第3話恩人の狼

●恩人の狼


 獣の匂いがした。


 実のところ、ササナは獣の匂いが嫌いではない。それどころか、好きであった。ササナが小さいころに犬をたくさん飼育していたせいなのかもしれない。


死人に襲われて滅びた、ササナの故郷。そこで、ササナは両親と共にたくさんの犬を飼っていた。犬たちは、狩の手伝いなどをしていた。

 

ササナにとって、獣の匂いは失った故郷の匂いなのかもしれない。


 そう思いながら、ササナが目を開けると目の前に白い狼の姿があった。驚いてササナが飛び上がると、体中に鈍痛が走る。そこでまで酷い痛みではないので骨折はしていなが、打撲はしているらしい。


「動かないで。クマの下敷きになった。今年は雪が多くて、助かったな」


 白い狼が、喋りだす。


 ササナは瞬きをして、目をこすった。するとさっきまで狼に見えていたものが、実のところ全く違うものであることに気が付いた。


それは、少年であった。


年のころは十三歳ほどだろうか。


少なくとも十七歳のササナよりは、年下であることは間違いない。


驚くほど整った顔立ちのせいで、少女のようにも見える。だが、すでに声変わりを済ませており、低い声は間違いなく少年のものであった。動物の毛皮をかぶった野生児のような少年は、目を細めてササナの様子を見つめている。


「おまえ、誰だ?」

 

ササナは、少年にそう尋ねた。


「……ユキ」

 

少年は、そう答えた。

 

それと同時に、ユキの隣にいた二匹の狼が唸り声をあげる。その声が不気味に反響し、それによってササナは自分が洞窟のなかにいたことに初めて気が付いた。どうやら、ユキがここまで運んでくれたらしい。洞窟は風をしのげるために、外よりは温かい。


「どうして、俺を助けた。それに、どうしてこんなところにいるんだ?」

 

この近くに、村はない。


 いや、正確にはあったのだが少し前に滅ぼされている。ササナは、ユキがその村の出身ではないかと考えた。


「今年は、冬が厳しい。雪が多い。獲物が少なくなって、北の山を五つ超えたと森から移動してきた」


 ユキは、よどみなく答える。


 彼は、ここら辺の出身ではないらしい。だが、山を一人で五つも超えたというのは信じがたい話であった。外には、危険が多い。死人のほかにも獣もいる。子供一人で歩ける距離ではない。そんなことを考えていると狼が唸る。ユキは、そんな狼たちを手で制した。


「兄さん、ここは大丈夫」


「兄さん?」


 狼に対する不思議な呼称をササナは疑問に思った。


「うん。僕の兄さん。こっちは、兄さんのお嫁さん」


 ユキは、狼たちをそう紹介した。よく見れば、狼の片方は小柄である。おそらくは、そちらのほうが雌なのであろう。


「三人で、山を越えてきた。母さんが死んじゃったから、遺言に従って群れを離れた。兄さんたちは、心配してついてきてくれた」


 ユキの話を聞いていると、どうやら彼は狼の群れのなかで育ったらしい。彼を育ててくれた雌狼が母。その子供が兄。さらに兄嫁までも狼ということに、ユキは何の疑いも持っていないようだった。


「ユキ、お前は何者だ?」


 それは、素直な疑問であった。


 ササナの疑問に、ユキは素直に答える。


「ボクは、賢狼の後継者。母から「お前は人里に混ざって暮らせ」と言われたから、この地にやってきた」


「けんろう?」


「うん、賢い狼って意味。お母さんの祖先が、それになって知識ずっと伝えてきた。ボクは、その後継者」


 ユキは、微笑む。


 そのほほえみは、どこか誇らしげであった。


「じゃあ、えっと賢狼」


「ユキでいい。お母さんや兄さんも、そう呼ぶし」


 狼が人名を呼べるのかと思ったが、ユキ自身は狼と会話ができるらしいのでササナはそれに関しては何も言わないことにした。


「どうして、俺を助けたんだ?」


 ユキは、きょとんとした顔をした。


 そして、狼と顔を見合わせる。


「だって、君とボクは同類でしょう。狼が狼同士で助け合うように、人間は人間同士で助け合わないと」


 その言葉に、佐々尚は毒気を抜かれた。ユキは、本心からそれが最善だと信じているらしい。あまりに純粋だ。狼に育てられたせいなのだろうか。ユキは自分と同族の人間に、一種の憧れのようなものを持っているように感じられた。


「ボクは、何かおかしいことをいった?」


「いいや。なにもおかしいことは言っていない。ただ見知らぬ人を信じている奴っていうのは、あんまり見たことがなかったから。……ありがとうな」


 ササナは、ユキに手を伸ばした。


頭をなでるつもりだったが、狼に威嚇される。


「兄さん、僕は子供じゃないんだよ。……ごめんね。兄さんは、母さんの最初に産んだ子で、僕とは歳の差があるからいつまでも過保護で。今回だって、ついてこなくてよかったのに」

 

少しばかりユキは不貞腐れる。

 

そのしぐさは、ササナに置いてきた年下の仲間たちを思い起こさせた。可愛らしい、とササナは思った。ユキは出身も出生も不明で胡散臭いが、それでも反応は年下らしい可愛らしさがあった。


「お兄さんは、ユキのことが心配なんだろう。そういえば、熊はどうしたんだ?」


「兄さんと義姉さんとボクとで追い払ったよ。ボクも少し怪我をしたけど……」


 ゆらり、とユキの体が揺れた。


ササナは、慌ててそれを支える。


「ユキ……。おい、大丈夫か!」


 ササナは、ユキの額に手を当てる。


 自分の体温よりも熱い体温に、ササナは眼を見開いた。


「発熱してる!おい、いつから具合が悪かったんだ!?」


 ササナの言葉に、ユキは不思議そうな顔をしていた。どうやら、自分の不調に気が付いていなかったらしい。


「怪我はないか?」


「さっき、クマに引っかかれた」


 ユキは、自分の腕を見せる。


 そこには、熊の爪によってえぐられた傷があった。ひどい傷であったが、薬草と古ぼけた布で簡単な手当がされていた。だが、血はとまらないらしく包帯がわりの布が血で汚れている。


「血止めしてないのか?」


「したけど……とまらない」


 ササナは、ユキの腕をとった。


 痛みが走ったのか、ユキが苦悶の表情を浮かべる。


「手当をやりなおすぞ」


 ササナは、ユキの包帯をとった。傷を覆い隠すには布が足りていない、そして薬草でふさぐには傷が深すぎる。


「化膿するかもしれない。……俺が住んでいる村ならば、治療ができるはずだ」


 故郷にいる医者の顔を思い出しながらササナは言うが、ユキは朦朧として話を理解しているふうではなかった。代わりに、ササナは警戒心をあらわにしていた狼に語り掛ける。


「こいつを俺の村につれていく。それで治療をしてもらう。それでもいいか?」


 人間の言葉が分かるはずがないと思っていたのに、狼の一匹は頷いた。そして、何かを弁解するかのように小柄な狼の耳元でささやいた。まるで会話をしているような様子に、ササナは驚く。


「こいつら……人の言葉がわかるのか?」


「兄さんなら分かるよ」


 ユキが、呟く。


「だって、母さんの子供だから」


「……そうか。ユキ、歩けそうか」


 ユキは頷くが、立ち上がろうとはしない。おそらくは、体力的に難しいのであろう。無理もないであろう。ユキはかなり出血をしていた。それでもササナを治療し、洞窟まで運んだのだ。ササナは、立ち上がり自分の肉体を確認する。痛みはあるが、怪我を負っている様子はない。


「ユキ、おぶされ」


 ササナは、ユキに背中を向けた。


 そのしぐさをユキは理解せず、ササナは「背中に乗れ」と指示をした。


「お前を治療できる場所に連れていく。だから、俺を信頼してほしい」


「どうして、疑うの?」


 ユキは、ササナに尋ねる。


 ササナは、何も言えなくなった。


「……ユキ、人間っていうのは助け合うのが難しいんだ」


「そうなんだ」


 まるで、物語を聞くような気軽さでユキは呟いた。


 ササナは、自分の背中に乗ってくる重みを感じた。その重みが、信頼の重みに感じられた。


「ユキ……お前って、俺のほかに人間とあったことがあるのか?」


「あんまりない。言葉は、人間の言葉はお母さんに教えてもらったし」


「そうか――……ユキ。俺はササナっていう名前なんだ」


 ササナの背中に乗るユキに、彼はそう呟いた。


「大人が少ない村に住んでて、そこで普段は畑とか家畜とかを育ててる」


「ふうん」


 ユキは、ササナの話にさほど興味を持たないようであった。


「ササナ。寝てもいい?ちょっと疲れたんだ」


「……ああ。お前は少し休んだ方がいい」


 ササナがそういうと、狼が唸った。どうやら、下手なことをすればササナを噛み殺すと言っているらしい。


「なあ、ユキ。お前には、この世界はどう見える?」


 洞窟から出たササナは、白一色で埋め尽くされる森を見つめた。


 ササナには、白一色で埋め尽くさた森を見つめる。ササナにとって、この風景は日常だ。親の世代――それどころか曽祖父の世代から、このような理不尽な世界であった。だから、いつも他者にもこの世界は同じように見えていると思っていた。しかし、ユキには聞いてみたかった。明らかに、自分とは違う育ちをしたユキにはこの世界がどのように見えるのか聞いてみたかった。


「世界は、いつだって綺麗だよ」


 疑う様子もなく、ユキは言った。


「だって、母さんが僕たちに残してくれた世界だから」


 その声は、少しばかり弾んでいた。


 ササナは、そのように世界のことを話す人間を初めて見た。その言葉を聞いたせいなのか、生まれてからずっとさえない風景の世界が少しばかり違うふうに見えた。

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