姫宮さまと僕

川上桃園

姫宮さまと僕

 ――《なつさん》を知ってるか? 

 高校の昼休み。同じクラスの猿渡さわたり君が食べ終わった弁当箱を包みながら、世間話の延長のように語り出す。

 僕はそれが例のアレな話とは思わず、何の気なしに首を傾げた。


「猿渡君の新しい彼女?」

「ばっか。違うよ。《なつさん》てのは、かわいそうな女の人なんだぜ」


 僕は立ち上がろうとした。猿渡君は悪いやつじゃないが(そうでなかったら一緒にお弁当を食べたりしない)、猿渡君が神妙顔で話し出せばなかなか厄介なことになるのだ。


「まあまあ。聞いていけよ。食べ終わってないだろ?」


 僕の肩を叩いて、座るように促された。猿渡君はにやにやしている。だからこのタイミングなのか。自分の口に物は入っていないし、僕が弁当を食べかけていて逃げづらい状況だから。


「《なつさん》はかわいそうな女の人なんだ」


 曰く。《なつさん》は三輪山みつわやまの山裾にある小さな祠にいる。元は若い職人の奥さんで、夫婦仲もよかった。《なつさん》は子ども好きで、自分の子どもを欲しがった。

 結婚して数年で《なつさん》も身籠った。だが悲しいことに流産してしまった。次の年も、その次の年も、さらに次の年も……。何度も喜びと悲しみを繰り返した《なつさん》。彼女の心は壊れてしまった。

 《なつさん》は床につくようになった。夫は憔悴していく妻から逃げるように他の女と所帯を持った。

 彼女は、ひとりさびしく死んだ。

 だが、死後も彼女の姿は現れた。子宝祈願に訪れていた祠の前に現われて、近くで遊ぶ子どもたちをにこにこしながら見ていたという。

 時が下った現代となっても彼女は祠に現れる。彼女の周囲ではいつの間にかたくさんの子どもの霊がいて、彼女を「お母さん」と呼んでいる。


「あんまり怖くないね。猿渡君にしては」

「いや、よく考えてみろ。最後、《なつさん》は子どもたちに「お母さん」と呼ばせているんだぜ? つまり、《なつさん》は死んであの世にいくはずだった子どもたちをむりやりこちら側へ引き留めているんだよ。己の欲を満たすために」


 立派な悪霊だろう、と猿渡君は得意満面だ。僕は冗談じゃないと思った。いや、普段ならばまだどうにかなる。ただ、今日だけは、専門家・・・がいない。

 昨日道端できれいな女の人に道を聞かれたので答えていたら、彼女は拗ねてしまったのだ。今日は学校に行かない、と駄々をこね、僕は仕方なく彼女を置いてくるしかなかった。

 思い出すだけでため息が出てしまう。僕のかわいい恋人は、今もぷんすか怒っているのだろうか。

 ああ、困ったな。嫌な予感がするよ。



 高校からの帰り道。三輪山みつわやまの近くを通る。あたりは開けた田園地帯である。

 急ぎ足で歩く僕の後ろからちょんちょん、と学生服の袖が引っ張られた。


「お兄さん、あそびませんか?」


 小学生ぐらいの女の子の声。伸びやかで甘えん坊な子かな、と思いつつ、僕は振り返らない。


「ごめんね。僕、待っている人がいるから」


 この言いぶりではまるで僕がモテモテみたいだ。そんなわけないのにさ。

 

「まりあと話すとロリコンだと思われるから嫌なのですか?」

「うーん、小さい女の子が特別好きだと思われると、僕の信用が世間的にひどいことになってしまうからねえ」

「大人はたいへんですねえ」


 同情してくれるまりあちゃん。しかし、真っ白でぷくぷくした手が制服の袖を放してくれない。困ったなぁ。


「一番問題なのは、僕の恋人だから。やきもち焼きなんだよね」


 彼女はたとえ小学生相手でも容赦しない。『みちたか、他の女に色目使った……! 殺す! 殺す殺す!』と涙目で騒ぐのだ。毛並みを逆立てた猫みたいでかわいいのだけれど。


「君も早く帰った方がいいよ。さっき五時のチャイムが鳴っただろう? また会うことがあったらよろしくね」


 手を優しく振りほどこうとした。が、ぴくりとも動かない。右腕ごと恐ろしいほどの強い力で掴まれていた。


「まりあはお母さんに会いにいくところですよ」

「お母さんはおうちにいないの?」

「お父さんと喧嘩して、おうちから出ていっちゃったんです。だからお父さんと仲直りしてね、とお願いしにいくところでした。でも、家が見つからないのです」


 この辺りは田舎だから人家がまばらだ。道に迷う余地もない。

 そもそもこの子は――探しているのだろう?


「本当に遊びたいわけではないのです。探してほしいのです」


 だから、と突然、女の子の声が震えた。


『おにぃさん。振り向いて、まりあの顔を見てください?』


 背筋に悪寒が走る。金縛りになる。唯一動くのは、目だけだ。困った。声をかけられた時から、幽霊だとわかっていたのに、完全にかれてしまった。


『仕方がありません……。まりあの方から行きましょう』


 後ろにいた気配がゆっくりと正面へ回ろうとしていた。

 バチが当たったんだ。彼女がいない時に限ってこういう目に遭うんだから。

 半分諦めの境地で気休めの般若心経はんにゃしんぎょうを唱える。


『なぜ、わらわを呼ばぬ』


 ほのかに伽羅の香りが漂い、別の気配が背後に降り立つ。

 女の子がぎゃあ、と叫んで、どんよりとした空気が一掃された。


『みちたか』


 僕の肩に手をかけながら僕を呼ぶ恋人の声。今度こそ振り向いた。


「姫宮、ただいま」


 僕の美しい恋人、姫宮だ。夜の闇を繊細に散らしたような黒髪は背丈よりも長く、小さな面は神々しく、唇はまるで優しい桜の花びら。今日の装いは、表が白、裏が赤花になった山桜色の表着うわぎを、梅重うめがさねに重ねた単衣の上に纏う。梅重とは、紅梅色から内へ濃い紫へ変わる衣の重ね方だ。強い色ばかりの重ね方なのに、表着うわぎを羽織れば、外側に来る表の白が山にかかった霞のように見えて、彼女の儚さを体現するようだった。さながら春の妖精が舞い降りた様だ。見惚れてしまった。

 彼女は見ての通り、人間ではない。本人は「神様」だと主張している。


『……ふむ』


 空からふわりと着地した天女は、僕をじろりと見上げるなり、『浮気……? 殺されたいか……?』と不満をあらわにする。


『目を離すとすぐこうなる。みちたかはかっこいいから、すぐ女に付きまとわれる!』

「いやぁ、僕の外見とは関係ないかなぁ」


 問題は僕が心霊の類に好かれ、見える体質であることだ。生まれた時から彼らはあまりにも身近で、違和感すら持ったことがなかった。

 姫宮は生まれたばかりの僕を気に入り、以来、ずっと僕の傍にいた人だ。小さなころは母や姉のような存在で、今は紆余曲折あり、恋人となった。


「ごめんよ、姫宮。浮気じゃなくてね、あの子が、助けを求めにきただけなんだ」


 姫宮は眉をきりりとあげる。僕より背が低くてかわいいから、怒る姿もかわいい。


『近辺のもののけは、すべからくわらわをおそれておる。わらわの物と知っていて手を出すほど、無礼で愚かで、身の程知らずな真似をする輩が、いると?』

「君のことを知らなかったとか……」

『なんと……』


 衝撃を受けたようによろよろと後ずさる姫宮。懐から立派な檜扇ひおうぎが落ちそうになっていたので、元に戻してやる。そのうちに、姫宮は髪の毛が逆立つ勢いで憤怒の表情になっていた。


『あの女、名はなんと言うのかえ?』


 田んぼの中を走る道の真ん中。ピンクのランドセルを背負った女の子が涙をぼろぼろ流しながら尻餅をついていた。見る限り、とても死んでいる子とは思えない。


「聞かなくてもいいんじゃないかなあ?」

『まりあです。さかきまりあです……』


 まりあちゃんは、正直に答えていた。この場の誰がボスなのか、瞬時に把握したに違いない。


『そなたの名ではないわ。背後にいるモノの名を聞いておる』

「え……?」


 きょとんとする少女。姫宮はするすると衣擦れの音をさせ、まりあちゃんの顔をぐっと覗き込む。


『気づいておらぬのか? そなた、引かれておるぞ、あそこに。どこぞでシルシを付けられたから、そなたは母に逢えぬのだ』


 姫宮が指さした先。薄暗くなりつつある山裾に小さな何かが建っていたことに初めて気がついた。目を凝らすと祠だった。いつも通る通学路。気に留めたことさえなかった場所が、今になって鮮やかに存在を主張していた。

 はっとした。


「あそこには《なつさん》がいる……!」

『なつさん? それがみちたかの新しい浮気相手か……?』

「会ったこともないよ!」


 慌てて、昼間に猿渡君から聞いた話を話した。

 姫宮は懐の扇を取り出すや、手の上でばちんと鳴らした。まごうことなき呆れ顔を作っていた。


『みちたか、あやつとのえにしは早く切れとあれほど……』

「クラスで猿渡君の怪談話に付き合えるのは僕だけだからさ。人に話を聞いてもらえないのは、悲しいよ」


 姫宮は不満げに唇を尖らせるが、何も言わなかった。


「このままだとまりあちゃんはお母さんに会えなくなる。早く逃がしてあげよう」

『はたして、それがこの娘の幸せか? 逃がしてやってもこの娘に行き場はないのだぞ。すべて面倒を見るのか? いつまで? どこまで? この娘の母親も、この土地を離れているかもしれぬのに』


 姫宮はくっくっく、と喉の奥で酷薄に笑う。さながら氷の女王の風格だ。

 まりあちゃんは目の前の美女をぽけっと見上げていたけれど、「そんなこと、まりあもわかっていますよ」と大人びた表情になる。


『まりあの自己満足ですよ。お母さんの気持ちは今更変わらないでしょう。でも、できることはしたかった、たとえだめだとしても自分なりに決着をつけるために、お母さんに会いにいったんです。まりあは行く途中で車にひかれて死んでしまいましたが』


 お兄さんに面倒を見てもらおうとは思っていません、とまりあちゃんは言い切る。


『どんな結果だとしても、まりあは受け入れます。そのために探し続けるのです。《なつさん》とやらはよく知りませんが、まりあのお母さんはお母さんただひとりです。男の人にすぐふらふらしちゃう馬鹿なお母さんでも、お母さんなので!』


 まりあちゃんはよいしょ、と立ち上がり、『ありがとうございました』とぺこりと頭を下げ、歩き出そうとした。


『あ……あれ……?』


 が、まりあちゃんが困惑した声を上げた。肩越しに僕たちを振り返ると、『お兄さん、どうしましょう。足が、勝手に動いていくんです……!』と泣きそうになっていた。

 まりあちゃんは祠に向かって歩いていた。歩く速度が増し、駆け足になる。まりあちゃんはパニックに陥っていた。


「まりあちゃん!」


 僕はまりあちゃんの手を後ろから掴んだ。僕の引っ張る力以上に、小さな身体が勝手に動く。

 祠が近づいてきた。祠の横に白い装束の女の人が笑顔で立っている。その周囲に同じく笑顔の子どもたちが十数人いた。どれもが張り付けたような笑顔なのである。


『やだ、やだやだやだやだぁ!』


 ふわり。伽羅をはらんだみやびなそよ風が吹く。

 まりあちゃんの視界を塞ぐように、姫宮が降り立った。まりあちゃんの胸元に手を伸ばすと、くうで何かを掴む。

 途端に、くたりと少女の身体が弛緩し、倒れ掛かった。


『みちたか、支えてやれ』


 僕がそのとおりにすると、姫宮は僕の隣に来た。手に握ったものを見せてくる。それは長く透明な糸の束だった。姫宮がふっ、と息を吐くと糸は霧散した。檜扇をぱらりと開くと、鬱蒼と笑う。


『蜘蛛の操り糸……。《なつさん》とやらはとんでもない悪女のようだぞ? みちたか。こんな女にゆめゆめ騙されるでないぞ?』


 強烈な流し目を受けた僕はやや顔を赤くして、「僕は姫宮だけで手いっぱいだからね」と言っておいた。姫宮は少女のようににこにこした。


『よし、興が乗ったぞ。みちたか、ついて参れ』

「はいはい、僕のお姫様」


 姫宮は祠に向かう。その後ろをついていこうとした僕。その袖をまりあちゃんが掴む。ひとりでいるのも、あれなので、と口をもごもごさせていた。



 祠の横に立つ《なつさん》は気味悪いほどの笑顔だった。子どもたちも笑顔だった。


『お母さん、新しい子が来たよ』


 子どもたちがひそひそ囁き合っている。姫宮は祠近くまで来ると、次から次へとあちこちの空を掴む仕草をする。ぶち、ぶち、ぶち、と糸の切れる音がし、子どもたちが倒れ伏していく。

 《なつさん》はそのたびに哀しそうな顔になりつつも何もしなかった。姫宮は《なつさん》の真正面に立つ。周囲に立つ者はだれもいなかった。


『わらわがひきつぶしてくれよう。女郎蜘蛛め』

『いいえ。食われるのはあなたの方ですわ。誇り高き姫君。待っていましたもの。ずうっと』


 僕は動けないでいた。知らぬうちに透明な糸でまりあちゃんとともに絡み取られていたのだ。姫宮に対する人質のつもりらしい。恐ろしい力で女の傍へ引き寄せられた。


『私は子どもが好きです。子どもたちも私が好きです。ここは、ずっと守られるべきです。邪魔なのはあなたですわ』


 姫宮の霊力はそんじょそこらのやつらに負けない。唯一の弱点となりうるのは僕だ。僕も姫宮に守られてばかりではいけないと思っている。

――もう、頃合いかな。

 僕は幽霊の類の姿を見、言葉を交わし、触ることができる。その中で僕の武器となるものは。


「《なつさん》の正体を知っているよ。君は、《怪談》だ。本来はここに存在するはずのない、架空のお話だよ。猿渡君に創られた《怪談》なんだ」



 

 僕が何の因果か不思議な能力を持っているように、猿渡君にも天から与えられた力があった。

 猿渡君のそれは「語った怪談モノが元々存在したように世界を改変してしまう能力」。創作したものを具現化させてしまうのだ。その対処法はただひとつ。怪談に己が創作物だという自覚をさせること。猿渡君の能力を唯一知り、生者であるこの僕が語り聞かせなければ意味がない。いわゆる「言霊ことだま」という概念と関係があるのだと思う。

 本人には能力の自覚がない。創れても視えないし、触れない。話したところで信じてもらえないだろうし、能力を自覚させる行為自体が能力へどのように影響を及ぼすかわからない。そんなわけで、僕は時々、猿渡君の《怪談》を単なる親切心で対処しているのだ。

 ――害のない《怪談》は放っておいてもいいんだけれどな。

 僕が耳元で語り聞かせた《なつさん》が跡形もなく消えて数日。通学路で偶然会ったまりあちゃんに経緯を説明した。彼女は納得半分、疑惑半分の顔をした。


『変なお友達ですねえ、お兄さん』

「だよねえ。これもえにしというやつだ」


 ふふ、と少女は笑う。

 彼女は昨日、ついにお母さんと会ったらしい。遠くから姿を確認しただけだそうだが。母親はまだ男の人を家に引き込んでいたらしいが、時折、見えないはずの娘を見つめて、寂しそうな顔をしたらしい。『お母さんは馬鹿だけれど、しばらく近くをさまよってやろうと思うのです』と堂々とした浮遊霊宣言をした。

 まりあちゃんがランドセルをぴょこぴょこさせてどこかに行ってしまうと、背後で伽羅を纏った気配がした。


『みちたかは死んでもわらわのもの。わらわはあの女以上の怨霊・・だぞ?』


 少し不機嫌そうなお姫様の声。僕は、実はさみしがりな恋人の機嫌をどうやって直そうか考えながら振り向いた。


「知っている。僕は姫宮の永遠の恋人だよ」

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