払わせられる負担を軽減させようと、それこそ何十年とかけてやってきた。それでもまだやり残したことはある。もっと進めていきたいが、愚かな奴らのせいで時間がかかりすぎた。次の仕掛けが実を結ぶのはもっと先になるだろう。だからこの井畑計画が実質、私の最後の大仕事になる。だから決して失敗は許されない」

「引き続き正一と来音親子の監視を続け、危うい動きを感知した場合は対応するよう手は打ってあります。もちろん先生にも即座にご報告致しますので、ご安心ください」

「シンとか言ったな。そいつが引き籠っている小娘に接近したとの報告も上がっているが、何か影響はありそうか」

「いえ、監視を続けていますが計画とは全く別の動きでしょう。美樹さんは自分のことで精一杯の精神状態ですし、計画の存在すら気づいていません。シンが美樹さんに近づいているのは彼女を励ますためでしょう。父の修二が心を病み休職中なので美樹さんの現状に同情し、力になろうと思っただけでしょう」

「笑わせるな。ところで人類に火を与えたプロメテウスという神を君は知っているか。その為原子力はプロメテウスの第二の火とも呼ばれているが」

 突然話題が変わったため、定岡は真意を掴めずに戸惑っていた。その様子を父は笑った。

「今回大量に発生した放射能廃棄物は、ギリシャ神話に出てくるプロメテウスの与えた火を人間が制御できずに起こったとも言われている。そのプロメテウスが全能の神ゼウスの怒りを買った為に送り込まれたのが、パンドラという災いを持つ美しい女だ。パンドラの箱で有名だが、あれはゼウスが人間に災いをもたらすために生み出されたとされている。美樹という小娘は、まさしく今回の和多津家におけるパンドラだとは思わないか。国の怒りを買った奴らに贈られた、災いの女だ。さてその小僧は災いを撒き散らすパンドラから、残った希望とやらを見つけられるかどうか、見ものだな」

 定岡が非情な言葉を放つ父の迫力に慄きながらも、どうにか耐えて答えた。

「シンのおかげか、最近では美樹さんの体調も戻りつつあり、外へ出歩けるようになったようです。とはいっても学園に戻るのは難しいでしょう。新年度からは学園を去ることになるかもしれません。その後は井畑に戻るか、また別の地域に移るのかは判りませんが」

「勝手にすればいい。山を売った金を使えばどこにでも行けるだろう。問題はなさそうだが、引き続き監視は頼むぞ。あの女の件は良くやった。頼りにしているぞ、定岡君」

「恐れ入ります。しかし計画を立てられたのは畠家先生で、私は指示通りに動いただけですから。美樹さんを再び追い詰め、和多津家の役所勤めの二人を井畑特区成功促進役に任命するよう指示されたのも先生です。和多津家の土地を田口家との共同出資会社に売却しないと話が進まないよう仕向け、反対すれば美樹さんの件も市では庇えない、何らかの措置を取る可能性もあると間接的に脅すよう指示されたのも先生です。それを私と遠藤が同窓生や情報網を駆使して人を動かしただけですから」

「和多津家の弱点ですからね、美樹さんは。でもこういう案件は下手に騒ぐとマスコミが飛び付き、井畑だけでなく若竹にも注目が集まるかと当初は心配していたのですが」

 佐知子は父との話題に割って入り、そう疑問を投げかけると定岡が答えてくれた。

「今時生徒の苛めによる自殺など、珍しいことではありません。しかも事件から一年以上経っており、旬ではない為マスコミも取り上げないとの読みが当たりました。それに目を付けたとしても、苛めた人間より原因の一因とされる美樹さんに注目するでしょう。そちらの方が衝撃でしょうから」

「しかし騒がれていたらまずかったでしょ?」

「井畑の名は多少取り上げられたかもしれませんが、大した問題にはならなかったでしょう。それに美樹さんが今いるのは若竹です。若竹こそ今更注目を浴びたくらいでは、ビクともしません。あの闇が今頃表に出てくるはずもありませんから」

「でもその正一という男は、若竹のことも探っていたのでしょ」

「はい。しかし彼は何の証拠も掴んでいません。だから井畑計画を暴き、それをきっかけにして若竹の闇を暴こうとしています。しかし全く何も掴んでいません。私達による完全な情報管理、監視システムによってシャットアウトしていますから」

「たいした自信ね」

「佐知子。これは定岡君達の働きあっての計画だ。情報は攻めにも守りにも必要で、情報を制する者が成功を手にすることができる。それはいつの時代でも変わらん」

「いえ、情報を得て守るだけでは勝てません。重要なのはいかに活用するかです。この計画をここまでにしたのは、先生が情報を駆使して人や物、お金を動かしたからこそです」

「定岡君は人を持ち上げるのが上手いな。確か君は若竹学園では主任の肩書だったね。来年あたりには、もっと上の肩書がついているかもしれないな」

「そうなれば、嬉しいですね」

 父の人脈と影響力は、若竹学園の人事にまで及ぶようだ。こんな時期によりによって逃げ場所として美樹があの学園を選ぶとは、なんと間が悪く運の無い子だろうと佐知子は少なからず同情した。あの学園に行くよう進言したのは、兄の実と父親の一だと聞いている。

 その場に久代もいたが、田口家としては具体的に提案した訳では無い。和多津家からは美樹を井畑から離れさせるつもりだと事後報告があった。それを聞いた田口家では、井畑でいられるよりましだ、しかも若竹なら監視ができる場所だから都合がいいとあの頃はただ黙認した程度だった。

 あの決断がこの大事な局面で、和多津家が土地を手放すことを促すきっかけに利用できるとは思いもよらなかった。美樹の事を思ってしたことが更なる地獄に巻き込み、彼らの首を絞めるとは誰も想像できなかったはずだ。なんと皮肉なことだろう。

 そんな思いに耽っていると、父から声がかかった。

「佐知子、何をぼんやりしている。お前は全体の流れをしっかり把握しておけ。この件で私の代わりに動けるのは、お前だけだ。この計画が実行されて流れに乗り、街の形が定まって若竹のような成功を収めるまでには、まだまだ長い時間がかかる。私も今は元気だが、いつ何があるか判らん。最後まで見届けられるのはお前しかいないんだ。しっかりしろ」

「では私が田口家を離れてこの家に戻って来るのは、もっと先になるということですか」

 父は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、すぐに厳しい顔をした。

「当たり前だ。少なくとも後十年はかかるだろう。思っていたより長くかかったが、それでも想定内だ。それにその頃には聡も経験を積み、多少使える人材になっているだろう。その時はお前も聡を連れて戻ってくればいい。田口家には弟の正治を残せば十分だ。久代には一人娘しかいないから、跡取りとなる男が欲しいだろうからな」

 父の怖い所はこういうところだ。佐知子が聡を産んだ後、二人目の子も男だと知った父はよくやったと喜んでくれた。だが聡のように可愛がろうとしなかったのは、最初から田口家にくれてやるつもりだったのだろう。

「私の作ってきた人脈や掴んでいる情報を引き継ぐのは、佐知子、そして聡しかいない。貴文や雅文達に手掛けてきたことを一切見せてこなかったのはその為だ。その覚悟を今からしておけ。定岡君も遠藤君も、このことはしっかり理解しておいてくれ。私に万が一のことがあって、これ幸いにと自分勝手な動きをする奴らがいたら佐知子が許さん。私が掴んでいる全ての関係者の弱みは、佐知子や聡が引き継ぐ。お前らの分も含めて、な」

「もちろんです。畠家先生に逆らうなど有り得ません。しかし先生はまだまだお元気でいらっしゃいます。縁起でもないことを仰らないで下さい。教え頂きたいことが沢山ございますので少しでも長生きして下さい。今後とも宜しくお願い致します」

 横で怯える遠藤とは異なり、定岡は父の脅しに堂々とした態度で応え、頭を下げた。遠藤は彼の言葉に合わせて、うんうん、と首を縦に振るだけだ。定岡が頭を下げた時など慌てて一緒に、宜しくお願いしますと彼の動作を真似ていた。

 この様子だけで遠藤は小心者で大した器でないことが知れ、対して定岡は頭の回転が速く、肝の据わった油断ならない男だと分かる。父がこの場で佐知子と顔合わせさせたのは、二人に佐知子という後継者の存在を知らしめると共に、この男達の見定めをさせる意図もあったのだろう。

 ここまで内情を打ち明けたのは、この時点で田口家の利用価値に見切りをつけたことを意味する。計画はもう止まらない所まで来た。その流れを作った時点で父は次への布石を打ったのだ。

 まだ早すぎるのではと不安な思いが頭をよぎったけれど、父には逆らえない。ただ意図することを汲み取り、後継者となるべき覚悟を持たねばならないと気を引き締めた。

 計画についての話題が一段落し、後は雑談として遠藤と定岡による自己紹介とアピールを含めたプライベートの話を聞いていた時、書斎のドアがノックされた。

「お爺様、聡です。先ほど忘れ物をしたのですが、失礼していいでしょうか」

と声がしたため、佐知子は父と目配せして答えた。

「ちょっとそこで待っていなさい」

席を立って父の机から忘れていったという眼鏡を手に取り、ドアを内側から開けた。

「忘れ物ってこれでしょ。今、お客様がいらっしゃるから」

ドアの外にいた聡を中には入れず、眼鏡を手渡した。すると無邪気な声で受け取り、

「そう、これこれ。何、お客様? 僕はご挨拶しなくていいの?」

と尋ねてきたため振り返って父に目で確認すると、先程まで厳しかった表情が別人のように崩れ、猫撫で声を出し手招きをした。

「聡、入っておいで。簡単に軽く挨拶をしておきなさい。まだ大事な打ち合わせ中だから」

「失礼します。初めまして。田口聡です。いつもお爺様や母がお世話になっております」

 そう言ってぺこりと頭を下げると、遠藤は慌てて立ち上がり、聡以上に頭を下げた。

「いえいえ、畠家先生とあなたのお母様にはこちらこそ、いつもお世話になっております。私は経産省の遠藤と申します」

 続いてゆっくりと立ち上がった定岡は、対照的な態度で応じる。

「あなたが聡さんですか。お名前は先生から伺っております。大変優秀だそうですね。東大を目指していらっしゃるとか。私は若竹学園の定岡と言います。遠藤と同じく畠家先生には大変お世話になっています。お母様とは今日初めてご挨拶させていただいたのですが、聡さんとも今後何かのお役に立てればと思っております。宜しくお願い致します」

 佐知子から受け取った眼鏡をかけた聡は、二人を下から上へ舐めるように観察した後、

「お客様との話を邪魔しちゃいけないから、ここで失礼します。お爺様、お休みなさい」

 父に挨拶し終えると、佐知子には目もくれずにさっさと廊下を歩いて戻っていった。その後ろ姿をしばらく見ていたが、ドアを閉めて元の席に戻るとそこでは聡の話題で父が上機嫌になっていた。遠藤と定岡の二人が聡のことを褒めちぎり、父はそうだろう、あの子は本当に礼儀もわきまえていて頭もいい子なのだ、と自分のことのように喜んでいる。

 そんな様子を冷静に眺めながら、本当に聡は父の後継者の器を持っているのだろうか、といつもの疑問が頭をよぎった。しかしそれは今考えることでは無い。あの子はまず大学に合格することが先決だ。その先はその後考えればいいと、いつもの結論に至った。

 あの子に才がないと判断すれば、兄の貴文達のように切ってしまえばいい。それを見極めるのは父では無くこの私なのだ、と。

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