9

靴の音だけが辺りに響く。

廊下を隅々まで走り回って、外に出て中庭、食堂脇のテラス席まで探し回る。

誰一人喋ることなく、必死にその人だけを探していた。

これだけ探してもいないということは、やはりアザレアに会いに来ようともしていなかったということだろうか。

それならば次は養成所だ。

そこになら、間違いなく彼はいるから。

養成所の中に入ってこれまた長い廊下を突き進む。

セルフが先導して寮へと進んでくれていると、見つけた。

寮へと続く長い廊下をゆっくりと歩いている、ネイラを。

「ネイラ先生」

誰よりも早く、ヤナギがネイラに呼びかける。

ネイラは少し驚いた顔で、ヤナギの方を振り返った。

「ヤナギ様、それに皆さんも……いったいどうしたんですか? 」

「アザレア様が、ご出産なされました」

まずはそれだけ伝えて、ネイラの反応を伺う。

ネイラは一瞬凍りついたような表情になったものの、すぐにまたいつもの、貼り付けたような笑みに戻ってしまった。

「そうですか。それは、おめでたいですね」

現実から目を背けるように、ネイラはそれだけ言った。

「行かないんですか? 」

メリアがいつになく低い声でそう言った。

「アザレアさん、待ってますよ? 」

シードも、「行ってほしい」という願いを込めて、そう言った。

「ネイラ先生っ! 」

叫ぶようにセルフが言っても、ネイラはその場から動こうとしない。

「……私が行っても、邪魔になるだけでしょう? 彼女にはもっと、会いたい人達がいるはずです」

「それが、貴方だったとしても? 」

アイビーの言葉にも、ネイラはそんなはずないと言ってのける。

「もう、いいんです……。彼女は出産の道を選んで、実際にそれを成功させてみせた。私の制止なんて聞かずに、たった1人で、成功させてみせたんです。そんなことをされてしまえば、余計に合わせる顔が、ないじゃないですか」

この人は、何を言っているのだろう。

「今の私には、彼女に会う資格はありません。彼女だって、1番最後に会う人が私なんて、嫌に決まっています」

アザレアは、会いたいと言っていたのに?

どうして、嫌に決まってる、なんて決めつけることができるのだろう。

「彼女のことは、皆さんに任せます。苦労をおかけして申し訳ないですが、どうか最後までアザレアの傍にいてやってください」

そして、ネイラは背を向けた。

どうして?

ヤナギ達じゃ力不足だから、こうしてネイラを呼びに来たのに。

どうして、全部決めつけてしまうのだろう。

それも全部、アザレアの意志とは真逆の方に。

「……っているのですか? 」

その背中に小さく呟くと、ネイラは動きを止めてもう一度ヤナギの方を振り返った。

「え……? 」

「アザレア様のお気持ち、知っているのですか? 」

この問いかけに、簡単に「知ってますよ」なんて言わせちゃいけない。

言わせたく、ない。

強い瞳で睨みつけると、ネイラは焦ったような、驚いたような顔になった。

「アザレア様は、とてもネイラ様に会いたがっていました。これは、事実です。なのに何故、そんなことを知りもせずに、アザレア様のお気持ちを勝手に決めつけてしまわれるのですか? 」

「アザレアが会いたがっていた……? 例えそれが事実だったとしても、私はアザレアには会わないよ」

「どうして……」

「会う資格が、ない。私なんかが、彼女の傍にいていいわけがない。私は、結局守れなかったんだ。口だけだった。そんな私に、会いたいと思うはずが……」

「出産の道を選んだのは、アザレア様自身です。ネイラ様のせいではございません」

「……ありがとうヤナギ様。君にそこまで言って貰えるなんて、嬉しいよ。アザレアにも、宜しく伝えておいてくれ」

今は、お礼なんかほしくない。

その言葉に、もう我慢の限界だった。

「っなら……ならどうして会いに行ってあげないんですか!? 」

大きな声で叫んだヤナギに、全員が驚いたように目を向けた。

ネイラも、珍しく怯んだように1歩後退していた。

でも、離させやしない。

1歩ひいたネイラとの距離を、ヤナギは一歩詰める。

「アザレア様は会いたいって言ってたのに、どうして会わないんですか!? 」

「い、今の私には、会う資格が……」

「資格ってなんですか!? そんなつまらないプライドで、アザレア様の最後の願いを捨てるつもりですか!? それに、今の私って何ですか!? 今を逃したら、もう会うことはできませんよ!? 本当にアザレア様のことを想うのでしたら、お願いくらい幾らでもきいてあげてくださいよ!! 」

怒ったのなんて、前世でも今世でも人生で初めてかもしれない。

心の中が、どす黒いもので埋め尽くされていく。

こんな感覚、初めてだった。

「人は、いつ死ぬか分かりません。明日死ぬかもしれない。もしかしたら、今日かもしれない。いや、今、この一瞬のうちに死んだって、おかしくないんです……。その時、急に何も告げずに言ってしまった人には、どうすればいいんですか!? 最後、何も言えなかった自分の気持ちを、何処にやればいいんですか!? 」

ここにきて、自分が何故ネイラにこんなにも怒っているのかが分かった。

嫉妬、しているのだ。

ヤナギと違って、ちゃんとお別れを告げることができるネイラを、羨んでいるのだ。

今でもしっかり思い出せる。

霊安室と書かれた扉を開けた先。

病院独特の、鼻をつく消毒液の混ざった匂い。

その中で、たった2つの大きな桶。

中には、白い布がそれぞれの顔に被せられている。

それを外してみると、真っ暗な部屋の中でもハッキリと分かる、よく知った、何度も見てきた、自分の両親の顔。

それを目にした瞬間、空気が凍って、1歩も動けなくなってしまった。

寒くて、冷たくて。

ヤナギが両親にかけた最後の言葉は、家を出る直前に言った、「いってきます」になってしまった。

両親から聞いた最後の言葉も、「いってらっしゃい」になってしまった。

もっと、話したいことがあったのに。

なんでなんでと、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

あの時の感覚が、頭から離れずに残っている。

でもネイラは、そんな想いをしなくてすむかもしれないのだ。

ヤナギと違って、ちゃんとお別れをすることができる。

「まだ……まだ、時間はあります! だから、行ってください! 早く!! 」

「ヤナギちゃん……」

「ヤナギ様……」

困惑したまま動かないネイラに、軽い苛立ちを覚えて一際大きな声で叫んだ。

「アザレア様は、貴方のことが好きなのに!! 」

言った瞬間、ネイラの瞳が大きく見開かれた。

血が出るほど唇を強く噛み締めて、爪がくい込むほど強く両の手のひらを握りしめた。

「っ……! 」

そうして、何かを決心したようにまっすぐ前を向き、身を翻して全速力で走って行った。

アザレアの待つ、部屋の方角へと。

「……遅いんですよ」

去って行くネイラの後ろ姿に、ポツリと小さく吐き捨てた。






養成所を出て、全速力でアザレアの元へ向かう。

赤ちゃんが産まれた。

そう聞かされた時、何とも言えない気持ちがネイラを襲った。

赤ちゃんが産まれたことはとても嬉しい。

めでたいことだし、誇らしいことでもあった。

だが、それと同じくらいの不安と恐怖も存在していた。

アザレアを失ってしまう。そう考えただけで、胸の奥が悲鳴をあげて、苦しくなっていくのを感じた。

ぎゅうぎゅうと締め付けられる息苦しさを感じていると、ある少女が、いつまでもうじうじしていたネイラの背中を押してくれた。

ヤナギがあんなふうに怒るなんて、想像もしていなかった。

とても珍しいことだったため、ネイラだけでなくその場にいたセルフ達も皆、びっくりしてヤナギを見ていた。

そんなつまらないプライドで、アザレアの最後の願いを捨てるつもりか。

そう言われた時、ハッとした。

ネイラは、怖かったのだ。

アザレアに会う資格なんてないと言って、本当はアザレアに会うことを酷く怯えていた。

会ったら、どんな顔をされるか。

もう会いたくない、そんなことを言われてしまうのではないか。

そう思ったら、足なんて1歩も動かなかった。

『アザレア様は、貴方のことが好きなのに!! 』

もし、ヤナギの言葉が本当なのだとしたら……。

もし、アザレアが本当に、ネイラに会いたいと思ってくれているのなら……。

その気持ちに、応えなければいけない。

応えなければ、一生後悔するだろうから。

走って走って走りまくって、目的地前に到着する。

震える手で取っ手を掴むと、力を込めて開けた。

目の先には、青白い顔をしたアザレアがいた。

「ネイラ、さん……? 」

今にも消えてしまいそうな声で自身の名を呼ぶアザレアの手を、ネイラは想いを込めて握った。

「すまない……。いろいろと、俺は……! 君を、助けることも、君の気持ちを汲んでやることも、できずに……自分のことばかり考えて……! 本当に、すまなかった……!! 」

目から涙が溢れてくる。

ちゃんとアザレアの顔を見たいのに、視界がぼやけてしまっている。

ゴシゴシ擦っても、薄い膜が視界に張り付いた。

「見て」

そう、アザレアは目線をベッド近くの小さな小さな籠の中に向けた。

言われた通り中を見ると、そこには籠よりももっと小さい、すぅすぅと寝息をたてて眠っている、可愛らしい赤ちゃんの姿があった。

「元気な女の子、ですって。可愛いでしょう? 」

「ああ。本当に、天使のようだな」

ほっぺに優しく撫でるように触れると、ぷにっとした柔らかい感触が指を包み込んだ。

とても温かくて、優しいものだった。

「この子を、守ってくれるかしら? 」

「もちろん。アザレア」

「なあに? 」

「君は、美しいな。永遠に」

「それ、死んだ私にも言ってくれる? 」

「もち、ろん……」

弱々しく頷くと、アザレアは顔をくしゃくしゃにして笑った。

それが、最後の笑顔だった。

窓から差し込む夕日が、アザレアを照らす。

思わず見蕩れてしまって、言葉を失った。

まだ、まだ喋っていたいのに。

「……いかないでくれ」

「それは、できなさそうね」

「逝か、ないでくれ……」

「ごめんなさい」

謝ってほしいんじゃない。

分かってる。

もう、すぐそこまで迫っていることくらい。

でも、あと少し。あと少しだけでいいから。

もう少し、傍に……。

「ネイラさん」

とても、美しかった。

「ありがとう。好きよ」

これから逝ってしまう人間とは思えないほど、綺麗だった。

「ありがとう」

鼻を啜って、涙を拭って、それでも泣きながら、それでもハッキリと。

「俺も……大好きだ、アザレア」






小枝を踏みしめる度に、パキパキという音が辺りに響く。

山登りなんて、何時ぶりだろう。

小学校の遠足で行ったことがあるような、ないような。

ヒュウッと、冷たい空気が肌を掠めた。

見ると、落ちている葉っぱもすっかり冬の色に染まっている。

もう12月だから、当たり前なのだけれど。

山道を進んでいくと、石造りの階段が見えてきた。

その先は霧がかっていてよく見えない。

そのまま歩いていると、何処か見知らぬ世界に辿り着いてしまいそうだった。

階段を登って、その先に出る。

なんてことはない、普通の頂上だった。

以前来たことのある場所でもなければ、勿論見知らぬ世界なんかでもない。

極々普通の頂上。

極々普通の、墓地だった。

無数に並んでいる墓を進んで、ある所でピタリと止まる。

そこに、カルミアがそっと花束を添えた。

「綺麗な花ですね」

「ああ」

シードの言葉に、ブレイブも頷く。

花が、風で小さく揺れる。

「ネイラ先生は? 」

「後で来るってよ。ナズナを寝かしつけた後で」

アイビーとセルフがそんな会話をするなかで、ヤナギはお墓に手を置いた。

ひんやりとしているが、何故か温かみがある気がした。

すると、草を踏みしめて、メリアが隣にしゃがんだ。

同じようにお墓に手を置いて、じっと下を向く。

その肩は、震えていた。

「ヤナギちゃん、どうしよう、私……」

声も震えている。

嗚咽を漏らしながら、メリアは言った。

「アザレアさんに、いなくなっても笑っててって、言われたのに……そう、約束したのに……。わたっ、約束、破っちゃっ……」

ぽたぽたと、花の上に雫が落ちる。

雨なんかじゃないことは、ヤナギにも分かった。

「……そんなの」

花の上に、雫が落ちる。

雨なんかじゃない。

だって、それは。その雫の、主は……。

メリアと同じ震えた声を、喉の奥から絞り出す。

「そんなの……私なんて、もうとっくにっ……! 」

何かから守るように、自分をギュッと抱きしめる。

曇り空の下、頬を涙が伝っていった。






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