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「先週、東京都某所で起こった児童虐待の問題について、鬼灯被告が昨日の5時37分頃、娘の頭を床に打ち付けたり顔を殴ったりなどの暴力をした記憶があると、容疑を認めたとのことです。これまで否定を繰り返していた鬼灯被告ですが……警察は……」
テレビから流れてくる音声を流しながら聞いていると、奥でずっと電話を由美子さんがリビングに戻ってきた。
「やなぎ、小学校のことなんだけど……今は夏休みで学校お休みだから、9月から登校できる? 」
「はい」
やなぎの足下には、ぴかぴかに輝く赤いランドセルが置かれている。
中を開いたり背負ってみたりを繰り返すやなぎを、由美子さんは微笑ましそうに見つめていた。
「由美子さん」
「なあに? 」
「小学校とは、どのようなところなのですか? 」
「そうねぇ……。お勉強をしたり、お友達をつくったりするところね」
「べんきょう? ともだち? 」
「ええ。やなぎもきっと、気に入ると思うわ」
そう言われて、やなぎは学校についてますます興味が湧いた。
「お家の事情で今日から登校することになった、桔梗やなぎちゃんです! ほらやなぎちゃん、挨拶して? 」
1年3組と書かれたプレートの下げられた教室には、やなぎと同じ歳くらいの男の子や女の子がいっぱいいた。
皆、物珍しそうにやなぎを見ている。
この時期に来るのがそんなに珍しいのか、皆やなぎの方をチラチラ見ては大きな声でお喋りをしていた。
だからやなぎも、その声に負けないくらいの大きな声で自己紹介をする。
「はい。桔梗やなぎです。宜しくお願いします」
教室が、シーンと静まり返った。
「えーと……それだけ? 」
「はい」
「好きな物とか、趣味とかある? 」
「特にありません」
教室がざわつく。
「好きな物、ないの!? 」
「うそー! 」
「変な子ー」
ないものはないのだから仕方がない。
「嘘ではありません。本当です」
「絶対嘘だよ! やなぎちゃんおかしいよー? 」
言い合いになりそうになったところを、先生が手をパンパンと叩く。
「はいはい皆静かにー! 皆、仲良くするのよ? 」
「はーい! 」
本当に、皆やなぎと仲良くしたいと思っているのだろうか。
その元気な返事こそ嘘なのではないかと、やなぎは心の中で密かに思った。
「やなぎちゃん、遊ぼー」
給食を食べ終わった後のお昼休みに、4人の女の子がこちらにやって来てそう言った。
手にはピンク色のボールを持っていて、それぞれ授業中にも積極的に手を挙げていた明るい子達だ。
「はい」
「やったぁ! じゃあお外行こ? 」
「うん! 行こ行こー! 」
キャッキャッとはしゃぎながら、女の子達は先に外に言ってしまった。
やなぎはその後を、歩いてついて行った。
靴を履き替え運動場に出ると、沢山の遊んでいる子供達がいた。
やなぎより大きい人達ばかりで、少し怯えながら女の子達の背中を追っていく。
「じゃ、ここで遊ぼー! 」
「さんせーい! 」
地面に半分埋まったタイヤが幾つも並んでいるその場所は、やなぎの他にも沢山遊んでいる人達がいた。
じゃんけんをしてタイヤからタイヤへとジャンプをして飛び移る子、鬼ごっこをしているのか走り去っていく子。
その子達を眺めていると、ピンク色のボールを持ったロングヘアの女の子が、いきなりやなぎにボールをぶつけてきた。
「いたっ……」
「何してるのやなぎちゃーん! 」
「ご、ごめんなさい……」
どうやら、もう遊びは始まっていたらしい。
やなぎは頭にぶつかった柔らかいボールを、隣の女の子に投げて渡した。
女の子はそれをキャッチして、またその隣に投げる。
ローテーションされていくボールに視線を奪われていると、1周したボールはまたロングヘアの女の子に渡った。
「やなぎちゃん、いくよー? 」
「は、はい」
次こそは受け止めようと構えのポーズをとる。
「それっ! 」
女の子が投げたボールは、綺麗な弧を描いてやなぎの元へとやって来た。
所詮、小学1年生の、しかも女の子が投げたボール。
威力なんてそんなにないはずだが、やなぎにはそれがものすごく速いスピードで、襲ってくるように見えた。
顔に当たる直前まできたところで、怖くなって思わず避けてしまう。
ボールはそのまま隣のサッカーゴールの方にまで転がっていってしまった。
「やなぎちゃーん、何してるのー? 」
「ごめんなさい……」
呆れたような、怒ったような声にまた怖くなって、逃げるように転がっていったボールの元まで行く。
ボールを拾って、少しだけついてしまった土を右手で軽く払う。
次こそは、次こそは受け止めよう。
そう誓って、皆の元へ戻ろうとサッカーゴールに背を向けた。
「やなぎちゃん! 後ろ、後ろ! 」
「……え? 」
女の子の叫び声で反射的に振り返ると、空高く舞い上がったサッカーボールに目がいった。
それはちょうどやなぎの真上にあって……。
「やなぎちゃーん! 」
見事、やなぎの頭に直撃した。
「だから俺、悪くねーって! 」
目を覚ますと、怒ったような声が聞こえた。
誰の声か確かめようとしたけれど、周りは真っ白なカーテンで覆われていて分からない。
「でも、ボールをぶつけたんでしょう? 」
「ぶつけてねーしっ! サッカーしてたのにゴールの前でぼーっとしてた、あいつが悪いんだろ!? 」
「こら、そんなこと言わないの。もう6年生なんだから」
「俺は悪くない! 」
白い布団から身体を剥がして、床に置いてあった赤色の上履きを履く。
「てかあいつ、今日まで不登校だった奴だろ? 1年のくせに。生意気なんだよ」
「こら! 悠斗君、お母さんに言いますよ? 」
「はぁ!? それは反則だろ……」
「あの……」
開けたカーテンの先には、目を丸くした先生と、無愛想な顔をした男の子がいた。
「や、やなぎちゃん起きたの……。い、今の、聞いてた? 」
「何がですか? 」
「あ……良かった。ううん、いいの。なんでもな……」
「私が今日まで不登校だったことですか? 」
「聞いてたのね!? 」
途端に青ざめた先生は、悠斗君とやらの背中を押してやなぎと対面させた。
「ほら悠斗君、謝って」
「……」
「謝りなさい」
「……ごめんなさい」
いったい、何を謝られているのだろう。
というか、まずここは何処なのだろう。
「あの……」
「なあに? やなぎちゃん」
「何故、悠斗君……? は、私に謝っているのですか? 後、ここは何処ですか? 」
「ここは保健室だけど……。やなぎちゃん? 何があったか、覚えてる? 」
「えっと……ボールが飛んできて……」
「ええ。それで、やなぎちゃんに当たったの。やなぎちゃん、そのまま気絶しちゃって大騒ぎになっちゃってたから、こうして保健室に運んだのよ? で、ボールをぶつけたのがこの子」
「だからっ、ぶつけてねーし! 」
「はいはい。当たったのね」
「あのなぁっ! 」
付け足すように言った先生が気に入らなかったのか、男の子が更に詰め寄る。
自分は悪くないと、必死に主張していた。
本人が悪くないというのなら、そうなのだろう。
だから、やなぎはこう言った。
「何んで、謝るんですか? 」
「……は? 」
その言葉には、先生だけじゃなく悠斗君までも驚いたようだった。
口を半開きにした状態で固まっている悠斗君に、やなぎは言う。
「悪くないのなら、謝る必要はないはずです」
やなぎの本心に、男の子の顔が曇る。
「んだよ。俺のこと、責めてんのかよ? そうやって言って、俺に悪いって思わせてーのか!? なぁ!? 」
あまりにも大きな声に、肩がびくりと跳ねた。
そんなつもりはなかったのに、と申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「悠斗君、怒鳴らないで! やなぎちゃん、怖がっちゃってるじゃない」
「はぁ!? だってそいつが……チッ! めんどくせーなー……」
「こら悠斗君! どこ行くの!? 」
保健室の扉を開けてこの場から去ろうとする悠斗君を、先生が必死に引き止める。
「気持ちわりーな……」
最後、悠斗君はやなぎの目をしっかりと見てそう言った。
冬になった。皆、まだやなぎとは遊んでくれていた。
遊びに誘われる頻度は減ってしまったような気もするが、給食の時間も「一緒に食べよう」と誘ってくれる子もぽつぽつといた。
2年生になった。クラス替えがあって、知っている子達とはほとんど離れてしまった。
周りにどう馴染んでいいのか分からず1人で過ごしていると、遊びに誘われることは何度かあった。
その誘いを受けて遊びに行くと、皆決まってボールで遊び出す。
やなぎは、飛んでくるボールを怖がって受け止めることができず、いつも逃げてしまっていた。
そうしているうちに、誰もやなぎを遊びには誘ってくれなくなった。
給食も、1人で食べることが多くなっていった。
3年生になった。やなぎは、休み時間になる度に図書室に行くようになった。
本を読むのは好きだ。新しい世界を知ることができるから。
後、誰にも迷惑をかけず、1人で楽しめるものだから。
1人で過ごす時間は、居心地が良かった。
「やなぎー、この前テストがあったんだって? どうだったの? 」
家に帰ってくるなり由美子さんにそう聞かれ、やなぎは今日返ってきた算数のテストをランドセルから出した。
「あら……。残念だったわね。でも大丈夫。復習すれば、きっと成長するから。やなぎは、宿題ちゃんとやってるものね」
23と書かれた数字を綺麗に折りたたみながら、由美子さんはそう言った。
「分かりました。復習、します」
リビングに行って、ランドセルの中から計算ドリルを取り出す。
今日宿題になっているところは、分数の引き算だ。
「……」
暫く黙々とやってみるも、全然分からない。
数字がいっぱい並んでいて、まずどうすればいいのかが分からない。
「できる? お母さん、教えようか? 」
「……分かるのですか? 」
「分かるわよー。分数なんて、お母さんも小学生の時にやったもの。ほら、まずはここをこうやって……」
やなぎは勉強が苦手だった。
小学1年生の頃から、国語も、算数も、社会も、理科も。
国語はまず、字が全く覚えられなかった。
ひらがなは何とか書けるようになっても、カタカナ、漢字まできたらもうわけが分からない。
だから教科書も読む度に詰まってしまい、そうなればクラスの何人かの子達から笑われる日々が続いていた。
3年生になってから入ってきた社会と理科も、やなぎの頭を悩ませた。
地図というよく分からないものを見せられても何も思わないし、生物なんてどれも皆一緒に見えた。
特に苦手な教科は、算数。
数字がいっぱいで、まず何をすればいいのか分からない。
授業を聞いて一生懸命理解しようとはしているのだが、なかなか上手くいかない。
周りの子は皆できているのに、自分だけできない。
先生は苦笑して「頑張れ」と言うが、どう頑張ればいいのか分からない。
分からないことだらけで、もうよく分からなかった。
「どう? できそう? 」
そして、由美子さんの説明を聞いても、やっぱり分からなかった。
「えと……。この数字とこの数字を合わせて足して……? 」
「違う違う。ここの数字は足しちゃ駄目なの。足すのはここの上の部分だけ」
「う……? 」
頭がパンクしそうなほどクラクラしてしまい、鉛筆を握る手が汗ばむ。
「……ちょっと、休憩にしよっか。プリン食べる?
」
「……食べます」
由美子さんは、今日もそうやってやなぎを甘やかしてくれるのだった。
「うーん……」
カリカリと、夕日の差し込む教室に鉛筆の音だけが響く。
窓際、前から数えて3番目の机の上には、計算ドリルが置かれている。
「んー……」
鉛筆は、さっきから1ミリも動いていない。
固まったまま、黒い点を紙に残していた。
やっぱり、分からない。
やなぎが今しているのは、昨日の宿題の直しだった。
赤い丸が入っているのは、由美子さんが解いてくれた1問だけ。後は全てさんかくや斜線が入っている。
ただでさえ勉強ができないせいで皆から遅れているやなぎは、今日こうして居残りをさせられることとなったのだ。
先生は今職員室に行ってしまっていて、分からないと聞くこともできない。
ただ、時間だけが過ぎていっていた。
分数の足し算だけでも無理なのに、今日は更に引き算まで習った。
やなぎの想像通り、引き算もわけがわかなかった。
それに付け加えるように約分なんてものも出てくるしで、正直もう自分に勉強は無理なんじゃないかと思い始めてもいた。
学校とは、友達をつくり、勉強をする場所。
その両方ができない自分は、何故学校に行っているのだろう。
「あれ? まだいたんだ? 」
考え事をしている間に教室の扉を開いたのは、同じクラスの女の子だった。
ふわふわの髪を2つに結んだ、パッチリとした目の可愛らしい女の子。
その子はやなぎに近づいてくると、手元の計算ドリルを見て言った。
「分からないの? 」
こくり、と頷くと、女の子はやなぎの筆箱からもう1本の鉛筆を取り出す。
「借りるね? 」
「は、はい」
「まずえっと……。掛け算、できる? 」
「7と8の段以外なら……」
暗記は苦手なのだ。
だが、女の子は特に気分を悪くした様子もなく、「なら、この問題は大丈夫だね」と言ってニコッと笑った。
「まず、この線の下にある数字を分母っていうんだけど、この2をこっちの4に合わせるには、どうすればいいかな? 」
「え? えっと……」
「2は、何を掛けたら4になる? 」
「に、2×2は4だから……2」
「正解! じゃあ、この2は4に変わるの。そしたら、線の上の数字……分子にも、2を掛けて……」
「こっちの分数には2を掛けないのですか? 」
「うん。2を掛けるのは、分母が変わった分数にだけ。そしたら、分母の数字が揃ったでしょ? 」
「はい」
「じゃあ後は最後に仕上げるだけ。分子の数字だけを、足し算するの。そしたら? 」
「で、できた……」
驚きのあまり、鉛筆を落としてしまう。
おそらく正解なのであろう数字が、そこには書かれていた。
「で、できた……できました! 」
「良かった! ね? 簡単でしょ? 」
教えてもらいながらだったけれど、やなぎにも理解できた。
やなぎにも……できたのだ。
何とも言えない喜びが、身体中を電流のように駆け巡る。
達成感が、心地よかった。
「つ、次も、次も教えてください! 」
「いいよ! じゃあ次は……」
「できない」から、「できる」に変わった瞬間だった。
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