33.雛鳥たちの夢


「ねぇ、日芽子ひめこさんの夢って何だった? ピアニストかな」

「……ピアノの先生。表向きは、そう答えていたの」

「表向き?」

「小学校の卒業文集にね、将来の夢をつづる作文の宿題があったの。私、こどもながらに疲れていた。うるさい学校生活に疲れていたのよ」


 この部屋には、ライヴハウスでもらった裏の白い紙があふれています。


「私はオトナという生きものに成れるのかしら。何者にも成りたくないのです。透明な場所で静かに生きていたいのです」


 すべすべとしたチラシの裏紙に、ボールペンを走らせました。

 今、書いたばかりの文字を二重線で消してにじませて、新たに書きます。


「私は家で教室を開くピアノの先生を目指します」


 ボールペンを置きました。


「書き直しなさい。母に戒められたわ。母の思いどおり、ピアノの先生を目指しますという作文を書いて提出したの」

「そうか。其処そこで抵抗しないで素直に書き直すあたり、日芽子さんらしい。僕も同じようなことがあったよ」


 月彦つきひこがボールペンを手にします。

 さらさらと水性の洋墨インクが流れます。


「オトナになるまえに僕は死んでしまいたい。けがれたオトナになるぐらいなら、純粋なまま神様に好かれて身を天にかえしたい」


 華奢きゃしゃな肩をすくめる月彦。悪戯いたずらな微笑。壊れそうな感性。


「中二病だろう。まったくあきれた作文さ」

「月彦くんが何歳のときの作品?」

「……中二には二年早い十二歳。けがれた血を流し始めたときの作品さ。女の子の身体の莫迦バカさ加減を叩き付けられた想いの日の。そっとしておいてほしいんだ。どうして御赤飯なんて炊くのさ。無神経極まりないね」


 美少年風の容貌で初潮の思い出を語られると、どう相槌あいづちを打っていいのか分かりません。私は黙って聞いていました。


園田そのだ先生が言うには、その通過儀礼を前向きに明るいものととらえられなかったところに、僕の病因の一端があるかもしれないって……分かるかな? オトナへのイニシエーションに失敗したってことさ。僕はよごれてしまった。何故か強く、そう思い、人生で食べてきた林檎りんごが僕の胸を膨らませる気がして怖いのさ。世の中、巨乳とか貧乳とか言うだろう。どっちも嫌いだ。僕は無乳で在りたかった。女性の象徴シンボルなんて要らない。そんなもの捨てて生きていきたい」


 何て明快なのでしょう。

 その言葉があたかも自分から発せられているような気持ちになりました。


 私は神様のプログラムを呪ったことがあるのです。現象に心が追い付かない年ごろから、栄養を充たしてセックスアピールを開始してしまう胸部バスト臀部ヒップ。何て恥ずかしいのでしょう。腫れものです。恥じるべき我が身です。


 決して誰をも誘う心が無いのに、私の身体は異性を誘ったのです。

 不用意にけがされたことがありました。

 痴漢です。

 満員電車のどさくさにまぎれ、デパートの人混みにまぎれ、私は頻繁に痴漢に遭遇しました。もともと内向的な性格は、ますます内向的になり、悲鳴を上げることもできず、ただただ我が身を恥じるばかりでした。


「発育が良いから、いけないのだわ」


 枯れ木のように魅力を失ってしまいたいとねがいました。

 胸の林檎りんごが大きく熟れませんようにとのぞみました。


 神に声が届いたでしょうか。

 私の成長は、百五十センチ四十キロのAカップで止まってくれました。

 月彦の身体は一度、百七十センチ四十七キロのDカップまで育ち、その哀しみは、如何いかほどだったでしょう。


 それを哀しみと察することができる人は、おそらく居なくて、居たとしても超絶少数派で、ゆえに私たちは理解者無き哀しみの沼へ両足を突っ込んで消えてしまいたいのです。恥ずかしいばかりの身を葬りたいのです。


 しかしながら拒食によってせ細り、女性としての恥ずかしさのやわらいだ身体を手に入れ、月彦と安息の時間を過ごすようになってからは、共に生きたいと思うようになりました。


「私も女性の象徴シンボルなんて要らない。月彦くんと同じ身体で生きていきたい」


 それは私たちにとって共通の価値観であり、人生の答えなのかもしれません。

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