37.卵の中の少年


月彦つきひこちゃん、日芽子ひめこちゃん、元気してる?

 チェルシーは病院のベッドの上で退屈しているわよ。

 先日は折角せっかく御厚意ごこうい無下むげにしちゃって御免ゴメンあそばせ。

 面会時間はバッチリメイクしているから、どうぞ遊びに来て頂戴ちょうだい

 ちなみに、病院に見舞いの花を持ってきちゃ駄目よ。

 花粉とか菌とか神経質な病院だから。

 そうね、日芽子ちゃんのお勤め先に売っているような蒟蒻こんにゃくゼリーを買ってきてほしいわね。動けないのにケーキなんて食べたら肥っちゃうでしょう。

 そんなわけで、ヨ・ロ・シ・ク』


 チェルシー先輩からのメールです。

 グルコマンナン豊富なダイエット食品をご希望でした。


 私は、かろうじて首のつながっている職場に顔を出しにくく、月彦と一緒に別のドラッグストアに赴き、蒟蒻ゼリーを買い求めました。幼稚園児のように何も考えず歩きます。重ねる月彦の手を信頼しきっているのです。




 三〇七号室。

 チェルシー先輩が本名を秘匿ひとくしておきたい気持ちを物語るかのように、空白のネームプレートが輝いていました。


「失礼します」


 月彦は丁重にノックをして、白い引き戸を開けました。すると其処そこには、ステージと同じ貴族風の衣裳をまとったチェルシー先輩が、長い金髪を縦ロールに巻いた御姿すがたで、白い寝台に休んでおられるのです。

 病院のスタッフさんに怒られないのでしょうか。


「待っていたわよ。メイクすると顔色が分からないじゃないかって、担当医に怒られながら待っていたわよ」


 やはり怒られたのですね。

 くっきりと引いた黒いアイライン。霞のように淡水色みずいろぼかされた眉。毛穴オフの美肌。瞳は翡翠ひすいに輝いて、もはや国籍も不明の麗人です。


「トランシルヴァニアに帰りたいわ。病院生活、飽きちゃった」

「まだ一週間じゃない」

「もう一週間よ。うんざりね。咽喉のど、渇かない? 月彦ちゃん、悪いんだけど、冷蔵庫から檸檬紅茶レモンティー三缶みっつ、出してくれるかしら。そして、蒟蒻ゼリーを冷やしちゃって頂戴ちょうだい


 月彦は、先輩のリクエストどおりに動きました。

 ゼリーを冷蔵庫に収納して、缶紅茶を三本、サイドテーブルに並べます。


「カンパーイ❤」


 缶紅茶でシャンパンのようにエキサイト。まったく可愛かわいらしい御方です。


「先輩、意外と元気そうで安心したよ。身体的な傷は勿論もちろん、精神的な傷の深さを心配していた」

「あら、そんなにやわなチェルシーに見えて? だけど瞬間、深く落ち込んだわね。あの子は初期の私を知っている。マドモアゼル・チェルシー・シャルロットのころから見守ってくれていた。月彦ちゃんと出逢う前の、初心うぶな私を知っている数少ない子よ」


 犯罪者の青年を「あの子」と呼ぶチェルシー先輩が、甘やかに物語っていました。


「バンド。そう言われるのもイヤだった。って決め付けられるのが厭だった」

「最近は平気なの?」

「自分で言っているものね。バンドマン兼コスプレイヤー。本業は派遣社員ってね。そう、バンドマンなんて、単なる職業上の記号と思っているから大丈夫よ。本当はアーティストって言いたいんだけれど、その域には達していないのよね。魂の器が未熟者」


 喉仏のどぼとけをゴクゴク動かして、紅茶を飲んでおられる先輩。

 それが出っ張っていなければ、あたかも女性。

 いいえ、貴族風の衣装で全身をコーディネートする性別の無い麗人。

 その人の縦ロールの髪に指を触れながら、月彦は言います。


「先輩が未熟者なら僕なんて生まれてもいないね。卵の中のひなだ」

「卵から生まれる。いいわね。文學的ブンガクテキ。私、そういうの好き」


 少年。チェルシー先輩は、月彦のアイデンティティを美しく肯定します。


「ふたりが並んでいると、お内裏様とお雛様でもなくて、彦星と織姫でもなくて、透明な卵の中に寄り添う雛鳥みたいよ。ちょっと心配。境界をぼかし過ぎるとね、共依存に成っちゃうわよ。もう、そういう関係かしら? どちらにしても、こんなふうに病院縛りにならないように、お気を付けあそばせ。日芽子ちゃん、あなた、また小さくなったわよ。この私の細腕で抱き上げた日より小さい」


 チェルシー先輩の眉間みけんが曇り、その肌が水たまりのように光をはじいています。

 安心してほしい。

 そんな思いで、加糖の檸檬紅茶レモンティーをゴクゴクと飲みました。


 月彦のことは大好きです。それが、水たまりに映る自分を愛することと寸分違すんぶんたがわないなんてことに気付かないふりをして、少女同士の禁じられた愛に瞑目めいもくして、私たちは、ゆらゆらと共に依存して生きるのです。

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