6
「ネイラ先生! 」
部屋には、さっきセルフが持ってきた食事がそのまま残されていた。
一切手をつけられていないそれを見て、何故か胸が苦しくなる。
「また来たのか。今度は、ヤナギ様とブレイブ君も一緒に……」
「ああ。アザレアさんのところに行って欲しい。今すぐにだ」
単刀直入にそう切り出すセルフに、ネイラは動じることなく穏やかに返す。
「さっきからなんなんですか? 急にアザレアのことを聞いてきたりして……。もしかして、倒れたと聞いたから……」
「……ネイラ先生は、何でアザレアさんが倒れたのか、知ってんのかよ!? 」
アザレアが倒れたことに慌てる様子もないネイラに、セルフが痺れを切らしたように叫んだ。
だが、それでもネイラの態度は変わらない。
「何故倒れたかは知りませんが、私なんかが見に行ったところで何も変わらないのは事実です。それより、もう遅い時間ですから、早く自分の部屋に帰りなさい。ヤナギ様は、私が送っていきましょう……」
「このままでは、アザレア様は亡くなられてしまいます」
「……え? 」
ヤナギの不意を突く一言に、ネイラの顔が固まった。
「ですので、早くいらっしゃってください」
「……」
ネイラは、何も言わない。
何か考えるようにじっと黙っているようだった。
「亡くなる、なんてそんな、大袈裟な……」
「それが、そうじゃないんだ」
「ブレイブ君? ……教えてください。いったいアザレアに何が……」
そういえば、ネイラがアザレアのことは呼び捨てで呼んでいることに今更ながらヤナギは気づいた。
ブレイブやヤナギのことは、君や様を付けて呼んでいるのに。
そこはやはり、夫婦という特別な関係がそうさせているのだろうか。
「……そんな、ことが……」
全ての事情を聞いたネイラは、来た時とは打って変わって、愕然とした、青ざめた表情になっていた。
「俺は、アザレアさんには流産の道を選んでほしいと思ってる。でも、俺たちが言っても聴かねぇんだ……。だからっ、ネイラ先生から、言ってもらえればと思って……」
セルフが必死に言うと、ネイラはようやく事の重大さを理解したのか、話に耳を傾けた。
「……アザレアは、流産は嫌だと言ったのか? 」
「ああ。本人は、嫌だって言ってる。でも俺は、アザレアさんに、死んで欲しく、ないんだよっ……」
「……セルフ君」
「んだよ……」
「君がアザレアと初めて会ったのは、何時ですか? 」
「え……2日くらい前に昼飯の時に会ったのが、初めてだけど」
「じゃあ何で、2日前に初めて会ったばかりの人に、そこまでするのですか? 」
ネイラは、あくまで冷静にそう言った。
それは確かに、ネイラの言う通りだ。
ヤナギ達はともかく、セルフがアザレアに会ったのは昨日が初めてなはず。
なのに、どうしてそこまでアザレアをどうにかしたいと思えるのか。言われてみれば、確かにそう思う。
「……」
今度はセルフが黙る番だった。
そんな沈黙を、仕方がないなとでも言いたげに、ネイラがやれやれと小さくため息を吐く。
「少し、昔話をしましょうか」
それは、昔昔の、昔の話。
ほんの数年前に起こった、短いようで、長いお話。
15歳の少年、ネイラ・ショルダーという男がいた。
身分は伯爵で、よく貴族の集まりにも参加させられていたが、あまり愛想の良くなかった彼はそういった場が苦手だった。
そんなある日、お茶会に参加したネイラは、誤ってケーキをある令嬢のドレスに落としてしまった。
沢山謝ったが許してもらうことはできず、結局暗い気持ちを抱えたまま、その日の茶会は終了となってしまった。
人から好かれることもなく、好きなこともなかったネイラは、毎日がとても嫌いだった。
こんな日々を変えたい、そう思ってもどうすれば良いのか分からず、何もできないままでいた。
そんなネイラの元に、父がやってきた。
長く鋭い剣を2本持ってやってきた父は、うち1本をネイラに投げて渡した。
稽古をつけてやる、と父は言った。
剣術の授業は専門の先生から教わったことがありよく知ってはいたが、こうして父に稽古をつけてもらうことは初めてだった。
父は、剣術が得意なわけでもなければ、騎士だったわけでもない。
対するネイラは、剣術にはそこそこ自信があった。
余裕で勝てるだろう。そう思っていた。
想像通り、ネイラは父に余裕で勝った。
1試合目も、2試合目も。
稽古をつけてやる、なんて言われたが、何も教わることなんてまるでなかった。
もういいだろと、苛立ちを含んで剣を返そうとすると、父はもう一試合だけ、と言ってネイラを引き止めた。
どうせ、何回やっても結果は変わらないのに。
3試合目も4試合目も5試合目も……父は負けて、負け続けた。
夕方になった頃。もう何試合やったか数えるのを止めた時。
父が初めて、ネイラに勝った。
手から離れた剣を呆然と見つめるネイラに、父は笑ってダブルピースを突きつけてきた。
良い大人が、何を子供みたいなことをしているんだか……。そう思った。
それと、とてつもない程の悔しさが、感情を支配した。
ずっと、ネイラが勝っていたのに。
ずっと弱いと思っていた人に負けた時、こんなにも悔しくなるのだということが、この時初めて分かった。
「見ろ。俺は最初、ずっとおまえに負けっぱなしだった。でも、何回も試合を重ねるうちに、こうして勝つことができたんだ。人は絶対に変わることができる。おまえもな」
人にできないことはない。父はそう、教えてくれた。
落ちた剣を拾うと、1試合目の時よりも酷く汚れてしまっていた。
手入れをしようと磨いてやると、剣はピカピカになった。
それを見て、なんとも言えない愛着心が湧いた。
それからネイラは、騎士を目指すようになった。
一生懸命勉強をして養成所に入ったのは、18の時だった。
周りに自分と同じ夢を持っている人がいる。それだけで、十分わくわくした。
養成所で過ごしていくうちに、自然と笑えるようになっていた。
貴族の集まりに出かけても、笑い返すことが出来るようになっていた。
そんな時、彼女と出会った。
黄色のシンプルなドレスを身にまとった、栗色のショートカットが魅力的な、アザレアという名の女の子。
女の子と話すのが苦手だったネイラは、初めはただ鬱陶しいだけだった。
でも、どんなに拒んでも、彼女は諦めずに話しかけてきた。
パーティーが終わってからも手紙を送ってきたりした。
流石に家にまで来ることはなかったけれど、それでも出かけ先などでたまに見かけては、あっちの方から寄ってきた。
好きな食べ物。
好きな色。
好きな天気。
好きな花。
好きなタイプ。
様々な話を振ってくる彼女を無下にすることもできず、しだいに話に乗るようになった。
そうしていくうちに、彼女を好きになっていった。
何か、特別なきっかけがあったとか、そういうわけではない。
気がついた時に、好きになってしまっていたのだ。
毎日のように来る手紙も。
出かけ先で見かけた時も。
心の何処かで、彼女に会うことを、話しかけてくれることを、楽しみにしている自分がいた。
だから、プロポーズをした。
彼女が好きな花が、沢山咲き誇った場所で。
この人を、一生守りたいと思ったから。
でもネイラは、彼女を守ることができなかった。
怪我をさせてしまったのだ。
22で結婚した時、まだ寮生活を続けているネイラの傍にいたいと、彼女は隣のヒーストリア学園で用務員として働くことを決意した。
自分のせいで仕事を決めさせてしまったことによる罪悪感もあったが、出来るだけ近くにいたいという彼女の想いに、素直に喜びを感じたりもした。
彼女は毎日、訓練が終わったネイラの元に、夕食を届けに来てくれた。
養成所の入り口前で待ち合わせをして、わざわざネイラに手渡してくれるのだ。
もちろん、あの日も同じように。
訓練が終わって、彼女を待っていた時。
少し遅いから、来るまで自主練でもしていよう。
そう思った。
養成所の入り口の裏側。
草が生い茂った普段は誰も来ない場所で、ネイラはよく1人で自主練をしていた。
ネイラがよくこの場所にいる事は、彼女しかしらない。
2人だけの、秘密の場所だった。
素振りをしていると、ネイラを呼ぶ心地よい声がした。
振り返ると、彼女が夕食が入っているのであろう籠を持ってこちらへ駆けてくるところだった。
すぐに夕食を手渡してくる彼女に、その日ネイラはもう少し自主練をさせてほしいと頼んで、待ってもらっていた。
養成所に通って、早5年。
まだ騎士になれていないネイラには、焦りが生じてしまっていた。
だから最近、剣を振る時に荒っぽさばかりが目立つと、先生方にも言われていた。
そのことを直そう直そう思いながらも、ネイラは直せていなかった。
それが、いけなかった。
ちょうど、剣を100回振った時。
「あ、待って……! 」
そう言った声は、聞こえていたはずなのに。
上から下に真っ直ぐ振り下ろしたそれは、周りの雑草には掠りもしなかった。
当たったのは、人だったから。
血しぶきが火花のように舞って、剣先から血がぽたぽた落ちる。
目線の下には、身体を丸めて蹲っている彼女。
背中を真っ赤に染め上げた、彼女がいた。
背中を襲った剣を放って、彼女の元に駆けつけた。
どうして、そう聞くと、彼女は蹲っていた身体を少しだけ浮かせた。
彼女の身体で押しつぶされるようにして隠れていたのは、たった1輪の、青色の小さい花だった。
「これを……守りたかったの……」
それだけのために。
そんなことのために、とネイラは思ったけれど、彼女にとっては大切なことだったのだろう。
幸い傷は浅くすぐに完治することはできたが、それでも後遺症はできてしまった。
背中にまっすぐ入った縦の字は、ずっと脳裏に焼き付いたまま離れずにいる。
守ろうと決めたのに、守れなかった。
それからだ。
剣を握ると、恐怖が身体を駆け抜けた。
誰かを傷つけてしまうことが、怖くなった。
そのせいもあってか、何回入団試験を受けても、ずっと落ちてばかりになった。
焦りと不安。それに恐怖までプラスされてしまえば、もう何も考えられなくなっていた。
自分は、何故騎士になりたいのか。それさえも、よく分からなくなってしまっていた。
何回目かの試験の時、自分より遅く養成所に入った人が、合格した。
それに比べて、また自分は落ちてしまった。
劣等感ばかりが募った。
もう、頑張っても無駄なのではないか。
もう、諦めてしまおうか。
そう思ったら、幾分か気が楽になった。
「もう、騎士になるのは止めるよ。いつまでもおまえにばかり働かせているのは悪いからな」
笑って、そう言った。
彼女に、無駄な心配をかけさせたくなかったから、無理にでも笑った。
「そんな。せっかく見つけた夢なんでしょう? 諦めるなんて勿体ないわ。もし、心が折れかけているのなら、私に話してみてくれないかしら? 辛い時は、思いっきり泣くのが良いんだから。貴方は強がりだから……」
うるさい。
そう言ってくれる彼女に、不信感を抱いた。
せっかく、諦めようと思ったのに。
そんなことを言わないでほしかった。
せっかくの決心が、揺らいでしまいそうだったから。
もう少し頑張ってみようかなんて、そんな安っぽい期待をさせないでほしかった。
「1年くらい、前でしょうか……」
数年前から、つい最近の話へ変わる。
「それからあまり口もきかなくなって、お互い会う機会も減っていって……もう、別れた方が良いんじゃないかと、考えていた時期があったんです」
妥当な判断、といえるだろう。
ネイラにとってもアザレアにとっても苦しい時期だったであろうことは明白だ。でも、それでも「だった」と過去形にしたのは、今ではそんな考えを抱いていないということだ。
ネイラはふっと、自嘲気味に笑って続けた。
「今みたいに、白い季節でした。私から別れを切り出して、そしたら彼女はごめんって、謝って。悪いのは私なのに……。アザレアは、絶対に別れたくないって泣いて、なんでって聞いたら、なんて言ったと思います? あなたのことが好きだからって……」
どんどん小さくなっていく声に、耳をすませて聞き入る。
「おかしい、ですよねあれだけずっとほったらかしにされたのに。あれだけ八つ当たりされたのに、まだ好きとか……。そしたらアザレアは、こうも言いました」
なんて? と聞く前に、ネイラの方から声を発する。
「2人の、子供がほしいって」
笑顔が、剥がれ落ちていく。
「僕は必死に首を振って、でもアザレアはお願いって頼み込んで……そこから、喧嘩みたいになってしまって……。お互い別れるだの子供がほしいだの散々言い合って……最終的にはアザレアの、子供がいれば寂しくないから、の一言で折れました」
どんなに強がっていたとしても、所詮は強がり。
ネイラをずっと待ち続けていたアザレアにも、限界がきていたのであろうことを知った。
勢い任せで言ってしまったのかもしれないが、それはたぶん、本音だった。
「だから私は、また、彼女を傷つけて……」
同じ過ちをしてしまったと、ネイラは嘆く。
「心の底から、愛しいと思いました……。彼女の吐息も、掠れながらも名前を呼んでくれる声も。美しい身体も……。でも、でもっ、駄目なんです。だって、いくら彼女の望み通りにしても、彼女を受け入れても、私はどうしても、また彼女と同じ道を歩んでいく未来図が、想像できなかったんですから……」
1度できてしまったトラウマは、そう簡単には治らない。いくら相手からの望みであっても、自分の代わりをつくる機械的な作業なんて、辛いものもあって当然だった。
「気づいたら私は、彼女を滅茶苦茶にしてしまっていて……怖くなって……。次の日の朝、家を飛び出して、それからアザレアとは口をきいていません。最低ですよね」
長い長いお話を聞き終えた後も、ヤナギ達は一言も発しなかった。
「どんなに辛い時でも、笑っていれば楽なんです。その場しのぎの薬、みたいなものですかね。ずっと笑顔でいれば、本音なんていくらでも隠せるんですよ。他人からも、自分からも」
そうすることに何の苦痛も厭わないと言った風に、ネイラは言った。
「私の話はここまでです。それではセルフ君、もう一度聞きます。何故貴方は、最近会ったばかりのアザレアにそこまで……」
「アザレアさんのことが心配なのは本当だ」
ネイラの言葉を遮って、セルフが口を開いた。
「最近会ったばかりでも、アザレアさんが良い人なのは十分伝わってきたからな。でも……1つ、言えてないことがあったとすれば……」
選ぶように、セルフは続きの言葉を紡ぐ。
「ネイラ先生を、助けたかったんだ」
「私を……? 」
どうして? とか、何のために? とか、ネイラの顔にはそう言ったことが書かれている。
「正直、その笑顔が無理してるやつだってのは、気づけなかった。その顔が当たり前で、何の違和感もなかったからな。……でも、ネイラ先生が何か苦しんでるのは、何となく分かってた」
「……」
「俺が入団試験に落ちた時、言ってただろ? 自分を認めてあげることができず、自分は自分だということに、気づかなかった、だったか? なぁ、ネイラ先生は、何になりたかったんだよ? 」
セルフは、ブレイブになりたかったと言っていた。
誰かになりたくて、誰かの真似をして。
なら、ネイラ先生は、誰の真似をしていたのだろう?
「私は……私は、分かりません。強いて言うなら、父のように……いえ、父が言ったように、自分も変わりたかったのだと思います。毎日が、つまらなくて、大して興味のない物事を、延々と繰り返しているような、そんな現状から、自分も成長したかった。それが、騎士でしたから……。でも私は、騎士になることができなかった。ですが、騎士になれない自分を、人を傷つけてしまった私を、アザレアは責めたりしなかった。寧ろ、認めてくれたんです。まだまだこれからだって言って、応援してくれていた……。でも、私はそんな私が、許せなかった」
だから、アザレアを突っぱねてしまった。
それでもアザレアは、めげずに今も、ネイラに食事を届け続けている。
「剣を教えるようになったのは、まだ未練があったからです。今では、剣を怖いと思う気持ちも大分薄れてきましたから。教える側も、なかなかいいものなんですよ? やり甲斐もあって、楽しい。だから、後悔はしていません。……それに、このことは良い教訓にもなったんです。夢は、叶わないものもある、とね。私には才能がなかったのですから。父におまえも変われる、なんて言われて、調子に乗ってしまっただけだったんですから……」
「叶わない夢なんてねーよ」
セルフが、ハッキリと、力強く、頑なにそう言った。
「叶わなかったんじゃない。叶えなかったんだろ? 自分で諦めたくせに、それを他のせいにしようとしてんじゃねーよ」
「……セルフ君」
「ネイラ先生の父親は、何回も何回もネイラ先生に勝負を挑んで、最終的には勝ったんじゃねーのかよ? 粘り強く戦って、抗って、成功させたんじゃねーのか。何を、学んできたんだよ……」
ネイラが、ハッとしたようにセルフを見た。
真剣味を帯びたセルフの瞳に、背筋がぞくりと震える。
すると、会話に参加しなかったブレイブが、ここにきてようやく口を開いた。
「アザレア様を、守るのですよね? 」
ネイラは、アザレアを守ると心に決めたと言っていた。
続いてヤナギも、口を開く。
「ネイラ様。アザレア様を、助けていただけないでしょうか? 」
叶わない夢なんてない。
もしセルフの言ったことが本当ならば、もしかしたらまだアザレアを救う手立てはあるのかもしれない。
粘り強く抗い続ければ、何とかなるのかもしれない。
でもそれには、ネイラの手伝いは必要不可欠になる。
頭を下げてお願いをすると、ネイラは顔を俯かせた。
「俺も、アザレアを助けたい。今度こそ、守りたい。ずっと、一緒にいたい……」
ネイラは、笑っていなかった。
苦しそうに、顔を歪ませてそう言ったのだ。
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