第70話

ご主人さまマスター、久しぶりにシルの胸に飛び込んでみますか?」

「リュウくん……今日は記憶を取り戻した記念にあの頃みたいにお風呂に入りましょう」

「よう、佐久坊。ようやく記憶が戻ったか。どうやら過去の記憶は消えねえみてえだし、蓮姉ちゃんって呼んでみるか? ん? ん?」


「こんなの新手のイジメじゃないか……」

《覚醒》による代償リバウンドを払い終え――すなわち若返った年数を過ごした僕は記憶を取り戻していた。

 どうやら九条さんが特殊な時間軸に転移させて来れたようだ。

 その行為自体に感謝の気持ちはあるものの、元はと言えば彼女がセ○しないと出られない部屋に拉致したからであり、素直に「ありがとう」と言いにくい僕がいた。

 まあ、現実世界で十五年過ごすのは僕としても避けたかったから、気持ちは伝えさせてもらったけど。

 でも、うーん。釈然としない!


「……もしかしてご主人さまマスター、幼少期に私の胸に頬ずりし過ぎて飽きてしまいましたか?」

 心配そうに覗き込んでくるシルに、

「リュウくん、お祝いのハグをしましょう」

 とリゼ。

「昔は可愛かったぜ? 蓮お姉ちゃんと一緒にお風呂入るー、って言って。ねえ、どうして女の子にはおちん――「わーわーわー! わかりました! わかりましたからもうやめてよ! 言っとくけどこれみんなが思っているよりも相当タチの悪い嫌がらせだからね!」」


 幼少期の僕の言動を知っている分、やはり揶揄いがいがあるんだろうね。

 みんなニヤニヤして好き勝手なことを言ってくれる。

「記憶を取り戻してすぐに冷たくなるのは辛いですご主人さまマスター

 しゅんとなるシル。

 どうやら聞いた話だと《空間転移の魔眼》を活用したタイムスリップを提案したのはシルとのこと。その言動も含めて母のように接してくれた彼女にそんな顔をされてしまうと冷たく突き放しずらい。

 だから嫌だったんだよ。《覚醒》させるのは。代償には光を失う、という選択もできるのだけれど、これはあってないようなものだし、仕方がなかったんだろうけどさ。

 けど、幼少期のことをぶり返されるのってやっぱり恥ずかしいんだね。

 現実世界じゃ家族も親しい友人もいなかったら再認識させてもらえたし、素直に感謝を示してもいいかも。

「ありがとうシル。色々僕のことを想ってくれて、その……嬉しいよ」

「マスター!」

「ちょっ、ちょっとシルに甘いわよリュウくん! 愛情を注いだのは私だって――」

「――はいはい。リゼもありがとね。でもあんまり混浴や同衾のことは口にしないでよ?」

「じゃあ佐久坊、おもらしはいいんだな? まさか本当に坊やになっちまうとはな!」

「はい、そこうるさい!」

 九条さんにビシッと指を指す僕。

 なんというか恥ずかしさ半分、楽しさ半分の空間だった。きっと人が生きていくのに必要な幸せってこういうのでいいんだろうね。


 けれど世の中、楽しいことばかりじゃなくて。

 僕は嫌な現実にも直面することになった。


 ☆


 特殊な時間軸で13年、現実世界で約2週間の月日が流れた。

 僕の携帯には鳴川さんと源さんからのメッセと着信が山のように来ていた。

 どうやらちょっとした騒ぎにもなっていたらしい。僕はすぐに二人に連絡して何もないことを伝えることに。

 ようやく連絡が繋がったときには二人とも鼻声になっていて、こちらの世界でも安否を気にしてくれる存在ができたことが素直に嬉しかった。

 けれど――。


 僕は目を疑った。

 2週間近く家に戻らず、同棲している妹から一件たりとも着信やメッセが来ていなかったからだ。

 怒りや失望よりも真っ先に抱いたのは心配だった。

 いくら嫌悪している兄とはいえ、一応は肉親だ。普通なら連絡の一件も入れるだろう。

 もしかして何か事件にでもまきこまれたのか。

 なにせ僕以外にも異世界からの帰還者がいる世界だ。

 それだけじゃない。中学生の少女に欲望をぶつけられるロリコン犯罪者だっているかもしれない。

 そう思うといくら別れて暮らすことを決めている相手でも急いで家を駆けつけることになったのだけれど。

「2週間もどこ行ってたわけ? なにもしかしてようやくバイトしてお金を入れる気になった? いくら稼いで来たわけ」

 長期間顔を見せなかった兄の顔を見た第一声がこれだった。

 かろうじて僕の心の中に伸びていた雲の糸のようなものが切れた瞬間だった。

 僕は舞を無視してズカズカと家に上がり込み、室内を見渡してみた。

 洗面台に乱雑に積まれた食器。生ゴミの処理も適当で小バエが数匹飛び回っている。

 洗濯物もそこら中に脱ぎ捨てられていた。

 生活能力皆無。

 それだけならまだ許せた。けれど僕が絶対に看過できなかったことが二つあった。

 まず一つが、

「あんたのへそくり全部使っちゃった。つーか、あんな大金残しているなら先に渡しなさいよ。誰のせいでこんな惨めな生活を送ってると思ってんのよ」

 それは異世界に転移する前に『何かあったときのため』に取っておいたお金だった。

 いくら国保などの優れた制度があるとはいえ、学生二人が生きていくためには突発的にお金が必要になるときだってあるだろう。

 舞はそんなことさえ頭を回せずに隠していた僕の――僕たちのそれを使い果たしていた。

 妹をこんな人間にしてしまったのは僕のせいだ。兄である僕に矯正する責任がある。

 けれど、ダメだ。無理だ。感情の整理が追いつかない。頭で不運や不幸が重なって人格が変貌してしまったと知っていても受け入れることができない。


 そしてもう一つ、

「……そういえば僕が姿を消してから連絡が一件もなかったけどもしかして舞の携帯が故障しちゃった? 

「はぁ? 携帯が壊れてたらそのままにするわけないでしょ? 考えたらわかるでしょそんなこと。別にあんたがどこでどうなろうと私はいいの。おー、かー、ね。あんたが奪われたお金だけ払ってくれたらそれでいいのに捜索願とか出すわけないじゃん。面倒くさい」


 このとき僕は本気で《無限地獄》をかけるかどうか逡巡した。

 けれど、彼女よりも先に片付けなければいけない人間がいる。強欲だ。

 僕に怒りをぶつけることで自我を保っている憤怒は――舞はその後。

 君には心の底から失望した。矯正することもやり直すことも、気持ちが追いつかない。

 悪いけれど、叔父のあとは――眠ってくれ。


 

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