第5話

 自分の打算的な考えに辟易する。

 一人は言う。こいつを仮にAとしよう。

 あいつは花だから、うまくいくわけないじゃない。それなら、甘い言葉をかけて、うまくいかなくなった瞬間を狙おうよ。

 一人は言う。こいつは仮にBとしよう。

 優しいだけの男なんて、友達止まりになっちゃうぜ? もしものことがあったらどうすんだ?

 水面に写る自分の顔。

 なんでよりによってあいつなんだ? 普通の人ならば、なにかしらやりようがあるというのに。

 まだ希望が持てるのに。

 ……希望が、無いわけじゃない。

 あいつに俺が負けるわけない、という希望。

 根拠なんて、無いけれど。

 ただし。

 あいつに、普通の俺が勝てるわけない、ともどこか思っていて、希望と絶望が両立している。

 結果、動けない。

 得体の知れない相手。顔も見えない相手。

 表情も無ければ感情も分からない。

 俺からしてみれば、何を考えているか分からない、種族違いの不気味な奴。

 ただ、行動と言動で俺のオモイビトに好意的であることは分かっている。ただの友達だ、と当のオモイビトは言っていたが。

 そもそも、得体の知れない奴を相手にしたくない、というところも少しはあるのだろう。

 理解不能の敵。

 どうすれば攻略できる?

 本当に攻略したい人は、その先にいるのに。

「バーカ」

 カツン、とグラスをぶつけられると、水面が揺れて自分が歪んだ。

「何もしなかったら何も起こらなかったいい例ね」

 頬へと吊り上げられた、紅の取れかけた色素の薄い唇が俺を責め立てる。

 こうしていまだに自問自答を繰り返しているが、しかしながら結果は出てしまったようだった。

「先輩、ひどい」

「事実でしょう?」

 敗北。

「優しい言葉とか掛けてくれないんですか?」

「大バカね」

 完全、敗北。

「優しくてこの仕打ち……」

「甘過ぎなのよ、体たらく」

「俺、泣いちゃいますよ?」

「泣きたいならそれを認めたってことでいいのね」

「認めますよもう……」

 下唇を噛み、手にした酒を一気に煽ると喉が焼けた。元々やけ酒のつもりで誘ったとはいえ、積極的に追い詰めることまでは望んでいない。なのに、先輩は止めない。

「自信だの勝算だのあるわけでもないのに、自分の立場に甘んじたからよ。人ではない人に恋なんてするわけないと、勝手に思い込んでたから。自分の価値観で人を計ってたバカ。あんたは、花男くんだけじゃなくて、いろはに対しても失礼なことをしてたの。分かる?」

 唇は、笑みの形に曲げられたまま戻らない。俺のことを笑っているというよりも、俺の惨めな姿が心底愉快で笑いが止まらないといったご様子。

「分かりましたから……ほんとに、身に沁みてますから………俺が悪かったです………」

 空になったグラスに酒を注がれる。暗にもっと飲めと脅しているらしい。

「当て馬にさえもなれない男の末路」

 お返しに先輩のグラスにも注ぐと、さも美味しそうにのどを鳴らして飲み下す。

「優しいだけのイエスマンには何も魅力なんてない。嫌われたくないっていう気持ちだけで好きになってもらおうなんて、甘ったれてんじゃないわよ」

「何もしなさすぎでしたかね」

「そうよ。少なくともあんたが二の足を踏んでる間に、花男くんはいろはの足元に着実に根を張ってたんだから」

 先輩の真似をして俺も飲んだが、同じ酒とは思えないほど味はしない。代わりに別の味がした。きっと、今日はそういう日なのだ。

 おかしい。

 こうなる予定なんて、無かったのに。

 仕事終わり、なんとなく傷心気味に帰る準備をしていたら、先輩に声を掛けられた。

「なんかあったの?」

 小さな感情の機微にも、気付いてくれる先輩。あのときは誰でもいいからすがりたい気持ちもあった。

「……飲みに行きましょうよ」

「私でいいの? 部長は?」

「今日は先輩の気分」

 あえて部長ではなく先輩と飲みに行くことにしたのに、結局説教されているのだから、本末転倒だった。

 自分の甘さなんて、嫌というくらい知っているのに。

「先輩まで説教するなんて、予想してなかったんですけど」

「じゃあテンプレ通りに部長にしとけば良かったのよ」

「部長って飲ましてくるから色々吐かされるじゃないですか」

「物理的にも精神的にも?」

「分かってるじゃないですか」

「まーいいけど。けど良かったじゃない、ちゃんと失恋出来て」

「良くないですって失恋ですよ? ぶっちゃけると俺昨日めっちゃ泣いたんですから」

「あははー可愛いもんね」

 自分があまりに情けなくて、涙さえ出ない目をこすった。

「桐山って泣き上戸だった?」

「今日は泣き上戸なんです」

 強がって主張すれば、鼻で笑われてしまった。そしてまた、日本酒をダバダバと節操なくグラスに注がれる。タン、と音を立てて俺の前に置く表情には、哀れみも浮かんでいた。

「俺を酔わす気ですか」

「泣かす気です」

 唇が、俺に泣けと強要する。

「哀れな男を笑います!」

 しょっぱい酒は、美味くない。けれど嫌いになれないのは、俺自身の甘さも少しばかり混ざっているからなのだろうか。

 鼻を啜ると、満足そうに先輩がにやついた。

 このまま説教され続けるのもあんまりなので、たまには反撃しようと思う。

「先輩こそ、最近恋愛してないんですか? 先輩のそういう噂あんまり聞きませんけど」

「毎日のように、泣き笑いよ」

「泣き笑い?」

 変な言い種だったが、どうやらうまくいっていないことだけは分かった。

「世の中には、失恋さえも出来ない人がいるってことよ」

「……そうなんすか?」

「そうなんす、よ」

「ふーん……じゃあやっぱり今日は先輩が適任ですよ。一緒に飲んでいっぱい泣きましょ」

「そんなのもたまにはありかもね。あんたが泣き上戸なのに、私が笑い上戸なのが困り者だけど」

「じゃあ二人で笑い泣きしちゃいましょう」

「そうしよっか」

 Aは言う。

 すぐにあんなの破綻する。人と花との恋愛なんてそうそううまくいくはず無い。関係が崩れてきた隙に、入り込めばいいんだ。

 Bは言う。

 もう良いだろう? あの二人を見て、あれはあれでお似合いだと思ったんじゃないのか? あいつが幸せならばそれでいい、とお前なら思えるはずだろう?

 俺は言う。

 随分とまぁ、手前勝手なことを言いやがる。

 ご都合主義のお前は、先輩が罵ってくれる分まだ救いがあるというものだ。一人で悲しむことにはならなかったのだから、感謝しろ。

 そして、俺が選ぶのは。

「……Bかなー」

「何の話? Dの聞き間違いかしら」

「先輩こそ何の話してるんですか」

 胸を張る先輩に、呆れて笑う。俺は、笑える。どんなに泣いても、笑うことくらいは出来る。

 揺らめく水面。

 口が動き、音の無い言葉が耳に付く。

 まどろっこしい。思ったことは、希望は、願いは、口に出して言わなきゃ誰にも伝わらないというのに、それを怠った罰が下ったのだ。

 だから最後に、苦々しくも、ちゃんとはっきり言ってやろう。

 ――ざまあねぇな。

 水面の向こうに心の中で拳を突き立て、鼻で笑って嘲った。






  ***






 仕事はいつも通り搬入を終え、リコルドくんは花屋へと戻り、私はミキ先輩と会場設営をしていた。いつも通り、のはずがそうでないことが一つだけ。

「花……貰ってない?」

「そうなんですよ」

 最近はいつも貰っていた花が、今日は無かったのだ。

 “いつも通り”が、ない。

 それだけならばさほど気にも止めないのに、それだけではなかった。

「なんか、ちょっと様子もおかしかった気がして……」

 車から降りたリコルドくんは、挨拶したときから、どことなく元気がない。

 声は上擦り、空回りするように、いそいそと花を運ぶ。考え事でもしているのか、何度か人にもぶつかりかけて、橘部長にも「しっかりしろ」と怒られていた。

 そして何より帰り際。頭に手を上げいつものように花をくれるのかと思いきや、そのまま手は襟に触れ、はぐらかすように別の話を始めた。

 なぜ一度しようとした動作を止めたのか。

 花をねだっている訳ではないけれど……距離を置かれているようにも思えたのは、考えすぎだろうか。

「ケンカしたわけではないのよね? 何か他に覚えは?」

 覚え、といえば先日のロゼの件。とはいえ、あのときはこれといって彼と話したわけではないし、心当たりはない。

 関係あるかないかはともかく、気になったことと言えば。

「前につぼみのバラを貰ったんですよね」

「つぼみ?」

「つぼみの赤いバラ」

 家に帰って花瓶に差していたら、日を追うごとにつぼみがほどけ始めたバラの花。今朝は包まれていた赤が顔を見せていた。明日明後日辺りには、キレイに咲くのではないだろうか。

 先輩は“つぼみ”という単語に何か思い当たったらしく、額を押さえて何かを思い出そうとしている。

「えーっと、なんだったっけなー」

「どうしました?」

「いろは、今までに貰った花をいくつか教えてくれる?」

 私の質問を無視して、先輩はそう尋ねた。先輩と同じく額を押さえて記憶を辿る。

「最初はガーベラだったっけ?」

「はい、オレンジ色のガーベラです。模擬挙式のときに」

 次が、白のリナリア。これはカフェで会ったときに貰ったのだ。

 バレンタインのプレゼントを渡したときは、赤いポピー。

「それでつぼみのバラ、と」

 話に一旦区切りつけると、先輩はおもむろに携帯電話を取り出して何かを調べ始める。

「なんですか?」

「ちょっと見ないで」

 ぐい、と顔を背けさせられ、先輩は私から離れて操作する。画面をスクロールし何かを読んでいる横顔を見ていると、急にニヤリと口角が上げられた。

「なんなんですかその笑みは」

「花言葉、彼に聞いたことない?」

「花言葉?」

 リコルドくんが花言葉に詳しいことは知っているが、今まで彼と仕事中に花言葉の話はあまりしたことは無かった。

「今日は合う花が無かったのかなー。それとも別の問題?」

「先輩、私にも分かるように説明してください」

「今度会ったら花言葉を花男くんに聞いてみて」

「どういうことですか? 何か変な意味とか無いですよね?」

 先輩は何も答えず、訳知り顔。どことなく、口許が緩んで愉快そうだった。

 私もポケットから携帯を出して検索しようとしたら、画面を手で覆われる。

「じゃあガーベラの花言葉はなんですか?」

「花男くんに聞いてったら」

「む、気になるんですけど!」

「ダメ、 絶対に彼に聞いて。ほら、本にない情報とかも教えてくれるし」

 困惑する私に先輩は妹をあやすかのようにポンポンと頭を叩く。

「変な意味とかは無いからそこは安心して」

 そこまで言うなら、今度聞こう。

「聞いてのお楽しみ、ね」

 整った顔がウィンクをして、悪戯っぽく笑う。

「……いろははさ、花男くんのことどう思ってるの?」

「どう、とは」

 明るくて、よく笑う、いい子。

 彼に対して思うことはそんなこと。

 “花の人”として大変なことを背負っているけれど、それでもああやって笑っている姿は、キレイだと思う。花も、生き方も、キレイだと、そう思う。

「いろはは最初からそんなに恐がってなかったよね」

「戸惑いはしましたけど、そうですね」

 初めはどうすればいいか分からず、緊張して心臓もバクバクと早く鳴っていたが、一緒に仕事をしていく内に、すぐに慣れた。

「けど、話してみたら私たちと違うことって、そんなに無いじゃないですか」

 違いといえば、本当に見た目くらいのことで、感覚や価値観などにさほど大きな違いがあるようには思えなかった。

「私はあんたのそういうところ好きよ」

「ありがとうございます。私も先輩のこと好きですよ」

 軽い調子でそう言うと、先輩は嬉しそうに目を細め、恥ずかしそうにはにかんだ。

「なら、ねぇ――」

 先輩は、口元を妖艶に引き上げる。

「じゃあ、いろはは花男くんのことは好き?」

 単刀直入に、質問を投げかける。

 好き?

 その言葉に、私の胸がざわついた。

「好きか嫌いかと言われれば、もちろん好きですが」

 いつもキレイだと思う。それは初めて花を見たときの感想と同じもの。たくさんの花が咲いていて、見るたびに胸は沸き、なんてキレイなんだろう、とため息と共にそう言いたくなる。

「だって、本当にキレイだから」

「いろはは、花がキレイだと思ったの? それとも彼の頭に花が咲くからキレイだと思うの?」

 先輩は、詰めていくように質問を繰り返した。

 彼を思い出す。搬入しながら、花と会話するように装花作業をして、優しく花を触る姿。

「どっちもじゃ、ダメですか?」

 決められない。

「そう、ならいいのよ」

 先輩は、もうこれ以上はいい、と言うように私の言葉を切る。満足気な表情で、私と相対した。

「いろはは、素直で可愛いわね」

 優しげな声音で言う。

「ちょっとだけ、心配しただけよ」

 ミキ先輩は年上らしく、穏やかに微笑む。年長者の、親心のような温かく見守る眼差し。

 先輩は、私の気持ちをはっきりさせようとしているのだろう。その“好き”は花に向けてのことなのか、人に向けてのことなのか。

 気になるし、困っていたら助けたいと思えるし、一緒にいるだけで明るくなれる気がするし、避けられるとどうしようもなく戸惑ってしまう。

 つまり?

 ああ、これは。

 きっと、私は。

 この、フレーズは。

「――これって、もしかして恋なんですかね」

 思い至った結論に、私は正しいのか判断がつかなくて先輩に聞いてみる。

「さあ、私は知らないわ」

 散々質問しておきながら、先輩はそう知らばっくれた。

「だってそれを知っているのはいろはだけだもん」

 ミキ先輩は、つんと私の額をつつく。

「恋をしてる人って、キレイよね」

 そんな意味深なことを言った。







 滴る雫。

 雨の日のくすんだ空気の中に、はっきりと浮き上がる色鮮やかな透明感。

 見覚えのある花束が、今日もいる。

 あまりにキレイで、尊い。拐ってしまいたくなる気持ちも、今ならば分かる気がする。

 雨に濡れるがまま、顔を伏せて眠っている。

 その姿がなぜだかあまりにも楽しそうで、声を掛けて起こすのも憚られた。しかし私は立ち去ることも出来ないで、傘を雨に打たれながらその場に立ち尽くしている。

 ポタ、ポタ、と傘から落ちる滴の音と、彩り溢れる花がこの世界のすべて。

 ふと彼が頭をゆっくりと上げると、首もとには赤いリボンが付いていて。

 目が合った。

「――何、してるの」

「水浴び、です」

 挨拶よりも先に出たのは、彼の行動についての質問。『水浴び』と即答しても、私の疑問は残ったままだ。

 テラスに座っている彼は、寝ぼけたようにボーッとしたまま一度不思議そうに首を傾ける。

「いろはさんこそなんでこんなところに?」

「買い物がてら通りがかっただけ」

 通りがかっただけ、というのは少しばかり嘘が混ざっている。用事を済ませた後、遠回りしてわざわざこの道を通ったのだ。もしかしたら、彼がいるのではないかと。いたならば先輩から隠されたままの謎かけを教えてもらおうと思って。

「奇遇ですね」

 私の思惑を知らない彼は、全身を雨に晒すようにゆっくりと伸びをして、深呼吸。満足そうに唸って腕を下ろした。

「気持ち良さそうだね」

「はい、楽しいですよ」

 まだどこか眠たげで、動きが緩慢だった。

 近付いて、傘の中に入れて、彼を見下ろした。

「寒くないの?」

「そんなに寒くないですよ。いろはさんはなんだかモコモコしていますね」

 白いダウンに、分厚いマフラー。内側にもニットを着込んでいて、今日は暖かさ重視の格好をしていた。雨が雪にならない気温とはいえ、まだまだ寒いことに変わりない。

「僕は平熱が低いんですよ」

「何度?」

「大体三十度くらい」

「ひくい」

「夜はもっと低いですよー。ちょっとした変温動物みたいなもので」

 腕を降って、滴を落とす。

「だから、いろはさんほど寒くは感じてないと思うんですよね」

「それでいつも薄着なんだ」

「その分、夏はすぐにバテますけどね。だから車はクーラーガンガンで」

「大変ねぇ」

 そういえば、夏に荷台を開けたときはヒヤリとした冷気が出ていたことを思い出す。

「けどこんな寒い日にしなくても」

「水浴びは好きなので思わず」

「びしょ濡れだよ?」

 視界にあった手を握ると、ピクリと僅かに跳ねたが振りほどくことは無かった。濡れた手は思ったよりも冷たくなくて、むしろかすかに温かい。

「あれ? いろはさんは冷え性ですか?」

 笑みを含んだ声音でそう言い、もう片方の手も沿えて手を包む。

 花の君と手を繋ぐ。

 じわりじわりと、手が温もりを取り戻していく。

 雨の音だけに満たされた、少しの間。

「えっと、あ」

 私を見上げて、パッと離す。

「えー、あの、すいません!」

 ハッと何かを思い出したように、彼は焦りを顕にした。

「本当に、すいません」

「じゃあ、僕はそろそろ帰るので」

 席を立ち、逃げの態勢に入る彼に、私の気も急いた。

「待って。ねぇ、私のこと避けてない?」

「避けてなんか、無いです」

「本当に?」

 離した手を、私はもう一度掴む。

「様子がおかしいように見えるのも気のせい?」

「気のせいです」

 意固地になった早口の言葉は、それが嘘だと分からせる。

「私、なんかした?」

「いろはさんは、何もしてないです!」

「じゃあ、なんで」

 なんで、突然距離を置こうとするの?

「逃げないでよ」

 どうすればいいか、分からなくなる。

「そんな顔、しないでください」

 観念したように彼は私を向き、見下ろす。濡れた花には雫が玉になっていて、瞬くように落ちていく。

「僕は、その……」

 言葉が見付からず、ぐるぐると悩むように右往左往と首が定まらない。

「……ミモザの日って、知ってますか!」

 唐突に話題が変わって、私は目を僅かに見開いた。

なんだろう? とピンと来ない顔をしたからだろう。彼は説明を始める。

「今日、三月八日はミモザの日なんです。お世話になっている方々に、ミモザを贈る日。ホワイトデー前のお祭りとでも思ってもらえれば、いいんですが……」

 頭に手を上げるが躊躇って、一度「うぅ」と喉で唸った。襟を掴む手は、赤いリボンも一緒に掴んでいる。

「今日くらい……」

 小声で呟き、下ろしかけた手を上げて、プツリと花の茎を折る。

 今日の君の頭は確かに黄色いミモザがたくさん咲いていて、小さな花が雨に触れるたび弾んでいる。

 小さく手招きされて腰を折る。横を向きながら顔を近付けると、いつものように髪に花を差してくれた。

先日叶わなかった“いつも通り”に、私は自分でも驚くほどに安心した。次に胸に湧き上がる嬉しさに、思わず笑みが溢れる。

「お揃いだね」

 同じ背の高さでそう言うと、彼は居心地悪そうに少しずつ頭を反らしていった。

 カランとベルの軽い音が鳴る。見れば外にいた私たちに気付いたのだろう、みどりさんが扉から顔を覗かせていた。

「いらっしゃい」

「こんにちは、みどりさん」

「久しぶりね。ゆっくりしていって」

 灰色の雲が掛かる空を仰ぐ。まだしばらくは止みそうにない。

「まだ降ってるのねぇ。パラソル立てようか?」

「それは、いいです」

 みどりさんの申し出を、リコルドくんは遠慮する。そのまま、道の方に体重が傾いたので、私は慌てて引き止める。

「リコルドくんは時間あるよね」

「僕は」

「みどりさん、中で一杯いただいてもいいですか?」

 彼の言葉を遮って無理矢理強行したけれど、彼からの抵抗は無く、足を店の方へと戻す。

「おっけー。いろはちゃんは何飲む? コーヒーでいいかな?」

「お願いします」

「君には、タオルね。ちゃんと拭いときなさい」

「えっと、あー……いつもすいません」

 彼は仕方がなさそうに、足元の紙袋を取った。

 ふるふる、と頭を降って水を払う。小さな花も一緒に混ざって飛んでいた。

 ひどく困った様子の彼の足取りは重い。

 カラン、とベルの音が私たちを招き入れる。瞬間、コーヒーの芳しい香りに包まれた。

 リコルドくんは受け取ったタオルで身体を拭いてから、窓際の席に座った。ここは、先ほどまでいたテラスがよく見える。

 しばらくすると温かいコーヒーが目の前に届けられた。熱いコーヒーを少量だけ口に含み、苦味と旨味を堪能する。

 困りきっていた彼は、「あぁ」と嘆きの声を吐き、テーブルに肘を付いた。

「いろはさん、僕はとっても困っているんですが」

「見たら分かる」

「せっかくいろいろと考えてたのに、そんなことされたら……」

「どんなこと?」

「もう反故にしますからね。いろはさんのせいなんですからね」

 「ぅう」と呻いて、彼は考え込むように外を眺める。

 しばらくの間、無言が続く。ときどき、傘を差した人が通りすぎていく。

「ここにいたら、昔のことを思い出すんですよね」

 おもむろにリコルドくんは言う。

「プランターには花がたくさん咲いていて、時間の流れも静かで、人が歩いている様子を俯瞰している感じ」

「イタリアにいたときのこと?」

「はい」

 遠い記憶を思い出して、記憶と景色を繋ぎ止めるように彼は口を開いた。

「朝起きたら窓辺の花たちに水をやって、手入れをして、暇があれば窓辺から下を見下ろしていました。

 たまに通る移動の花屋さんは、僕の存在に気付いて手を振ってくれて、子どもは驚いたように指を差していた。下から見ても、窓辺の花と同化しているように見えるみたいなんですが、よく見たら気付かれるらしくて。

 僕を拾ってくれた人であり、名付け親であるおじいさんも、同じようにのんびりと毎日を過ごしていて、たまに戯れで料理を教えてくれたりして、何一つ不自由なく、暮らしていました」

 道を行く人が、通り過ぎていく。感慨深げに、彼はその人たちを見送っていく。彼の目は、イタリアの風景と重ね合わせているのだろうか。

「ただ、おじいさんがやんわりと家の中に縛り付けていたことを、そのときは知りませんでしたけどね。それがあの人の優しさだったし、僕を守る唯一の術だったから。

 多分、拾われてから一度も家から出たことは無かったんですよ。安全だったし、それでも幸せだった。外の世界に憧れなかったかと言えばそんなことは無かったけど、それでも安寧な毎日を手放してまで、おじいさんを一人にしてまで、外の世界に行こうとは思わなかった。恐いところということだけはしっかりと教えられていましたし」

 日向さんの話と、リコルドくんの話を繋ぎ合わせていく。輪郭をはっきりとさせていく、彼の生い立ちと二人の関係。

「ある日、おじいさんが倒れて、外に出たら悪い人に捕まりかけていたところを父さんに助けてもらって」

 その後はぼかして、話を進める。

「……それからいろいろあって日本に来て父さんと暮らすことになるんですが」

 かなり省略した上に、リコルドくんはやっぱり誘拐されたとは言わない。

「あのままイタリアにいたらどうなってたんだろうって思うんです。

 もしも捕まっていたら。

 もしも花を摘み取られたら。

 もしもいつかおじいさんがいなくなってしまったら。

 そしたらそのあと自分はどうやって生きれば良かったんだろうって考えます。

 あそこで、ずっと窓辺にいるだけでは、何も知ることは出来なかった。生きる術は何も知らなかった。

 父さんは、外に出してくれて、色んなものを見せてくれて、色んなことを学ばせてくれた。

 だから今は、外の世界は恐いところだけれど、それだけではないことを知ることが出来た」

 彼はそう言って私の方を向く。

「だから、父さんには感謝しています。ここまで引っ張ってくれて、ありがとう。って」

 明るく笑う君。

 やっぱり、彼は恨んでることなんて無いですよ日向さん。

 どんな境遇も前向きに考えられる良い子です。

 道を歩く人が直角に曲がりこちらに来る。

 カランと言う音に続いて扉から飛び出して来たのは、ランドセルを背負った少女だった。

 顔の横の髪を結って、クローバーのゴムで留めていた。

 黒目がちの目が私とリコルドくんの姿を捉えて、立ち止まる。

「おかえり、わかちゃん」

「ただいま……こんにちは。ごゆっくりどうぞ」

 礼儀正しく礼をする。

 どうやら、みどりさんの子どもらしい。しっかりとした店員さんだ。

 昼休みには運動場で元気にドッジボールをするタイプというより、友達から相談を受けてお話で時間を使いそうなタイプ。

「わかちゃんも、花をあげるね」

 頭の物をあげるのかと思いきや、足元に置いていた紙袋から、黄色いミモザを取り出して、それを少女に渡した。

「ありがとう、リコルド」

 彼と私とを交互に見る。少女の目は、私の頭の花に注がれているらしい。

 瞬き、顔を伏せ、息を吐く。

 そして、また顔を上げた。

「……ごゆっくり、どうぞ」

 か細い声がもう一度そう言うと、踵を返してカウンターの中にいるみどりさんの元へ行った。花を見せびらかしているらしい。

「あの子はお得意様です」

「お得意様?」

 みどりさんは花瓶を取り出し、そこに水を入れていた。どこかに飾るらしい。

「もしかして、前に言っていたお得意様?」

 噂のかわいいお得意様……!

「月に一回、お花を買いに来てくれるんですけど、僕からしか花を買ってくれないんですよね」

 不意に彼に明かりが差して、眩しそうに外を向く。

「あれ? 止みましたか?」

 雲の切れ間から溢れる日の光が、窓を通して彼を照らしている。

 雨に濡れた地面が、きらきらと輝いていて、街を歩く人もそれに気付いて空を見上げて傘を閉じる。

「虹が出そうな気がする」

 立ち上がり、彼は表に出る。私もそれに続いた。

「太陽が向こう側だから、多分こっち……ほら」

 太陽の位置を確認し、反対側を指差す。

 よく見ればうっすらとアーチが出来ていて、次第に濃くなっていった。

「雨は、太陽に触れたら虹色になる」

「キレイな虹ね」

 空色を透かした淡い色の七色のアーチ。

 今なら聞けるだろうか、と思って私は何でもないことを聞くように口にした。

「……ねぇ、花言葉」

「花言葉が、どうしましたか」

 どこか上擦る声で、ギクシャクと言葉を発する。やはり、ミキ先輩が予想した通り何かそこにあるというのか。

「今まで貰った花言葉を教えて」

 後退り、隙有らば逃げ出しそうな君の腕を掴めば、焦った手が空をさ迷う。

「言いませんよ!」

 突然声を張り上げて、拒否される。

 キョロキョロと分かりやすく焦りを表に露にした。過剰ともとれる反応に、私の眉は跳ねる。

「何? 何かあるの?」

「あ……な、無いです。無いです! 全然無いです!」

「あるの?」

「……無いです!」

 頑なに言うのを拒む。

 私が次に何を言うのかと身構えている。

「花言葉には詳しいんでしょう?」

「そうではあるのですが……分かるのと、分からないのがありますよ」

 慎重になって、彼は答える。

「オレンジのガーベラは?」

「……知らないです」

「リナリアは?」

「知らないです」

「赤いポピー」

「知らない」

「つぼみの――」

「知らないですから!」

 癇癪を起こしたように声を荒げて、これ以上聞かないでと首を振る。腕を掴む手を振りほどこうとするが、私は離さない。言わさないといけない気がする。

 知らない知らないと何度も言い張る君。

 ……何を、知らないの?

「ガーベラだけでいいから」

「うぅ……いろは、さん……」

 腕を掴む手に、手を重ねたまま。

「言えるわけ……」

 涙混じりの声。

 不意に手を頭にやり、奥の方に手を伸ばす。何をしているのか、と見ていれば、ブツと茎を折る音がした。

「これ……あげますから……!」

 余裕無げにそれを差し出し、私はキョトンとそれを見る。

 虹色の、花?

 目の前の虹を、そのまま移したような一輪の大きな花。淡い色に、濡れた花びら。

 レインボーローズのような人工的な色ではなく、淡い色。

 初めて見る花。

 シュッと尖った花びらが上を向いている。

「オレンジ色のガーベラの花言葉は――」

 指先の震えが伝わる。

「あなたは僕の輝く太陽」

 そう言うや否や、頭を反らし襟を上げて、顔を隠すような動作。照れていることがありありと分かり、私の頬も次第に熱を帯びてくる。

「では、僕は、これで!」

 そのまま走るように行ってしまい、目で見送った。

 『あなたは僕の輝く太陽』

 その意味は、どういう意味なのだろうか。意味の裏まで読み取っても構わないのだろうか。

 降り注ぐ太陽の光が、頬を余計に熱くさせる。

 そして、気になる手の中の虹の花。

 これは、何の花?

 花は、彼の手のように温かかった。







 家で水に浮かべた花を見ている。

 消えない虹が咲いていた。

 雨が降っても、晴れていても、咲く虹。

 どんなに調べても、この花の名前は分からない。睡蓮の花と似ているようだが、この色をした種類は見当たらなかった。

 貰ってからずっと“もしかして”と“まさか”が交錯する。

 考えつつ観察する一輪の花。

 もしかして――彼の花なのでは。

 けれど。

 まさか、心臓をあげるようなことなんてするわけないし。チャペルと関係する花でもない……と思う。ユリにも関係しないと思う。

 もしも、彼の花ならば彼は今頃どうしているのだろうか。頑なに首を見せまいとする彼。それほどまでに大切な花ならば、無くなってしまったら……

 死ぬ、なんてことないよね。

 生きてるよね。

 胸の中はモヤモヤとしたまま、時間は過ぎていった。







 次の日、彼はいつも通り来てくれると思っていたのに、配達に来たのは日向さんだった。

「花男くんどうしたんですか?」

「気分悪いって言ってて二階から降りてこなかったんだよ。こんなこと滅多にないんだけどねぇ、珍しい」

 嫌な予感が胸の内を蠢いて、どうしようもなく不安を掻き立てる。

 そこで私は日向さんに質問をしてみる。

「睡蓮とユリって何か関係あります?」

「なぞなぞかなんか?」

「答えは知らないんですけど。睡蓮とチャペルでもいいです」

 考えるそぶりもなく、日向さんはすぐに口を開いた。

「睡蓮はウォーターリリーって言うけど?」

「水のユリ?」

 サッと、血の気が引いた。私の勘が正しいならば、最悪の事態が起こってしまうのかもしれない。

「日向さん! リコルドくん死んじゃうかもしれない!」

「はあ?」

 私は焦りながら、呆ける日向さんの腕を掴む。私の表情に何かを読み取ったのか、段々と日向さんの顔も曇っていった。

「リコルドくんから、虹色の睡蓮を貰ったんですけど……!」

「……は?」

「色とりどりのキレイな花」

「色とりどり……?」

 私の言う言葉の意味に勘付いたらしく、苦笑いしながら私に聞く。

「それって、もしかして花びらが多い大きめの睡蓮みたいな花?」

「それです」

 私の台詞を聞いた途端、肺の息全てを吐くように、大きなため息を吐き、肩を落とした。

「ちょっとごめん」 

 エプロンのポケットから携帯電話を取り出して、電話を掛ける。相手はすぐに電話に出た。

「はい、フラワーショップ日向で――」

「リコルド! バカがお前は!」

「え!? なにが! 何の話!?」

 突然怒鳴られて、電話先でテンパる彼。

 音量が大きいのか、二人の会話は丸聞こえだった。

「台所の棚の液体肥料ほぼ原液で入れて、表の花を今日はなんでもいいから入れれるだけ入れとけ」

「……何に?」

「お前にだよ! 察しろ!!」

「……なんで」

「しらばっくれんな。いろはちゃんから聞いた」

「あー……」

 電話の向こうは、言葉が出てこないらしい。

「……すいま」

「謝ることじゃないんだから、いいから言ったことやって休んどけ。店も閉めてていいから」

「……はい」

 渋々了承して電話を切る。

 そしてまた、深く長いため息を零した。

「橘ー!」

 今度は橘部長を呼ぶ。部長は日向さんの怒鳴り声を聞いて、何事かと遠くから様子を窺っていたようだ。

「ちょっといろはちゃん借りていい? 早退させてくんない?」

「……なんでだ?」

 手を合わせて怪訝そうに眉をしかめる。

「緊急事態」

「部長すいませんお願いします!」


「……勝手に、しろ」


「本当にごめん。今度飯奢るから」

「とっとと行け」

 言いながら、書類を見て搬入する花を部長は受け取った。

 言葉の少ない部長。

 これが、部長の優しさなのだろう。

「花はいろはちゃんの家にあるんだよね? 車で寄ってから、うちに戻ろう」


「それはいいですが……彼、大丈夫なんですか?」

「大丈夫……なのかなぁ。俺は頭が花じゃないから分からない。こんなの初めてだし。大事なものだってことは間違いないから、ちょっと早くした方がいいかもしれない」



 荷物を取りに戻る途中、桐山に会って呼び止められる。

「いろは、どこ行くんだ?」

「今日ちょっと早退する」

「どうしたんだ?」

「リコルドくんが……なんか、いろいろ!」

 説明しようと思ったものの、長くなると思ったので、そうやってぼかす。今は早く彼に会わないといけないから、一秒でも時間が惜しい。

「ふーん、そう。なんか大変そうだな……じゃあな」

 素っ気なくそう言うと、目を細めて桐山は見送った。



 一度家に帰って、水に浮かべていた花を取る。

「花って、これですよね」

「そう、それ。……へぇ、こうなったんだ」

 色とりどりの花弁を持つ大輪。全体的に見ると、暖色が多いようにも見える。

「久々に見た」

 日向さんは感慨深げに花を観察する。

「随分成長したな」

「大きさですか?」

「ああ、大きさもだけど、色も。……初めて見たときは、色も全体的に薄かったし、もっと青っぽかった。――キレイな花だな」

 花屋に着くと、言われた通りにしたらしく、ワサワサといつもより花の多い彼がレジに座って暇そうにしていた。私はその姿を目に収めた瞬間、彼にすぐさま駆け寄った。

「リコルドくん死なないで!」

「大丈夫ですよ。僕は一度くらい花を取っても死ぬことはありませんから」

 私を安心させるように、彼はガッツポーズをしてみせる。けれど、どことなく動きに機敏さは無く、余計に不安を煽った。

「店のことはいいって言っただろ。休めって」

「やらないと明日が大変だし」

「俺がやるから。光合成でもしとけ」

 「うーん」と不満げに声を漏らす。

「体調どう?」

「元気ですよ」

「嘘をつくな」

「……元気ですよ!」

「朝にダルいって言ってたのは誰だ」

「バラさないでよ父さん!」

 リコルドくんは、唸って悔しがった。

「ったく、なんでこんなことを……いろはちゃんに花持ってきて貰ったから、差しとけよ」

「それだけは、嫌」

「けど、ダルいなら」

「それはいろはさんにあげたものだから」

 はっきりとした意志を持って、彼はそう告げる。これ以上、何を言っても聞き耳を持たないことも、分かった。

 ちゃんと確認しておきたいことがある。

「ねぇ、この花ってやっぱり」

「……僕の核となる花ですよ。僕、日向・フィオーレ・リコルドの」

「それなら尚更」

 頭に無くてはいけないものなのでは。無いといけないもので、心臓部なのでは。

「ダメです」

 強い口調で押し切られる。

「……お前な、無茶をするな」

「だって……」

「だって、なんだ?」

 ちらりとこっちを見て目が合う。

「気持ちを、伝えたかったから」

 彼の、気持ち。

 それは……つまり。

 二人はしばらく顔を合わせる。先に動いたのは日向さん。頭を掻いて、目を逸らす。

「ふーん……なるほどね。じゃあ俺は一応ちょっと大学に電話してくるから。摘んだのいつ?」

「水曜日」

「あーもう、ほんっとに、バーカ」

 吐き捨てるようにそう言って携帯で電話を掛けに、日向さんは店先へと出た。

「僕の花って、分かったんですね」

「チャペルに関係する花。ウォーターリリー、睡蓮ね」

「正解です。ちなみにイタリア語ではニンフェアって言うんですが、水の精から来てるんですよ」

「水浴びする君には、お似合いの名前ね」

 「ありがとうございます」と言いながら、彼は笑う。

「今までの花言葉、教えます」

「それね……調べちゃった」

 リコルド君の花がなんなのかを調べているときに、ついでにカンニングしてしまった。

 思いを花に託して、一つの思いを私に伝えようとしていたこともよく分かった。

 手の中の花は鮮やかに。彼の化身とも言える一輪。

「ねぇ、けど本当に大丈夫なの?」

「大丈夫ですよ。植物だから、花はまた生えます。ゆっくりだけど。養分があればすぐ育ちますし」

「だから日向さん肥料って言ってたのね」

「養分は、それだけじゃないんですよ」

 それは、一体。

 手の中で明るく元気に咲く花。

 それが、今の彼の心情とも一致するのだろう。

 ――花言葉のまま、とってもいいんだよね。君の気持ちを。自らの中心となる一番大切な物をくれた、気持ちを。

「その花を、大事にしてくれますか。ずっと、ずっと、大切に育ててくれますか?」

 彼は、花を持つ私の手に、自らの手を重ねる。

「僕は、人ではありません。頭も有りません。花を頭に灯した“フローリスト”です」

 不安げに声を震わせて、彼は思いのたけを少しずつを吐露していく。

「感情を表情として表に出すことも出来ず、物を口にすることも出来ず、悪人に食べられて荒らされる、何年も先の未来にはきっと途絶えてしまう種族です。

 人から見れば、人に似た奇妙な存在でしか有りません。それを僕は重々承知した上で、ちゃんとはっきりとあなたに伝えたいことがあります。

 僕はあなたを幸せにすることなんて、きっと出来ません。人としての幸せをあなたに届けることは、“フローリスト”には不可能です。

 それでも、僕はあなたの側で、寄り添うように花を咲かせていたい。

 それをあなたが許してくれるのならば」

 大きく、息を胸にしっかりといれて、意を決して彼は言う。

「僕のことを、好きになってはくれませんか……!」

 花を、私は一度彼の手に返す。驚く彼に、私は慌てて口を開く。

「リコルドくん、いつもみたいにしてよ」

 彼が笑い、私も笑う。

 少し横を向くと、長い指が頭に触れた。

「私は今、幸せだよ」

 それだけを伝えた。

 彼が手を離すと、私の頭に花が咲く。

「キレイですね、いろはさん」

 彼の頭と同じように、私の頭にも。

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