第2話
少女は一枚の硬貨を大事そうに握り、街中を走っていました。手に硬貨の型が付くのではないかと言うほどに、しっかりと。少女にとって、全財産のようなその硬貨は、これから大事な人への贈り物のために使われます。
立ち止まったのは一軒のこじんまりとした花屋さん。背伸びをして店内を見渡しますが、人は見当たりません。
「カーネーションを下さい!」
大きな声でそういえば、奥から人のいる気配がしました。
ゆっくりと、男は暗がりから光の元へと姿を露にします。
まず目の前に入ったのは、カーキ色のエプロン。少女が目線をゆっくりと上げていくと、人とは全く違うその様子にハッと息を飲みます。
その男には頭がありませんでした。その代わりに、たくさんの花が咲いていました。
人の身体に、花束を乗せたような男。
しかしまだ生きてからそんなに年数を経ていない少女は、その姿に驚きこそしましたが、そんなものなのだろうと納得してしまいました。花屋で働く人の頭が花なんて、世の中では当然のことなのだろう、と。花が好き過ぎたらきっと最後はこんな人になるのだろう、と思い至ったのです。
――キレイ、だ。
花畑を目にしたときのような胸の高鳴り。男を見ているだけで、少女の胸は沸き立ちます。
そんな少女の思惑を知らない店番の男は、戸惑いました。
小さな小さなお客さん。自分を見ても動じない少女。そして、差し出されたのは百円玉。カーネーションを買うには、全然足りません。
どうしようかと男は襟元を触りながら悩みます。まだ店番をして日の浅い男には、こういうときどんな対応をすればいいのか分からなかったのです。
そうしていると、少女の表情に段々と翳りが見え始めました。
「カーネーションを、下さい!」
もう一度少女が言うと、恐がるように男はびくりと震えます。どうしよう、どうしよう、とキョロキョロと辺りを見回し慌てふためきますが、男は何かを決心したように両手を握りました。
そして右手を頭に上げ、自分を彩る花を一輪プツリと折ったのです。
「これでもいい?」
手折られた花に少女は首を傾げましたが、目の前に差し出されたのは紛れもなく真っ赤なカーネーション。大きく頷くと、男はほっと一息吐いて一度奥へと戻ります。
「ちょっと待っててね」
少女は言われた通りその場で待っていると、パリパリと薄いビニールの音や、シュルシュルというリボンの音が耳に届きました。
程なくして、ピンク色の包装紙で綺麗に包まれた花を持って出てきた男は、しゃがんで少女と同じ目線になり、そのカーネーションと少女の手の中で温まった百円玉を交換します。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
少女がそういえば、男も同じように返します。
満足そうに、少女はその花を見て贈る相手を思い浮かべます。渡したら、どんな顔をするだろう? 想像するだけで胸は熱くなり、自然と表情は綻んでいました。少女を見ていた男も、それがうつったようで少し笑います。
そうして立ち上がろうとした男の肩に、ふと少女の目が止まりました。
仕事は終わった、とばかりに足早に定位置に戻ろうとしていた男に、少女は声を掛けます。
「肩……」
再びびくりと身体を震わせた男は、右に左にと自分の肩を見ますが、肩がどうしたのか分かりません。少女をチラリと見やれば手招きされたので、また少女の前にしゃがみました。
少女の手が男の肩に触れ、摘まんだものを差し出せば、そこには一枚の花びらがありました。
少女の指先ほどの大きさの花びらは、先が尖っていて、全体的に青くグラデーションがかり端は桃色に色付いていました。その花びらが何の花か、少女は検討も付きませんでした。
「これは、何の花?」
素朴な少女の疑問。花屋として以前に、その花を男はよく知っていましたが、答えることは出来ませんでした。言いたくなかったのではなく、言い方が分からなかったのです。
「あ……あげる」
答えの代わりにそう言うと、少女は再び男に感謝を伝えます。そして、花びらを先程まで持っていた百円玉のように大事に握り、もう片方の手には贈り物の花を大事に持って、来たときと同じように走って帰っていきました。
店先に残された男は、一つため息をこぼすと奥の暗がりへと戻ります。慣れないことをして、ドッと疲れたようで肩を落としました。けれど、男の脳裏には少女が感謝を告げたときの笑顔が張り付いていました。
家に帰った少女は、帰ってきた挨拶もそぞろに大声でこう言いました。
「お母さん! いつもありがとう!」
エプロンで手を拭き微笑む母親は、少女から花を受け取り小さな頭を優しく撫でます。
「こちらこそ、いつも元気でいてくれて、ありがとう」
その声を聞いて足に抱き付く少女の顔は、とても幸せそうでした。
花瓶に水を入れて、少女の母親はそこに花を生けます。一連を見ていた少女は、ふと思い出したように手の中の物を見つめます。
「それはどうしたの?」
人差し指と親指で花びらを持つ少女は、秘密を教えるように母親の耳に唇を寄せます。
「お花屋さんに貰ったの」
そう、とだけ言った母親は、少女からその花びらを見せてもらいました。珍しい、見たことのない花びら。花の名前は、母親にも分かりません。
「大切なものなら、大切に保管しなきゃいけないね」
そのセリフと共にとある提案をすると、少女は快くそれをお願いしました。母親は、テーブルにあった写真立てを手に取り、裏の金具を開きます。中身を一度出し、ガラスと台紙の隙間にその花びらを押し花にするように挟みます。元のように金具を止め表に返すと、平らになった花びらが綺麗に収まっていました。
少女は写真立てを預かると、嬉しそうに天に掲げて眺めていました。いつまでも、いつまでも、名前の知らない花を眺めていました。
それから何年も経ちました。少女は今でもそれを大事にしています。押し花にした花は、時間が経てば水分が飛んで薄くなり、いくらか退色するのが普通です。
しかし、花びらは今も枯れずに写真立ての中にあります。貰ったときと同じように、生き生きとした瑞々しさで、少女に愛され続けていました。
少女は雨の中、傘を差し小走りに家へと帰ります。
今日は水曜日。家にはきっと、いつもの人がいる。
家の前に着けば窓越しにその姿が見えて、勢いよく扉を開けました。カランという音が少女に『おかえり』を告げます。続いてもう一人も。
「おかえり、わかちゃん」
声の主を目に捉えると、少女はいつも通りではない様子に驚きます。
見慣れた男、見慣れない女の人。
「ただいま……こんにちは。ごゆっくりどうぞ」
母親の真似をして事務的に挨拶をしながら、少女は胸の内に湧くものに疑問を抱きます。もやもやとした、雨を降らせる黒い雲のようなものが、胸にぐるぐると渦巻いています。
女の人は、少女のことをまじまじと見ていました。
「わかちゃんにも、花をあげるね」
「ありがとう、リコルド」
男は少女に一輪、花を渡します。綺麗に包装された、黄色の花。
嬉しくなって男を見上げると、そばにいる女の人の頭に目が行きました。同じ黄色が、そこにも咲いています。
言葉に出来ない思いが溢れ、瞬きをして顔を伏せて、ゆっくりと息を吐きました。
深呼吸。
そして、顔を上げます。
「……ごゆっくり、どうぞ」
なんとかそれだけを言うと、母親の方に走っていきました。この場所で走ってはいけないことを知っていましたが、無意識に走ってしまいました。
「お母さん、お花貰った」
「良かったね。花瓶に生けてあげよう」
母親は花瓶を用意して、そこに水を入れます。
遠目に見る二人の姿。
胸を刺す痛みはバラのトゲにも似ているのに、貰った花にはトゲがありません。明るい黄色の、晴れの日に似合う花。しかし花は少女を明るくはしてくれませんでした。
なぜだろう、彼に貰った花なのに。
きっと、冬の雨で身体が冷えたんだ。
きっとそうだ。
だから、こんなに嫌な感じがするんだ。
母親は花を生けると、カウンターに置きました。それを見ても、少女の胸は痛みが増していくばかり。
堪えきれず少女は、急いで自分の部屋へと向かいました。手に取ったのは写真立て。それを持ち、ストーブを付けて真ん前に座ります。じわりじわりと、ストーブの火は少女の頬を赤くしていきます。
いつかの日、男に貰った花びらはずっと色を保ったままそこにありました。
ガラスの上から、指でなぞります。
昔のことを思い出すと、胸は少しだけ落ち着きました。
(もしかしたら、恋だったのかもしれない)
誰にも気付かれず、自分さえも分からないままに、少女は――……。
少女は目を瞑り、いつものように男のことをまぶたの裏に描きます。頭に花を携えた、花をくれる、花の男。
やっぱり、彼を見ていたら元気が出る気がするから。
花畑を見ているような、胸の高鳴り。
その間だけは、いろんなことを忘れられる。
――キレイ、だったな。
思ったことがなぜ過去形だったのか、少女が気付くことはありませんでした。
***
バレンタインの催事場は、チョコレートの甘い匂いで充満している。茶色とピンクの装飾の下、たくさんの女子が群がっていて、あれでもないこれでもない、と数あるチョコレートを吟味していた。
指を差す甘くとろけるお菓子は、本命のために選んでいるのかそれとも義理なのか。
「で、なんで俺がこんなところに来させられたわけ?」
「だって暇そうだし」
そんなたくさんの女子に紛れている一人の男、桐山。水曜日の予定をシフト票で確認していたら休みが被っていたので、試しに誘ってみれば快く受けてくれたのだ。 催事場は女の子が多いのだろうとは予想していたが、桐山の他にいる男性は店員さんくらいだった。少しばかり申し訳なさを感じたが、人手が必要なのでそこは諦めてもらおう。
「暇じゃねーよ……」
「荷物持ちよ」
「知ってたわ」
取引先に配るお菓子も大量に買うので、桐山の手でも良いから借りたかったのだ。一人でこのチョコを持つのは流石に多すぎる。
既に取引先分は買っていて、桐山の手には紙袋が二つ下げられている。今選んでいるのは社員の分。
「俺貰う側だろ? 楽しみ減るじゃん」
「だから、メモは見ないでね」
「カゴの中に、貰う奴に同情を感じ得ない物がたまに入ってるのも突っ込まない方がいい?」
「当たり前でしょ」
多分その内の一つはあんたの手に渡るけどね、ということは伝えないでおいた方がいいだろう。それこそ楽しみが減る。反応を見る私の楽しみが。
先輩のメモには、年が若い人ほどネタのような物ばかりが書き連ねてあって、私もこんなものを人にあげて良いのだろうかと思いつつ機械的にカゴに放り込んでいる。これを書いたのはミキ先輩だけではなく年長の女子社員の皆さんらしいので、私が勝手に変えるのはもはや不可能なのである。
カゴを見ると、味はどんなものか、そもそも口に入れて良いのか分からないチョコが。
例えば、魚の干物チョコとか。
「ん、部長のは決まってんの? これとかいいんじゃね?」
桐山が手にしたのは、黒と金色の渋いオシャレなパッケージの、お酒の入ったチョコレートだった。それはあんたが食べたいんじゃないのか、と思いつつ「部長のはもう入れたよ」とカゴの中の一つを指差す。
「は? このキャラクターものが部長の?」
桐山が持っているものとは正反対のような、可愛らしいパッケージのチョコレート。中身のチョコレートも、キャラクターの形をしている。
「うん。部長はチョコあげても娘さんが食べるから、もう娘さんが食べそうな物をあげることにしてるんだって」
「はーん」と適当に相槌を打ち、名残惜しそうに箱を戻す。
「部長の娘って、何歳くらいなんだろう?」
「高校生。二年生のはず」
「そういえば部長って結構若くで結婚してるんだったっけ」
部長の歳を把握してはいないが、四十歳前後だったはず。逆算すれば、二十代前半辺りで結婚していることになる。
「なんであんたがそんなこと知ってんのよ」
「前に聞いたことある」
普段部長のことを恐がって逃げているような奴が、部長とプライベートについての話をしているのは意外だった。二人の共通点なんて無さそうで、話題に困りそうな物なのに……。あえて言うなら、二人ともお酒好き?
「そういえばカクテルもバレンタイン仕様の物を増やすの?」
「増やすよ。チョコレートリキュール使ったのとか、甘くて飲みやすい物を。昨日も夜作ってたし」
「家で?」
「おう、妹にも飲ませながら」
「だから今日遅れたのね」
「仕事関係のことを頑張ってたんだから許せよ……」
カクテルを作るのは元々趣味のようだが、家でも仕事にまつわることをしているのは意外だった。仕事とか、嫌々やってそうなイメージだったのに。
「仕事は嫌ではないよ。式の間は楽しいし。準備とかそういうのが面倒なだけで……」
その面倒臭がりが、はっきりと表に出ているのが珠に瑕だ。
一通り買い物を終えて催事場を出たとき、紙袋は私に二つ、桐山に三つになっていた。集合時間が早かったこともありまだ太陽も高く昇る時間だが、予定は済んだし荷物も多いし、ということで帰る方向に話をまとめる。
「当日、ちゃんと持ってきてね」
「お前こそな……なぁ、これから時間ある? 飯とかいかねー?」
「行きたいんだけど、ごめん。ちょっと寄りたいとこあるんだ」
「そっか。じゃ、また明日な」
肩をすくませ背を向けて、桐山は潔く帰路へ着く。
予定が無かったら付き合うんだけど、ごめんね。
今日の内にバレンタインの物は全部用意しておきたい。探すものは決まってる。それを求めに、私は目的の店へと向かった。
私の用事も済ませて、買い物を終えた。三つ目の小さな紙袋には、彼へのバレンタインが入っている。
予定通りの品を見付けることは出来たが、中々に悩むことになった。なんせ、いまいち彼の好みがよく分からない。私服でも知っていれば参考になりそうなものだったが、いつも同じ服なのでそれも敵わない。悩んだ末に買ったものは、結局私の趣味が反映されてしまったけれど、きっと似合うはずと信じている。
まだ日は落ちていない時間帯だったので、帰り道から少し道を逸れて帰ることにした。
平日ということもあり、街中に人はそんなに多くない。主婦が道端で話をしていたり、ランドセルを背負った小学生が道に広がっていたり。
そんなどこかのんびりとした空気に、深呼吸して肺の空気を入れ替える。両手は仕事の物で重いけれど、休日の残りの時間くらい、ゆったりと過ごしてもいいだろう。ふと目に入ったのは、一軒の雰囲気のいいカフェだった。階段を数段上ったところにはテラス席もある。そのテーブルに置かれた花束に、惹かれた。
あんなところに、花束?
白と黄色の花束。カフェの人が、花束を貰ってテーブルに置いたままにしているのだろうか?
なんとなく気になって階段を上り近付いてみれば、それはよく見知ったものであることに気付き、驚いて足を止めた。
私が声を掛けるより先に、その花束が動き出す。
「あれ……いろはさん? 何してるんですか?」
テーブルに預けていた頭を起こして、彼は私の方を向く。寝起きのように、緩慢な動きでボーッとしている。
「花男くん、何してるの」
「日向ぼっこ、です」
「寒くない?」
「大丈夫ですよー」
日差しは照ってはいるが、今日も冬真っ只中の気温のはずだった。私はダウンジャケットを着て、手袋もマフラーもして防寒対策ばっちりなのにそれでもまだ冷える。
彼といえば、普段から薄着なのに今日もいつもの格好とさほど変わらない。違いといえばエプロンをしていない代わりに、紺色のカーディガンを羽織っているくらいだろう。
少し覚醒してきたのか、私の姿を見ながら首をひねる。頭の上にはいくつも疑問符が浮いているようだった。
「なぜいろはさんがこんなところにいるのですか?」
「通りすがり。それはこっちも聞きたいんだけど」
あくびをするように伸びをして、快晴の空から降り注ぐ光を全身で受け取るように、天を仰ぐ。
「すぐ近くがうちの店なんですよ。今日は定休日なので、こちらにお邪魔していました」
「よく来るの?」
「はい、いつもこの場所をお借りしています」
そういえば、この辺だったっけ。彼の勤めている店は。
“フラワーショップ日向”は店長の日向さんの自宅も兼ねている。そこに彼も住んでいるらしいということは、これまでの会話で知っていた。
「いろはさんは、大荷物ですね」
「あーうん。ちょっとね、ミキ先輩に頼まれて」
この中には彼のバレンタインも入っているので、私はぼかすように返答する。
カラン、と店の扉に付いている鐘の音がしてそちらを見れば、深緑のギャルソンエプロンを着けた女性が顔を覗かせてこちらを不思議そうに見ていた。目が合ったので挨拶をすれば、「いらっしゃい」と言いつつ側にやってくる。
「お友達?」
「はい、そうです。提携してる式場の方で」
「そうなんだ。私と一緒ね」
ふふ、と楽しげに笑う。目元の優しい印象の、いるだけでその場の空気が和むような雰囲気を持っている人だった。どうやら、ここの店員さんらしい。
「一緒、とは?」
「うちも花男くんのお店にお花を頼むことあるの。パーティーとかたまにするから」
第一印象は、人が良くて、会話を楽しむのが好きそうな人。カフェにすごくお似合いな人だな、なんてことを思う。
外に出て話してても良いのだろうかとガラス越しに店内を見れば、中途半端な時間のせいかお客さんは一人しかいなかった。その人も、今はゆったりと読書に勤しんでいる。
「定休日に来て、日向ぼっこしたり水浴びしたりするのよね。花男くんが友達と話してるとこなんて初めて見た」
「みどりさん、失礼です! 確かにそうなんですけど……」
先日の模擬挙式のときに言っていた『親戚も友達もあまりいない』という言葉が脳内で甦る。
「ごめんごめん悪気は無いの。お詫びにあなたには一杯サービスしちゃおう」
「い、いえ、お構い無く……!」
突然矛先を向けられ、予想外のサービスに躊躇い、遠慮したものの、みどりさんと呼ばれたその人は微笑みを残して、店内へと戻っていった。程なくして、コーヒー豆を挽く音が聞こえてくる。それならば、と私は彼の正面に座った。
しばらくすると私には熱々のコーヒーが運ばれてきて、彼の前には氷の入った水が一杯置かれた。その水が冷たそうで、見ているだけで腕にぞわと鳥肌が立つ。
「それ、寒くない……?」
流れでここに座ったものの、テラスでお茶をするには外は寒い。ましてや水なんて、飲めば身体が芯から冷える。
「お湯が飲めたらいいんですけど、水しか飲めないので……あ! 気が付かなくてすいません。中に入りますか?」
「いや、いいや。私も飲んだらすぐ帰るし」
焼き物の侘びたカップに入ったコーヒーを、私は一口いただく。香りのいい褐色は、喉を過ぎればじわりと身体に広がるように染み渡っていく。
「ここで何をしていたの?」
「光合成です」
さらりと放たれた言葉に、私は目を瞬かせる。小学生のとき理科で習ったし、それをすることで何が起こるのかなどは理解しているが、その言葉はあまりに不思議な響きに聞こえた。
最近はそんなに意識していないけれど……花、だもんね。光合成出来るのか、と頭をじっと見ていると、どこか困ったように襟を掴んだ。
「えっと、花がなくても出来るんですけど、差した花に頼ると効率よく光合成出来て」
たどたどしく説明をしてくれる彼に、へぇーと頷きながら話を聞く。
「だからいつもいっぱい花を差しているのね」
「はい。それで日に当たらないとすぐにへばるから、休みの日はこうして外にいることが多いんです」
彼にとって、それが当然のことなのだろうけれど、私にしてみれば驚きに値することだった。
そんな生体をしているのか。ご飯を食べないなら栄養肥料から摂るだけなのだろうかと疑問に思っていたが、蓋を開けてみればそういうことだとは。
「光合成、ねぇ」
違う種族なのだ、ということをこんなところで実感する。
人には出来ない事。
花と人の間の彼。
――彼について、知らないことは多い。
ごく、とコーヒーを飲めば、鼻から香ばしい香りが抜けていく。
つまり、こうして私のようにコーヒーを味わったりすることも出来ないということ。
水しか飲めない、と言ったものの彼はテーブルの水に一向に手を伸ばさない。どうやって飲むのだろうかという下心も込めて見ていたが、雑談をしている内に段々と日は傾いてきて、とうとう最後まで彼が水を飲むことは無かった。
「みどりさん、そろそろ帰ります」
店を覗き、彼はみどりさんにそう伝える。
「もう? ああ、最近日が落ちるの早いもんね」
「暗くなる前に家に帰らないといけませんから」
話しながら、みどりさんはテラスに見送りに出て来てくれた。
「コーヒーご馳走さまでした。あの、お会計」
一応、そう申し出てみたが、みどりさんははにかみながら首を振る。
「サービスって言ったでしょ? また来てくれたら、それでいいわ」
「じゃあ、また絶対来ます!」
今度はミキ先輩でも誘って来てみよう。カフェ巡りとか、好きだし。
彼は道の方をキョロキョロと見て、誰かを探しているようだった。
「わかちゃんは、まだですか?」
「うちの子、今日は習い事があるから遅いのよ」
「では、よろしく言っておいて下さい」
みどりさんは「またのお越しを」と道に出るまで手を振ってくれた。
空は暗くなり始めていて、日差しが弱くなり少し冷え込んできている。
「じゃ、また」
「はい、また式場で会いましょういろはさん」
一礼して、回れ右。――したかと思えば、彼はもう一度振り返る。
「やっぱりちょっと待ってください」
呼び掛けられて、言われた通りにすれば彼がこちらに近付きながらおもむろに手を上げる。
そして……
また、だ。
プツリと一輪の花を摘む。彼の手には、淡い白色の花が握られていた。
「リナリアって言うんですよ。日本語では姫金魚草とも言います」
彼が両手で私の髪に触れ、それに合わせて俯くと、前と同じように髪に器用に差した。花びらが耳に当たって少しくすぐったい。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
何を感謝されることがあっただろうかと、彼を見上げていると、顔を逸らすようにそっぽを向いた。
「では」
背を向けて彼は足早に歩き出す。
その姿を見送りながら、彼のくれた花を下から上へと撫でていく。茎は髪に縫うように通していて、指先は柔らかな花びらに触れる。ついさっきまで彼に咲いていた花。指先が、暖かかった。
バレンタインの当日は、誰よりも早く来てデスクの上にチョコを置くのが毎年の習わしらしい。
いつもよりも三十分ほど早くやってきた私は、まだ誰もいない事務所で紙袋を漁り確認しながら置いていく。
桐山にも早く来るようにと伝えておいたが、どうせ遅れて来るのだろうと高を括っていた、が。
「……珍しい」
「こんなので驚くなよ」
とはいえやはり顔は眠そうで、目は開ききっていない。あくびもずっとしているが、時間通りに来てくれた。
「俺だって来るときは来るよ」
「見直したわ」
「お偉いお姉様方は恐いですから」
「そっちか」
お姉様方、を強調しながらまたあくびを一つ。
メモは私が持っているので、置いていく作業は私だけでやっていく。桐山は自分の椅子に座り、私の様子を見守っていた。
「なぁ、いろはは誰かにチョコレートあげたのか?」
「お父さんはあげたよ。後はお姉様方とか同期に配る分があるくらい」
「ふーん、そっか」
他愛ない話をしている間に、紙袋はどんどん軽くなっていく。そして、最後に。
「はい、お姉様方から桐山に」
小さな箱に入ったチョコレートを渡すと、桐山は目を瞬かせた。回して全体を見ていくが包装紙がかかっているので中身は見えない。
「開けていいの?」
「いいんじゃない?」
わくわくしながらべりりと包装紙を破り、そして書いてある文字が現れた瞬間動きを止めた。
「……わさびチョコ」
「干物よりましでしょ」
「食い物なのかこれは」
複雑な面持ちでパッケージを読む。わさびとチョコレートが一見おしゃれに描かれていて、一瞬美味しそうにも見える。
「意外と美味しいかもよ?」
「毒味しない?」
「しない」
一口食べたリアクションが見たかったが、他の同期に食べさせると言って桐山はチョコレートを仕舞ってしまった。
「なぁ、買い物に付き合ったチョコとか無いのー?」
「ごめんその発想は無かった」
わさびチョコレートに満足いかなかったのか、矛先は私に向いた。そういえば買い物のお礼は何もしていなかったっけ。
バッグには女子同士で食べる用の市販の四角いチョコくらいしかない。
「とりあえずこれでいい?」
「お! ありがと!」
一つを渡すと両手で受け取り、桐山は嬉しそうに微笑んだ。
私はバッグから小さな紙袋を取り出す。彼の分のバレンタインは、会ったときすぐ渡せるように日向さんに渡す分と一緒に入れておく。
しばらく経てば、人がちらほらとやって来た。男性も女性もいつもより来るのが早いのは、それぞれの思惑あってのことだろう。
男性社員の皆さんはデスクに置かれたチョコレートに一喜一憂している。ある者は高級チョコレートに舌鼓を打ち、ある者はそっと鞄に仕舞う。若い社員からは悲鳴や呻き声が上がっていたが、お姉様方は満足そうにその姿を目に納めていた。
その後は、いつものように式の準備をいつも通り始めた。
バレンタインで少し気分が浮き足立っている以外、普段と変わらない一日になると思っていた、けれど。
私は自分の携帯で時間を確かめる。もうこんな時間なのに、来るはずの人が来ない。
「花男くん、まだ?」
「はい……」
心配そうな面持ちでミキ先輩は隣に立ち、私の携帯を覗き込む。もう、何度確認したか分からない。
「遅い……」
彼のトラックが、来ない。
いつもならば少し遅れるだけでも連絡が来るのに、それもない。携帯電話の発信履歴は既に五回電話したことを示していた。このままでは、搬入が間に合わない。
「すいません、連絡も取れてなくて」
ミキ先輩は自分の仕事を片付けて、傍に来てくれていた。言葉の端々には焦りが見える。
「日向さんは、いつも通り出たって言ってて……」
「参ったなぁ」
先輩は額を押さえて困り果てる。同じように時計を何度も確認して、あちこちと目線が揺れていた。
「まだか?」
後ろから様子を見に来た橘部長の低い声が掛かった。静かな声音には、叱責する重みが垣間見える。
いつ怒鳴られるか分からないピリピリとりた空気に、余計に焦りが募ってしまう。
「すいません。連絡は取ってるんですけど繋がらなくて」
部長の姿を目に捉えるだけで、身が竦みそうになる。
「……日向は」
「日向さんは別の用事で出てて、すぐには動けないそうです」
「これだから……」
これだから、の後に続く言葉はなんなのだろう。考えても、マイナスな言葉しか浮かんでこない。部長は彼に対して、あまりよく思っていないらしいことをつい思い出してしまって。
「最悪、日向に新しい花を用意させる。無理でも持ってこさせろ。こっちのミスで式を遅らせてお客様に迷惑を掛けることは出来ない」
いっそわざとなのではないかと思うほど、部長は彼の所在についての話をしない。何より式が大事なことも分かるし、最悪の事態を想定して準備を進めるのも分かる。それでも、人がいなくなっているのに一言も心配の言葉が出ないのは、どうして。
「日向には俺から連絡するから――」
「部長すいません。ちょっと、行ってきます。いいですよね?」
スッと私の一歩前に出て、振り返り部長に意志を伝える。ミキ先輩の背中には、有無を言わせないはっきりとした意志が見て取れた。こんなときのミキ先輩は、どんなことを言われても従わない。
部長もそれを感じ取ったのだろう。その姿に、静かにため息を漏らす。
「……勝手にしろ」
「いろは、行くよ」
部長の言葉を耳に入れた瞬間、先輩は私の手を取る。急に引っ張られて転びそうにになった私の体勢を、手を引き上げて支えた。そして、走る。
「っ! 先輩? どこに」
「迎えに決まってるでしょう。どの道通って来てるかは分かるから辿る。――事故とかじゃないと、いいんだけど」
先輩の心配する一言が、胸に渦巻く不安を一層深くする。何もなければ、それでいい。
いつも車が入ってくる裏口から表通りへ出て、道沿いを走る。
角を曲がり車通りの多い国道沿いに出ると、車がひどく渋滞していた。
渋滞にはまっているだけなら仕方がない。だったら、なぜ連絡が来ない?
上から下へと、氷水を浴びたようにサッと血の気が引くのを感じた。
まさか、事故……?
先輩のつぶやきが、頭の中で再生される。
私と先輩は、自然と最悪なことを予想してしまう。それを自分の中で否定しながら、混んでいる道を遡っていった。
通り過ぎようとした駐車場。目に飛び込んできた光景に先輩を引き止めた。
「先輩、あれ!」
遠目に見えたのは、花頭の彼と学ラン姿の高校生二人。学生に絡まれてしまったらしく、壁を背にして囲まれていた。殴られたのか、腹を押さえている。
彼の堅くかためられた拳は、必死に堪えているようで、足がわずかに震えていた。
「話には聞いたことあるよ、《花の人》。お前の噂が本当なら、その花を俺に分けてくれよ」
「……止めて」
拒絶の声を発するも、少年二人は聞き入れず、胸ぐらを掴み頭に手を伸ばす。そして、彼の花を掴んだ。
「あんたら何やってんの!」
ミキ先輩の声が弾けた。学生の二人は驚いて手を離し、その隙を突いて、彼は逃げ出した。追おうとした学生を、私と先輩が一人ずつ捕まえる。
彼は一度も振り返らずに、そのまま路地に入りどこかへ行ってしまう。
「いろはは、花男くん追って!」
先輩の声に返事をして学生を託し、私はすぐさま彼を追った。全力で走っても彼の足には追いつかず、距離をどんどんと離されてしまう。
そしてとうとう角を曲がったところで見失ってしまった。しばらく歩くが、三叉路に出てどこを行ったのか分からず足を止めた。
“花の人”は、人に狙われやすい。
そのことを、ひしひしと実感する。噂のままに、命を狙う人がいるという、現状を。
ふと電話が掛かって来て、画面をチラリと見る。日向さんからだった。
『どう? うちのは着いた?』
「花男くんの通る道遡ってたら見付けたんですけど、学生に絡まれて頭の花を狙われてて、それで逃げて見失って……!」
一息に説明すれば、日向さんは押し黙り、しばらく何かを考える間があった。
『……俺も出来るだけ早くそっちに向かうから、いろはちゃんは畑とか花畑とか林とか、そんな植物がたくさんあるところ探して。あいつは多分、そういうところに逃げ込む』
それだけを告げてすぐに電話は切れた。
そんなところなんてこの近くにあったか……? あてはないが、探すしかない。とりあえず遠目に田んぼの見える右へと曲がり、再び走った。近くにいた人に声を掛けて聞いてみるが、いい返事は貰えない。この道ではなかったか、と角を曲がり歩いていた主婦に声を掛ける。
「すいません、“花の人”通りませんでしたか?」
「“花の人”? 頭に花を挿した変な人ならそっちに歩いていたけどねぇ」
「その人です!」
話を聞き、礼を告げて言われた方へ走っていけば、道沿いに元々畑だったらしい空き地があった。買い手がつかず、放置されたままの手入れなされていない雑草の伸び放題の一角。
茶色と緑の植物の中に、カラフルなキレイな花が紛れている。かくれんぼでもしているように、冬枯れの草の間にしゃがみこんでいる。
声を掛けたらさっきのように逃げる気がして、静かに近付く。カサカサとなるべく音を立てず分け入っていけば、背中が見えてきた。
逃げないように、声を掛けながら服を掴む。
「花男く――」
「止めて!」
弾けるような、拒絶の叫び。
「とらないで……!」
悲鳴に似た声音に、体がビクリと跳ね、伸ばした手は宙に彷徨う。途端に立ち上がり、距離を取りながら彼は振り向き、私の姿を見据える。
「いろはさん……」
中空で行き場を無くした私の手を、今度は彼がすがるように掴んだ。何も言わずに、しっかりと強い力で握る。
彼を見ながら、ふと確信した。
泣いている。
それが分かったのは、肩が小刻みに震えていることだとか、なんとなく濡れた声音だけではなくて――花の色が、くすんでいる気がしたからだった。さっき掴まれたせいでへしゃげているだけではなく、どことなく退色して元気を無くしたような。
両手で私の袖を握り、食い縛るように流れない涙をこれ以上流れないようにと堪えているように見えた。
拒絶と今の彼とのギャップに、私はどう反応することも出来ず。
「……かえろう?」
そう一言声を掛ければ、彼は無言で頷いた。
式場に帰りながら彼の話を聞く。
いつも通り店を出たが、さっきの渋滞にはまってしまった。
式場は眼と鼻の先にあるが一向に進む気配がないので、近くに一度車を停める。渋滞を待っていれば間に合わないと踏んで、ここから手で持っていくかどうするか、電話をして相談しようとしたらしい。そこへ通りがかった学生が彼の存在に気付き、車の扉を叩いたという。
降りた途端に腹を殴られ、絡まれたところに私たちは鉢合わせたそうだ。
話している間、彼は何度も何度も謝っていた。
式場はミキさんが応援を呼び、花をちゃんと式場に運んだようで、搬入はなんとか間に合った。先輩も装花は出来るのである程度の部分はして、後は戻った彼が最終確認をした。
ちなみに結局学ランの少年たちは逃げて見失ったという。
そして今、彼は私の隣で日向さんを待っている。傍には部長も立っていた。
タクシーで急いで来た日向さんは、車を降りてすぐ走ってこちらへとやってきた。
初めて顔を合わせた日向さん。優しげで明るい性格をしている印象の人だったが、今はひどく焦った表情をしていた。
「ごめん、橘。迷惑掛けて」
「日向、前から言っているが」
「本当に、申し訳ない。リコ、大丈夫だった?」
部長の声を無視して彼の方を向く日向さん。
彼はどこかふてくされているようで、日向の視線から逃げるように頭を背ける。
「日向!」
部長は声を荒げ、日向さんは深く大きく、息を吐いた。
「お前は、これからも」
「本当にごめん、橘。気を付けるから」
「――お前はそいつに何を求めている」
「何も求めてなんてないさ」
早口でまくし立てる部長に対して、静かに日向さんは口を開く。
「本当にごめん、ありがとう。橘はまだ仕事があるでしょう? もう戻っていいよ。うちの子は、俺が責任を持って連れて帰るから」
部長はぐしゃぐしゃと、苛立たしげに髪をかきあげる。
「勝手にしろ。ただしちゃんと報告はしとけよ」
呆れたように言い捨てて、部長は戻っていった。
「何もしなくて良かった。何もされなくて良かった」
日向さんは彼を心配そうに確かめる。汚れていた服を払い、元気を無くした花を労わるように触れる。
「痛いところもない?」
彼はこくんと頷いた。
二人が一緒にいるところを見るのも初めてだった。雇用主と、社員という関係性なのだと思っていたけれど、これはまるで……親子、のような。
「手は出してないね」
「出してない」
「良くできました」
手を出したら、どうなるというのか。私はそのことに今更ながら思い至る。
一般的に人とは一線を画し人間とは違うとされている種族。危害を加えれば、何かしらの処分をされかねない。
それは一度でも他人を噛んだ犬が、処分されることになることと似ているのだろう。それを免れたとしても、行動は制限されることになる。
ただでさえ、外に出るのが危ないのに。
人ではないことによる、痛い目。
人ではないことによる、厳しい目。
頭以外は、人のはずなのに。それだけの違いが、とてつもなく大きい。
「いろはちゃん、ごめんね。迷惑掛けちゃって。それと見付けてくれてありがとう」
申し訳なさそうに日向さんは頭を下げる。
「あと、会うのは初めましてだよね。遅くなりましたが、俺が店長の日向ヒラヒトです。こんな風に会うことになるとは思わなかったな」
「こちらこそ、いつもお世話になってます。奥山いろはです」
突然の自己紹介に、私達はお互いに頭を下げる。
「じゃあ、リコルド帰ろうか」
「うん」
そして日向さんは運転席に、彼は助手席に座って帰っていった。
日向さんの口にした、異国の言葉の響きが耳に残る。
リコルド……って呼ばれてたよね?
なんだろう? あだ名のような物なのだろうか。もやもやとした頭を抱えながら、私は自分の仕事へと戻った。
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