6

「はい、はい。わざわざありがとうございます……。はい、ではまた……」

電話を切って、由美子さんはやなぎに視線をやった。

相変わらず家でも勉強をしているやなぎを見て、そっとため息を吐くのが聞こえてくる。

社会の時間が終わった後、親御さんである由美子さんに学校に来てもらい、「やなぎちゃんのお父さんのこと」について先生と由美子さんだけでいろいろと話した後、帰らせてもらうこととなったのだ。

やなぎとしては早く帰りたかったので好都合だったが、由美子さんはあまり快く思っていないらしい。

「由美子さん……」

「ん? どうしたの? 」

「何か、駄目でしたでしょうか? 」

「どうして? 」

「早く、帰ってきちゃったから……」

躊躇いがちにそう言うと、由美子さんは「なんだ、そんなこと」と表情を柔らかくした。

「やなぎ」

「なんでしょうか? 」

「学校行くの、辛い? 」

「……辛くはありません」

「……そっか」

辛くはない。かといって、楽しいわけでもない。

でも、それで良い。やなぎにとっては、学校が楽しかろうがそうでなかろうが、どうでもいいことなのだから。

「なんだ、今日は早く終わったのか? 」

すると、2階から下りてきた赭さんが、やなぎを見るなりそう言った。

「ああ、違うのよ、貴方」

由美子さんが、すぐに事情を説明する。

「それで、クラスの竹井君って子が……」

何故か蒼太の説明までしていたが、やなぎは口を挟むことなく勉強を再開した。

「やっぱり、クラスでも何人かは鬼灯さんについて知っている子がいるみたいなの。それで、やなぎは今日あんなことに……」

今日の分の勉強は、もう終わってしまった。

残りのページは、まだ学校で習っていないところだ。

もう予習として、先にやってしまおうか。そう考えていると、赭さんに呼ばれた。

「やなぎ」

「はい」

「やなぎは、儂と母さんのことを、どう思ってるんだ? 」

その問いかけに、目をパチクリさせる。

少し考えて、やなぎはその答えを口にした。

「私を育ててくださる、親戚の人……です」

「……そうか」

赭さんの表情は、いつもと変わらない。

けれど、その瞳はどこか寂しそうに見えた。

「赭さん……」

「なんだ? 」

「私のお父さんは、何処にいるのですか……? 」

蒼太が言っていた。やなぎの父は、警察に捕まったと。それで、やなぎはこの家に引き取られたのだと。

蒼太の言っていることは、多分本当だ。

父に包丁を向けられた時、家に入ってきた青い服を来たあの男性は確かに警察官だったし、その後やなぎはこの家に引き取られている。

やなぎの父は、今やなぎの傍にいない。

なら、何処にいるのだろう。

警察に連れていかれたから、刑務所か。

それとも別のところにいるのか……。

いや、そもそも根本から間違っているのではないか?

やなぎがこの家に来た時、由美子さんが言ったことを思い出す。

『やなぎちゃん、私と赭さんのことは、お母さんとお父さんって、呼んでくれてもいいのよ? 』

なら、今のやなぎの父は赭さんになるのか?

途端に、分からなくなる。

やなぎの父は、誰になるのだろう……。

「やなぎ」

「は、はい」

「ちょっと、こっちへ来なさい」

そう言って、赭さんは2階へ続く階段を上っていった。

ついて来いと言われたので、やなぎも赭さんの後を追う。

広い背中を見つめて階段を上っていると、2階に上がって1番奥の部屋へとやって来た。

緑色の葉っぱが沢山吊るされた扉を赭さんが開ける。

やなぎは、この部屋に入るのは初めてだった。

おそらく赭さんの仕事部屋と思われるそこには、これまた沢山の植物に覆われていた。

この家に来た時、由美子さんが言っていた。

赭さんは植物についての研究をしている人で、家にいることが多いのだと。

壁、天井、机の上。並べられた花、花、花。

「ほら、入ってきなさい」

扉の前で突っ立っているやなぎを、赭さんが招き入れる。

忍び足で、そーっと足を踏み入れた。

机の上にはパソコンや植物に関する本が並んでおり、壁には所狭しとチランジア・ウスネオイデスやポトスなどがかけられている。

「これはエケベリアというんだ。まるで絵画のようだろう」

窓際に飾られている薔薇のような形をした緑色の葉を指さして、赭さんは言った。

「こっちはグリーンネックレス。母さんのお気に入りだ」

今度は、壁に吊るされた葉っぱ。

確かにネックレスのように見えるそれは、少し水に濡れているのかキラキラと光っている。

一つ一つ、目を細めながら赭さんはやなぎに説明する。

急に部屋に連れてきて何を言い出すんだと思えば、赭さんはずっと部屋に飾られている植物の説明をしていた。

この花は、あの花は、と、見たこともないほど穏やかな目で。

説明を聞いていると、ふとやなぎの目にある物が止まった。

「じゃあ、こっちはなんですか? 」

やなぎが指さしたものは、外にある立派な大木だった。しなやかに揺れるそれは、夏が始まったこの時期に見るととても涼しげだ。

「あれは、柳というんだ」

赭さんの目が、さらに細められる。

「ヤナギ? 私の名前と一緒ですね」

自分と同じ名前の木に、少しだけ興味を持つ。

「ヤナギとは、どんな植物なのですか? 」

やなぎの問いに、赭さんは少し考えてからこう言った。

「それは、やなぎが見つけなさい」

「私が、ですか? 」

「ああ。一生かけて、この立派な柳のようになりなさい」

やなぎはもう一度、自分と同じそれを見つめる。

まだ幼いやなぎには、赭さんの言っている意味がわからず首を傾げた。

柳になるとは、どういうことだろう。

やなぎは人間なので、どう頑張っても植物になることはできないし……。

「やなぎはまだ、小さいからな。何にも縛られる必要はない。思ったように、したいようにしていいんだよ」

そう言って、赭さんはやなぎの頭に手を置いた。

大きくて暖かい掌から伝わってくる熱に、何だか心まで暖かくなっていくような気がして不思議な気分になる。

「おとう、さん……? 」

赭さんが、弾かれたようにこちらを向く。

「やなぎ……? 今、なんて……」

「お父さん……と、言いました」

言った、というより、呼んだといった方が正しいのかもしれないが。

「お父さんが今、思ったように、したいようにしていいと、言ったので……」

だからやなぎも、思ったように、したいようにしたまでだ。

「駄目、でしたか……? 」

不安になってそう尋ねると、父は首を横に振った。

父の笑顔を見たのは、初めてだった。

もう一度、庭に咲いている柳を見つめる。

ただ、自分はこの柳のようになろう。それだけを、心にとめた。




「やなぎは、高校何処に行くの? 」

中学生活もそろそろ終わりの兆しを見せていた時、これまで進路のことについて何も言わなかったやなぎに、遂に母はそう聞いてきた。

初めての進路に関する話題に、やなぎは瞬きをした後教科書とノートから顔を上げた。

「なあに? その顔。まさか、中学3年生にもなって、何も考えていないわけでもないでしょう? まだ春とはいえ、やなぎももう受験生なんだから」

受験生であることは知っている。

何せ中学1年生になった時から、担任の先生や学年主任の先生に「志望校が〜」「自分に合った高校選びを〜」等と、口をすっぱくして言われてきたのだ。

首を傾げている母に、やなぎも首を傾げて聞いた。

「私は、何処に行けばいいのですか? 」

母の手から、洗濯物が落ちた。

相も変わらず新聞を読んでいた父も、ちらりとやなぎに目を向けてくる。

「やなぎは、何処に行きたいの? 」

「私は、何処でも」

母と父の決めた場所なら、特に反論はない。

そう伝えると、母の顔が明らかに曇った。

「やなぎの希望はないの? 」

「ありません」

嘘偽りない正直な気持ちに、母の眉が下がる。

「なら、お友達と一緒のところに行けばいいんじゃない? ほら、やなぎが小学生の時勉強教えてもらったっていう、何て言ったかしら……」

「宮間梨花さん、ですか? 」

「そうそう梨花ちゃん! あの子とまだ、仲いいの? 」

「宮間さんとは同じ中学ですが、学年が上がるにつれて、今はあまり話していません」

1年生の頃は同じクラスになったこともありよく話していたが、2年生で別々になってしまってからは、ほとんど話さなくなった。廊下で見かけて手を振るくらい。

そして3年生に上がった今では全く。

廊下で他の子と楽しそうに話す姿を、遠くから眺めるだけになってしまった。

「そう……」

母が残念そうな顔をして下を向く。

やなぎのことなのに、何故か母が悲しそうだった。

「なら、豊ヶ浜高校に行きなさい」

そう言ったのは、父だった。

「貴方……。また、そうやって勝手に決めるつもり? やなぎの進路なのよ? 」

「やなぎが行きたい高校がないと言うんだから、いいだろう。豊ヶ浜高校は、ここら辺じゃ1番良い高校だし、家からも通える。やなぎは成績が1番なんだろう? 今のままいけば、十分合格できる」

「でも……」

「自分の意思がない以上、親が道を示してやることが大切だと、儂は思うがな」

「でも、そうなればやなぎはいつまでも……」

「その時はその時だ。今はまだ中学生なんだから。良い高校に行っていた方が、将来の道も広がる」

そう言って譲らない父に、母は険しい顔でやなぎを見た。

「やなぎは? 豊ヶ浜高校で、良いの? 」

「はい。問題ありません」

さっきも言った通り、父が決めたことなら特に反論はない。

母が止めときなさいと言うのなら、話はまた変わってくるが……。

だが、母はそうは言わなかった。

「そう……なら、いいけれど。やなぎ」

「はい」

やっぱり駄目なのだろうか。

そう思ったけれど、母の言葉は、予想とは全然違うものだった。

「やなぎの好きにして、いいんだからね? 」





そこからは、早かった。

勉強漬けの日を何度も繰り返して、中学校を卒業して、無事に豊ヶ浜高校に合格した。

春休みを迎えて、終わって、高校1年生として新たな生活をスタートさせた。

そして、虐めが起きて、クラスメイトを1人失って……。

今でもはっきり、覚えている。

『桔梗、さん! 』

あの時の、少女の言葉を。

少女の、「助けて」の声を。

その声に答えられなかった、自分を。

すると、母も、父も失った。

「なんで……? 」

そう言っても、答えをくれる人はいない。

もう、道を示してくれる人はない。

どうすればいいのかと迷っていた時に、「キミイロびより! 」と出会った。

小説を買って読んでいくうちに、新しい世界に触れた。

「うわ、ヤナギ裏切られてんじゃん」

「ローズとイベリスも最低だけど、ざまぁって感じだよね〜」

「捨てられてるし。ま、ヤナギにはそれがお似合いか」

キミイロびより! を知っているクラスの人達は、ヤナギのことを嫌っているようだったけれど……。

でも、やなぎはけっこうこの悪役令嬢に好感を持っていた。

何でも積極的に発言する様を見て、すごいなと思ったものだ。

その世界に触れたおかげもあってか、「行きたい」と思える専門学校に出会った。

そして、その学校のオープンキャンパスに行った、その帰りに……。


全てが、走馬灯のように駆け巡る。


『若林楓莉です! 好きな食べ物は苺とアイスと……甘いものが好きです! あ、後少女漫画が大好きで、特にキミいろびより! が最近のお気に入りです! よろしくお願いします! 』


『周りの人達の、言う通りにしなさいよ』


『ええ。あなたの人生なんだから』


『将来自分がどうなってるかとか、わかんないけどさ……今好きなことを全力でやったら、それでいいんだと思う! 』


『柳に、なりなさい』



場所が、顔が、声が、言葉が、全てが回り回って、ぐちゃぐちゃになっていく。





静かに、目を開ける。

すぐ傍に広がった景色は、雨に濡れたレンガ敷きの道。

そこに横たわっているヤナギの身体には、今も冷たい雨が降り注いでいる。

どのくらい目を閉じていたのか、気がつくと土砂降りになっているようだった。

ぼーっとした頭の中で、さっきまで描いていた思い出の記憶をまた再生する。

嫌な痣も、温かい掌も、全て、もう無くなってしまったものだ。

もう、戻ってはこないもの。

だって、やなぎは今、ヤナギなのだから。

ヤナギとして、生きているのだから。

「次は……」

自分の声が掠れていることにも気がつかず、次のことを考え始める。

何故自分はこんな所で寝ているのか……。そうだ。確か、広間の鍵を掛けられなかったから、自分の職務を果たせなかったから、ローズとイベリスに捨てられたのだった。

捨てられて、それで、こんな所で横になっているのだ。

誰にも見つけてもらえないまま、暗い場所にいるのだ。

ここまでは、順調だ。

だって、やなぎが読んだ小説の物語、そのままなのだから。

物語の中のヤナギは職務を果たすことはできたが、ローズとイベリスに裏切られ、こうしてニール街の路地裏に捨てられる。

過程は違えど、結果は同じになっている。

ヤナギと同じで、こうして今、捨てられている。

なら、いい。

ヤナギの人生としての職務は、果たせている。

なら、次の、小説のヤナギとしての行動に進むまでだ。

「つ、ぎは……」

次は……あれ?

「次は、どうすればいいのですか……? 」

全て、思い通りにいっている。

裏切られて捨てられて、それで……。

その先を、ヤナギは知らない。

だって、だってやなぎは……

「知らない……」

小説を、最後まで読んでいないのだから。

読む前に、死んでしまった。

続きを知れるのは、あの植物だらけの家の、自室の本棚の中。

捨てられた先を、やなぎはまだ読んでいない。

「私はっ、どうすればいいのですか……? 」

何かを掴もうと手を伸ばして、空を切る。

「私は……」

今までずっと、ヤナギとして生きてきた。

ヤナギの行い通りメリアを虐めてきたし、こうしてローズとイベリスに協力もした。

そして、捨てられた。

なら、その先は……?

「どうすれば、いいの……? 」

もう、道を示してくれる人はいない。

「ねぇ……」

誰かに問いかけても、返事をくれる人はいない。

「誰か……」

分かれ道も見えない。ただ、行き止まりの壁が広がっていた。

「私はっ、どうすればいいのっ……? 」

コツコツコツ。

足音が聞こえる。

ヒールじゃない、ブーツか……いや、違う。

足音は、ヤナギの近くで止まった。

横たわったまま目だけを上げていくと、黒色のメリー・ジェーンに、白いニーハイソックスが見えた。

制服のようなワンピースに、胸元の赤いリボン。

茶色の髪を、ハーフアップにした少女は……

「メ、リア……」

白いニーハイソックスは泥だらけ、服も、所々解れてしまっていたり、泥や葉っぱが目立つ。

髪なんて特に酷かった。木の葉や小枝だらけで、ボサボサ。

それに、雨が降っているせいで、全体的に濡れていた。

「どうして」なんて言葉も出ず、ただただメリアを見つめていると、メリアはしゃがんでヤナギに目線を合わせて、笑った。

眉を下げて、「しょうがないなぁ」とでもいうように。

「見つけた」


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