42.心は一進一退


 退院前の夜明けから一転、退院後の心は夜更けのように暗い。

 何故かしら。自分を取り戻して生き始めたはず。

 月彦つきひこと私を邪魔するものは何もない。

 うれえる事態が皆無なのにちて、いく。

 これが心の難しさ。手に負えない人間の難しさです。


 百合柄の洋燈ランプの点る仄明ほのあかるい部屋にて、予想外の入院という出費で淋しくなった通帳を眺めていた折、充電中の端末に着信が入ります。職場の店長からの電話。身構えつつ、応じます。


「お久し振りです。櫻井さくらい日芽子ひめこさんですね?」

「……はい」

つながって良かった。こうして話せているということは、退院できたんだね。具合は、どうだろう?」

「お陰様で退院しまして……元気です」


 社交辞令。

 自分で感じる自分の雰囲気は、元気とは程遠いのですが、そもそも真実に元気とは、どういう状態を示すのでしょう。何をもって元気なのか、分からないのです。


「突然なんだけどさ、店舗、業績不振で畳むことになったんだ。上層部の指示でね、閉店セールの最中だよ」


 ファーマシーの末端店舗です。業績不振の空気には、異様なまでの人件費削減を実施していたころから勘づいていましたので、それほど驚きません。


おぼえているかな? 櫻井さんを切ることは不可能なんだ。オレの気持ちは変わらないよ」


 それは私が会社都合でよろしく動く人間であり、低時給に文句も言わず勤め続けるバイトーハンゆえでしょう。バイトーハンとは、アルバイトの登録販売者のことです。自身も忘れそうだった懐かしい響き。


「店舗が無くなって、すべて終わりじゃ淋しいよね。オレは社員だから、別の店舗という受け皿がある。その受け皿をアルバイトの登録販売者にも拡大しろと言った人が居てね。瑞月みづきさんなんだけど」


 瑞月先輩。私の人生に、そういう人も居ましたね。ダブルループではなく、ダブルワークの女神。気持ちも身体も強靭で健全な、おそらく真に健康なキャリアウーマンです。


「オレと瑞月さんは此処ここが閉店後、行く先が決まっているんだ。ところで、今も櫻井さんが同棲中ならば、その住所から比較的、近い店舗がね、欲しがっているんだ、登録販売者を。オレと同期の小父おじさん店長なんだけど、力仕事よりレジ回しより、親切丁寧な接客のできる有資格者を求めている。接客と言えば櫻井さんだ。推売の女神だからね」


 ありがたい案件のはずですが、躊躇ためらいました。洋服箪笥クローゼットの中に、クリーニング済みの白衣が眠っています。次、店舗に出向くときは私の正式な退社日であると、予感していたゆえにクリーニング済みなのです。


「店長、折角せっかく御厚意ごこういですが、私、もういいんです」

「もういいって……」

「もういいんです」


 繰り返しました。本当に、すべてが、もう面倒なのです。


御免ゴメン。切り出す時期じゃなかった。元気じゃないんだね。重荷に感じないでほしいけれど、社会の受け皿を用意して待っているということを心にめておいて。それじゃ、またね」


 通話を終えた途端、脱力感にさいなまれました。

 正直、このままでは社会人としていけないと思いつつ、社会復帰を前に足がすくむのです。


 私には、月彦と共にとざされた安楽にいやされる時間が、沢山たくさんに必要なのかもしれません。




 舘林家たてばやしけは安楽の地でした。月彦はプロ・アノレキシアとして咲き誇る浄植体ペルソナで、お母様はプロ・アノレキシアの我が子を愛するのと同様の愛を私に、そそいでくださるのです。


 ふたりして治ることを足踏みしているような状況を焦らせることもなく、とがめることもなく、ひたすらに必要最小限の栄養食を提供して見守る人です。単身赴任のお父様は、当然の如く不在でした。


 もし、舘林家に不在の父が帰って来られたら、私は此処ここを追い出されるでしょうか。赴任先にて、私には意味の分からない動物の剝製はくせいを買い求めて、自室に飾るお父様です。月彦の父の携える常識という名の麻酔銃に駆逐される雛鳥ひなどりの運命。そんな、どうでもいい取り越し苦労を展開しております。


 月彦の寝床を占領して思い悩んでいました。月彦に着付けてもらった幼児こどものような衣装のまま、月彦が施した薄化粧を崩さずに。


「ただいま」

「おかえりなさい。お夕食は?」

「一時間後に、お願い。ちょっと、やりたいことがあるんだ」


 夕方、病院から帰った月彦と、お母様の遣り取りが聴こえました。

 百合柄の洋燈ランプを点した部屋で、彼を迎える私。


「おかえりなさいませ、月彦くん」

「日芽子さん、ただいま。早速さっそくだけど付き合ってほしい。やらなきゃいけないような気持ちなんだ」


 月彦は敷布しきふの上に、自殺ごっこの道具を並べ始めました。

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