36.愛と憎しみの心理


 ショッキングなニュースが飛び込んできました。


 月彦つきひこの人生の恩人・チェルシー先輩が、自宅マンションに帰る途中、階段の踊り場で、ナイフを持った青年に襲われたのです。


 上背うわぜいが百八十八センチのチェルシー先輩は、低い位置からの攻撃を見切り、咄嗟とっさけました。お陰で致命傷には至らず、しかしながら、その青年の顔を確認して驚きを隠せなかったそうです。


 襲撃したのは、チェルシー先輩のファンでした。

 デビュー当時からの熱烈なファンです。


「僕だけのチェルシーだったのに」


 襲撃の理由を警察に問われて、そう繰り返しているとのこと。


 折しもチェルシー先輩は、順風満帆なアーティスト活動を送り、活躍の場を全国区に拡大しようとツアーを組んでいた矢先でした。腹部に受けたナイフのせいでツアーを断念。隣町の総合病院の外科に入院中です。


「お見舞いに行こうかって言ったら、当面、ノーメイクだから遠慮してほしいって。先輩らしい」


 先輩の口調は明るかったそうですが、自分のふるくからのファンに刺されたなんて、さぞかし心の傷は深いでしょう。


「チェルシーなんて大嫌いだ。居なくなればいいのに」


 取り調べで動機をたずねられた青年は、憎々しく言い放つこともあるそうです。


「熱心にライヴに来ていた子だ。親しく話したことはないけれど、僕は彼をよく知っている」


 月彦は意外にも、犯罪を起こした人物を責めず、むしろ共感を示します。


「愛している。それって、裏を返せば憎んでいるってことなのかな。僕には分かる。このタイミングで、チェルシー先輩をあやめたい気持ち」


 インディーズ・シーンで絶大な支持を得て、メジャーにのぼり詰めようとするマダム・チェルシー・シャルロット。年齢・性別・本名も秘密。アンドロギュヌスの姿で、飽くなき愛を振りく永遠の少年少女の味方。


「全国区に、なってほしくないんだ。チェルシー先輩が失敗したらいいなんて思っていないよ……否、ちょっと思っていた。やっぱり全国区なんて私には無謀だったわって笑いながら、僕たちに近いところで、アニメをモチーフにした歌を披露する先輩で、ずっと居てって願っていたんだから。あくせくと活動範囲を広げて何になる? チェルシー先輩には、この界隈かいわいのライヴハウスとバーで活躍する地域限定な、更に我儘わがままを言えば僕限定の人で居てほしかったんだ」


 それはわば活躍を阻むということで。

 飛び立とうとする羽根をむしり取るということで。


「共感できるよ。僕にも犯罪者の血が流れているのかもね。いちいち面倒くさいメンタルこじらせ野郎だろう?」


 拗らせているのは確かですが、いちいち面倒くさいとは思っておりません。どちらかと言えば一緒に身体を傾かせて、拗らせきってしまいましょうというポジションですから。


「泣きそうな表情かお、しないで」


 私の表情が拗れていたでしょうか。月彦が私の左頬に片手をてて言います。


「僕は日芽子ひめこさんをあやめたりしない。だけど、不謹慎にもねがってしまうんだ。日芽子さんが、ずっとアノレキシアで居てくれたらいいのにって。治らなきゃいいのに。ずっと病にむしばまれた痛々しい少女の精神こころで、僕だけを愛してくれたら本望なのに」

「健康なときだって、私は月彦くんを愛していたわ。病めるときも健やかなるときも……と言うと、ありきたりだけれど、私はどんな状態でも月彦くんを見ているわ。他の人じゃ駄目なの。月彦くんじゃなきゃ駄目なの」


 狂わんばかりの少女の一途いちずを表現しました。私たちは互いの痛みをついばんでは、その傷口から流れる血を好んで吸い合う、異端のヴァンパイアなのです。


「他人の無理解に苦しんだ。苦しみは消えない。でも、今となっては苦しんでいない。何故だか分かる?」


 光の入らない卵のような布団の中で、月彦がささやきます。

 私は身体と心と声をぎゅっと閉じ込めていました。


 月彦と私は、他人同士ではなく一心同体の、生まれたくない雛鳥ひなどりたちとも言えます。けれども、ふたり一緒なら生まれてもいい。月彦の強さが、そう思わせてくれます。


はなから他人様ひとさまに理解してもらおうなんて期待しない強い自分として生まれたい。だけどね、日芽子さんを他人と思えない。日芽子さんは僕の理解者だ。そんな思い込みでキミを縛っただろうか。苦しみの同志にキミを選び、僕の苦しみを押し付けてしまっただろうか。だとしたら、ゆるしてほしい」


 月彦が赦免しゃめんを願うならば、私も同罪。


「私たちは共に苦しむ異端の愛で結ばれているのだわ。私こそゆるして頂戴ちょうだいね」

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