29.月彦のために


 私は既に疲れていました。時刻は午前四時十五分。

 いつもは眠りに就いている時刻です。


 燃費の悪い中古車のような私は、体力の持続時間が短すぎます。今や月彦つきひこのほうが上手に、栄養というガソリンを使い回せているぐらいです。


「ねぇ、月彦くん。これは何て言う楽器?」


 眠気を紛らわすような気持ちで話し掛けました。


「これはベースで、隣はギター」

「どう違うの?」

「弦の数だよ。例外もあるけれど、基本的にベースは四弦。ギターは六弦。日芽子ひめこさん、大丈夫? 疲れちゃった? 始発まで一時間。そうだ、あれを補給しよう」


 月彦はランドセルから黒砂糖を取り出して、私に与えてくれました。

 生命をつなぐ糖分。霞がかった意識が、束の間にハッキリします。


「脳に栄養が伝わっただろう? ところで日芽子さん、階名の付いたCDを持って僕の家に来るぐらいなのだから、ピアノ、弾ける人だよね?」


 私たちは、アンティーク調の白いスツールに掛けていました。ふたりを丁度好ちょうどよく収める大きさの、ふかふかとした椅子です。眼前にはチェルシー先輩の立て掛けた楽譜が、そのままにひろげられておりました。


「素敵な曲を聴かせて」


 もう何年も鍵盤に触れておりません。ピアノは学生時代の趣味でした。正式に習っていたのは十四歳まで。勉強と両立できずめてから十年以上、経つのです。


び付いてしまったの。すべて忘れてしまったから、何も弾けなくなった。それに、ピアノの高音が脳に響きそうで怖い」


 そう言う私に、月彦は質問を浴びせるのです。


「この楽譜、ミから始まるでしょう? ミは何処?」

「ピアノの鍵穴の上がミ。其処そこからオクターブ上がったところが最初の音」

「♪ミファソラシドレミ♪……此処ここで合っている?」

「合っているわ。次のレの音は半音上がっているから黒鍵よ。ミの隣の黒い鍵盤」


 月彦は真っ黒で長い爪先で♪ミレミレ♪……何度も繰り返します。黒鍵を親指で取るという滅茶苦茶デタラメな運指法なのに、その音は透きとおっていました。


 私の脳は旋律の続きを求めます。オクターブ下の鍵盤で奏でます。


 ♪ミレミレミシレドラ♪


 不思議と脳に待ち針もナイフも刺さらず、ピアノの音はまろやかに耳に入ってきました。


「CDと同じメロディーだ。本当の高さで聴かせて」


 月彦はスツールを立ちました。不思議なことに、私の身体と指は適正なポジションをおぼえています。こどものころに肥やした芸はせなかったのです。


 左手を合わせてみました。

 この感覚。

 久し振りに少女の日の思い出が、走馬燈そうまとうのように駆け巡ります。妹と一緒のピアノ・レッスン。先生は、いつもピアノの横で歌っていて、母は応接椅子に掛けて、娘たちのレッスンを見守っていたものです。


 死期が近いのでしょうか。

 ありありと昔の情景が脳裏に走り、私の指も走るのです。


『エリーゼのために』を『月彦のために』弾きました。

 中間部の奏法は、すっかり忘れていましたので、冒頭の旋律を何度も繰り返し、さすがに飽きて終止します。


 演奏を終えた私を、割れんばかりの拍手が包みます。麗人たちの拍手でした。

 その代表格とも言えるチェルシー先輩が、一枚のディスクを差し出します。


「日芽子ちゃんの無限ループがえつってきたころにね、こっそり録音しちゃった。受け取って頂戴ちょうだい




 思いもよらない御土産おみやげを手に、私たちは、早朝の朝露がはじけるような道を歩きます。誰も通らない道。街が目覚める前の時間。まるで世界に、ふたりきりのような私たちは、仲良く手をつないでおります。


 ラッシュ前の地下鉄に乗りました。着席した後も手を離しません。

 吸血鬼にふんした月彦は、朝陽あさひの中にけそうで、輝かしくはかなげで在りました。

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