2
「おいやなぎ」
「は、はい」
「これ、捨てといてくれ」
「わ、分かりました……」
父の手から空になったカップラーメンの容器を受け取り、水で一旦洗ってからプラスチックゴミへと捨てる。
ゴミの分別方法は、この間父が寝ている間に流れていたテレビを盗み見ていたから知っていた。
こういう家庭的な知識は全て、テレビから教えてもらっている。
ゴミ箱も、もういっぱいになってきた。
そろそろ捨てに行かなければ、本格的にゴミ屋敷になってしまう。
「お父さん……? 」
呼びかけても、父は反応しない。
単にテレビに夢中になっているのか、それとも無視をされているのか。
「ご、ごみ、捨てに行っても、いいですか? 」
反応がない。
「い、行ってきます、よ……? 」
そろりと父の表情を伺いにいくと、父はこっくりこっくりと寝てしまっているようだった。
「い、行ってきます……」
重いゴミ袋を1人で持って、見つからないように家から出る。
少し離れたゴミ集積所へ向かっていると、買い物帰りだろうか、手に買い物袋を抱えた近所のおばさんと会った。
「あらやなぎちゃん? 久しぶりねぇ。元気だった? 」
「は、はい。おばさんは、お買い物ですか? 」
「そうなのよ〜。今日は特売日で、ついつい買い込んじゃってねぇ。やなぎちゃんは、ゴミなんか持って何してるの? 」
「あ、えっと……ゴミ出し、です」
「ゴミ出し? こんな時間に? 」
「え……? 」
今は夕方5時。
ゴミを出すのに時間なんてあることを、やなぎは今初めて知った。
「今、出しちゃいけないんですか? 」
「出しちゃいけないことはないけど……。まぁ、明日はプラスチックの日だからね。今からでもいいか。何か文句言う人がいたら、おばさんが言い返しておくから」
「……すみません」
「いいのよ。1人で大丈夫? おばさんもついて行こうか? 」
「い、いえ。お手を煩わせるわけには。1人で平気です」
「そう? じゃあね……って、やなぎちゃん、その怪我……」
「っ……! さ、さようなら! 」
ゴミ袋を持ち直して走り、集積所にようやっと到着する。
カゴを開けて中に入れると、そこにはやなぎが今持っている以外のゴミはなかった。
「次からは、気をつけなくちゃ……」
ちゃんとゴミを捨てる日を確認して、迷惑をかけないようにしなければ。
それにしても、さっきのはびっくりした。
まさかおばさんが最後にやなぎの怪我を指摘してくるとは。
父からは、近所の人や知らない人に何か怪しまれても「なんでもない」と言うように言われている。
誤魔化せていたかどうかは分からないが、おばさんが後を追いかけてくることはないためセーフラインだったといえるだろう。
ホッと胸を撫で下ろしていると、何故かとても悲しいような、苦しいような気持ちになった。
父の言いつけを守ることができて安心していたはずなのに、後悔している自分がいた。
本当はあの時、「さようなら」の代わりに「助けて」と言っていたら、言えていたら、事態は好転したのだろうか。
もう、今のような生活からは、脱出することができていたのだろうか。
涙は出ない。もうあの時、泣かないと決めたから。
けれど、その代わりであるかのように胸がとても苦しくなっていた。
「……助けて」
ポツリと呟いてみたけれど、周りには誰もいなかった。
家に帰ると、また父に殴られた。
何処に行っていたんだと首を閉められて、お腹を力一杯蹴られた。
ほっぺを叩かれて、頭をわしずかみにされて床に落とされた。
また、傷が増えた。
ゴミ捨てに行っていたと告げたら、誰に会ったか、どんなことを聞かれたかについて、何度も何度も聞いてきた。
おばさんと会って特に何もなかったことを言うと、怪し気な視線を向けられたけれどそれ以上言及してくることはなかった。
怪我を聞かれたことについては、怖くてとても言えなかった。
「鬼灯さーん? 鬼灯さんはいらっしゃいますかー? 」
近所のおばさんの声じゃない。若い女性の声がした。
ドアをドンドンと叩いて呼びかけているも、父は出迎える気はないらしい。
ソファに寝転がったまま、ドアの方を見もしなかった。
「鬼灯さーん? 児童相談所の者です。少しだけお話宜しいでしょうかー? 鬼灯さーん? いらっしゃいますよねー? 」
「お父さん、あの人……」
「うるさい! 黙っとけ! 」
「鬼灯さーん? 今声がしましたけどー? 一緒にいるのはお子さんでしょうかー? 」
父は舌打ちをして、知らんぷりを決め込んでいた。
おかしい。近所のおばさんが相手なら、面倒くさくても話くらいはするのに。
「鬼灯さーん」
諦めるつもりがないらしい女性は、ずっとドンドンとドアを叩き続けている。
その音のせいでテレビがよく聞こえないことに、父は苛立ちを募らせているようだった。
「鬼灯さーん! 」
「何だってんだよ!? 」
怒りの糸が切れた父は、玄関へ向かってドアの前に立つ。
「鬼灯さん? そこにいらっしゃるのでしたら、開けていただいても……」
「話ならここでしろ! 」
「……分かりました。でしたらまず、貴方には今年小学校に入学しているはずの女の子がいますよね? 」
「あぁ!? そんな人知らん! 」
「住民登録されているはずですよ? 」
「……」
バツが悪そうに父がドアから顔を背けるも、女性はズカズカと踏み込んでくる。
「鬼灯やなぎちゃん、今年で小学校1年生として、六花小学校に入学しているはずですが、5月を過ぎてもまだ1日も登校されていないとのことで、本日はお伺いさせていただきました。既に小学校の方からも、何回かお電話がきていると思うのですが」
「知らん」
「ですが……」
「知らんものは知らん! 」
「鬼灯さん? ドアを開けていただけないでしょうか? やなぎちゃんがいることをご確認したいのですが」
「やなぎは今おらん! 」
「やはり、お子さんはいらっしゃるんですね? 」
「……」
「あの、少しだけお時間のほう……」
「もういいだろ! 帰れ! 」
「あっ……。鬼灯さん、鬼灯さーん? 」
ドアの鍵を掛けて、父はまたソファに寝転がる。
暫くすると、女性は帰っていったようで静かになっていた。
すると、父はソファから腰を上げて隅で丸くなっていたやなぎの腕を引っ張りあげた。
「お、お父さん……? 」
「おらっ! 」
瞬間、脇腹に激痛が走った。
衝撃で身体が傾き地面に倒れる。もう幾つ目なのか分からない紫色が、また増えた。
「おまえのっ! おまえのせいで俺はっ!! 」
手首を押し付けられて、身動きが取れない。
それをいい事に、父はやなぎを殴り続けた。
やなぎは、何もしていない。
ずっと父の言うことをきいてきたし、気分を損ねるようなこともしなかった。
こんなの、八つ当たりではないか。
でも、父が怒るのにはやなぎが何かしたとしか思えない。
だったら、謝らなければ。やなぎが悪いのなら、謝らなければ。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 」
「うるせぇ! おまえが、おまえなんかがいるせいで俺はっ! 」
怖い。ただただ、怖かった。
目の前で怒り狂うこの人が、怖かった。
怒らないで。そう願っても、どんなに願っても、叶うことはない。
父は、気が済むまでやなぎを痛めつけるのだから。
「ごめん……なさっ……」
ゴツゴツした拳が顔に当たる。
鼻が痛い。折れたのではないかと錯覚してしまうほどに痛かった。
痛い。怖い。痛い。怖い。怖い。
誰か……。
「だれ、か……」
助けて……。
それから、児童相談所の人はよく家に来るようになった。
毎日のように鳴るインターホンに、父は何故か怯えたような瞳を向けていた。
「お父さん? 」
「しゃべるんじゃねぇ! 」
そう怒鳴られてしまえば、それ以上何も言えるはずなかった。
プルルルルル。
壁に取り付けられている、固定電話も鳴り響いている。今日でもう、3度目だった。
なり続けるインターホンに、鳴り響く電話。
「あー……クソっ! 」
受話器を取って、1秒も経たないうちに切る。
「おい! もう2度と来るんじゃねぇぞ! 次来たらただじゃおかねぇからな! 」
次にドア越しに向かってそう怒鳴ると、女性は何も言わずに去り行く足音だけを残していった。
そしたらまた、父はやなぎを殴るのだった。
もう、限界だった。
心も身体もボロボロで、絆創膏ももう尽きた。
痣だらけの身体を眺めては、今日も食べるものを探す毎日。
窓の外から聞こえてくる笑い声が、酷く恨めしかった。
小学校を、やなぎは知らない。
ランドセルも知らない。
外の世界を、知らない。
今日もソファで眠っている父の姿を見て、安心する。
眠っている間は、父はやなぎに暴力をふるわない。
唯一の、安心できる一時だった。
プルルルルルル。
コール音が聞こえた。
一瞬だけびくりと身体が反応するも、父がまだ眠っているところを見て安堵した。
プルルルルルルル。
電話は、まだ鳴っている。
これはやなぎが出た方が良いのだろうか。
だって、電話だ。誰かが出ないと不味い。
椅子の上に立って、恐る恐る受話器を手に取る。
ゆっくりと耳に押し当てて、囁くように喉から声を絞り出した。
「……も、もしもし」
確か、母は電話を出る時そう言っていた。
「あ、あの……? 」
一向に相手からの返事がないため、不安になってくる。
かける相手を間違えたのか。それとも無視されているのか。
不安が募っていた、その時。
「も、もしもし? こちら六花小学校の1年生の担任をしている、川村と申す者なんですが……もしかして、鬼灯やなぎちゃん? 」
しっかりした、女性の声がした。
この間の児童相談所の若い女性とは違った、また別の人の声。
小学校……以前児童相談所の人が言っていた名前だ。
やなぎが通っているはずの、とか言っていた気がする。
ということは、やなぎに関することで電話をかけてきたのだろうか?
もしかして、やなぎを助けにきてくれた?
「は、はい。鬼灯やなぎ、です……」
そう言うと、受話器の向こうが何やら騒がしくなった。
「やなぎちゃん? 」「え、本人? 」等の声が聞こえてくる。
また沈黙ができてしまったけれど、それでも辛抱強く待ってみる。
すると、すぐに返事は返ってきた。
「やなぎちゃん? 今1人? 」
「い、いえ。今、お父さんも家にいて……」
「やなぎ? 何してるんだ? 」
すぐ側で、声がした。
「お父さん……」
振り向くと、すぐ後ろにキツく睨む父が立っていて……。
「あ、えっと……」
「やなぎちゃん? お父さん、いるの? 」
「やなぎ、代わりなさい」
受話器を奪おうと父が手を伸ばすも、やなぎはその手から受話器を離した。
「えっと、えっと……」
やなぎだって、こんなことがしたいわけじゃない。
今ここで受話器を渡さないと、また酷い目にあってしまう。
分かっているのに、受話器を渡したくなかった。
「やなぎ! 」
怒鳴られても、受話器を掴んだまま離さない。
「やなぎちゃん!? 何かあったの!? 」
受話器からの声で、父の顔色が一気に変わった。
「やなぎ! 早くそれを渡さないか!? 」
駄目。
もしかしたらこの人は、やなぎの願いを叶えてくれる人かもしれないのに。
渡してはいけない。
絶対に。
「さっさと渡せ! 」
「あっ! 」
けれど、無情にも父に受話器を奪われてしまった。
父は、電話を切ろうと受話器を戻そうとする。
嫌だ。まだ、諦めたくない。
違っていてもいい。電話をかけてきたこの人が、例えやなぎを助けに来てくれたわけでなくてもいい。
それでも、と願う。
「助けてっ!! 」
それでも、誰かに聞いてほしくて。
そう大声で、受話器に向かって叫んでいた。
叫び終わると同時に、受話器はガチャリと戻されてしまう。
でも、声は届いたはずだ。
「よかっ……」
良くない。父に首根っこを掴まれて、壁に身体を押し付けられる。
「おまえ……よくも……」
顔、お腹、脚。
腕を雑巾のように絞られて、手の跡が残るくらいに首をキツく締められた。
いろんなところから血が出てくる。
痛くて、もう「ごめんなさい」の声も出なかった。
どれだけの時間殴られたか分からなくなっていると、手を離される。
床に突っ伏してゲホゲホと咳き込んでいると、目の前にキラリと銀色に光る物が見えた。
「俺が寝ている時に……おまえはっ、おまえはぁっ……!! 」
ナイフを持った父が、やなぎを狙う。
「ひっ……!? 」
「死ねぇっ!! 」
きっと、ここで終わるのだ。
ここでやなぎは、死んでしまうのだ。
こんなことになるのから、父の言うことをきいておけばよかった。
ちゃんと、受話器を父に渡していれば、こんな事にはならずにすんだのに……。
後悔しても、もう遅い。
鋭く尖った刃が、やなぎを真っ二つに切りさこうと襲ってくる。
恐怖に怯えた瞳を、閉じることができずにいる。
1歩も動けない。
目を見開いて、固まってしまっていた。
「これで、おまえもっ……! 」
「鬼灯さん!? 」
父の言葉を遮って、さっき聞いたばかりの女性の声が聞こえてきた。
幻聴か、それとも現実なのかの区別もつかない。
だが、父のナイフの動きが止まったということは、父にも聞こえているということ。とすると、つまりこれは現実?
「たす、け……」
「鬼灯さん!! 」
女性2人が、部屋の中へ入ってくる。
遅れて、青い服を来た男性も入ってきた。
「ち、違うんだ! これは……」
「鬼灯健人さんですね? 警察の者ですが、お話を聞かせてもらえますでしょうか? 」
「違うんだ!! 俺は、俺はぁ!! 」
手錠をかけられて、父は警察と共に連行されていった。
「やなぎちゃん? もう大丈夫だからね」
「やなぎちゃん……良かった、本当に、よかっ……ふっ……うっ……」
眼鏡を掛けたスーツ姿の女性と、ショートカットの優しそうな目元の女性。
両方、ドア越しと電話越しに聞いたことのある声だった。
今、何が起こっているのか分からない。
わけも分からず背中をさすられて、知らない人に抱きしめられている。
「やなぎちゃん!? 」
そう、聞き馴染みのある声も聞こえてきた。
「おば、さん……? 」
近所のおばさんが、やなぎを強く強く抱きしめていた。
「良かった……やなぎちゃんの叫び声がして何かあったんじゃないかと思って、警察の人を呼んだのよ? 本当に……無事でっ……」
おばさんはやなぎを抱きしめた後、頭を優しく撫でてくれた。
「それじゃあ、やなぎちゃんは一旦こちらで保護しますので……」
「分かりました。宜しくお願い致します」
「はい。じゃあやなぎちゃん、行こうか? 」
「え……」
スーツの女性と手を繋いで、やなぎは家から出た。
外には、パトカーや車が多く並んで人が密集していた。
マイクを持った男性や女性、大きなカメラを持った人達が沢山いて、何故か、怖いと感じた。
「行くわよ、やなぎちゃん」
「は、はい……」
手を引かれて、赤い車に乗せられた。
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