7

「アイビー様、お怪我はありませんか!? 」

「え、あ……」

リンが聞きながらアイビーの身体を調べる。

血はでていないか、どこか擦り傷はないか。

そして怪我はないと判断したところで、ようやく安心したように一息吐く。

怪我はない。だが。

「あ、その紐……」

テリナの目線がアイビーが持っている赤い髪留めに移る。

ガラスによって切れてしまった髪留めは、今は一本の紐となってしまっており、もう使えそうになかった。

「よかったですわ。その紐が切れてしまったくらいで」

「そうですわ。アイビー様がご無事で、何よりです」

リンとテリナが髪留めを見てそう言った。

この髪留めを、何の価値もない、ただの紐だと思っている。

『これ、アイビーにあげるわ。母さんにはもう似合わないから。母さんからの、プレゼントよ』

優しく笑う母の顔が脳裏に過ぎった。

この令嬢達にとってはただの紐でも、アイビーにとっては大切なものなのに。

「あ、あの、アイビー様。申し訳ございません! 私、アイビー様に向けて投げたわけではなく……」

イザリアが真っ青な顔でアイビーに謝る。

それを見て、アイビーは切れてしまった髪留めをポケットにしまった。

「大丈夫だ。怪我もないし、髪も別に切れてない」

ニコリと微笑んでそう言うと、イザリアはほっとして「そうですか! 良かったです! 」と嬉しそうな顔になった。

本当は全然、大丈夫なんかじゃないのに。

「今日は、もう帰りましょうか」

リンが気まずそうに言う。

すると、テリナとイザリアももうこれ以上の散歩はできないとわかっていたのか、「そうですわね」と賛同していた。

「私もそろそろ帰りますが、アイビー様もご一緒に学園に戻られますか? 」

ヤナギがアイビーに聞く。

「そう、だな……。すぐに馬車を用意しよう」

「ではアイビー様、私達はこれで」

「さようなら」

「また別の機会に」

そう別れの言葉を告げて散っていく三人の姿を見送る。

できればもう会いたくなかった。

暫くして馬車が到着し、学園に向かう最中、アイビーが口を開くことはなかった。

ポケットの中に手を入れて、ただの紐となってしまったそれをしきりに触っていた。

ヤナギも話しかけることはなく、学園に着いて寮がある方の廊下で別れるまで、お互いずっと無言だった。

「馬車をだしてくださって、ありがとうございました。では、私はこれで」

「ああ」

ヤナギと別れて、早歩きで寮に向かう。

扉を開けて部屋に入ったところで、ようやくポケットから手を出した。

握り拳を開くと、そこから赤い紐が出てくる。

「クソっ」

母が、アイビーにくれるまで毎日付けていた髪留め。

どれだけ大切なものかは、十分わかっていた。

そして、アイビーもまた、大切にしようと決めていたのに。

珍しく悪態を吐いたアイビーは、紐を両手で握りしめたまま、暫く動けなかった。





「はぁ……」

もう何度吐いたか分からないため息。

いつもと違う髪留めで結んだ髪を、右手で触る。

今日は、ずっと違和感を感じていた。

そのおかげで授業にもあまり集中できず、友人との会話もあまり弾まなかった。

「悪い、今日はもう寮に戻る」

友人に告げて教室から出たアイビーは、言葉とは裏腹に寮とは全く別方向に向かって歩き出していた。

どこに行くでもなく、ただふらふらと学園内を歩いている。

そして、またポケットに手を突っ込んでいた。

捨てられずにいる、赤い紐。

もう使えないとわかっているのに、とっておいてしまっている。

はぁとまたため息を吐く。

歩き続けていたせいか、少し疲れてしまった。

どこか座れる場所はないかと探すと、すぐそばにベンチがあった。

噴水の水が太陽でキラキラと輝いており、日当たりも良い。

座ろうとすると、少し離れた所にヤナギの姿を見つけた。

あそこは確か、用具倉庫だ。

花壇に水をやったり肥料を撒いたりする時に使う道具が入っている。

ヤナギはそこに、何かを運んでいるようだった。

何かは分からないが、結構大きな袋。

袋を倉庫に運ぶと、少し離れた場所にある花壇に行き、もう一つ大きな袋をまた抱え、倉庫の中に入れる。

袋は重いのか、歩くペースがゆっくりだ。それに、時折転びそうにもなっている。


「大丈夫か? 」

ベンチから腰を上げ花壇へ行くと、どうやら運んでいたのは園芸用の土だった。どうりで重いはずだ。

「大丈夫です。後少しで終わりますので」

突然現れたアイビーに驚くこともなく、ヤナギは袋を一旦地面に置いてそう答えた。

花壇の傍にはまだいくつもの袋が積まれている。

「これ、一人で運ぶのか? 」

「はい」

どう見ても大丈夫ではない。

少女が一人でこんなに多くの荷物を運ぶなんて、何時間かかるか分かったもんじゃない。

少なくとも、ヤナギの言う「後少し」では終わりそうにないだろう。

アイビーは一番上に積まれている袋を持ち上げ、「あそこの倉庫でいいんだよな? 」と言って運ぼうとすると、

「私の仕事ですので、アイビー様に手伝っていただかなくても大丈夫です」

とヤナギが言ってきた。

「いや、だがこれ、かなり重いぞ? こんなの一人で、しかも女の子が運ぶなんて無理だろう」

「ですが、私の仕事ですので……」

再度断ろうとするヤナギに、アイビーは仕方がないなぁと思いながら、ヤナギに一つ提案をする。

「じゃあ、手伝わせてくれ」

このままヤナギを放って帰るのは、何だか後味が悪い。

手伝わせてくれと頼んだことで、ヤナギも「ありがとうございます」と承諾してくれた。


「そもそも、何で公爵令嬢がこんな物を運んでいるんだ? 」

土を運びながらアイビーが聞くと、ヤナギは両手で土を抱え直しながら訳を話した。

「用務員さんが、花壇の傍で倒れていたんです。今日は日差しが強かったのでおそらく熱中症で。医務室に連れて行こうと起き上がらせたところで、用務員さんが少しだけ目を開き、この土を倉庫まで運んでおいてくれる? と」

「公爵令嬢にか? 」

「それが、意識が朦朧としていたのか、人の判別がついていなかったようで、最後に宜しくね、後輩ちゃん、と言ってパタリと倒れてしまわれました」

「……そうか」

用務員さんも、まさか頼んだ相手が貴族だったとは思いもしないだろう。

「私は後輩ではありませんが、一応私に向けて仰られた言葉でしたので、私が運んでいるのです」

「なるほどな……。よし、これで最後、と」

倉庫の中に全ての袋を積み一息吐くと、ヤナギはまた「ありがとうございました」とお礼を言った。

それに笑って「どういたしまして」と返すと、今日ずっと感じていた違和感のことを思い出した。

運んでいる時は、忘れていられたのに。

ふと悲しい顔をしたアイビーに、「どうされましたか? 」とヤナギが聞いてくる。

「いや、髪留めが、いつもと違うから」

言ってしまって、はっとする。

なんでもない。そう返すはずだったのに、思ったこととは違う言葉が口から出てしまった。

「髪留め、ですか? 」

不思議そうな顔でヤナギがアイビーの髪を見る。

もう、全て話してしまおう。隠す必要もないのだし。黙ってこの気持ちを話さないでいるのも、何だか気持ちが悪かった。

「昨日、切れてしまっただろう? あの、赤い髪留め」

「イザリア様が、ガラスで切ってしまった物ですか? 」

「そうだ。実はあれは、母がくれた物でな。大切にしていたのに、切れてしまったから……」

髪留めくらいでしょうもない、なんてそんなふうに思われてしまったかもしれない。

ポケットから出した赤い紐をヤナギに見せる。

ずっと触ったり握りしめたりしていたせいで、紐はもう縒れてしまっていた。

「なら、どうしてあの時、大丈夫だと、仰ったのですか? 」

本当だ。本当にその通りだ。

嫌だったのなら、悲しかったのなら、あの時イザリアにその旨を伝えればよかったはずだ。

本当は全然、大丈夫ではなかったことを。

怒っても、よかったはずだ。

なのに。

「……できないんだよ」

低く掠れた声が、喉の奥から絞り出される。

重いものを運んで疲れたせいか、汗が頬を伝って落ちた。

「人に注意したり、怒ったり、そういうのが、できないんだ……。相手のことを考えてしまって、どう思われるのか、すごく気にして……。勇気が、ないんだよ」

嫌なことを、嫌と言えない。

頼まれたら、断れない。

入学式の日、メリアが虐められていた時も、アイビーは黙ってメリアを連れ出すことしかできなかった。

その場でヤナギを、怒ることができなかった。

どう注意すれば良いのか分からず、臆病になって逃げたのだ。

昨日だってそうだ。

ヤナギとの見合い中に部屋に乱入してきたリンとイザリアとテリナを、「見合い中だから」と追い返すことができなかった。

散歩に誘われた時だって、本当はあまり乗り気じゃなかったのに、断れなかった。

三人の喧嘩を止めることができなかった。

切れた髪留めのことで、何も言えなかった。

「情けないだろ……? 何が王子だ。自分の意見もまともに言えず、顔色ばかり伺って。ただの臆病を、優しいなんて都合よく解釈されて……それで、なめられて」

「なめられる? 」

奥歯をギュッと噛み締める。ほんのりと、血の味がした。

昨日、三人と別れた時にふと聞こえてきたリンとテリナの声。

『相手がアイビー様でよかったですわね』

『本当。他の方でしたら、今頃処刑台の上ですわ。アイビー様がお優しくて、良かったですわね』

アイビーでよかった。

そう言われて、もちろん良い気分になんてならない。

あの時怒らなかったアイビーを見て、「アイビー様でよかった」と言っている。

誰でもよくない、俺だって怒っている!

心の中で、そう思った。

もちろん、口には出せなかった。

怒ることができず、人をまとめることもできない。

こんなの、なめられて当然だ。

こんな自分が、嫌になる。

優しいなんて、本当に優しい人に失礼だ。

掌の中の髪留めを、また強く握った。

「アイビー様は、臆病者ではございません」

ヤナギがそう言ってくれる。

お世辞か、それとも単なる慰めか。

「いや、無理に言ってくれるな。俺は臆病者で、弱いんだ……」

「アイビー様は、テリナ様を庇ってらっしゃいました」

その言葉に、はっとする。

顔を上げると、いつもの無表情がそこにはあった。

「テリナ様の前に出て、自分を犠牲にして、ガラスの破片から守っていました」

「……」

「アイビー様は、とても強く、優しい方です」

「強い……のか? 」

ずっと、弱いと思っていたのに。

ヤナギが一歩、アイビーに近づく。

両の掌で、アイビーの頬に優しく触れた。

「……何故、泣いているのですか? 」

「え……」

気づくと、泣いていた。

目から出た雫が頬を伝い、地面にシミをつくっていく。

泣きやもうとすればするほど、何故か涙はぼろぼろと零れて落ちた。

「これをどうぞ」

ヤナギがハンカチを差し出してくれる。

薔薇の刺繍が入ったハンカチ。

それを受け取り、顔を覆う。

泣き顔なんて、見られたくない。

「……俺は、優しいのか? 」

「はい」

今まで、周囲から優しいと言われてきた。

でもそれはアイビーには不釣り合いな言葉で、優しいと言われる度に、心の中では自分に対する嫌悪感でいっぱいだった。

こんな自分が、大嫌いだった。

「アイビー様は、とてもお優しい方です」

もう一度、彼女はそう言った。

テリナを庇うアイビーを見て、優しいと言った。

一生懸命、ずっと昔から抱えていた悩みを、話を聞いてくれた。

こんな自分と、ちゃんと向き合ってくれた。

向き合った上で、優しいと言ってくれた。

「アイビー様は、どうしたいのですか? 」

どうしたいのか。

人にどう思われるか不安だった。

だからいつも自分が我慢して、嫌なことも全部飲み込んで、頼まれたらどんなことでも引き受けて。

でもそれは、その人とちゃんと向き合っていたと言えるのか?

相手の心配をしているように見えて、本当は自分のことしか考えていなかったのではないか?

「ありがとうヤナギ」

ハンカチを返し、赤くなっているであろう目元を手で隠す。

「俺は、向き合いたい」

相手と、そして、自分の気持ちとも。

力強く、そう言った。














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