玉ゆら
あきかん
第1話
チンチン
ドアにつけられた玉が揺れる音がした。ここのバーの名物の金属の玉が擦れて鳴る音だ。
「マスター、もう一杯。」
彼の好きだったウイスキーをちびちび飲む。マスターは黙って空になったグラスにウイスキーを注いでくれた。
チンチン
また、玉が揺れる。店に入って来たのは彼ではない。
「マスター。あの玉はどうしてつけているの?前に来た時から気になってたんだけど。」
「あれはね、店の名前と関係があります。玉響は玉が擦れる音のこと。それが転じてほんのしばらくの間とかを意味します。店に来ていただける一瞬の間を特別な時間にしたいと思ってあの玉を着けているんですよ。」
「へぇ、なんか勉強になっちゃった。ありがとう、マスター。それともう一杯。」
「ほどほどに飲んで下さいね。」
そう言いながらもマスターはグラスに酒を注いでくれる。
チンチン
玉が揺れる。店に入って来るのは彼ではない。
彼に連れられてこの店に来たのは先月の事だった。綺麗な満月が夜空に出ていた日に彼に誘われた。月が綺麗ですね、なんて野暮なことを言っていたかな。
初めてこの店に訪れた時も、チンチンとあの音がした。彼はウォッカを飲み私はカクテルを頼んだ。あの日は凄く楽しかった。
「マスターは私が初めて来たときのこと、覚えている?」
「篠原さんと来たのが最初でしたよね。あの日は夜空がとても綺麗でよく覚えていますよ。」
なんか、常連みたいな会話をしてしまった。でも実は、来店は2回目だったりする。そう言えば、彼は篠原という名前だったのか。初めて知ったかも。
チンチン
玉が揺れる。エアコンの風で玉が動いたのかもしれない。
彼とはこの店で飲んだだけの関係だったのかもしれない。いや、同衾したかもしれない。あの日は酔いつぶれて記憶が飛んでしまった。気がついたら家で寝ていたのだ。
「マスター、前に来たときの私はなんか変な事をしなかった?」
いや、本当に何も覚えていない。彼との思い出はほんのわずかしかない。
「ひどく酔いつぶれていましたよ。篠原さんが介抱しながら店を出ていきましたよ。」
恥ずかしい。きっとひどい醜態をさらしたに違いない。
「篠原さんと私は何を話していました?」
「そこは自分で思い出して下さい。」
「けち。」
私はウイスキーを舐める。あぁ、何で彼はこんな酒が好きだったんだろうか。
「そう言えば、篠原さんはどんな人でした?」
私はマスターに問いかけた。彼について私はほぼ何も知らないに等しい。
「篠原さんはアイリッシュウイスキーが好きでした。今お出ししているジェムソンブラックバレルが特にお気に入りでよく頼んで頂きました。」
「そんな事はどうでも良いんですよ。人となりとか、好きなタイプとか聞きたいの。」
「それはお答え出来ません。」
「ケチ。」
チンチン
玉が揺れる。また、新しいお客さんが来たのかもしれない。
「マスター、シングルモルトで何かオススメない?」
新しく入って来た客がマスターに注文した。
「グレンファークラスの20年物が手に入ったのでお出ししますよ。」
「お、いいね。それロックでお願い。」
マスターはグラスにウイスキーを注ぎその客に出した。
「そう言えば、木村さんは篠原さんと仲が良かったよね。彼女に篠原さんの話をしてあげてくれないかな。一杯奢りますから。」
「本当に良いの?何でも聞いてよ。」
「それじゃお言葉に甘えて。篠原さんは彼女がいたの?」
酔いに任せて木村さんに聞いてみた。
「篠原さんは、なんというか女癖の悪い人でね。まあ、今さらこんな事を言うのもなんだけど。」
木村さんは話し出した。
「篠原さんに特定の彼女いなかったよ。うん、なんというかセックスパートナーみたいなのは何人かいたけどね。」
「へぇ、篠原さんってモテたのね。」
「モテた。確かにモテたよ、あいつは。面倒見が良かったからかな。色々な相談にも乗って貰ったし何かと世話になったよ。」
流石、篠原さん。私も一目合った時に好い人だと思った。彼にもう一度だけでも会いたい。
「篠原さんは、私と出会った時も最初から紳士でとても素敵でした。」
「あぁ、分かるよ。あいつは人当たりは良い。」
なんか含んだ言い方だ。
「でもね、あいつは特定の人間とは深く関わらなかった。本人から聞いたんだが、1人の時間が何よりも大切だと言っていたよ。俺もあいつのプライベートはよく知らない。この店でよく一緒に飲んでいたぐらいだ。」
「結局、篠原さんって何だったのかな。」
「まあ、女癖は悪いやつとは言えたかもな。色んな女性とここに飲みに来ていたよ。羨ましかったなあ。」
チンチン
玉が揺れる。彼はやってこない。
さて、木村さんに篠原さんの話を聞いても要領が得ない。結局のところ、彼は雲のようなとらえ処のない人物だと言うことだけがわかっただけだ。
はてさて、なんで彼のことを知りたかったのだろうか。あの日はとても楽しかった。ただ、それだけではない。
あれは昨日のことだったと思う。何故か知らないが葬式の案内が届いた。篠原さんとは本当にあの日限りの関係で、何で私なんかに案内が届いたのかわからない。スマホの電話帳に登録されていた人間全てに届けたのだろうか。いや、そんな馬鹿なことをする人間がいるはずはない。気になってこのバーに来たのだった。彼との関係で思い至る場所と言えばこのバーぐらいなものだったからだ。うーん、わからない。とりあえず、ウイスキーを舐める。なんかこの酒は病みつきになる。
チンチン
また、玉が揺れる。彼はもうあのドアを開けることはない。
彼の交友関係はよくわからなかった。彼の両親が送った訳がない。彼のパートナーの線はほぼ消えた。なら、誰が私に案内を送って来たのか。
チンチン
玉が 揺れる。ドアに掛けられた玉が鳴った訳ではなかった。マスターが金属製の対の玉を鳴らしていた。何なんだろう、あの玉は。
チンチン
マスターは玉を揺らす。気がついているのはどうやら私だけだ。
「マスター、その玉は何なの?」
私はマスターに問いかけた。酔っていなければ、たぶん口にすることはなかっただろう。好奇心に負けた。
「あぁ、これはね。篠原さんの玉ですよ。」
「あはははは。なにそれ下ネタ?」
「 いやいや、魂ですよ。息子とも言いますし、あそこには魂が宿るのです。」
妙に真面目に答えるマスターが余計に面白かった。
チンチン
また、玉が揺れる。その音を聴いて私は理解した。あの案内を出したのは、きっとマスターだ。
チンチンチンチン
玉が揺れる。私の酔いも十分回って来たのか、あの玉の音が繰り返し繰り返し聴こえてくる。
チンチンチンチンチンチンチンチン…
玉ゆら あきかん @Gomibako
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
近況ノート
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます