第11話
どれだけ強く願おうと、時が止まるわけもなく。
昼休み。ちょうど日陰になっている外階段でぼうっと遠くを見る胡桃に、出張中の母から着信があった。
『最近ど~ぉ、胡桃? ちゃんと勉強してる?』
「ど~ぉ? じゃないっつの……! 見ず知らずの男に大事な娘を預けるなんて何考えてんだよ!?」
あまりにのん気な挨拶につい声を荒げてしまう。脇を通った後輩らしき男子生徒に不審な目で見られた。この恥も母のせいにしておく。
胡桃の怒りなどものともせず、母は笑いながら続けた。
『あれ、胡桃は知らないんだっけ? お母さん、梓くんと面識あるし、見ず知らずの男なんかじゃないよ』
また胡桃の知らない情報が出てきた。どいつもこいつも後出しがすぎる。裏返った声を返すと、母の笑い声と、何かのアナウンスのような声が重なった。
『いつだったか、買い物中に清香ちゃんと会ってね。そのとき一緒にいたのが梓くんよ。話が盛り上がったついでに、三人でお茶したのよねぇ。あれから何度か、会うたび楽しくお話させてもらっちゃってぇ……』
「なんで娘抜きで娘の友だちと盛り上がってんだよ……」
『最後に会ったのは、清香ちゃんのお葬式ね。挨拶したとき、あんたはぐれてうろうろしてたし、具合悪そうだったからそのまま帰っちゃったけど』
真面目ないい子よね、と話す母は、梓をすっかり信用しているらしい。胡桃の居候がすんなり許可されていたのはそういうことか。
人ごみの中にいるのか、母は声を張り上げて言う。
『梓くんとは上手くいってるのー?』
「ん……まあ、一応」
曖昧な返事をしながら、膝に乗せた空の弁当箱に視線を落とした。昨晩のことで気まずい朝を迎えた胡桃にも、梓は笑顔で声をかけてくれたし、こうして弁当も用意してくれた。嬉しい反面、彼の親切を素直に受け入れられない自分がいる。
梓の正体を知ってからというもの、胡桃は梓を信頼しているはずなのに、どこか恐怖も感じている。理由は自分でもわからない。いつも穏やかで優しくて頼りになる大人な梓の、一体どこに怖いと思う部分があるというのか。
――清香は誰も助けてくれない世界に、絶望してしまったのかもしれない。俺が、見捨ててしまったから……
色のない顔をした梓が脳裏に浮かぶ。いつもの優しさがどこかへ消えたように、冷たくて、悲しみや怒りすら遠くへ置いていってしまった無表情。
(笑顔じゃない梓が……いつも通りじゃない梓が、怖かった? ……でも)
もちろんそんなことを言うわけにもいかず黙っていると、母は大丈夫そうだと受け取ったらしく、小さく笑った。
『仲良くしてるならよかった――と。それより、進路はどうするか決めた?』
次の質問で体が凍りついた。今度は返事を濁すどころか何も言えないでいる胡桃に、母は「やっぱりかぁ」と軽い調子で息を吐く。
『一昨日、先生から連絡があったのよ。田端先生すごく心配してたよ。出張行く前に聞いたときも、あんた何も言わなかったから。嫌な予感はしてたんだけどね』
「……どうしたらいいか、わかんなくて」
『最初から素直に、お母さんや先生に相談しなさいよ。……ま、こうなったのは、親らしいことできてないお母さんたちの責任でもあるけどね』
母は小さく「ごめんね」と言ったあと、お父さんなんかほとんど連絡寄越さないし、と愚痴をこぼす。
『大学行きたいって話なら、お金の心配はいらないよ。就職するなら、受けたい企業の相談にも乗る。どっちにしたって、胡桃が決めた道を、お母さんたちは全力で応援するつもり。胡桃が思うようにやって、大丈夫なんだよ』
「うん……」
母は先日の田端と似たようなことを言いながら、柔らかい声で励ましてくれる。
胡桃は決めなくちゃならない。
どれだけ嫌がろうと、これからの世界は清香抜きで進んでいく。胡桃がそれに抗うことはできない。わかっているのに――大丈夫と背中を押してくれる人がいるのに、どうして。
(置いていきたくない。何も捨てたくないよ……清香)
こうしているうちに時間は過ぎていくのに。
――あたしたちには賞味期限があるの
清香の怯えるような重たい声が響いた。
*
教室へ戻ると、まだ昼休みが終わっていないことにがっかりした。相変わらず教室内に胡桃の居場所はない。ここには、授業とか、絶対に必要なときしかいたくないのに、早足で戻ってきたのは電話のせいだ。母との電話で動揺してしまったから、チャイムの音も時計を見るのも忘れて中に入る。
と、教室にいる生徒たちの視線がやけに集まっていることに気付いた。
胡桃の戻りが早いことを不思議に思っているのだろうか――そのわりには、やけに口元がにやけている。三、四人ほどのグループの一つに目をやると、女子たちは慌てて顔を背けた。でも、必死に笑いをこらえているみたいに肩を震わせている。
不審に思いながら、胡桃は自分の席へと向かう。
机を見て、なぜ自分が笑われているのか理解した。
「――は」
花、だ。
胡桃の机に、真っ赤な花を活けた花瓶が置かれていた。
咄嗟に言葉が出ず、間抜けに口を開けて固まる。弁当箱の入った包みを、ガシャーン! とマンガみたいに落とすと、誰かが耐え切れずにふき出した。つられて周りの生徒が笑いだす。大声ではなくてあくまで小さく、けど四方で響くそれらがいくつも重なって、悪夢のような合唱に変わっていく。
ムカつくとか、悲しいとか、そういうのじゃなくて、
(また始まったか)
最初に思ったのはそれだった。
だって、こんなの全然大したことじゃない。全国ニュースで取り上げられるような、いじめを苦に死を選んでしまうほどのものじゃない。胡桃は殴られていないし、精神を病んでしまうような、言葉にもしたくないいじめを受けたわけでもない。今まで彼女たちがやってきたことは、単なる無視だ。無視されて、いなかったことにされただけ。席が消えたり、持ち物を台無しにされたり……そういう典型的ないじめすら、されてこなかった。
だから、花を置かれるくらい、全然大したことじゃない。
(こいつらだって、ストレス溜まってるんだろうな。だって受験生だもん。就活だってしなくちゃいけないし。受験戦争に就職活動……私がごまかして逃げてたことに、みんな向き合ってるんだもんな)
わかるよ。つらいし大変な時期だし。周りに当たり散らしたくなるときだってあるよね。そんなときにいいかげんな人とか、いじめてもよさそうな相手を見つけたら、悪いことでもやってしまうのかもね。
(なんて……そんな理屈で納得できるわけねーだろ!)
よりによって、なんで今。
こいつらは! 私に!
こんなことができるんだよ!
火がついたみたいに全身が一気に熱くなる。
写真か動画でも撮っているのか、スマホを構えてニヤニヤしている女子生徒に跳びかかり、彼女の腕を野生の獣かと思うほど素早く乱暴に掴んだ。可愛らしい水色のスマホが床に落ち、画面が横一文字に割れる。ギャッ、とかなんとか叫んだ相手の髪の毛を引っ掴むと、――朝時間かけてセットしたんだろうな、でも知ったことじゃねえよ――床に思いきり引き倒した。
生徒が背中を打つ音を最後に、教室中がシンと静まり返る。
やってしまった。とうとう反撃してしまった。ほんの少しの後悔と、怪我をさせた生徒への申し訳なさがよぎったけれど、それもすぐ怒りにかき消された。むしろ、冤罪によるいじめをここまで耐えてきたのだから、褒めてほしいくらいだ。
「な……何すんの! バカじゃないの!?」
思いだしたように声をあげた別の女子が、倒れたままあっけにとられる生徒に駆け寄る。
「そーだよ! 謝んなよ!」
「最低じゃん! 骨折れてたら治療費払えんの!?」
一人が騒ぎ出すとそれが伝染するらしく、周りの女子が一斉に喚く。大丈夫、相手はたったひとりだけど、こっちは全員味方だよ……なんて声が聞こえてきそうなほど、教室にいたほとんどの女子が倒れた生徒の周囲を囲んで胡桃を責める。
「たっ、たかがこんなことくらいで、何ムキになってんのっ」
味方を得て気が強くなったのか、倒れていた女子生徒が起き上がって言う。髪はぐしゃぐしゃだし、ほとんど涙目になって訴える姿は哀れにも見えたが、胡桃の怒りはおさまらない。
「たかが……? これの、どこが……」
「言っとくけど、先に手を出したのはそっちだから! 見てる人だってこんなにいるし! こっちが訴えたら、あんた終わりだから!」
「どうでもいいよ、そんなの」
胡桃が静かに言うと、引き倒された女子は怯えるように後退した。目の前で歯をむき出しにして涙をこらえている女の子を見下ろすと、そばにある椅子を掴んで叩きつけたい衝動に駆られた。
今さら何に怯えているの。
自分たちがずっと、何をしてきたかわかってる?
ちょっと立場がひっくり返ったくらいで、被害者ヅラして。泣けば楽だよね。優しい味方が慰めてくれるんでしょう。
人の気持ちも知らないで。もっと苦しめばいいのに。
あいつは誰の前でも涙を流せなかった。
あいつが味わった痛みは、こんなんじゃ足りないのに!
「……っ一言でいいから、謝ってよ。ぶっ飛ばしたのは私も悪かったから。お互い謝って、それで終わりにしよう」
拳を、爪がくい込むくらい強く握る。本当は許したくなんかない。土下座して、泣いて謝ったって許してやらない。花を置いたやつも、それを笑って見ていたやつも、何もせず無関心を装っていたやつも。教室にいる全員を許さない。
だけど、これ以上大きな問題になれば、胡桃だけで抱え込むことができなくなってしまう。遠くで働く両親と、梓を悲しませたくない。
「……うざ。なんで私らが謝んなきゃいけないの」
集団のひとりが吐き捨てるように言った。
「こんなのちょっとした冗談じゃん。そこまでする必要がどこにあるわけ」
「冗談……? 本気? どういう意味かわかっててやったんだろ」
「だからさあ! 冗談だって言ってんじゃん! 意味とかいちいちどうでもいいんだって! さっきからうるさいっ」
「冗談ですむ問題じゃないだろ! 本当に死んだやつだっているのに! しかも、友だちだった私に対してやるのがっ、冗談であっていいわけねーよ!」
「
もう限界だった。
それから何がどうなったのか、ぼんやりとしか覚えていない。発言した女子に掴みかかったあと、他の集団も巻き込んでもみくちゃになった。騒ぎの中、委員長の悲鳴と男の先生の怒鳴り声が入ってきたような気がした。その場で何か言われていたけれど、お説教より胡桃の頭に残って離れなかったのは、女子生徒が言い放った最低な一言だけだった。
誰にも言ってほしくなかったのに。考えないようにしてきたのに。みんな、あいつが自分で自分を
(ひとりで見えない敵と戦い続けた清香の無実を、誰も信じてくれない。あいつは誰も殺してないのに!)
その後、どういう流れになったかはともかく――胡桃は午後の授業をサボった。あの空間に、もう一秒だっていたくない。
駅まで走って、電車に乗って、駅に着いたらまた走って、走って……。
……汗だくになって、梓のマンションまで辿り着いた。
鞄のせいで肩が痛い。シャツとスカートが張り付いて気持ち悪い。窮屈なローファーの黒色は、雑な使い方のせいかあちこち剥げている。心も体もぐったりした今日は、梓と出会った夜と少しだけ似ていた。
梓なら否定してくれる。清香の死はそんなものじゃないって。梓は胡桃と同じように、清香を大事に想っている人だから。胡桃の気持ちをわかってくれる。
だって清香は戦っていた。震えながらも最後までひとり戦い抜いた清香と、清香の死を無関係だと突き放す生徒たちは違う。
(何が女子高生だよ! 女子高生って、そんなにいいモンじゃないだろ。女子高生だって、ドロドロしてるし、汚いし、最低なことだってするんだよ……)
なのに、清香はなんで……
(お前はなんで、女子高生でいることにこだわった?)
若くて美しいままいなくなった清香。
(賞味期限がきたら、終わりなんて……)
どうして勝手に終わらせてしまったの。
(私を置いて、一体どこにいっちゃったんだよ)
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