5

「やなぎー、またお勉強してるの? 」

学校から帰ってからも、やなぎはリビングでずっと計算ドリルと睨めっこをしていた。

朝は学校に行き、お昼に帰ってきてからは夕方の6時までずっと勉強する。

国語、社会、理科も勿論だが、何よりやっていて楽しいと思えるのは算数だった。

あの日の放課後、「できない」から「できる」に変わったあの瞬間から、やなぎは勉強が楽しくて楽しくて仕方がなかった。

自分にもできることがあるのだと、前向きな気持ちになれていた。

一生懸命逃げずに取り組めば人は変われることを、あの子が教えてくれたから……。

「ねぇ、偶にはお外で遊んできたら? ずっとお勉強ばかりしていても、疲れるでしょう? 」

「大丈夫です。疲れていません」

「でも……」

更に何かいおうとした由美子さんを、隣で新聞を読んでいた赭さんが止める。

「由美子、勉強するのは良い事だ。させてあげなさい」

「それはそうだけど……。でも、この子が友達と遊んでるところを、私見たことないわ。心配よ……」

「やなぎ」

「なんですか? 」

ドリルから一旦顔を上げて、父の顔を見る。

「やなぎは、友達がいるのか? 」

「いません」

「欲しいか? 」

「別に、欲しくありません」

「なら、いいじゃないか」

「貴方っ! 」

由美子さんの顔が険しくなる。

赭さんは、すました顔で目線を新聞に戻した。

「本人が欲しくないと言っているのなら、いいだろう。それに、やなぎはずっと家の中にいるわけではない。学校で体育の授業もあるし、それ以外でも、由美子の買い物について行ったりしているのだろう? 十分外に出ているじゃないか」

「そういうことを言ってるんじゃないわ。もし、この子がずっとこんな調子で中学に上がったらと思うと、私心配で……」

「その時はその時だ。それに、別に皆から嫌われているわけではないのだろう? 」

「それは……そうだけれど」

「じゃあ、いいじゃないか」

何が駄目なんだ? とでも聞きたい顔で赭さんが由美子さんの顔を見る。

由美子さんは小さくため息を吐いた後、何も言わずにキッチンへ足を向けた。

「何か、いけないことをしてしまったのでしょうか? 」

もしや怒らせてしまったのではないかと心配になったが、赭さんが「気にするな」と言ったので深くは気にしないことにした。




「桔梗さん、よく頑張ったわねぇ。先生びっくりしちゃった」

先生が驚いているのは、先日行われた算数のテストだった。

ちょうどやなぎが力を入れていた分数のところが範囲だったおかげもあってか、テスト用紙の右上には100という数字が花丸と共に飾られている。

「……この前と、違う」

「そりゃあそうよ。桔梗さん、頑張ってたもんね。偉いわね~」

先生に褒められながら自分の席に戻ると、この前やなぎに分数を教えてくれた女の子が近づいてきた。

「やなぎちゃん100点なの!? すごーい! 」

すると、その声に反応して周りの子達も寄ってくる。

「え、やなぎちゃん100点!? 」

「見せて見せて! 」

赤い丸が沢山入ったテスト用紙を見せると、「すげ~」や「いいなぁ」といった感嘆の超えが上がった。

「……あの」

「ん? なあに? 」

こんな点数をとれたのは、この少女のおかげだ。

この子がいなければ、やなぎは今日こんなに注目されることはなかっただろう。

「ありがとう……ございます……」

「なにが? 」

「えっと、勉強、教えてくれた、から……」

「なんだ、そんなことか。ていうかさ、敬語、使わなくていいよ? 」

「え? 」

急に敬語について触れられて戸惑っていると、女の子はやなぎの手をギュッと握った。

「クラスメイトには、敬語なんて使わなくていいんだよ! 私も、気軽に話してるんだから」

「そう、なのですか……? 」

「うん! 」

今まで当たり前のように敬語を使ってきたから、そんなことを言われるなんて思ってもいなかった。

少しだけ迷った後、俯いて「ありがとう……」と呟いた。

「えへへ。どういたしまして! 」

その子の笑顔は、太陽のように眩しかった。




「まぁ! すごいじゃない! 」

100点のテストを見て、由美子さんはとても喜んだ。

テスト用紙を高々と掲げては、赭さんに「貴方、見て見て! 」と興奮したように話しかけている。

そんな由美子さんとは対照的に、赭さんはあまり喜んでくれていなかった。

いつもと変わらない厳格な雰囲気で、「そうか」とだけ言うと、やなぎの方を見た。

「やなぎ」

「はい」

「勉強は、好きか? 」

「はい」

「なら、これからも良い成績を収めておきなさい」

「はい」

何だか、赭さんに自分を認めてもらえたような、そんな気がした。





「それでは、今日の社会の授業では、班に別れて学校周りの地図を作ってみましょう! 」

机をくっ付けて何をするのかと思えば、先生はそんなことを言ってきた。

なるほど。そういうことなら、机の真ん中に置かれた大きな画用紙とカラフルなマジックペンにも納得ができる。

「学校を抜けた先には何があるのか……お店や公園、誰かのお家等、できるだけ広い範囲の地域を描きましょうね! 」

「はーい! 」

やなぎの班には、やなぎに勉強を教えてくれた女の子、宮間梨花と、元気でいつも教室で騒いでいる男の子、竹井蒼太と、その仲良しグループに所属している谷村康平と吉崎薫。そして、クラスでおとなしい女の子、上川夏津がいた。

どの班もだいたい6人いて、それぞれ机をくっつけ合ってお喋りや地図制作に取り掛かっていた。

「じゃあまず、ここに学校があるから……」

やなぎのグループも、梨花がリーダーシップをとって画用紙に学校を描き始める。

四角い図形の中に、「学校」と拙い文字で描いていた。

「宮間、お前学校描くの下手くそだなー」

「馬鹿。地図だからこれでいいんだってば。てか、そういう竹井は上手く描けるの? 」

「おう! 俺の絵がどんなに上手いか、康平と薫はよく知ってるよなぁ? 」

「おう! 蒼太、車の絵すっげー上手いんだぜ! 」

「僕が見た犬の絵も、すごかった! 」

「ね、ねぇ、早く進めた方がいいんじゃないかなぁ~? 」

わいわいと、楽しそうに皆地図を描き始める。

やなぎはその輪に上手く入っていけず、特に何も発言しないまま、時が過ぎ去るのを待っていた。

「ほら見ろ! 俺のこの素晴らしい絵を! 」

「ちょっと何それ? てか、地図にいらないもの書かないでよ」

「これが何か分からないなんて、宮間も見る目がねーなー! 犬だよ、犬! 学校の近所に、すげーでかい猛犬飼ってる家あるだろ? あそこん家の犬だ」

「あ、俺知ってる! この前散歩してるとこ見た! 」

「僕も! 」

その犬のことさえ知らないやなぎは、完全に置いてけぼりだ。

この時間に自分はいなくてもいいのではないか。

そう思い始めたので、やなぎは静かに机の中から計算ドリルを取り出した。

自分がいなくてもいいのなら、勉強をしていた方がよっぽど有意義な時間が使える。

そう思ってページを捲っていると、隣の席の夏津が控えめにこちらを見て言った。

「ね、ねぇ、宮間さん。桔梗さんが……」

「ん? 夏津ちゃんどうしたの? 」

「桔梗さんが、勉強、してる……」

全員の視線がこちらを向いた。

「何してんの? 桔梗さん」

康平に聞かれ、やなぎは計算ドリルを見せる。

「勉強。私、役に立ちそうにないから……」

「何言ってるのやなぎちゃん! ほら、やなぎちゃんも地図に何か描いて! 」

「あ……」

梨花に無理矢理赤色のペンを持たされて、やなぎの机に画用紙を置かれる。

とはいっても、やなぎは学校の周りのことなんて知らない。

お店に寄り道をしたこともなければ、誰かの家に遊びに行ったこともない。

逡巡して、やなぎはペンを動かした。

唯一、知っている物を描くために。

「なんだぁ? これ」

まだ描いている途中だったのに、横から蒼太が画用紙をヒョイッと取り上げる。

「何それー? 」

「さぁ? 知らなーい」

気づくと他の班の子達も集まっていて、見世物にされていた。

「なぁ桔梗、これ、なんだよ? 虫か? 」

蒼太からの問いに、首を横に振る。

「それは、お花……」

「花!? これがぁ!? 」

大きな声で、蒼太は叫ぶ。

「花」と聞いて、他の子達もクスクスと笑っていた。

「ほらほら皆笑わない! 自分の席に戻りなさい」

「だって先生、桔梗がこれ、花って言うんだぜー? 」

やなぎが描いたのは、学校帰りによく見かけるお花だった。

誰かの家の花壇に咲いている、いつも見かける綺麗なお花。

名前は分からないけれど、大きな花弁に鮮やかな赤が映えたあの花は、通る度にやなぎの目を惹きつけてやまなかった。

「これ、お花なの? 個性的で、先生はすっごく良いと思うな」

「はー? これの何処がいいって言うんだよー? 」

「ちょっと蒼太、あんたしつこい! 皆も、特に女子! 笑わないの! 」

梨花の注意も聞かず、蒼太は画用紙を見て笑い転げる。

そんなに酷い絵は描いたつもりはないが、酷いと言うなら酷いのだろう。

だが、まだ描いている途中だ。

「それ、返して……」

「は? やだよーだ! 」

あっかんべーをして、蒼太は画用紙を丸めて康平に投げる。

「こら! 返しなさい! 」

「うっせーなー宮間。おまえも、本当は下手だって思ってるんだろ!? 」

「下手かどうかなんて今はどうでもいいでしょ! 地図描く時間なんだから! 」

「否定しないってことは、やっぱ下手って思ってんじゃん! 」

「そ、それは……とにかく返して! 」

「おら、薫! 」

「よっと! 」

画用紙を投げて回す3人を面白がって見る生徒と、困惑しながら叱る先生。

梨花は注意してくれていたが、時間が経つにつれて泣きそうになってきていた。

「返してってば……」

「なんだ泣くのか? 泣けるもんなら泣いてみろよ! 」

「うっ、うぅ……ひっ……」

「げっ」

まさか本当に泣くとは思っていなかったのだろう。

両手で目を覆って涙を流す梨花を見て、蒼太とその他2人はあからさまに焦りを見せた。

「ほら、宮間さん泣いちゃったじゃない。早く返して、謝りなさい」

「で、でも先生、おかしいだろ」

「おかしい? 何が? 」

「だ、だって、なんで宮間が泣くんだよ? 普通、泣くのは桔梗だろ……」

やなぎはといえば、さっきから表情1つ変えずに、ことの成り行きを見守っていた。

なんなら、時折り欠伸をしていたほどだ。

「普通も何もありません。ほら、先生も一緒に謝ってあげるから。桔梗さんと宮間さんに謝って? 」

「や、やだ」

「竹井君……」

意地を張っているのだろう蒼太に、先生は呆れ顔でため息を吐く。

そのため息に、蒼太は眉を潜めた。

「ほ、ほら、これ、返すから……」

仏頂面で画用紙を押し付けるように返される。

雑に扱っていたせいか、しわくちゃになってしまっていた。

「な、なんだよ」

蒼太をじっと見つめていたやなぎに、訝しそうな、警戒するような瞳を向けてくる。

見ていたことに特に意味はないのだが、やなぎは画用紙と蒼太と、それと泣いている梨花とを交互に見た。

「わ、悪かった……。ごめんって……」

表情こそ険悪だったが、蒼太は謝った。梨花に。

やなぎの方は見もしない。

蒼太は梨花に謝ると、話は終わりだと言わんばかりにそっぽを向いた。

「よくごめんなさいが言えたわね。偉いわ竹井君。じゃあ、その調子で桔梗さんにも……」

「やだ」

「どうして? 宮間さんには、謝れたじゃない? 」

「桔梗には、やだ」

「なんで……」

「だってそいつ、気持ちわりーんだもん」

クラス中が一気にザワつく。

蒼太はやなぎの方に近づいてくると、目を鋭くさせて怒鳴るように言った。

「おまえ、知らねーのかよ? 自分が皆からどう言われてるか」

「知らない」

「気持ち悪いって、根暗だって、言われてんだよ。いっつも同じ顔してるし、1人で勉強してるしさ。あー気持ち悪い気持ち悪い」

「竹井君っ! なんてこと言うの!? 」

先生が声を上げるが、蒼太は撤回するつもりはないらしい。

でも別に、撤回なんてしなくていい。する必要なんてない。

だって今言った言葉は、蒼太が、周りが本当に思っていることだからだ。

やなぎだって、聞いた事くらいある。

移動教室で廊下を歩いている時、図書室にいるやなぎを見つけた時、人は皆、「あ、あの子……」と言って、クスクス笑うのだ。

人が何をどう感じるかなんて自由だし、やなぎもそれについてどうも思わない。

だから、蒼太の言葉に対して、やなぎはこう返す。

「……だから? 」

だから? 本当に、だから? だ。

やなぎが気持ち悪いとそう言って、何があるというのだろう。

何が起こるというのだろう。

ヒソヒソ声が聞こえる。

皆、やなぎに対して嫌な目を向けてくる。

何故か酷く、居心地が悪かった。

「だからって……舐めてんのか!? 」

蒼太が怒りで顔を真っ赤にして怒鳴りつける。

「っ……! 」

その剣幕に、やなぎの肩がぶるりと震えた。

怒られる。そう思うと、呼吸が荒くなってきた。

「いっつも1人でいるくせによ! 」

それの何が悪いのだろう?

「勉強だってできないくせに! 」

それは前までの話で、勉強したら最近算数のテストで100点を取った。

「それに、それに……」

そろそろ言葉が尽きたのか、それとも何かを言いあぐねているのか。

結果は、後者だった。

「それに……俺知ってんだぞ!? おまえ、苗字が変わってんだって! 」

それが、どうしたというのだろう。

「え、そうなの? 」

「だから1年生の時途中から学校来たのー? 」

やなぎを囲んで、皆が口々に言葉を重ねる。

それはやなぎに直接問いかけられている感じではなく、間接的に、遠回しにやなぎからの答えを待っているかのようだった。

「本当だって! 俺の母ちゃんが言ってた! こいそ親父が警察に捕まって、引き取られて苗字変わったんだろ!? 」

「お父さんが!? 」

「警察って……本当に? 」

「……キモ」

誰かが、そう言った。

誰かは分からない。確かめようとも思わなかった。

蒼太はしてやったりと言わんばかりに得意顔をして、周りにやなぎの過去について言いふらしている。

「竹井君! 皆もっ、いい加減にしなさいっ! 」

先生も一生懸命声を張り上げているが、子供達の大きな声に全てかき消されてしまっている。

「何でお父さん捕まったのー? 」

「桔梗さんって、前の苗字なんだったんだろ? 」

「あ、私もお母さんから聞いた事あるよ! 確かねー……」

うるさい。

耳障り。雑音。

全ての声が、言葉が、テレビのザーザー音に聞こえた。

「先生」

「あ、ごめんね桔梗さん。今先生が……」

「もう、帰っていいですか? 」

帰りたい。

もう、ここにはいたくなかった。

何でかは、分からないけれど。

本当に、分からないことだらけだけれど。

帰りたい。もう、消え去ってしまいたかった。

「……親御さんを呼ぶから、ちょっと待っててもらえる? 」

先生にそう言われて、やなぎは小さく頷いた。

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