3

もう何がどうなってここにいるのか分からない。

時間の流れがこんなに早く感じたことなんてなかったし、こんなに何も覚えていないことも初めてだった。

記憶が、ない。

それは別に記憶そのものを無くしたとかそういうわけではなく、ただ単純に、覚えていないだけなのだろう。

気がつくと車から降りていて、気がつくと児童相談所の女性はいなくなっていて、気がつくとまた誰か知らない人に手を引かれていて、気がつくとこんなに大きな家に入っていて、気がつくとその一室、畳の上にちょこんと座らされている。

大きなテーブルを8人ほどの大人達が囲んでいて、その1番端っこの方にやなぎが座っていた。

目の前に置かれたオレンジジュースに口をつけることもできず混乱するばかりのやなぎに、隣に座っている優しそうな女性は静かに頭を撫でてくれた。

「皆、揃ったな? 」

野太い声で、真ん中辺りに座っているがっしりとした体格が特徴的な男性がそう言った。

この場を仕切っている人なのだろう。

「では、会議を始めるとしよう」

「ええ」

「……だな」

「こうして親族で集まる理由が、まさか鬼灯さんのことなんてね……」

「おい、やなぎちゃんがいるんだから。そういうことは別のところで言えよ」

「そ、そうね。ごめんなさい」

この状況についていけていないのは、やなぎだけらしい。

皆が何の話をしているのか、会議とはなんなのか、さっぱり頭に入ってこなかった。

「……あの、先に言っておきますけど、うちは無理ですからね? 何せもう子供が3人もいるんですから。子供が皆高校生くらいだったらまだ何とかなったかもしれませんが、さすがに今引き取るのはちょっと……。養育費の問題もありますし、僕、普通のサラリーマンですし」

と、白いカッターシャツに赤いネクタイをした若い男性が、申し訳なさそうにそう言った。

それに同意するように、隣にいたセミロングの綺麗な女性も口を開く。

「そうよ。そりゃあ、可哀想なのはわかるけど……うちの子達が受け入れてくれるかもわからないし……」

言葉の端々から、何となく夫婦であることは分かった。

2人はそう言って顔を俯かせると、仕切り役の男性が次の人に目を向けた。

「では、貴方達は? 」

髪にパーマをかけたよく肥えた女性と、反対にほっそりとした50代くらいの男性は、目を見合わせた後揃って困り顔をした。

「私たちも……ねぇ? もうこんな歳だし。もしもこの子がこれから沢山の思い出をつくっていくなら、ずっと傍にいて見てあげることができるかどうか……」

「ああ。本当に、すまないとは思っているが……俺たちがこの子を幸せにしてやれる保証がない」

そう言って、またさっきの夫婦と同じように、悲しい顔をして畳を見つめてしまう。

「いや、貴方達のせいではありませんから、どうか気を落とさないでください。実は、俺の家も……」

仕切り役の男性も、悲しそうな顔をしてしまった。

その顔を見て、その奥さんであろう人が彼の背中を優しく撫でる。

「俺のとこも、柴崎さんとこと同じ理由だ。子供が2人いる。学費や食費を考えると、なぁ……。それに、一家の主人が、今年会社を辞めたときたもんだ。この子に良いことなんて何ひとつないだろう」

「本当にごめんなさいね。けれど、私たちも今は……。本当にっ……」

「な、泣かないでください翠さん。僕達も、似たような立場ですし」

「そうですよ。私たちこそ、歳なんかのせいで……情けない」

泣き始めてしまった翠さんとやらを必死に慰める様子を、やなぎは呆然と見守っていた。

引き取るとかこの子とか言っているが、いったい誰のことを言っているのだろう。

「……なら、儂がこの子を家に迎えよう」

慰め合う言葉が飛び交うなか、低い声で呟くように言った人がいた。

オレンジジュースから顔を上げて声の主を見ると、眼鏡をかけた、厳かな雰囲気を纏った男性が堂々と座っていた。

身体が大きく見えるのはけして太っているとかそういうわけではなく、ガタイがいいからだろう。

スーツでも私服でもなく、1人だけ紺色の着物を身にまとった、目つきの鋭い人だった。

不思議と、怖いとは感じなかった。

「き、桔梗さんが……ですか? 」

赤ネクタイの男性が、戸惑ったような声をあげる。

周りの人達も、渋い顔を並べていた。

「何か、問題でも? 」

「いえ。問題は別に……。ですけど、その……この子、虐待をうけていたんですよ? 失礼を承知で申しますが、貴方なら、怖がられてしまうのではないかと……思って……はい……」

段々と声が小さくなっていくも、ハッキリと彼はそう言った。

周りの面々も、彼の言葉に小さく頷く。

そこで、やなぎはやっとこの会議で主題となっている人物が誰であるのかを理解した。

「そうだ。ならここは、やなぎちゃん本人に聞いてみるのはどうかしら? 」

そう言ったのは、やなぎの隣に座っていた優しそうな女性。

下の方で結われたゆるめのポニーテールに、細められた目。

その表情は、やなぎに安心感を与えてくれる。

「やなぎちゃん、私たちの家に来ないかしら? それとも、この人が怖いから嫌? 」

「由美子」

「ごめんなさい貴方。でも、こういうのはハッキリ聞かないと」

「……ないです」

「え? 」

「怖く、ないです……」

大きい身体。鋭い目つき。

それでも、全然怖くない。

「本当に? 嘘じゃない? 」

「由美子」

「ごめんなさい。だって……」

「は、い。全然怖くない、です……」

紛れもないやなぎの本音に、女性は安心したように「そう」と言って笑った。

久しぶりに、誰かの笑った顔を間近で見た。

いや、もしかしたら、初めてかもしれない。

「それじゃあ決まりね。やなぎちゃんは、うちが引き取ります」

「そ、そう? 由美子さんがそう仰るなら私たちもそれでいいけど……ねぇ? 」

パーマの女性が問いかけるように言うと、「そうだな」と周りも戸惑いながらも賛同していた。

その言葉を受けて、女性の笑みはますます深くなる。

「それじゃあ、今日から……いいえ、今この瞬間から、貴方の名前は桔梗やなぎよ」

「き、きょう……? 」

「ええ。良い苗字でしょう? 」

「はい……」

桔梗やなぎ。

それが、今この瞬間から、やなぎの新しい名前になった。




着いたのは、植物だらけの家だった。

広い庭に、色とりどりの花が咲いている。

その中で、1本の大木がやなぎの目を惹いた。

美しい新緑に目を奪われていると、女性に「やなぎちゃん? 早く中に入りなさい? 」と声をかけられる。

知らない家の中に入ると、また緑の香りが鼻腔をくすぐった。

家の中をキョロキョロと見渡すやなぎを面白そうに女性は見つめた後、やなぎに視線を合わせて言った。

「改めて、私は桔梗由美子よ。それで、あっちは私の旦那、桔梗赭。今日から宜しくね」

「今日から……? 」

「ええ。今日から貴方は、私達と一緒に暮らすのよ? 」

この人達が、やなぎと一緒に暮らす……。

「……宜しくお願いします。由美子さん、赭さん」

頭を下げて挨拶すると、由美子さんは何故か悲しそうな表情を浮かべた。

「やなぎちゃん、私と赭さんのことは、お母さんとお父さんって、呼んでくれてもいいのよ? 」

「お母さん……? 」

「そう。お母さんと、お父さん」

「おと……」

呼べない。

呼びたいのに、呼ばなくちゃいけないのに、何故か呼べない。

「おとう……さ……」

お父さん。そう言うと、あの顔が脳裏を過ぎる。

お父さんと呼ぶ度に、やなぎを殴ったあの人が。

「由美子。あまり無理をさせるな」

「そ、そうね。ごめんなさいね」

由美子さんが悪いわけではないのに、謝られてしまった。

「いえ……」

こんなことで本当に暮らしていけるのか、不安になっていると……。

「まずは髪ね! 」

やなぎの伸び放題のぼさぼさ頭を見て、由美子さんはまずそう言った。

「髪……? 」

言われて、自分の髪を指先でチョンと摘んでみる。

パサパサしていて、触り心地はあまり良いとは言えなかった。

「由美子、今日はいろいろあって疲れてるだろうから、そういうことは明日にしなさい」

「えー……。じゃあ、一緒にお風呂入ろっか? 最近良いシャンプーを買ったのよ。薔薇の香りがするんだけど……」

半ば強引に風呂場まで連れていかれ、あれよあれよと服を脱がされる。

「……あ」

すると、埃まみれの服が視界に入る。やなぎは今初めて、自分が今どんな状態でいたのかが分かった。

洗面台にある鏡を見てみると、長い長いぼさぼさ頭に、伸び放題の前髪に隠れた空虚な瞳と目が合う。

これが本当に自分なのかと疑うほど、酷い格好をしていた。

「大丈夫。すぐ綺麗になるからね。……あら? 」

由美子さんが目を止めたのは、やなぎの身体中にできた痣。

「あ、これはっ……」

こんなものを見せたら、どう思われてしまうだろう。

汚い子だと、嫌事を言われてしまうのではないか。

そう思うと怖くて、すぐに由美子さんから目を背ける。

由美子さんは、やなぎの痣をそっと撫でてくれた。

「大丈夫大丈夫。こんなの、すぐ治るから。跡にはならないわよ」

「……本当? 」

「ええ。もし残っても、今時消す方法なんて幾らでもあるしね」

こんなやなぎを、嫌だと思わないでくれた。

「さ、お風呂に入りましょう? 」

何日ぶりかの、お風呂だった。





翌日。やなぎは早速美容院に連れていかれた。

清潔感漂う店内には、観葉植物や小さい花がそこら中に置かれている。

「この子を……そうね。どんな髪型がいい? 」

由美子さんに聞かれても、やなぎにはどんなのがいいか分からない。

「……どんなのが、良いのですか? 」

「あらら……。じゃあそうねぇ、思い切って、ショートカットにしちゃってちょうだい。お母さん、似合うと思うの! 」

「じゃあ、それでお願いします……」

「かしこまりました〜」

ポニーテールの可愛らしい店員さんが、やなぎを見た事のない椅子へと案内する。

正面に取り付けられた鏡には自分の顔が映っていて、何だか気まずくなってしまった。


数分後。

鏡の中には、さっきまでの幽霊みたいな少女の代わりに、さっぱりとした小綺麗な少女がいた。

背中の重みが無くなっていて、何だか身軽になった気分だ。

「こんな感じでいかがでしょう? 」

「あら! 可愛いじゃない! 」

由美子さんが言うのならそうなのかもしれない。

少なくとも、さっきまでの自分よりかは随分マシになっていた。

首にスゥッと通る風が、ぞわぞわして気持ちが良い。

「可愛らしいお子さんですねぇ」

「そうでしょう? 絶対ショートカットが似合うと思ったのよ! 」

鏡に釘付けになっているやなぎに、店員さんは満足したように「よし! 」と呟いてから、胸のポケットから1粒の飴を取り出して、やなぎの小さな掌に乗せた。

「これ……」

「あげるわ。ぶどう味なんだけど、平気? 」

「は、はい」

こんなこと初めてでどんな反応をするのが正解なのか分からない。

それでもとりあえずお礼を言って受け取ると、会計を済ませた由美子さんと美容院を出る。

店員さんの「ありがとうございましたー! 」と言う声を聞きながら、やなぎは掌に乗せられた飴を見ながら歩いていた。

「転ぶわよ? 」

「ごめんなさい……」

飴をポケットに入れる。

この服は、やなぎが昨日来ていたものを由美子さんが慌てて洗濯したものだ。

やなぎが持っている服はこれしかないため、新しい服も今日買うことになっている。

「それじゃあ、お洋服見よう! どんな服がいい? やっぱり女の子だから、ミニスカートかワンピース? やなぎなら、ズボンも似合いそうねぇ〜」

「え、えっと……」

一気に言われても分からない。

混乱しながら、やなぎはブティックへと連行されていった。




「沢山買っちゃったわね〜」

大量の袋を提げて、由美子さんは満足そうな笑顔を零す。

ブティックに到着した由美子さんは、真っ先に服ではなく靴を見に行っていた。

「これやなぎに似合いそうじゃない? 」、「この帽子、きっと可愛いわよ! 」そう言っては靴に帽子に鞄にアクセサリーと、様々なものを見せられた。

やっと服を見に行っても、由美子さんはいろいろ迷ったあげく候補に挙がった全ての服をやなぎに試着させ、うんうん迷ったあげく結局全て購入していた。

おかげで繋ぐ手は空いていない。

それでも、荷物は1つもやなぎに持たせることはなかった。

「ねぇ、やなぎ」

「なんでしょうか? 」

「スイーツ、買っていかない? 」

足を止めた由美子さんの視線の先にあるのは、ショーウィンドウに飾られたケーキやプリンが魅力的な、スイーツショップ。

由美子さんが言うのならと店に立ち寄ってみると、クッキーの香ばしい香りがふわりと広がった。

「やなぎは何がほしい? 何でも好きなもの頼んでいいんだからね? 」

「え……」

何でも、と言われると困る。

何が1番由美子さんを困らせないのだろう。

やはりここは、1番安いものにするべきだろうか。

そうなると、ケーキではなく棚に置かれているあのクッキーになる。

「あの、クッキーを……」

「じゃあ、あれも買うわ。あともう1個は何がいい? 」

断固としてやなぎにケーキを買わせたいらしい。

「なら、この、クリームが挟まってるやつ……」

ふわふわのスポンジのようなそれに、雪のように真っ白な生クリームがサンドイッチのように挟まったそれを、やなぎは選んだ。

「ああ。シュークリームね。それでいいの? 」

「はい」

「じゃあ、ティラミスとフルーツロールケーキと、このシュークリームとあの棚にある苺のクッキーを1つ……いえ、2つお願いします」

「かしこまりました」

白い箱に入れられていくケーキを見ながら、やなぎは今一度店内をぐるりと見回した。

ピンク色の壁に、うさぎの置物など可愛らしい雑貨が並べられている。

奥には飲食スペースもあって、談笑しながら笑っている男女のペアもいた。

「やなぎ、行くわよ」

「は、はい……」

シュークリームの入った白い箱は、やなぎが持った。

「落とさないようにね」と言われて、慎重に持ち運んでいく。

「あ、あの……」

「ん? 」

もうすぐ家に着くという時に、由美子さんを呼び止める。

「今日は、ありがとうございました……」

髪も、服も、シュークリームも。

こんなにいろいろしてもらったのは初めてで、こんな一言のお礼なんかでは到底足りないものであることは分かっていた。

けれど……。

「いいえ。こちらこそ」

由美子さんは、それはそれは嬉しそうな笑顔で、そう返してくれた。

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