30.絶望は甘く美しく


 帰宅後、私たちはメイクを落として、リラックス・ウェアに身を包み、ぐっすりと眠りました。


 どれぐらい眠ったでしょう。

 背中合わせに寝ているはずの月彦つきひこの心音が聴こえません。


「月彦くん」


 彼を探して起き出した私。部屋の隅で着替えていた月彦が答えます。


御免ゴメン。起こしちゃった? 今日、病院の予約なんだ」

「何時?」

「今、十四時。予約は十六時なんだ」


 朝帰りして、八時間睡眠の取れた私の目は、もう眠くありませんでした。


「私も行く」


 彼と入れ替わりに部屋の隅で着替えました。まるでデートに行くように、イベントから持ち帰ったままのカバンを提げて、病院に付き添います。




 週二日のシフトになって以来、月彦と過ごす時間は充実しました。

 私たちは、自由に歩き、水を呑み、微量の黒砂糖という糖質をついばみ、巣の中にこも雛鳥ひなどりのように寄り添っています。


 月彦と一緒なら何処でも安全な気がしました。しかし、月彦の担当医と私が顔を合わせるかもしれない場所に、迂闊うかつに近寄ったことを後悔します。


 総合受付で保険証確認を済ませた月彦は、心療内科の扉の前の椅子に掛けました。隣り合って座ります。


舘林たてばやしさん、どうぞ」


 月彦の担当医は、私たちを見て凍り付きました。私たちを? 安定してせている月彦の姿ではなく、私の姿を凝視して導くのです。


「おふたりで中へ」


 私は患者ではありません。月彦の付き添いのつもりで入室しました。

 考えてみれば、診察室に入るのは初めてです。患者と医師の時間を守るため、血のつながった家族でさえ入れないはずのカウンセリング・ルームに招かれました。


「入院して治しましょう」


 医師の台詞セリフは月彦ではなく、私に向けられておりました。


「どうして私に? 私は彼の付き添いです。何処も悪くなんてないのです」

「では、通院して治しませんか? あなたは深刻だ。看過できない」


 医師は私を逃しません。助け船を出してくれるのは月彦。


「分かりました。通院します」




 帰宅後、初診の予約票を見詰めて憂鬱ユウウツになる私に、月彦は言うのです。


イヤなら行かなきゃいい。キャンセルの連絡もしなくていいんだ」

「無断キャンセル。そんなことをしたら月彦くんの顔に泥を塗ることになる」

「相変わらずの御人柄オヒトガラなんだね。日芽子ひめこさんの予約だよ。僕に気を遣うことなんてない。ただ、あの場は通院すると言って逃れるのが賢明に思えただけ。大丈夫だよ。僕の姿を見て」


 晩年の枯れ木のような腕をあらわにした、そでの無い服を着ている月彦。

 美しく瑞々しい枯れ木の腕。

 矛盾しておりますが、若さに潤った枯れ木なのです。


園田そのだ先生は、おしゃべりするだけ。無理に肥らせたりしない。僕を無理矢理、入院させて、高カロリー輸液につないだ医師は最悪さ。その人のところには、もう戻らないと決断して、園田先生を選んだ」


 予約票の担当医の欄には確かに「園田」と印刷されていました。


「悪いことには、ならないさ」


 月彦に慰められ、私はカウンセリングというものに通うことになるのです。




 園田医師の容貌は、私をおびえさせる種類のものではありませんでした。

 身長約百七十五センチ、中肉中背より、やや細め、色白で肌が綺麗な園田医師。職場の店長も従業員も父親も、同じような姿形すがたをしておりました。筋肉も贅肉もひげうすく、私は、そういう淡白な人物像ペルソナに慣れているのです。


 店舗には、筋骨隆々、肩幅の広い「漢」みなぎるお客様も来店されますが、どうにもたくましさに比例して地声の大きい人は苦手です。もし、園田医師が体格ガタイの良い実証じっしょうタイプなら、裸足で逃げ出しはしませんが、口実を作って予約をキャンセルしたくて、しかし月彦の手前できなくて、無駄に気をむのかもしれません。


 同じ論理でしょうか。肉食系が苦手です。つまり、瑞月みづき先輩のようにボリューミーな胸部を誇示しては、女子力とやらを磨くことに疑いを持たないエロスの化身のような御方が、実は苦手。とは言え、業務上、好き嫌いはタブーですから、精一杯、瑞月先輩を好もしい色の眼鏡で見て好きになろうと努力し続けたのです。


 思い込み効果で少し好きになれましたし、私と月彦の百合恋愛に気付きつつ店長に口をつぐまれる性格に好感度アップと、一瞬でも思った私が愚かでした。


 或る秋の日、店長から掛かってきた電話を取り、愕然がくぜんとするのです。


櫻井さくらいさん、具合、如何どうかな? 上から人件費、更に削減を言い渡されてね、参ったよ。当面、週二回の短時間労働、遠慮してもらえると助かるんだ。辞めろという意味ではないからね。休んでほしいんだ。病状も良くないように見受けるし。この機会に、ゆっくり病気を治してください。あと、瑞月さんから聞いたんだけど、あのさん、実はさんなんだってね。驚いたよ。何処から見ても線の細い男の子にしか見えないから。ふたりそろって、どうぞお大事に」


 店長は一呼吸ひといきまくし立てました。これは当面のリストラ通知です。


 私は、その通知にショックを受けませんでした。

 ついに完全に社会との接点を断たれたと言うのに、残念だと思いません。

 本格的に存分に卵の中で眠れる雛鳥ひなどりに成れる気がして、むしろ感謝するのです。


「ありがとうございます。店長も、お身体には気を付けて。皆様にも、よろしくお伝えください」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る