6


「無鳥……わかってると思うけど」


「うん。これは聞かない方がいいやつだね」


「だな」


 フウチ宅の目の前で、僕たちはそんな会話をした。


 リムジンで帰宅しているお嬢様。


 そう思っていたが、どうやらなにか事情があるようだ。果たしてどのような事情があるのか——それは現状では全くわからないが、しかし、聞くべきではないだろう。


 誰にでも、踏み込んではいけない場所がある。


 たとえ友人だとしても、仲良くしていても、踏み込んではいけないフィールドがある。あるいは領域か。テリトリーか。


 ひょっとしたら、別に気にすることでもない。そんな理由だったりするのかもしれない——が、こと家庭の事情に関しては、なかなか踏み込めるものでもあるまい。


 家庭の事情に、どのような過程があるとしても——だ。


 家庭の過程は、デリケートでプライベートだ。


 無論むろん、仮定できる話でもない。


 それに、大したことがない理由ならば、すでに本人から直接語られているだろう。筆談だとしても、会話は会話で——当然成立するのだから。大した理由がないのなら、雑談で済むことだ。


 更に僕は、九旗くばた先生から念を押されているしな。


 聞き方を間違えるなよ——と。釘を刺されている。


 まあ、九旗先生の言葉の真意は定かではないが、そう言われている以上、気をつけるべきだろう。


 気を遣うべきだろう。チキンなら尚更な。


 気を遣ってやれる立場になれることが、友人——と、そう呼ぶのだろうし。つい先日ぼっちを卒業したばかりの僕が言っても、いささか説得力には欠けるかもしれないがな。


「とりあえず、ピンポン押すよ?」


 と、無鳥が言ったので、いつまでもここに突っ立っているわけにもいかないだろうし、僕は小さくうなずいた。僕の頷きを確認した無鳥はチャイムを鳴らす——ピンポーン。


 外に居ても、家の内部でチャイムが鳴ったのがわかる——ガタン、と。物音が聞こえた。


 ガタン。トコトコ。ガチャン。べちん。と。物音が続けて聞こえてきた——はて。トコトコは足音だとして、果たしてガチャンってなんの音だ? なんかそのあと、べちん、って聞こえたけど、それもなんの音だ……? いやたぶん転んだよな? どう考えても何かにつまずいて転んだ効果音だよな……? 平気か……?


 僕がそんな心配をしていると、玄関のドアがゆっくり開いた——そろっと。ガチャ、と。


 そして、ゆっくりゆっくり。あるいは恐る恐る。


 銀色の頭がチラッと見えた瞬間、


「やっほー、フーちゃん! 来たよー!」


 と。無鳥が言った。その言葉にチラッと目を見せて、そして——バタン!


 と、ドアが閉まった——え? 閉まったんだけど……?


「無鳥、ドアが閉められたけど。そういえば僕聞くの忘れてたけど、お前さ。今日来るって伝えたのか?」


 そもそもアポイントを取っていたのか?


 油断していたが、良く良く考えれば、そこをきちんと確認するべきだった。アポイントを取ったりするほど、僕の親友は豆じゃあない気がする。豆というか単純に雑というべきか。なにせ勝手に僕んちに現れたりしてるから前科が多過ぎる。


 アポ取る気がしない。だってアホだから。馬鹿だから。


 しかしそれは僕の思い違いだったらしく、無鳥は、


「きちんと連絡したよ」


 とのことだった。どうやらそこまでアホではなかったようで、親友として胸を撫で下ろし安心した——が。


 すぐに続いた無鳥の言葉に、僕は思いっきり突っ込んだ。突っ込まざるを得なかった。突っ込みを禁じ得ない言葉を耳にしてしまった。


「きちんとあたしが行くよ、って言ったよ」


「うをお——————————いっ!」


 それ僕が来ること言ってねえじゃん!


 それフウチ、お前だけが来ると思ってたけど、僕も来ちゃってるやつじゃねえか! 完全に招かれざる客じゃねえか僕!


「お前、僕が来ること言ってなかったのか!?」


「あ、うっかり。てへぺろ」


「迂闊だった! くそう! お前は間違いなく馬鹿だったよ!」


 つまりあれか。僕という予期せぬ来訪者が現れたから、フウチは驚きを隠せずにドアを閉めたってことか。


 全く、馬鹿を信用した僕が(勝手に信用して、勝手に裏切られた僕が)馬鹿だった——と、そんな思いでいっぱいになっていると、スマホにラインが届いた。


『ご、五分待って!』


 おお。漫画とかで見たことがある展開をまさか体験出来るとは思っていなかった。僕の人生も、人並みにテンプレートになった証だろうか。なにより、帰れと言われなくて安心した。とりあえず、返信。


『了解』


 そして五分後——。


『あうあうあー! やっぱり五年待って!』


「死ぬぜ?」


 死ぬぜ……? 普通に死ぬぜ?


 ラインを見た瞬間、口から出た。だって死ぬぜ?


 間違いなく死ぬぜ? こんなところで持参した重箱に入った唐揚げだけで五年も待ち続けたら、一ヶ月ほどで死ぬぜ? 一ヶ月持つ可能性も低過ぎるくらいの生存確率だぜ? 玄関前でっちゃうよ?


「てか、なんでそんなに慌ててるんだろーね。ちょっと部屋が汚くても、むしろその方が落ち着くのにね」


「……馬鹿じゃないの、お前? 女子なんだから、男子の僕が予期せぬ来訪しちゃったら、そりゃあ慌てるだろうし、部屋が綺麗とか汚いとか関係なしに色々あるだろうが」


「あー! そっかパンツか!?」


「大声で言ってやるなよ馬鹿!」


 せめて洗濯物って言えよ!


 なんでこういうところで、僕の方が気を回しているんだよ! それ、僕がドキドキしちゃうパターンのやつじゃあないのかよ! それが世界のテンプレじゃあなかったのかよ!?


 そして五年後——ではなく。


 さすがに五年ではなく、すこしオーバータイムの十分ほど経過すると、ドアが開き、タブレット端末を持ったフウチが姿を見せた。


 パジャマ姿だった。


 す、すげえ……。女子のパジャマ姿って、こんなにも素晴らしい姿だったのか。なんというウェアなんだ、パジャマ! あっぱれパジャマ!


 パジャマ姿——長袖長ズボンの普通のパジャマ。薄いピンクのパジャマ。それが良い。その飾りっ気のないパジャマ、それだけで良い。


 パジャマ姿で、タブレット端末を持って。


 でも、サングラスにマスクだった。


 なにがあった……? 風邪を引いているのだから、マスクは理解出来るが、サングラスにはどのような事情がある……? しかもこちらから目が見えないミラーレンズのサングラスである。


「いつものメガネはどうしたんだ……?」


『さっき踏んじゃって……つるが……』


 そう書きながら、つるが折れたメガネを見せてくれた。そうか。さっきのガチャン、べちん、の時だろうな。あの音がしたとき、メガネはぽっきり折れていたようだ。あの音は、メガネの断末魔だったのか……。


『あがってあがって!』


 そう書いたフウチは、少しテンションが高いようにも感じる。いや、いってもサングラスにマスクだから、いつも以上に表情からは察しにくいが、テンションが高いのかわかりにくいけれど、でもなんだか高く感じた(今にも『シュコオオオ……』って言いそうな格好だな……)。


「お邪魔しましまー」


「お、お邪魔します」


 玄関に入ると、ものすごく良い匂いがした。フウチに抱きつかれたときの匂い。彼女の匂い。


 フウチの匂い——おいやばいぞこれ。


 なにがやばいって、ドキドキが信じられないくらいやばい。


 あまり意識しないようにしていたけれど、思えば僕——女子のお家にお邪魔するのとか人生初の出来事である。葉沼はぬま詩色しいろ始まって以来の快挙かいきょである。意識せざるを得ない快挙である。


 どうしよう。この匂いを体内に取り込もうと必死になって、今現在の僕。鼻息が荒くなっていたりしないだろうか。本能が嗅げ、って、全力で告げて来ているんだけど、鼻息平気だろうか。てかちょっと黙れよ僕の本能。いい加減落ち着けよ、僕。


 落ち着くために深呼吸したいけれど、そんなことしたらたぶん死ぬぜ? いい匂いが毒になる可能性もあるんだぜ?


 というか、玄関からこの感じで、僕この後持つのか? 五年待たされることなく、なんか謎の心臓発作で死んだりしないだろうか。


『こっちにどうぞ』


 僕の心臓はやかましいけれど、そうやって案内されたのは、フウチの部屋だった。


 たたみの部屋で、広さもある。明確な数字はわからないけれど、広い部屋、和室である。


 そんな風に部屋を分析しているけれど、僕の心臓は爆発してもおかしくないくらいだ。すこぶるうるせえ。ちょっとくらいなら止まっても生きていられる気がするくらいうるせえ。女子のベッドがあるってだけで、ドキドキするんだけど。その女子のベッドがフウチのベッドってだけで、ドキドキが加速するんだけど。ベッドに座っているフウチを見るだけで、ドキドキが異常なんだけれど。


「はい、フーちゃんこれ、テスト範囲のプリントだよ」


 と。僕がそわそわしていると、無鳥はそう言いながら、持っていたプリントを入れたトートバッグをフウチにそのまま渡した。


『ありがとう、無鳥さん』


「うん。よしこれであたしのミッションは完了した」


 さて、あたしは帰るよ——と。無鳥は立ち上がった。はあ!?


「なに、お前帰るの!?」


 もう? まだ来たばかりじゃん! お前が座ってから、まだ十秒くらいしか経過してないけど、もう立ち上がったし、立ち去る気なのか!?


「帰るよ。だってあたし、これから用事あるし」


「それ、僕初耳なんだけど?」


「当たり前じゃん。言ってないもん」


「……………………」


 言えよ。言っとけよ。


「あたしはこれから、仁尾におちゃんに誘われてるんだよ」


「あー、なるほど」


 だから矢面やおもては、朝から服屋に居たり、美容室でトリートメント(?)をしていたのか。あいつ僕に思考がそっくりじゃねえか。もはやうり二つだよ。


「……じゃあ僕も帰るよ」


 無鳥が帰るなら、僕も帰るべきだろう。そもそもお見舞いで長居するのも、マナー違反だろうし。


「いやあんたは残れよ。あんたが居るから、あたしは安心して帰れるんだから、残れよ」


「……………………」


「とりあえず、そのお重箱の中身を食べるまでは残るべきだろ」


 そう残して無鳥は、「んじゃまたねー。お邪魔しましまー」と。言って本当に帰ってしまった。


 部屋から退室するとき、僕にだけ見えるように無鳥はウインクをした。いや、それがウインクだったのかはわからない。なにせ下手過ぎて両目を閉じていたので、単なる強いまばたきだったのかもしれない。


 というか、二人っきりになってしまった。


 親友に二人っきりを演出されてしまった。


 ど、ど、どどどどどどうしよう……。


 僕が動揺していると、フウチは、


『におちゃん?』


 と、書いた。あーそうか。フウチは休んでいたから知らないんだよな。


「実は筆談部に進入部員が加入したんだよ」


『おおー! その人、怖い……?』


「変なやつだけれど、フウチには無害だと思うよ」


 僕的には怖いし、僕には無害なのかよくわからないけど。悪いだけの奴ではないようだが。


『女の子?』


「うん。そうだよ」


『ふ、ふーん。可愛い……?』


「うーん……」


 見た目だけなら、可愛いんだろうな。性格と態度があれだから、差し引きで完全にマイナスになる感も否めないけれど。


「見た目だけなら……そうなのかなあ」


『ふーん。可愛い……んだ?』


「わからないけど、フウチとも仲良くなれると思うよ」


 しかしこんな話をしながらも、僕のドキドキやかましいな。全然シチュエーションに適応しねえな。どうなってんだよ僕の人体構造。ちょっと人としての適応力に欠け過ぎてねえか?


 フウチはベッドに座っていて、僕は畳に座っているけれど、声を出しているのは僕だけだし、部屋が静かすぎて、僕のドキドキ聞こえてるんじゃねえのか——と。そう思っていると、大きな音がした。


 ぐううううううう——という音がした。


 その音の方を向く。つまりフウチの方を向く。


『ライオンが散歩してるのかなあ……がおー』


 誤魔化しが下手だった。でも可愛いから許す!


「腹減ってるのか?」


『ライオン! ライオン……だよ?』


「じゃあライオンはこれ食うか?」


 そう言いながら、僕は重箱の包みを開ける。僕が美容室に行っているとき、妹が調達していた鶏肉で、カラッと揚げてくれた唐揚げを見せる。


 ぐうううううううううう——と。重箱に詰め込まれた唐揚げを見たライオンが、どうやらまた鳴き出したようだ。


『今日はライオンが、よく散歩してるみたいだなあ……きっと外はアマゾン……だよ』


「ライオンはサバンナじゃねえか?」


 まあ、そんなことはいいとして。


 僕は重箱から唐揚げをフウチに渡そうと、唐揚げを刺した串を伸ばした——が。


 フウチは受け取ろうとしなかった。


「唐揚げじゃあ重たいか?」


 風邪を引いたときに、唐揚げは重たいだろうか。僕も妹も風邪を引いたことがないので、その辺の気持ちがよくわからないのだ。


 僕からの問い掛けに、フウチは、首をふるふると横に振った。そして、マスクを下にずらして——小さな口を、大きく開いた。


「あーんしろってことか?」


 こくり——と。小さく首を縦に振るフウチ。


 人生初のあーんをすることになった。急に。まさかこんな日が来るとは……。手が震えながらも、僕はゆっくりとフウチの口に、唐揚げを持っていく。


 口の前に唐揚げを持っていくと、パクリ——と。可愛らしい唇が、唐揚げを奪った。ついでに僕の心も奪った。


『もぐもぐもぐもぐもぐ』


 そしてやはりこのもぐもぐである。


 一個を飲み込むと、口元が嬉しそうな形に変わる。そしてまた、口を開く。あーん、と。声は出していなくとも、そんな声が聞こえてくるようだった。


 風邪を引くと甘えたくなる。たしかしぃるはそんなことを言っていたけれど、どうやらそれは、本当だったらしい。


 でも、なんだろうな。ミラーレンズのサングラスをしているから、変な人をづけしてる気分にもなってくる……。


 あるいはそのおかげで、僕は冷静になれたのかもしれないが。どちらにせよ、僕の親友は僕にとって、とても素晴らしい時間をプレゼントしてくれたことには違いあるまい。


 三個目の唐揚げをパクリとしたフウチは、そのまま串を口で僕の手から盗み、自分の手に持ち替えながら、ちょこんと。僕の正面に座った。


 そして、唐揚げを串に刺して、少し身を乗り出しつつ、僕に向けてくる。無言で。あーん返し。


 まさかの、あーんリターンズだ。


 恥ずかしいけれど、そんなことをされたら、僕も応えねばなるまい。サングラスをしている相手なのに、必死で顔面をたもち、僕は口を開いた。そこに唐揚げがインした——もぐもぐ。いやちょっとまって!


 これ、間接キスじゃね……? フウチの唇が触れた串で唐揚げを食べたら、それはもう間接キスと言っても過言ではないのでは……?


 そう気づくと、食べ慣れているはずの妹の唐揚げが、まるで未知の味。しかしとてもとても美味しく感じるのだから、不思議である。


 こ、これがいわゆる、お前に食べさせてもらったから美味しいという、あの伝説の——あーんの魔法か…………? 戦慄のあーんマジック?


 戦慄と感動と唐揚げ。その三つを同時にしゃくした、まるで食いしん坊の男の姿が、そこにはあった。


 僕だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る