4
パリン。
割れた食器を拾うこともせず、アザレアはシンクの前で立ち止まっていた。
呼吸が荒い。
目の前が黒くなっていく。
寒気がする。
あと、吐き気も。
立っていられなくなりその場に倒れるように座り込むと、よけいに気分が悪くなってしまった。
「ショルダーさーん。いるー? 」
ちょうど良いタイミングで、部屋の扉をコンコンと叩く音がした。
「ショルダーさーん? 」
この声は、職場の後輩だ。
「は、い……」
何とか声を出して答えると、その苦しそうな様子が伝わったのか、「ショルダーさん!? 」と後輩がすぐに部屋に入ってきてくれた。
「ショルダーさん、大丈夫ですか!? 」
「大丈夫……ちょっと立ちくらみがしただけだから」
「と、とりあえずお医者様を呼びます! 到着に時間はかかるでしょうが……それまで我慢できますか? 」
「いいわよ。そんなに大事にしなくても……」
「よくありません! お腹に赤ちゃんいる人が、何言ってるんですか! 」
後輩が一生懸命、ベッドまでアザレアを運んでくれる。
ぼーっとしながら身を任せていると、アザレアの視界にある物が映りこんだ。
シンクの上に置かれた、パンとスープに魚のムニエル。
そうだ。アザレアにはまだ、やらなければいけないことがある。
「あれ……あの夕食を、学園の隣の、養成所まで持っていかなきゃ……」
「何言ってんですか! 安静にしててください! あれは、私が持っていきますから」
「あ、ありがとう……。養成所へ行って、ネイラ・ショルダーって人に、渡してくれればいいから」
「分かりました。それじゃあ行ってきます。渡してきたら、すぐ戻ってきますので。あ、飲み物ここに置いときますね。それでは」
テキパキ動く後輩をぼんやり眺めているうちに、アザレアは1人になった。
気持ちが悪い。
頭がぐるぐるする。
お腹の子は、大丈夫なのだろうか。
医者は、いつ来てくれるのだろう。
明後日か、それともその先か……。
兎にも角にも、明日は仕事ができそうにない。
誰かに代わりを頼まなければ……。
そう考えている間に、気がつけば深い眠りに落ちていた。
「……ふーむ」
白い髭を生やした老人は、アザレアを診たまま神妙な面持ちでいた。
「先生、どうなんですか? 赤ちゃんは、無事なんですか? 」
険しい表情に、不安が募っていく。
「アザレア、少し落ち着いて。これで汗を拭いた方が良いわ」
「ありがとうございます、学園長先生……」
アザレアの隣にいた学園長が、ハンカチを渡してくれる。
「ほら、お水も飲む? 」
「ありがとう……」
そばにいた後輩から水を受け取り少しだけ口に含むと、アザレアは医者の方に向き直った。
「落ち着いて、聞いてください」
低い低い声で、医者はまっすぐアザレアを見た。
緊張して、手に力が籠る。
ギュッと握ったことで、ベッドのシーツがくしゃりとシワを作った。
「アザレア様、あなたは――――」
「……食べねぇのかよ? 」
机の上に置かれたパンとサラダに口をつけようとしないネイラに、セルフが不機嫌な顔を隠しもせずに言った。
「2日ぐらい前からずっと、届けられてんぞ。ネイラ・ショルダーに渡してくださいって、学園の用務員さんが」
「誰が来……」
「アザレアさんじゃねーぞ」
「アザレア」の名を出した瞬間、ネイラが弾かれたようにセルフを見た。
なんでアザレアを知っているのか、と思いっきり書かれたその顔に、セルフは仏頂面で返す。
「あった。花壇で昼飯食ってたら。奥さんなんだろ? 2日前に倒れてからも、容態が軽くなった途端に、ネイラ先生のために夕食作ってるんだと」
「そう、ですか……」
それだけで、ネイラは一向に食べようとしない。
「なんで食わねーんだよ? 」
「今の僕には、彼女の食事を口にして良い資格がありませんから」
「資格? 」
「彼女から、聞いたのでしょう? 僕のことを話したということは」
「まぁ、ある程度は……」
騎士になれなかったネイラがアザレアに八つ当たりをして、それから疎遠になってしまったと。
「彼女は決して悪くないのに……。あの時の私は、本当に子供みたいでした。それでまだ、謝っていないなんて……」
「じゃあ、謝ればいいだろ? 」
「それができたら、苦労しませんよ」
もう長いこと話していないと聞いている。
ぽっかり空いた時間の隙間は、そう簡単に埋められるものではないのだろう。
「……とりあえず、飯は食えよ。じゃあな」
これ以上は、何も話すことなんてない。
パタンと扉を閉めると、壁に背を預けていたヤナギとメリアがハッとしたように顔をあげた。
「どうでした? 」
と聞きつつも、セルフの表情を察してメリアは悲しそうに眉尻を下げた。
「今のネイラ先生には、アザレアさんの飯を食う資格はないんだってよ」
「そんな……。アザレアさんは、ネイラ先生のために毎日ご飯を作ってるのに……」
「ネイラ先生、ああ見えてけっこう真面目なんだよ。変なところで」
ブレイブに剣を教えていた人だ。
それなりに強いし、努力だってできる。
養成所の生徒全員がネイラにかかっても、瞬殺でなぎ倒していく程の技量を持っている。
そんなネイラがこれまでどんな努力を積み重ねてきたかなんて、きっとセルフが想像している以上のものなのだろう。
「アザレアさんも、大丈夫かな……。倒れたって、聞いたけど」
「妊婦さんだしな。大丈夫だと良いだが……」
普通の人が倒れたならともかく、アザレアが倒れたとなればさすがに心配だ。
「ネイラ先生には、倒れたこと伝えたんですか? 」
「ああ。伝えたけど、あんま心配してるようには見えなかったな」
少なくとも、セルフには。
またも悲しそうな顔をするメリアにどう言ってやることもできず、黙りこんでしまう。
そんな気まずい空気を破ったのは、意外にもヤナギだった。
「お見舞いに、行ってきます」
お見舞い。確かに、行って様子を確認した方が、ここでうじうじ心配しているよりも手っ取り早い。
「そうだね! 私も行くよ! 」
「そうだな。俺も行く」
メリアとセルフが賛同して、アザレアのお見舞いに行くことが決まった。
何故お見舞いに行こうと言い出したのか、それは自分でもよく分かっていない。
ただ、心配だから。そんな気持ちが強くて、様子を見ておきたいと思ったのだ。
ヤナギは、心に何か焦りのようなものが生じていた。
アザレアは大丈夫なのか。
もしかしたら危ない状態に陥っているのではないか。
そんな不安が心を埋めて、どうしようもない焦燥感に駆られていた。
「アイビー様、それにシード様も」
アザレアがいる学園で働いている人達専用の寮へ向かう道すがら、同じ方向を向いて歩いていたアイビーとシードを見つけてメリアが声をかけると、呼ばれた2人はこちらを振り向いて手をあげた。
「メリア。ヤナギとセルフも。皆も、アザレアさんのお見舞いか? 」
「はい! アイビー様達もですか? 」
「ああ。倒れたと聞いたから、心配で……。いつも世話になっているしな」
「お世話に? 」
「学園の花の手入れや管理を、任せっきりにしてしまっていたからな。倒れても無理はない。今度、俺の方からもっと人手を増やせないか先生の方に問い合わせてみるつもりだ」
「そうですか。アイビー様も、ご苦労さまです」
「シードは? なんでいるんだ? 」
シードの存在に疑問をもったらしいセルフがそう言うと、シードは少しムッとしたように口を膨らませた。
「なんでいるんだって……。そりゃあ、心配してるからに決まってるじゃないですか。僕だってお世話になってますし。誰とも遊ぶ予定がなかった時とか、時々お花を見させてもらってて……。その時に、アザレアさんと何度か。あの人、妊婦さんですよね? あのお腹の大きさは、多分そうかと思って……。だとして倒れたなら、けっこう心配で……」
アイビーとシードも、ヤナギと同じ気持ちだったらしい。
「早く、行こう」
急かすシードと同じペースで、ヤナギ達もアザレアの寮へと向かった。
「アザレアさん! 」
扉をノックして開けると、そこにはベッドに横たわった状態でいるアザレアの姿があった。
その隣には丸椅子に座ってアザレアの様子を見ているカルミアがいる。
本を読んでいたらしいカルミアは、それを一旦机に置いてこちらを見た。
「なんだおまえらか。そんなに大人数で押しかけて、迷惑だとは思わなかったのか? 一応病人がいるんだから、配慮というものをだな……」
「大丈夫よカルミア様。私は平気だから」
カルミアの小言を制止して、アザレアはこちらに目線をやった。
「皆、来てくれたのね。ありがとう」
「アザレアさん、お身体の方は、大丈夫ですか? 倒れたとお聞きしたのですが……」
「アイビー様も、わざわざありがとうございます。見ての通り私は何の問題もございませんので、御安心ください」
「問題があったから倒れたのでしょう? いいから早くお休みになられてください。また倒れたりでも
したら大変です」
「確かに、カルミア様の言う通りですよ。僕達のことは気にせずに、休んでてください」
優しい声でシードが言うと、アザレアは「じゃあ……」と大人しくなった。
「セルフ君」
「……なんでしょうか」
セルフがベッドに横たわるアザレアと目を合わせる。
その静かな、何の疑問も抱かない口調は、次アザレアが何を言うか分かっているようだった。
「彼は、ご飯を食べているかしら? 」
セルフは、何も答えない。
その沈黙が、全てを物語っていた。
「私が作ったものじゃなくて良いの。彼は、ちゃんと食べてる? 身体、壊してない? 心配で……」
「食べて、ますよ。ご飯はちゃんと……」
「そう。良かったわ」
辛そうに言うセルフに、アザレアはにっこりと微笑んだ。
「ネイラ先生? 」
シードが首を傾げて聞くと、アザレアは口角を上げて答えた。
「私の旦那よ」
「旦那さん……? 」
「ええ。いろいろあって、あまり仲は良くないけれど……」
「アザレアさん、あまり無理に喋らない方がよろしいと思います」
これ以上の話を、カルミアが強い口調で遮った。
「おまえらも、もう帰れ。これ以上は迷惑だ」
「私は平気よ? 何の問題もないから」
「問題がないって、どの口が……」
カルミアが、苛立ったように小さく舌打ちを漏らす。
その態度に、シードが口を開いた。
「カルミア様、どうしたんですか? 何か、イライラしてません? 」
確かに、今日のカルミアはいつもと違う。
言葉の内容はとても正論でカルミアらしい真面目なものだが、言い方に何だか棘があるように感じるのだ。
「……胎盤が」
「胎盤? 」
メリアが聞いた通りにそのまま返すと、カルミアは小さく頷いた。
「胎盤が、子宮壁から、剥がれて……栄養が届かなくなって……出血が……」
掠れた小さな声で呟くカルミアに、シードが焦った声を出す。
「ちょ、ちょっと待って。どういうこと……」
「出産をすると、アザレアさんは亡くなる」
一言で、端的に、カルミアはそうまとめた。
突然の報せに、ヤナギは何も言えないまま愕然とした。
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