7

扉の先に、アザレアがいる。

その事実を改めて認識したせいか、ネイラはなかなか取っ手を掴もうとしなかった。

だが、ヤナギもブレイブもセルフも、誰も急かそうとはしない。

じっと、ネイラが動き出すのを待っていた。

ここに来てからたっぷり30秒が経過した頃、ネイラは意を決したように取っ手を掴み、ゆっくりとした動作でそれを開いた。

中には、非常に驚いた様子で固まっているアザレアがいた。

「アザレア……」

ネイラが小さく名を呼ぶと、アザレアは「……ネイラさん」と肩を小さく震わせた。

「ヤナギちゃん。ネイラ先生を、説得できたの? 」

ベッド脇にいたメリアがこちらに来てそう言った。

「おそらく、できたと思うわ。セルフ様が、してくれたから」

「そっか。セルフ様が」

「そちらは……? 」

メリア達の方は、アザレアを説得できたのか。

そう聞くと、メリアは表情を沈ませた。

「やっぱり、私達じゃ駄目。絶対出産するって言ってるよ」

「そう」

予想はしていた結果なので、そこまで落ち込みもしなかった。

ベッドの方を見れば、ネイラとアザレアが何やら話している。

「アザレア。君のことを、セルフ君達から聞いた。本当、なのか……? 君が、子供を産めば、死んでしまうというのは」

まだ信じられないというように聞いたネイラに、アザレアはこくりと頷いた。

「君は、どうしたいんだ? 」

「私はこの子を産むわ。せっかく授かった命なんだもの。流産なんて、あまりにも可哀想」

「そうか……。だが、聞く限りだと、必ず無事に産めるという保障はない。もし産めたとしても、直ぐに駄目になってしまう可能性だってある。それなら……それなら、今回は流産の道を選んで……」

「でも、私は産むわ。必ず無事に産める保障なんて確かにない。でも、必ず無事に産める可能性は、ゼロじゃないもの。それなら私は、どんなに少ない可能性でも、それにかけてみたい」

ネイラに言われても、アザレアが意志を曲げることはなかった。

「どうして……どうしてなんだアザレア!? あの時のことは謝る! 俺が悪かった! おまえの優しさを無下にして、自分勝手だったと思う! 気を悪くしているなら謝るから……」

「ネイラさん、それとこれとは話が別よ。それに、私は気を悪くなんてしていないわ。私の方こそ、貴方のこと何も知らないくせに、分かったようなこと言ってごめんなさいね」

「いい……いいんだ。全部、俺が悪いから。だからもう一度、やり直したいんだ! 長い長い空いた時間を、取り戻したいんだ! もっと、一緒にいたいんだ! だから、頼むからっ……」

まるで子供のように、ネイラは必死にそう縋った。

ベッドのシーツをギュッと握りしめ、離さないというようにいやいやと首を横に振る。

そんなネイラの頭を、アザレアは優しく撫でた。

「皆様の前で、情けないわよ。ネイラさんは強いから、私がいなくなっても大丈夫……」

「大丈夫なんかじゃない。アザレアがいないと、俺は強くいられない」

ヤナギも、そしてこの場にいる皆も、アザレアに生きてほしいと願っている。

でも、アザレアは赤ちゃんを産みたいと願っている。

ネイラの説得にも、アザレアは全く応じる気配がない。

だったらで……。

「私は、アザレア様の意志を、尊重したいと考えています」

この空気の中で言う台詞ではなかったかもしれない。

少なくとも、ネイラとアザレアの世界での話に、第三者が首を突っ込んで良い話ではなかっただろう。

でも、それでもこれが、ヤナギだから。

人がこうしたいと言うのであれば、その人の意志を尊重する。

それが、ヤナギだから。

「ヤナギ……、それは、アザレアさんが死んでも、良いということか? 」

怒る1歩手前のような震えた声で、セルフがヤナギに詰め寄った。

「そうは言っていません。ですが、アザレア様は、出産したいと仰っております。旦那様であるネイラ様が言っても聞かないほど……。でしたら、ここは、アザレア様の意志を、尊重なさるべきだと私は……」

思います。という言葉は、最後まで続かなかった。

そう言っていいのか、分からなかったから。

ヤナギはアザレアに生きていてほしい。

でも、アザレアは出産をしたいと言っている。

なら、アザレアの意志を尊重して、出産させるべきだ。

ヤナギの想いなんて関係なく……。

本当は死んでほしくないのに、アザレアが望むのだから仕方がない。

ヤナギは、生きててほしいのに。

そう思うと、もう言葉なんてでなかった。

死んで欲しくないと言いたい気持ちと、アザレアの気持ちを優先させたいという考えが、ごっちゃになってしまったから。

何も言わずただ歯噛みするヤナギに、セルフも何も言わなかった。

ヤナギに失望したのか、それとも心中を察してくれたのかは分からない。

「ありがとうヤナギ様。そう言ってくださって、とても嬉しい限りです。……もし私が死んでも、また花壇の世話をお願いできるかしら? 後輩だけじゃ、まだ少し心配でね。たまにで良いから、面倒を見てくれると……」

「やめてくれ」

アザレアの言葉を、ネイラが止める。

その顔は俯いてしまって見えないけれど、とても強ばった顔をしていることは肌で分かった。

「俺は、君を守りたい。今度こそ、守ってみせると決めたんだ……! 」

「なら、この子を守ってくれないかしら? 私は、育てられそうにないから……」

「やめろアザレア! 俺は、おまえを……」

「男の子なら、貴方のように剣術を教えるのも良いわね。女の子なら……私の好きなあの場所に、連れて行ってあげてくれるかしら? ほら、覚えてる? 貴方が私にプロポーズしてくれた、あの花がいっぱい咲いてるあそこに……」

「やめてくれ。頼むから……」

吐き捨てられたその言葉は、大分やつれたネイラから発せられたものだった。

シーツを握っていた手の力も弱められており、身体から力が抜けたようにその場に崩れるように座り込む。

「そういえば君は、意外と頑固な人だったな……」

「ええ。私はとっても頑固よ。1度言ったことは、絶対に曲げないんだから」

「そう、だよな……」

ネイラは、諦めたようにそう言った。

その顔に、いつもの笑みは微塵もない。

泣きそうな顔をして、悔しそうに口元を歪めている。

「なら……もう、いい」

何とか立ち上がってそう言ったネイラからは、生気がまるで感じられなかった。

そのまま何も言わずにベッドから離れると、さっき開けた扉をまた開いて、部屋から出て行ってしまった。

このままじゃ、駄目だ。

さっきまで、アザレアとずっと一緒にいたいなんて言っていたのに。

こんなふうに別れてしまうなんて、絶対駄目だ。

でも、追いかけようと思っても、足は動かない。

追いついたところで何と言っていいのか分からなかったから。

さっき「アザレアの意志を尊重したい」なんて言った人に何を言われても、響かないに決まっている。

「本当に、しょうがない人なんだから……」

去っていったネイラを見つめながら、アザレアがため息を吐いた。

「ねぇ、あなた達」

「……なんでしょうか」

アザレアに呼ばれて、ヤナギが答える。

ヤナギ以外の面々は、視線こそアザレアに送ってはいるが、何も言う気配はなかった。

「私がいなくなった後、あの人が苦しんでいたら、傍にいてあげてくれる? 」

「……私で、良いのでしょうか」

ヤナギよりも、アザレアが傍にいた方が良い。

寧ろ、アザレアじゃないと、駄目だ。

それはアザレア自身もわかっていることのはずなのに、アザレアはニッコリ笑って「ええ」と言った。

初めに部屋を出たのは、シードだった。

重たい足を引きずりながら、さっきネイラが開けっ放しにしていった扉から出て行った。

続いて、メリア。

その次は、アイビーとカルミアが。

そして、セルフとブレイブが。

「もう遅いわ。貴方も帰りなさい」

アザレアに言われて、最後にヤナギが。

「それでは」も「失礼します」も何も告げず、一礼だけして黙って部屋を出た。



「俺も、ヤナギと同じ気持ちだ」

帰り道。誰も何も言わない状況下で、カルミアが静かにそう言った。

「もう、誰が何を言っても、アザレアさんは出産を選ぶと言っていた。だったら俺も、その意思を汲んでやるべきだと思う」

「なら、アザレアさんはどうなるの? 」

意地悪な質問を、メリアがする。

カルミアは何も答えない。

メリアも、それ以上は何も言わなかった。

「僕達ができることって、なんなんでしょうね」

長い長い廊下を進んでいた足をぴたりと止めて、シードがそう呟いた。

「出産を選べばアザレアさんはいなくなって、流産を選べば赤ちゃんがいなくなる。どっちをとっても、命は消える……。どっちを取るかは、アザレアさんが決めることなんじゃないかって、僕は思う」

確かに、シードの言う通りだ。

これはアザレアの問題。

そもそもヤナギ達が口を挟んで良い問題じゃない。

「でも私は、アザレアさんに生きててほしい……」

「それは僕も、メリアちゃんと同じ気持ちだよ? でもアザレアさんは、赤ちゃんに生きてほしいって思ってる。僕達が、アザレアさんを想う気持ちと同じように……」

この先の道は、3つに別れている。

右に行けば女子寮、左に行けば男子寮。まっすぐ行けば外に出る。

でも誰も、動こうとはしなかった。

「……俺は、ネイラ先生に後悔してほしくない」

「セルフ……」

「ブレイブだってそうだろ? ずっと近くでネイラ先生を見てきたんだ。あの笑顔をずっと……」

あの、誤魔化しの笑顔をずっと……。

「俺は、ネイラ先生を助けたい。入団試験に落ちた俺に、ずっと剣を教えてくれたネイラ先生に、恩返しがしたい」

その言葉に、ブレイブも頷いた。

「そうだな。俺も、剣は全部ネイラ先生から教わったから。後悔はしてほしくないと思っている」

ブレイブがそう言うと、誰かの足が左に向かって歩き始めた。

「アイビー様、何処に行くんですか? 」

シードの呼び止めに、アイビーは足だけ止めて、振り返らずに答えた。

「俺たちに、できることはない」

それは、頭のどこかでは分かっていたことだった。

おそらく皆分かっていたけれど、どうにかしてアザレアを助けたいと思ったから、見ないふりをしていたこと。

「見守ることしか、できないんだと思う……」

さっきシードが言ったように、これはアザレアが決めることだから。

アイビーの核心を突く一言に、誰も反論する者はいなかった。

「じゃあ俺とブレイブは、こっちだから」

「ああ。シード、俺たちも行くぞ」

「ヤナギちゃん、私達も行こうか」

そうして、バラバラになっていく。

勿論誰も、悪い人なんていない。

だけど、誰かのせいにしたかった。

そう思うことで、自分の無力さを隠したかった。



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