40.死の床に巡り逢う


 私たちは、同じ卵の殻の中で、生まれる前に乾涸ひからびていく雛鳥ひなどりのようですね。

 この世に生まれたくなかったのかもしれません。

 永遠に卵の中で眠っていたいとのぞんだでしょうか。

 それは退化と言うよりは、純粋な場所に、

 ひたすらかえりたいとねがう胎内回帰幻想ですね。


 私は月彦つきひこから生まれたかった。

 月彦は私から生まれたかったですか。


 死の床に眠る月彦に巡り逢いました。




 私は輸液を吊るしたイルリガートルを引きりながら、園田そのだ医師の導きで、月彦の病室に辿たどり着きました。其処そこは死の床と形容するに相応ふさわしい個室です。


 月彦は弱っていました。衰弱、はなはだしく横たわっていました。

 自宅に居るときに愛着のあった黒い寝衣ねまきを着ています。その黒いそでと身頃が、月彦という人間のカタチを細くはかなく彩ります。


 彼をこの世につなぐ生命維持装置は取り払われて、彼のイルリガートルには、カラの点滴バッグが所在なさげに浮かんでおりました。

 それは店舗で見た風鈴の秋の姿。季節を終えて沈黙しているのです。


「僕は医師として、月彦くんののぞみを聞き入れました。もっとも医療チームは非難轟々ひなんごうごうでしたが」

「彼の……月彦くんののぞみ?」

「僕を縛り付けるつるのような点滴を外してほしい。生命の季節を終わってしまいたい。安楽死が認められない世の中だと分かっているけれど、せめて安楽に眠らせてほしい」


 いかにも月彦がのぞみそうな内容でした。


「それで先生は」

「安定剤を投与しました。結果、よく眠って……幸せそうに眠っておられるのです」


 月彦は生命の季節を終えたわけではありません。ただ一時的に休息やすんでいるだけです。黒い寝衣ねまきそでから見える脂肪の淡い手に触れました。ほんのり、あたたかくて、この手を繋いで色んなところに遊びに行った日のことを思い出します。


 図書館の棚影で、

 病院の白い廊下で、

 そろいの服を着込んだ学生であふれ返る満員電車で、

 麗しのコスプレイヤーでにぎわうライヴハウスで、

 百合柄の洋燈ランプが点る唯一無二の部屋で、

 手を繋いでいた私たち。


 月彦の手は、アノレキシアを象徴する温度です。やや冷ための体温で私の肌をおおい尽くすヴェールでした。一織りの絹のように淡いのに、その膜は私にとって間違いなくライナスの毛布でした。


「生命の終わりの近い彼に、本当の心を伝えてあげてください」


 園田医師に促され、眠る月彦に心を開きます。想いを伝えられずに終わっていくのではないかという危惧。伝えることができずに引き離されてしまうのではないかという焦燥が、私を大胆にしました。


 私の叫びで、眠る月彦を目覚めさせたい。


「月彦くん、助けて。私をかくまって。私をあなたの中に閉じめて」


 寒くて仕方がないのです。


 私たちは物理的に、現世うつしよ幻世まぼろよへ別たれるのかもしれません。逝くのは月彦で、醜く生き残るのは私です。ひとり取り残されるのは私なのです。


 月彦を失うということは、皮膚感覚をくも同然。皮膚の中に張り巡らされた血管が、チリチリとけて痛むのです。皮膚におおわれた僅かな脂肪は、白く冷えて固まるばかり。血液が悪い菌を伴ったかのように全身を巡って、私の生命を駄目にしていくように感じられました。


 この巡りを正しい場所へ導けるのは月彦だけ。

 私をあなたの中にとざして、いつも変わらない温度で其処そこに生かしてください。

 ライナスの毛布で包んでください。


 ねがいは届きました。

 月彦は黒い百合が咲くように寝台に上体を起き上がらせて、丁度好ちょうどいい温度で私を抱きました。園田医師が、私の生命維持装置を外してくれます。まとわる蔓の無くなった腕を、月彦のくびに回しました。


 私たちは生命をかけて求め合い、愛し合う百合なのです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る