第9話恭順の意思による矛盾の解放分析

未だに”ドライブ・シフト”の効果が試算値以上に現れないとはどういうことだね?

君にはかなりの無茶をしてリソースと権限を持たせたのだ…責任を持たされる私の立場も考えてくれよ。

呼び出された重役用の私室で愛用の煙草型チョコをもてあそんでいる彼女の口から出たのはあからさまな糾弾でも叱責の言葉でも無かった。

そう、心底疑問で理解できないという感情が年端のいかない目の前の少女から発せられている。

恋に恋するような印象の容姿からは測りかねないその瞳の老練な色は何ともミスマッチでこちらの心をざわつかせている。

いかなる理屈で彼女がその姿を維持しているのかは気にならないが、その瞳にどれほどの歳月と経験が染みこんでいるかと思わせることこそがいつでも魔性の魅惑を持って私の自我を揺さぶる。

叶わない理想にこそ無上の魔力が備わっているものだ。

この瞬間にたどり着くまでが今までの努力と献身の存在理由だとしてもいいのかもしれない…そんなことがすんなり胸の奥に落ちる気がしていた。

そして今まで恋焦がれた筈の「現実」に飲み込まれた彼は勝算の無いこの場の勝負の為に自らの蓄積した信頼全てを賭ける事になった。


…丹生さん、これはまずいですよ彼に助け舟はいらないんですか?との同僚の目配せに対して現地責任者のすみれは心ここにあらずといった様子で意識が飛んでしまっていた。

職務放棄ととられかねないすみれの失態…しかし呼吸の許可さえ認められないこの場の処刑場のような空気は生物の生存に適していない。誰にもすみれを責める権利は無いに違いない。

意思疎通経路がぐちゃぐちゃなメイド達の動揺をよそに彼女の詰問は続き、「その時」は訪れた。

ついに彼の自我意識が最後の拠り所を失ったのだ。がっくりと肩を落として抵抗の意思は絶たれた。

彼女の「勝利」が確定した瞬間をこの場の誰もが受け入れた。あとは料理のされ方が後日通達されるのみだ。

そして彼女の手の中で楽し気に揺れる煙草型チョコよりも儚い存在の彼の意志が破綻した後に呼びつけられるのは現場の実質的な指揮を執る次席のあの子…目に見える終焉のヴィジョンがありありと脳裏に映し出される。

せめてそれだけは、との懇願が彼の喉を通ろうとした時この部屋の扉が開く音がして訪問者は現れた。

刹那の瞬間の後、救世主でも魔王を倒す勇者でも無いその人物はにこやかにアイコンタクトをすみれに向けてくる。

…その合図が決別の儀式の始まりだと教えてくれる者はここには存在していなかった。

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