3

「それではヤナギ様、私は仕事に戻ります」

メイドがそう言ってから、1時間が経った。

長い長い1時間、ヤナギはベッドに横たわったまま、じっと天井を見つめていた。

寝たくても、気分が悪いせいか寝付けそうにない。

なら本を読もうと思っても、内容が頭に入ってこなかった。

もう、授業は終わっただろうか。

今日休んでしまった分の授業は、どうしよう。

辛い。頭が痛い。クラクラする。

喉が、乾いた。

「み、ず……」

起き上がろうと思っても、身体が言うことを聞いてくれない。思うように動かせない。

しょうがない。諦めようとした、その時。

コトンと、ベッド脇のサイドテーブルに水が入ったコップが置かれた。

いったい誰が……。

「シード、様? 」

掠れた声で名前を呼ぶと、笑顔でこちらを見下ろしていたシードは「はい」と言った。

「なぜ、シード様が……」

「喋らなくていいですよ。思ったより、辛そうですし」

とりあえず上半身だけでも起こし、水を口に含む。

冷たいものが喉を潤すも、飲み込んで暫くするとまた乾いてしまう。

今日はずっとこんな調子だった。

「授業が終わったので、お見舞いに来たんです。大勢で行っても迷惑だろうということで、僕だけ来ました」

「迷惑では……」

「ほら、病人は寝てる」

ポスッとベッドに倒れると、ふかふかのシーツが身体を包み込んでくれた。

シードが毛布をかけてくれ、何だか眠れそうな気分になってきたが……。

「暑い……」

身体が火照ってしまい、眠れない。

猛暑ということもあって、せっかくだが毛布は必要なさそうだった。

それならとシードが毛布ではなくブランケットをかけてくれるが……。

「寒い……」

今度は寒くなってしまった。

毛布は暑いが、ブランケットは寒い。

どうしようもない状態に、シードが困ったように笑う。

「でもまぁ、病気の時は身体冷やさない方が良いって言いますし、やっぱり毛布、かけときましょうか」

そう言ってまた、毛布が身体にかけられた。

「暑い……」

「我慢してください。あ、あとこれどうぞ」

そう言って差し出されたものは、食堂にて出されているアイスキャンディーだった。

「ヤナギ様は、ぶどうが好きと聞いたので」

紫色のアイスキャンディーを受け取ろうとしたが、シードはアイスキャンディーを持っている手を遠ざけた。

「あーん」

「大丈夫です。自分で食べられま……」

「無理しないで、甘えてください。ほら、あーん」

なら、とシードからアイスキャンディーを1口貰う。

ガリガリした食感に、すっきりとしたぶどうの味わい。

乾燥しきった口内には、これ以上ない至福だった。

「ありがとう、ございます」

アイスキャンディーを食べ終えてお礼を言うと、「どういたしまして」と返ってくる。

その瞳を何となしに眺めていると、シードは不思議そうな顔をした。

「眠れないんですか? 」

「……はい」

「そうですか。なら、今日あったお話でもしましょうか? 」

「宜しいのですか? 」

「ヤナギ様さえよければ」

「では、お願いします」

「分かりました」

お昼休み、メリアは黒猫、ゴマのしっぽを踏んでしまって、頭がぐちゃぐちゃになってしまったこと。

作ってきた新しい味のサンドイッチを、ヤナギに食べてもらいたかったと残念そうにしていたこと。

アイビーが、ヤナギの分まで授業を聞いて、分かりやすくまとめてくれていたこと。

カルミアが、風邪くらい誰でもひくのだから大丈夫だろうと口では言いながらも、ヤナギの話題になる度に眉を潜めていたこと。

それら全部を、笑いながらシードは話してくれた。

「カルミア様、本当に素直じゃなくって。この間だって……」

「カルミア様は、照れているのですね」

「はい。そりゃあもう、ヤナギ様の前なら特に」

そんな話をしていると、時間の進みが早いと感じるのは、当然のことだった。

「……あ」

「どうかしましたか? 」

時計を見て、シードが思い出したように困り顔になる。

「もう、こんな時間なんですね」

針は、6時を少し過ぎたところを指していた。

窓には赤い空が広がっていて、その眩しさに思わず目を細める。

そこで、沈黙が落ちた。

気まずくはないが、お互いが喋りだすのを待っている。

先に口を開いたのは、シードの方だった。

「あ、水また持ってきますね。喋りっぱなしで、喉乾いたでしょう? 」

空になったコップを見て、シードが背を向ける。

分かってる。シードは、ヤナギのために、水を持ってきてくれるのだ。

ヤナギを気遣ってくれている。

分かってるのに、それなのに。

「い……で」

「え? 」

力を振り絞って、限界まで手を伸ばす。

何とか服の裾を掴んだものの、力が入らずすぐに掠った。

「いか、ないで……」

喉が痛い。

けれど、頭痛は和らいでいた。

今朝感じた寒気も、毛布のおかげで何処かに行ってしまった。

「いかないで、ください……」

水を持ってきてくれるだけなのに、ここから出ていってしまうように感じた。

ヤナギを置いて、何処か遠くへ行ってしまうような。

「置いて、いかないで……」

体調が悪いと、思い出したくない、余計な記憶が蘇ってくる。

やなぎを、ヤナギを置いて行った、両親を、アザレアのことを。

ブルーディムの花畑で、アイビーは言ってくれた。

俺がいる、と。

けれど時々、不安になる。

一緒にいると言ってくれても、知らない間に、離れていってしまうのではないかと。

また、独りになってしまうのではないかと。

「いや……」

独りは、もう……。

本当はずっと、寂しかったのかもしれない。

1人に慣れてしまったせいで、寂しいなんて思わなくなってしまっていただけ。

寂しいなんて、今まで感じたことがなかったのに。

「もう、独りは……」

「大丈夫」

優しい声でそう言って、落ちた手をすくい上げる。

重なった手をギュッと握られて、温かい体温が伝わってくる。

「僕は、ここにいるじゃないですか。ヤナギ様は、独りじゃありません」

そう、だった。

今、シードはここにいる。

ヤナギは今、1人じゃない。

独りじゃ、ないのだ。

「夢を、見ていました……」

「夢? 」

「はい。幼い頃の、私の夢……。1人で、ご飯を食べていたんです」

シードは、黙って聞いてくれている。

「友人が、いたのに……いないような、そんな……。だから私は、メリアを……」

呂律が回らない。上手く喋ることができない。

やっぱり、体調が悪いのは良くない。

悲しいことなんてないはずなのに、勝手に涙が出てきてしまうのだから。

「もう、喋らないで」

唇に、人差し指が押し当てられる。

もう片方の人差し指を、シードは自身の唇に当てた。

シーっと、小さい子供にするように。

「僕には、ヤナギ様に昔何があったのかは分かりません。ただ分かるのは、大変な思いをしてきたということだけ。……なら、僕が言えるのは、このくらいしかないのでしょうね」

濡れた視界が、だんだんハッキリしてくると、思ったよりシードの顔が近いことに気がついた。

「……偉いっ! 」

急な褒め言葉に、理解が遅れる。

なんで褒められたのか、分からない。

唇に当てられていた手が、今度はヤナギの頭に置かれた。

「よく文句も言わず、耐えてきた! 偉い、偉すぎる! 」

「あ、あの……」

文句、は言っていたような気がする。

というか、我儘放題だったような……。

「偉すぎますよ……」

すると、さっきまで明るかった声が、絞り出すような、悲しそうな声色に変わった。

「人は、偉くなくてもいいんです」

「え……」

「独りが辛いなら、文句を言えばいい。誰も、咎めません。咎める人がいるのなら、誰か別の人を頼れば良い。独りでいることに、堪える必要なんてない。偉くあろうとする必要もない。そのことは、我儘でもなんでもないんですから」

「シード、様……? 」

「だから、もうちょっと、甘えてください」

微笑んで、シードは言った。

髪を優しく撫でられて、寂しかった気持ちが晴れていく。

温かさで、満たされていく。

また、この気持ち。

この世界に来てから、知らない気持ちにばかり出会っている。

それもこれも全部、シードや、皆のおかげなのだろう。

「ありがとう、ございます」

いっぱい感謝しているのに、それくらいしか言葉が出てこない。

もっと、沢山言葉を知っていたら違ったのだろうか。

「ねぇ、ヤナギ様」

「なんですか? 」

「僕からも、少し甘えた質問をしても、いいですか? 踏み込みすぎってことは、分かってるんですが」

「かまいません」

細められた瞳からは、真意が読み取れない。

何かに堪えるように、迷うように口を結んだあと、ゆっくり解かれる。

髪から頬に、シードの手がのびた。

「ヤナギ様はセルフ様のこと、どう思ってるんですか? 」







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