2.空腹を知らない百合


 彼は、既成概念を超越しようとしていました。

 私は彼のそばに居て世話を焼く妻で在り、あるいは母で在りました。


日芽子ひめこさん、帰ったの?」


 暗紫色あんししょくのカーテンを下ろしたままの部屋には、今日も百合模様の洋燈ランプだけが点っております。洋燈ランプの模様が敷布しきふに映り、陶器のように白い彼の肌に、あかい百合が移ろいました。


「ただいま、月彦つきひこくん」


 畳に敷かれた布団の上、無造作に足を投げ出して、幼児のように座る月彦。

 枕許まくらもとには、完食不可能なサンドイッチ。

 長方形の容器の中、並んでいる正方形のサンドイッチは、彼の好むレタスとトマトが無くなり、滋養豊富な卵とツナは残されています。


「ねぇ、日芽子さん。そばに来てよ。お仕事の話を僕に聴かせて」


 洗面所で丹念に手を洗いました。外出用の服から寝衣ねまきに着替えます。

 外界の菌が月彦に伝染うつったら大変です。彼は虚弱体質なのです。


可愛かわいい。日芽子さん。織姫みたい」


 白いネグリジェをまとった私を、月彦が褒めました。


「ありがとう。月彦くんは彦星よ」


 私の言葉に彼は心底、嬉しそうな笑顔を返します。

 その笑顔は束の間に消えました。

 キッチンから漂ってくる青魚を焼く匂いに凍りつきました。


 彼は寝床に潜ってしまいます。繰り返される日常でした。


 子守唄には早い時刻、眠ってはいけません。

 私たちには、夕食を摂るという仕事が残っているのですから。


つき日芽ひめちゃん。今夜は和定食ですよ」


 お母様が呼んでいます。晩餐の席が調ったしらせ。

 月彦はかたくなに布団を被ります。

 彼は、お母様に「月ちゃん」と呼ばれることに、激しい嫌悪を示していました。

 うっかりと幼少時代の呼称を口にしたお母様は、慌てて言い直します。


、日芽ちゃん。今夜はサバの塩焼きと、みぞれ。豆腐の御味噌汁に野菜のサラダですよ」


 しめて五百キロカロリー以下のヘルシーな献立メニュー


 午后ごご十二時出勤、十七時退勤の、食事休憩の無い仕事から帰ったばかりの私は空腹です。月彦は、どうなのでしょう。


 空腹を知らない。そんな文豪のような人が、この現代社会に居るのかしら。


 はたして其処そこに居るのです。月彦は、空腹を忘れたアノレキシア。もう何年、患っているのでしょう。知り合った約一年前、彼は既にアノレキシアでした。当然の如くアノレキシアで、それが彼のアイデンティティ。


 さて、先程から連呼しておりますアノレキシアとは学名でして、一般の呼称は拒食症です。医学的には摂食障害、または神経性食思不振症、はたまた思春期せ症とも。


 百七十センチの身長に対し、四十キロの重さが有るような無いような月彦。

 四十キロ前後だなんて、私と変わりません。ただし、私の身長は百五十センチ。

 同僚には、百五十センチ四十キロを羨ましいと思われているでしょうか。


櫻井さくらいさんは得よね。そういうスタイルだから、健食けんしょくの推売に有利なのよ」


 うっすらとしたトゲの感じられる発言を、しばしば浴びせられております。


 健食けんしょくとは、ドラッグストア用語で、健康食品の略語です。礼讃らいさんの現代社会、健康食品と言えばダイエット食品が、第一に市場を席巻しているのです。


 私はドラッグストアの店員でした。

 約一年前の夏、店舗を訪れた月彦は、お客様。

 やたら私の目をく、お客様だったのです。

 出逢いを想い出しましょう。




 職場にて、それ以上せなくていい人に限ってダイエット食品をお買い求めになる不思議を、目の当たりにしていました。多岐にわたるダイエット食品の他にも、下剤を頻回購入されるお客様には、店員として注意せざるを得ませんでした。


「お客様、失礼ですが先週も同じ、おくすりをお買い求めでしたよね? 此方こちらは常用されますと、やがて腸管が麻痺して、おくすり無しでは動けなくなる危険性が伴います。したがって、お勧めできません」


 忠告に、綺麗に澄みわたった心でこたえる彼。


「ありがとう。僕のこと、心配してくれるんだね。はじめてだよ。そんな店員さん。優しいね」


 下剤を棚に戻します。

 はじめて聴いた彼の声は、男の人のトーンではありませんでした。




 今現在、過不足無き栄養バランスの和食の席に、彼は不在でした。人と一緒に食事を摂ることを、更に言えば生きるための食べるという行為を嫌悪する月彦は、布団に潜ったまま、出てきません。


「月ちゃん。つい呼んでしまうの。気を付けているのに、私って駄目な母親ね」


 お母様は、青魚の骨を外しながら言いました。


「あんなふうに産んでしまった。私って母親失格だわ」


 そんな台詞セリフも聞き飽きました。


「お母様は御自分を責め過ぎです。駄目な母親ではなく、むしろ御立派ですわ。彼を二十五歳まで育てたのですから。きっと、誰のせいでもないのです。御馳走様ごちそうさまでした」


 月彦が許容するであろう食品を盛り付けた皿。それをトレイに載せます。

 レタスとトマトのサラダと、みぞれと、職場で購入したゼロカロリーのゼリー。

 合計百キロカロリーにも満たないトレイでした。


 私の運んだ許可食を苦行の如く口にする月彦は、記憶の中、お客様だったころの彼よりも、また一段と細く変わっていました。

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