34.老婦人への憧れ


 医師と茶飲み話をして人生の暇をつぶすことになろうとは、私も最晩年でしょうか。

 実際に茶飲み話です。医師は、お茶ではなくコーヒーを飲んで、湯気の向こうから話し掛けてくるのです。


 カウンセリングの開始は悠長です。園田そのだ医師が、スティック・コーヒーをマグカップに入れて、熱湯をそそぐところから始まります。私は毎回、ご相伴にあずかっていました。


 何回目かのカウンセリング。ヘーゼルナッツのフレーバーを選んだ園田医師と、ストロベリーのフレーバーを選んだ私は、向かい合って座っておりました。香ばしいナッツと甘酸っぱいストロベリーがけ合う空間は、夏の日のドレス・コードを思い出させます。ストロベリー・ミルクティー。


 あの日の私は月彦つきひこの保護者だったのに。

 情けないことに今は保護される側。


 人生とは、分からないものですね。


「いささか無神経で御免ゴメン。危機感を持つことはないの?」


 園田医師は真っ先に謝って、若干じゃっかん、砕けた口調できました。


「何に対する危機感でしょう?」

「あなた自身の生命活動。あなた自身の今の状態に」


 私がだんまりを貫いておりますと、流暢な説明が続きました。


「栄養の不足が身体へ及ぼす、さまざまな影響。除脈、低体温、低Tスリー、自律神経の失調、おそらく無月経。検査結果を医学的用語で申し上げるのは、あなたが職業柄、それを理解できると信じているからです」


 すべてが理解できました。

 それらは私と月彦に共通する要素の羅列。

 私たちにとって都合よく、危機感につながらない要素。

 繋がったとしても遮断するのです。


 戻りたいのかもしれません。

 第二次性徴によって性が分化する以前へ。

 月彦ののぞむ平坦な胸と、少年のように真っ直ぐな脚。

 鬱陶うっとうしい月の巡らない身体へ。血を流さない身体へ。

 私たちは、こどもがえりを希求しているのでしょうか。


「本当に御免ゴメン。少し踏み込み過ぎました。では、また次回」




日芽子ひめこさん、元気ないね。どうしたの?」


 カウンセリングにて、踏み込まれたくない領域に踏み込まれた私の憂鬱ユウウツを、月彦は察しました。


「先生に意地悪な質問をされた?」


 そのとおりです。

 少々、立ち入り過ぎた質問に答えることができず、打ちのめされておりました。


「ねぇ、月彦くんは、いつから血を流さない身体で生きているの?」なんてけませんし、彼だって触れられたくないでしょう。


「園田先生が僕に言うんだ。このままでは早々はやばや骨粗鬆症こつそしょうしょうになって、将来的には簡単に骨が折れちゃうんだってさ。でも、僕は未来のリスクより、現在の安定を選び取って生きている」


 何もいていないのに、月彦は独立したプロ・アノレキシアとして、滔々とうとうと話しました。


「すべては自己責任さ。僕は、いくら危険だと言われても、この状態でしか生きられない。いつか健全に、女性というアイデンティティを引き受けて生きていけるとも思えない。でも万が一、生命がしぼんでゆくだけの老年期に達するまで生きていられたら、女性を受け入れてもいい。そう思えるのかも。日芽子さんと一緒に、おばあちゃんに成って、ひなたぼっこなんてできたら楽しいだろうね。まぁ、それまで生きてはいないだろうけど」


 月彦は百七十センチ三十七キロのプロ・アノレキシア。健全な女性という性質を受け入れられない私にだけ分かるフェロモンを発して、誘うのです。


「さて、肥料を摂るとしよう」


 もはや植物体のきよらかさを有する月彦。命綱が切れて病院の寝台につながれないよう、最小のラインで栄養を摂取する行動を「肥料を摂る」と表現しました。


 かろうじて私も、浄植体の彼と同じものを食べることで生命を保持します。

 今夜は、ひときれの十二枚切りトーストと、キャベツとプチトマトのポーチド・エッグ。以上。


 ありあまる食糧を、ありあまる情報を、とめどなくらうなんて、みっともない愚行です。私たちは、アノレキシアであると同時にミニマリストであることに、価値と誇りを見出していました。


 月彦はテレビの情報を嫌い、私はテレビの音を嫌いました。お母様は、どうしても視聴したい番組があるとき、イヤホンをめておられます。


「テレビドラマは、他人の生活が入ってくるみたいでイヤだ。そんなものに夢中になっている時間は無いんだ。僕らに残された時間は、どれぐらいだろうね」


 今宵こよいは鋭くとがった三日月が夜天よぞらに輝いていました。

 私は満ちた月よりも、尖ってせ細った月が好きです。

 そんな思考で月彦を愛し、やはり自らも彼と同じ姿で居たいとのぞむのです。

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