第12話
玄関扉を開けると、外の熱気とは真逆のひんやりとした空気が胡桃を迎えた。涼しさが逃げるとまずいので慌てて扉を閉めると、バン! と思いのほか大きな音が出てしまう。音に気付いた家主が、バタバタ騒がしい足音でリビングから出てきた。
「おかえりなさ、い……? 今日は早かったんだね」
「あー、ちょっと、具合悪くて。早退した」
胡桃は適当な理由を述べながら靴を脱ぐ。汗だくの湿った足だけでも今すぐ洗いたい。走ってぐったりしていたせいか、梓は胡桃の嘘をすっかり信じた様子で眉をひそめた。
「大丈夫? 連絡くれたら迎えに行ったのに」
「ちっちゃい子じゃないんだからヘーキだって。それよりシャワー浴びたい」
「まだ明るいからって、怪しい人がいないわけじゃないんだから……」
「シャ、ワ、ア! 使わせてくださいっ!」
お前は私の母親か!
でも、梓の顔を見たらちょっとだけ安心した。最悪な目に遭ったばかりなのに、いつも通りの梓に救われている自分がいる。ちゃんと笑えてるし、普通に会話ができている。
梓は胡桃の心を軽くしてくれる。それはきっと、梓も胡桃と同じ世界に生きているから。清香と過ごした幸せな時間を共有できる存在だからだ。進む世界は清香と胡桃を置き去りにしていったけれど、変わらない世界で梓と一緒なら、胡桃はまだ元気でいられる気がした。
「梓」
「ん、何?」
「清香、は、その……」
――自殺なんかしてないよね?
喉が異様に引っかかる。
言葉を吐き出そうにも、実体のない変な塊みたいなものが邪魔をして、胡桃に続きを言わせなかった。何度か咳払いを繰り返していたら梓が不審がるので、
「や、なんでもない。とにかくシャワー使うから」
早足で浴室へ向かうことにする。脱衣所ではりついた靴下を脱ぎ、ベタベタの素足に冷たい水を浴びせに行く。鬱陶しい熱をさっさと洗い流してしまいたい。
シャワーヘッドから勢いよく飛び出した冷水に、胡桃は短い悲鳴をあげた。それまで嫌な熱気を放っていた足が急速に冷えていく。昼休みのことでざわついていた心のもやもやすら、心地よい冷たさに流れていくような感じがした。
ひと通り洗い終えたあと、目に付いたタオルで足を拭こうと腰を曲げたとき、
「……あっ」
お腹と腰の両方に、ずっしりと重たい気配がした。足の間からどろりとした不快感が流れ出るのがわかる。どうしよう……不快感の正体を察し、胡桃は思わずしゃがみ込んだ。そうっと、スカートの上から問題の箇所に触れて……やはり、と確信する。約十秒の躊躇のあと、観念して脱衣所の扉を開け、細い声で梓を呼ぶ。
「梓ぁ、ごめーん……ちょっと来て」
二、三度名前を呼ぶと、再びリビングから梓が登場する。脱衣所から頭だけ出してうずくまる胡桃を見て、何事かと駆け寄った。
「どうしたの? 気持ち悪い?」
「いやぁ、そうなんだけど、その……すっっごく言いにくいんだが」
口の中をもごもごさせる胡桃は、心配そうに見つめる梓から目をそらす。これを男に面と向かって言うのはものすごく抵抗があるけれど、黙ったままだと変に勘違いされそうだし。暴走した梓なら救急車まで呼びそうだ。
観念した胡桃は、蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「せ……せーり、が。生理、きちゃったみたい、です」
「……あぁ……」
梓が曖昧な返事をすると、二人の間に気まずい空気が流れた。少しの沈黙のあと、梓が言葉を選ぶように慎重に発言する。
「えっと、……俺に、できることはなんでしょう」
「ナプキンを買ってきてほしい……ですね」
気まずさと恥ずかしさから中途半端に丁寧な口調になる。胡桃は恥を忍んで、普段使っているメーカーだのサイズだのを梓にメモさせた。真剣にうなずく梓の顔が直視できない。こんなことになるなら学校帰りに買っておけばよかった。生理と自覚したせいでより鮮明になった下腹部の痛みで、この恥ずかしさが紛れればいいのに。
ちょっとでも気まずさをごまかしたくて、胡桃は力なく笑った。
「はは、ごめんね。こんなザマで」
「新藤さんが謝ることじゃないよ。それより、動けそう? 布団に……え、汚すから駄目? じゃあ、着替えも……。あっ、鎮痛薬、飲んだほうがいいのかな」
うずくまる女子高生を前にうろたえる梓をみて、今度は本当に笑えてきた。
「ダイジョーブだって。動くのキツイけど、とりあえずトイレ入っとくわ。帰ったらドアの前に置いといてくれればいいから」
梓を安心させたくて、胡桃はよろめきながらも立ち上がる。
「いやー、完全に油断してたわー。二週間くらいかな? いつもより結構遅れてたから、今月分忘れかけてたし」
「無知で申し訳ないんだけど、そんなに予定とずれるものなの?」
「そりゃ、ストレスとか色々よ。でも今回は、ちょっと前に駅前で会った男とのことで、ヒヤッ、と、して……」
心配する梓の表情が冷えていくのを見て、自分が口を滑らせたことに気付いた。血の気が引いて、黒くて重たい気持ちが、ぐっとお腹に落ち込んでいく。梓が口を開くのが怖かった。
「……新藤さん」
低い声は胡桃を責めるというより、悲しんでいるような気持ちを滲ませた。
「そういうことは、もう、やめにしませんか」
胡桃の頭の中に、たぶん、梓が思うのと同じ人物の顔が浮かんだ。小さな棘みたいに喉に刺さって、胡桃の言葉を止めた女の子。
「新藤さんが今も清香を想ってくれているのはわかるよ。でも、清香のことで、新藤さんがそこまでする必要はないでしょう。今やっていることが……新藤さんにとって、いいことだとは思わない」
梓の真っ直ぐな瞳が、長い前髪の奥で悲しそうに揺れている。梓は優しいから、胡桃の体や心を心配しているんだ。そう、思いたかった。
「望んでやっていることじゃないなら尚更やめたほうがいい。今やっていることを、将来、後悔してほしくない」
自分より胡桃が傷つくことのほうがつらいみたいな顔で言う。今まで何度も胡桃を助けてくれた人だから、きっと本気の言葉を伝えてくれている。
なのに叫びたくなる。私を通して見た何かに悲しみを向けるような梓に。
――それを言いたかったのは、私じゃないくせに。
「将来の、私、か」
梓は呪いみたいに重たい言葉を突きつけてくる。
まただ。
また、将来。
未来のこと。ずっと先のこと。
清香のいない世界の話だ。
「どこにもいないよ」
ふらついた体に伸びた梓の手を、胡桃は弱々しく振り払った。
「将来なんて、これから、なんて……。そんな私はどこにもいない。存在しない」
お腹が痛い。誰かに力任せに押さえつけられているみたいに苦しい。風邪のときのように頭が熱っぽくてぼうっとする。生理の痛みか心の痛みか、区別がつかないまま本能的に涙が溢れた。
「考えられないの。だって存在しないから! みんな、胡桃が選べって、ちゃんと考えろって言うけど……最初っからないんだもん! 清香がいなくなったのに。私の期限も切れるのにさあ! なんっで、みんな、……」
めまいがする。壁にもたれかかる胡桃を、やっぱり梓は助けようと手を差し出すけど、その手を受け入れられなかった。
「答えてよ、梓」
涙で滲む視界いっぱいに、戸惑う梓の顔が映る。
「清香は……清香は、さ」
酷い吐き気がする。どうしても言いたくなくて、苦しくて、声がうわずる。
「あいつ、は、ジ……じっ、自殺、なんかじゃ、ない、よね?」
梓が息をのんだ。即答できない梓との間に、また気まずさが漂う。でもさっきとは重さが全然違った。二人の間にある空気は張りつめていた。答えを待つ時間すら苦痛なほどの緊張感。
早く答えてほしい。違うと、そんなはずないと、大声で主張してほしい。この場だけの嘘でも構わない。それだけで胡桃は救われるから。
「……どうかな」
目を逸らしたあとの曖昧な返事。胡桃に伸びていた梓の手が力なく下ろされた。
「前にも言ったけど、本当に噂でしか知らない。確かなことは誰も教えてくれなかった。けど……あの電話は、きっと」
「や、やめてよ」
「清香が最後に、俺に伝えようとしていたのは」
「違うっ。そういう話を聞きたいわけじゃ、なくて」
「俺のせいなんだ。清香はもしかしたら、自分で、自分を――」
「……やめろって言ってんだろ!」
たまらず叫ぶと同時に壁を全力で殴った。拳がじんじんと痛むけど、構っていられなかった。それより体の奥から溢れ出る、怒りと悲しみがぐちゃぐちゃに混じり合った感情が胡桃を突き動かした。
「違うよ! 清香は、だって、あいつは綺麗なままで、何もっ。溺れてなんかいないし、病気でもなかった! 清香は……清香は違う! 誰にも奪われないって、言ってた、から」
上手く息ができない。必死に吐き出す言葉はきちんと形にならず、声は今にも消えそうなくらい小さい。だけど、今叫ばなければ死んでしまうというように、激しい炎が体の中で暴れ回っていた。
どうしてこんなに苦しいんだろう。血が出てるからとかじゃなくて、心が、どうしてこんなに苦しくなるのだろう。他のやつに言われても、ムカついて、殴りたくなって終わりだった。今は涙が出るほど傷ついている。
梓だから。
胡桃と同じ世界に取り残された梓だから。梓だけには言ってほしくなかった。
「ばかみたい」
そうこぼすと、胡桃はふらふらのまま玄関へ行こうとする。当然、梓が止めに入ったけれど、胡桃の弱りきった手がそれを振りほどいた。力ずくで止めようと思えばできるだろうに、梓はそうしなかった。こんなときでも、梓は無理やり言うことを聞かせようとはしない。
「待って。そんな状態で外に出ていいわけないでしょう」
梓が台詞だけで引きとめる。胡桃は無視して玄関へずるずる進み、裸足でローファーを履いた。後ろから梓が躊躇いがちについてくる。
「新藤さん」
「ついてくるな」
精一杯の強がりで梓を拒絶した。本当はしゃがみこんで泣きじゃくってしまいたい。梓にさっきの言葉を取り消してほしい。ずっと清香と一緒だった梓が――清香の好きな人が、清香を否定するようなことを言ったのが、悲しくてたまらない。
「放っておいてよ。私がどこへ行こうと私の勝手でしょ」
「よくない。それに、俺には新藤さんの保護者としての責任がある」
「っそんなのどうせ建前だろ! 私のことなんか全っ然心配してないくせに! 世間体を気にして! 本当のこと隠してるだけ!」
梓の表情が翳った。胡桃が殴ったのは壁なのに、梓自身が殴られたみたいに顔がひきつっている。いっそ怒鳴ってくれたらよかったのに、梓は傷ついていた。梓は胡桃が何をしたって怒らない。それのどこが保護者だっていうんだろう。
酷いことをしたならそう言えばいい。悪いことをしているなら叱ってほしい。でないと、カッとなった勢いで、言ってはいけないと閉じ込めていた気持ちすら外に出してしまう。
「梓がそうやって引きとめたかったのは! 守ろうとしてたのは! ……ぜんっぶ、私じゃないじゃん!」
「……っ」
「梓は、私を見て、ないよ……! 私を通して清香を見てる。清香を救えなかった気持ちを、私に押し付けてるだけ。でも残念。私は清香じゃない」
胡桃がドアノブに手をかけても、梓は微動だにしなかった。胡桃も梓を振り返らず出ていったから、梓が最後にどんな顔をしていたのかも、この虚しい気持ちをどこへ向ければいいのかもわからなかった。
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