8

「マリーさーん? 」

近くで、メイドの声がする。

扉越しにいるかもしれないと思い息を潜めてじっとしていると、「ここにはいないのかしら……」と、足音と共に遠くへいった。

そっと扉を開けて外の様子を伺うと、そこには誰もいない。

昼間は晴れていた空は、気がつけば雨雲に覆われていた。

扉を閉めて、ギュッと縮こまる。

狭い狭い倉庫の中で、マリーはかれこれ2時間ほどここにいた。

肥料や土の匂いが充満しているこの匂いにも、すっかり慣れてしまっていた。

足元には、壊れてしまったペンダントと、綺麗に並べられた花の苗がいくつも置いてある。

それらを踏まないように身体を起こして、更に奥の方へ移動して、また身を小さくした。

こんなに長い時間仕事をほっぽり出していては、メイド達に、叱られてしまうかもしれない。

それでも、ここを動きたくなかった。

思い出していたのは、家のこと。

『こんな家……大っ嫌いなんだよ! もう、関わらないでくれ! 』

兄は、全てを嫌いになってしまった。

母も、父も、マリーのことでさえも……。

昔は楽しかった。

マリーがまだ、言葉を覚えたてだった頃、庭に咲いている花の名前や、飛んでいる蝶々、父と母の名前を、何度も何度も、教えてくれて……。

いつも、兄と一緒にいたのに……。

楽しかった日常が、急にガラガラと音を立てて崩れさっていく風景を、もう何度頭の中で再生しただろう。

「にゃあ〜」

そんな思考を遮ったのは、扉をカリカリして鳴き声を上げる、猫の声だった。

もう一度小さく扉を開けると、その隙間からピョコッと黒猫が入ってきた。

ブルルルッと身体を震わせて水しぶきを辺りに散らすと、ペタペタと濡れたままの足であちこちに移動する。

その猫を抱き上げて、マリーは話しかけていた。

「……あなたも、1人なの? 」

「にゃあ」

返ってきたのは、元気そうでも悲しそうでもない、至って普通の鳴き声。

でも、それでも今のマリーには、この猫も同じ気持ちなのだと思いたかった。

「そっか……あなたも1人なんだね」

「にゃあ? 」

黒猫を膝の上に乗せると、そのままスヤスヤと眠ってしまった。

可愛い寝顔を眺めていると、マリーも何だか眠くなってきた。

自分も少しだけ寝ようと、傍にあったダンボール箱に頭を預けた、その時だった――――

ガラガラッと、勢いよく倉庫の扉が開かれる。

びっくりして顔を上げると、そこには息絶え絶えになっている、兄がいた。

雨のせいで、全身はびしょ濡れになっている。

「お兄ちゃん……? なんで……」

「馬鹿かおまえは! 」

また、怒られてしまった。

「こんな雨の中、こんな寒い中で、たった1人で……! どれだけの人がおまえを探したのか、分かってるのか!? 」

これだけ言われても何も言わず口を噤むマリーに、兄の声色が、今度は静かなものに変わった。

「……何か、言うことがあるんじゃないのか? 」

そうだ。謝らなければいけない。

沢山の人に、マリーを探させてしまったことを。

「ご、ごめんなさい……」

「何が? 」

「い、いっぱいの人に、迷惑かけて……」

「違う」

怒気を込めた声で、兄は言った。

「メイドの仕事を、投げ出して……」

「違う」

「お、お兄ちゃんと、関わってしまって……」

「違う」

今度はよりいっそう、声を荒らげて。

「えっと……」

もう、言葉が見つからない。

何に謝ればいいのか、マリーにはもう分からなかった。

すると、焦って泣きそうになっているマリーを、兄が突然抱きしめた。

ギュウッ……と、爪がくい込むほどキツくキツく、抱きしめられる。

「お、おにいちゃ……」

「心配、したんだぞっ……! 」

その一言に、ハッとした。

よく見てみると、兄の服は泥だけだった。

靴も、泥や葉っぱに塗れてボロボロになっている。

兄が全身びっしょりなのは、雨のせいだけではなかった事を、この時ようやく理解した。

「ごめん……なさいっ」

嗚咽が混じった声で、マリーは言う。

「心配かけて……ごめんなさいっ……! 」

「うわあああああああ!! 」と大きな声で泣きじゃくるマリーを、兄はずっと抱きしめてくれていた。

「っ……! ふっ……」

兄も泣いているように見えたのは、マリーの気の所為なのだろうか……。





「それじゃあ、今までお世話になりました」

学園の門の前には、これからマリーが乗り込む馬車が停まっている。

青い青い空は、マリーの出発を祝福してくれているようだった。

「マリー、お家に帰ってもお元気で……」

「ありがとうございます、メイド長さん」

「また、会おうね」

「はい。メリアさん」

「無事に帰還できるよう、願っている」

「気をつけてな」

「ありがとうございます。ブレイブ様、アイビー様」

「またいつでも来いよ」

「……じゃあな、マリー」

「カルミア様、堅苦しいな〜。バイバイ、マリーちゃん」

「さようなら、セルフ様にカルミア様、シード様も」

「お身体に、お気をつけください」

「ヤナギ様も、お元気で」

そして最後に、兄と向き合った。

最初に会った時とは随分違う穏やかな顔つきの兄に、自然と口元が綻ぶのが分かった。

「じゃあな、マリー。父さんと母さんにも、よろしく。俺はここで精一杯頑張るからって、伝えておいてくれ」

「うん。分かった。あ、お兄ちゃん」

纏めた荷物を開けてそれを探すと、すぐに見つかった。

引き止められて不思議そうな顔を浮かべる兄に、マリーは困ったような笑みでそれを渡した。

「……これ」

掌に置かれたペンダントを見て、兄の顔が固まった。

あの日、兄が壊してしまったもの。

「壊れちゃったけど、持っててくれるかな……? 」

あの後、新しいものを買おうかどうか迷ったけれど、やっぱりこれが良いと思ってしまっておいたのだ。

兄を守ってくれる、特別なものだから。

「ごめんな……。ありがとう」

謝って、感謝して。

それにマリーは、「うん! 」と力強く頷いた。

メイドの仕事を辞めて家に戻る。

そう口にしたマリーを、兄は最初反対した。

もし自分が言ったことを気にしているのなら、もう良いと、メイドの仕事が気に入っているのなら、続けても良いと言ってくれたのだ。

でも、マリーの役目は別にあった。

マリーが働きに出る時の、父と母の涙。

「ごめんね」と言って、マリーを抱きしめてくれたあの温かさを思い出して、やっと気づくことができた。

『お母さんもお父さんも、私がいないと駄目だから……。だから私は家に帰って、家の畑のお手伝いをするの』

そう言うと、兄はふっと笑って「よろしく頼むよ」と頭を撫でてくれた。

それは、久しぶりの兄の笑顔だった。

「じゃあ、もう行くね」

馬車に乗って、皆と別れる。

少し寂しいけれど、でもいつか、また会える。そう信じて……。

「頑張れよ」

「お兄ちゃんもね」

最後に、そう言葉を交わしあった。

馬車が走り出す。

窓から顔を出すと、皆が手を振ってくれていた。

マリーもそれに、元気よく応えた。





「……行っちゃったね」

馬車が見えなくなったところで、メリアが名残惜しそうにそう言った。

細められた目は、とても残念そうだった。

「ヤナギ様、それに、皆も」

背後から呼ばれた声に振り返ると、ジャンがヤナギ達にガバリと頭を下げていた。

「ありがとうございました。マリーのことと、俺も……皆様のおかげで、俺たちは……」

お礼を言うジャンは、とても晴れやかな顔をしていた。

「……あ」

「どうしたの? ヤナギちゃん」

ふと晴れ渡った空に目をやると、そこには虹がかかっていた。

もう大分ぼやけてしまっているが、綺麗なアーチを描いている。

「あ! 虹だ! 」

メリアが虹を指さして、「綺麗だね」と微笑んだ。

どうやらマリーはジャンだけではなく、ヤナギ達にもプレゼントを残していったようだ。

「綺麗、ですね」

七色の輝く虹を、ヤナギ達は暫く眺めていた。





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