第二十一章 記憶

1

「おい! 何処へ行くつもりだ! 」

「離して! 私にはあの人しかいないの! それとも何? 私にずっと不幸でいろっていうの!? 」

「なんだと!? 誰に向かって口を聞いている!? 」

怒鳴り声。散らかった部屋。つけっぱなしのテレビに、半開きになっている冷蔵庫。

そして、部屋の隅で蹲るようにして身を縮めている6歳の少女。

見つからないように、巻き込まれないように、息を潜めて座っていた。

「あーもういい! 何処へでも行け! もう帰ってくるな! ここは俺の家だ! 」

「言われなくても出ていくわよ! 」

バタンッと大きな音がして、扉は閉まった。

怒りに満ちた真っ赤な顔で玄関から出てきたその男は、信じたくないけれど信じなければいけない、やなぎの父親だ。

小太りで短気な父親と、赤い口紅が印象的な、若々しい母親。

やなぎは、2人が仲良くしているところなんて見たことがない。

いつも喧嘩ばっかりで、今日はついに母が本格的に出ていってしまった。

でも、これで良かったのかもしれない。

『なんでこんなこともできないの!? 』

『もうっ、本当にイライラする! 』

もう、母から浴びせられる罵詈雑言を聞くことはないのだと思うと、心は少し軽くなった。

父親はソファに寝転がってテレビを見始めている。

テレビを見ながら、床に転がった酒瓶に手を伸ばした。

酒をつごうとテーブルに置いてあるコップに酒瓶を下を向けるが、もう入っていないのかお酒が1滴、2滴、落ちただけだった。

「チッ! 」

その舌打ちに、肩が震える。

ソファからおりた父は、薄汚いTシャツ姿のまま外に出ようと玄関へ向かった。

「ま、またお酒、買いに行くの……? 」

「なんだその口の利き方は! 俺にかまうな! 」

父はすぐにやなぎの元まで来て、怒鳴りながら拳を振るう。

また、紫色の痣が増えた。

「ご、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい。許してくださいお願いします」

半ば泣きながら、やなぎはそう懇願する。

謝らなければ。悪いことをしたら、謝らなければ。

ごめんなさいと言い続けていると、許してくれたのか父は殴るのを止めた。

「もう2度と、生意気なことを言うんじゃないぞ。分かったか」

「は、はい……」

また舌打ちをして、父は家から出ていった。

流れているテレビ画面を見ながら、やなぎは殴られたところを手当てしていた。

まだ痛む腕や足を手で抑えながら、消毒液を塗って数少ない絆創膏を貼っていく。

この絆創膏が無くなったら、次はどうやって傷を隠せばいいのだろう。

そんなことをぼんやりと考えていると、窓の外から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

「早く帰ってゲームしようぜ! 」

「待ってよー! 」

「俺、この前レベル50にまでなったんだぜ! 」

小学生だろうか。黒いランドセルが3つ並んでいて、明るい笑顔と共に走り去っていく。

「いいな……」

つい本音が、漏れていた。




お腹が空いた。

最後に食べたのは、昨日の昼だったような気がする。確か、お皿に残っていた半分の食パンと、プチトマトを2つほど。

テーブルの上には何もない。

冷蔵庫の中ならと希望を抱くも、身長のせいで取っ手を掴むことができなかった。

父に頼めば、何か貰えるだろうか。

話しかけるのは嫌だったが、今はとにかく何でもいいから口に放り込みたかった。

何か食べなければ、死んでしまう。

立ち上がって、危うい足取りでテレビをソファに寝転がっている父の元まで行く。

「お、お父さん、お腹空いた……」

「あぁ!? 知らん! 勝手に容易しろ! 」

「で、でもお皿の上には何もないし、冷蔵庫は届かない……」

父が、鬼のような形相でやなぎをキツく睨む。

「ない……です」

咄嗟に言い直すと、ふんっと鼻息を鳴らして父はソファから立ち上がってくれた。

冷蔵庫を漁って床に放り出されたのは、サンドイッチ用に薄くスライスされたチーズと、一欠片のパン。

良かった。これだけで、後もう暫くは生きられる。

食べ物が貰えた安堵感でいっぱいになっていた時、父の足がやなぎの身体を蹴った。

視界が反転して壁に頭を打ちつける。

頭を抑えながらもチーズとパンに手を伸ばす。

「……汚ぇな」

上から父のそんな声がするも、構っていられなかった。

ソファに座る父を見送ってから、チーズとパンに貪り食う。

無我夢中で食べていると、あっという間に無くなってしまった。

まだ少し空腹感はあるけれど、さっきよりかは全然マシだ。

もう今日は、寝てしまおう。

時計の針は7時を指している。

いつもはもう少し遅い時間に寝るのだが、今日はご飯も食べたからか眠気も出てきていた。

眠っている間は、全てを忘れることができる。

時間が全て解決してくれる。そう安心できるのだから。




「鬼灯さーん? 」

ドンドンドン。

今日は、近所のおばさんらしい。

「あ? なんだってんだ、こんな朝っぱらから」

父がドアを開けると、そこには予想通り近所のおばさんが不機嫌な顔をして立っていた。

「なんだ、じゃないわよ。この間も言ったと思うけど、毎日毎日腐敗臭が凄いのよ。いい加減にしてちょうだい。でないと、大家さんに言いつけて追い出してもらうわよ」

「腐敗臭だぁ? そのくらい我慢しろ。俺の家のことなんだから、俺の勝手だろ」

「まぁ! 少しは近隣住民の迷惑を考えてちょうだい! そういえば、子供は大丈夫なの? やなぎちゃん……だっけ? 暫く顔を見てないけれど、暴力なんてふるってないでしょうね? 」

「もういいだろ! そろそろ帰ってくれ! 」

「ちょっと、まだ話は……」

強引に、父はドアを閉めてしまった。

追い出してからもドンドンとドアを叩く音がしていたけれど、鍵を掛けて完全に閉め出す。

「また来ますからね! 」

鍵を掛けたことを察したおばさんは、そう言って立ち去って行った。

「……あ」

行かないで。私を助けて。そう言いたかった。

「……なんだ、その顔は」

部屋に戻ってきた父と目が合ってしまい、しまったと思った時にはもう遅かった。

「やめて! お願い! 」

幾らそう頼んでも、暴力が収まることはなかった。

「お願い! お願い! 」

「お願い? お願いしますだろっ!? 」

「お願い、します! やめてくださっ……がっ!? 」

首に手をかけられる。

声が出ない。息を上手く吸えない。苦しい。

「たす、け……」

「チッ! 」

手を離されて安堵したと思ったら、身体を投げられた。

膝を擦りむいてしまい、また傷が増える。

「いいかやなぎ」

「は、はい! なんでしょう……? 」

ゆっくりと、父はこちらに近づいてくる。

1歩近づく度に、やなぎは1歩後退した。

けれど、また1歩、1歩と近づいてくる。

その度にまた後退しようと後ずさりするも、身体に壁が当たってしまった。

追い詰めたやなぎを父は楽しそうに眺めてから、怖い瞳を更に近づけて言った。

「もし、近所の人や誰かに俺のことや家でのことを言ったら……分かってるな? 」

「え、えと……でも……」

「うるさい! 口答えをする気か!? おまえは俺の言うことをきいていればいいんだ!! 」

「はい! ごめんなさい! 」

そう返事をすると、父はニヤリと笑った。

笑ってくれたのに、やなぎは全然良い気持ちにはなれなかった。




「おいやなぎ、皿を洗え」

「はい。お父さん」

「後これもだ」

「はい」

お皿とグラスを持ってキッチンへ向かい、洗い場の所まで椅子を持ってくる。

椅子の上に立って、蛇口を捻って水を出した。

冷たい水が流れ出したところで、スポンジに洗剤を入れてお皿を洗い始める。

お皿は、随分と汚れていた。

大分洗っていなかったのか、油汚れや気味の悪い色の液体がドロドロと流れていた。

それらをあまり見ないようにしながら皿を洗い終えると、次はグラスを手に持つ。

このグラスは、いつも父が酒を飲む時に使っているものだ。

酒を飲んでいる時の父は、特に機嫌が悪い。

何もしていないのにやなぎを殴るし、怒鳴り散らかす。

もしこのグラスがなければ、父があんなに怒ることはなくなるだろうか?

そんな考えが脳裏を過ぎるも、すぐに思いとどまる。

そんなことをしたら大変だ。大切なグラスを割られて、更に父の反感をかってしまうことになるだろう。

グラスを丁寧に洗い、慎重に水切りカゴまで持っていく。

「あっ……わあっ!? 」

と、手が滑ってグラスは水切りカゴに行く前に床へと落下してしまった。

パリンッと高い音が響き、やなぎの表情が青ざめる前にすぐさま父がやって来た。

「あ、あの、わざとじゃないんです。私は……」

今までのどの表情よりも、怖いものだった。

「あ、えっと……」

お腹を強く蹴られて、椅子から転がり落ちる。

痛い、なんて思う暇もなく、父はやなぎの頭に自身の足を乗せた。

そして、頭、お腹、背中、脚……。身体中を、踏んだり蹴ったりし始めた。

「この役立たずがっ! 何度言ったら分かる!? おまえは俺の言うことをきけ! おまえの仕事は、俺の命令をきくことなんだよ! それが分かってるのか!? 」

返事ができない。

痛い。苦しい。

「なんで、なんでおまえがこの家にいるんだ……産んだのはあいつの癖に……なんであいつが連れて行かなかったんだ! 」

そんなのやなぎは知らない。

何故自分が母に捨てられたのかなんて、やなぎが1番知りたいくらいだ。

「う、うぇ……」

涙で視界が滲んでくる。

鼻の奥がツンとしてきて、嗚咽が漏れる。

「泣くなっ! 泣くんじゃない! 感情を出すな! 気持ち悪い! 」

泣いてはいけない。

泣くと、父の機嫌をもっと悪くしてしまう。

泣いてはいけない。感情を出してはいけない。

泣くな、泣くな、泣くな。

必死にそう言い聞かせて、やなぎは痛みに耐えていた。

やがて、父の暴力が止まった。

「1個無駄にしやがって……! 」

足で蹴った、粉々に割れたグラスの破片が、やなぎの元までザラザラと音を立てて降り注ぐ。

「うっ、ひっ……」

父がいなくなった時、やなぎは静かに泣いていた。

これで、泣くのは最後にしなければいけない。

もう、泣いてはいけない。

感情を、出してはいけない。

父の言うことは、絶対きかなくてはいけない。

これ以上、父を怒らせてはいけないから。

「役立たず」と言われた言葉が、胸の中を渦巻いた。

役に立たなきゃいけない。

何でも言うことをきいて、役に立たなきゃ……。

それが、やなぎの職務なのだから。

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