まぼろし

 十五歳の慎は、朝早く母親に起こされた。

まだ、空は暗く、眠い目をこすりながら二階から、リビングのある一階に下りて行った。

リビングには父親と見たことのない、両足の膝から下が義足の青年が立っていた。

「誰?」

「彼は仁よ。あなたを守ってくれる」

母親は慎に微笑んだ。

その瞳は涙で潤んでいた。

「母さん?」

母親は慎を抱きしめた。

「慎。あなたは、これから、ある人の養子になるの。大丈夫。あの人なら、慎を守ってくれる」

「何言ってるの?母さん?ねぇ、父さん」

父親も母親と同じく、涙で潤んだ哀しそうな眼差しで慎を見ていた。

「父さん?」

「母さんの言う通りにしなさい。そして、生きるんだ。慎」

「生きるって?どういう意味?」

母親はワアッと泣き出した。

「母さん?なんで?どうしたの?」

「後でわかる。今は母さんに聞くんじゃない。これ以上、母さんを悲しませるな」

父親は寂しそうな眼差しで言った。

「さあ、行こうか。もう時間がない」

仁が慎の腕を掴む。

「待って。どうして俺が養子になりに行くんだよ?俺は今まで通り、父さんと母さんと一緒にいたいよ」

「ダメよ。仁と行くのよ」

泣いていた母親は慎の肩を掴んで言った。

「だから、なんでだよ?」

「お願いだから、いうことを聞いて。お願いよ。慎」 

そう言った母親の顔は必死そのものだった。

「ねえ、お願い!慎」

「……」

「慎。母さんを困らせるな」

父親はため息をついた。

「でも…」

「お願いだから、仁と行って」

そう言うと、母親は慎を再び抱きしめた。

「落ち着いたら後で迎えにいくから…」

小声で、そう耳打ちする。

「本当…?」

「ええ、だから今は行って」

慎は何が起こっているかわらず不安だったが、母親の言葉を疑うことはなかった。

生まれてから今までの生活の中で、色んなことがあった。

何かある度に家族で乗り越えてきた。

その積み重ねが家族との絆となっていた。

両親が自分を見捨てるはずがない。

必ず迎えに来てくれる…と。

そう信じた。

「わかったよ。この人と行くよ」

慎は笑顔で言った。

「慎」

慎から離れ、慎の笑顔を見た母親はホッと安心しているように見えた。

「わかってくれて、ありがとう。元気でいるのよ」

母親はニッコリと笑った。

「うん」

慎は母親の笑顔を見て、嬉しそうに笑った。

「さあ、慎。行きなさい」

父親は慎の頭を撫でて、笑顔で言った。

「うん」

頭を撫でる父親の手が温かくて、嬉しくて、慎はさらに笑顔になる。

これから、両親と離れるとういうのに、慎の心の中は両親の愛情で満たされ、不安はなかった。

むしろ、幸せという言葉が似合う。

慎は信じていた。

また、両親と再会できると。

「ほら、もう行くぞ」

仁に引っ張られ、玄関に向かう。

リビングから見送る両親が遠くなっていくのを見ると、少しだけ寂しかった。

でも、大丈夫と自分に言い聞かせた。


 それから、慎は一ノ瀬希道いちのせ きどうという資産家の養子になった。

しかし、魔女狩りが終息して半年後、慎は両親が魔女狩りで殺されていたことを知る。

両親と別れたあの日、両親は火あぶりで殺されていた。

仁の話では、慎の両親は魔女狩りに遭うのを知っていたという。

逃げても、いつか見つかることを恐れ、慎を希道に託し、自分達が囮になったのだという。

慎を守るために…。

今思えば、養子に出した子供を後で迎えに行くなど不自然でしかない。

あの時の母親の言葉は慎を守るための嘘だった。

慎は、その事を知ってから数年、両親の愛情の深さと、その両親を失った悲しみに心を囚われていた。

何かをする気力もなく、ただ生きているだけ…という感じだった。

今のように普通に生活できるようになったのは、ほんの三年前のことだった。


 ある朝、スマホの着信音に起こされた慎は、眠い目をこすりながら電話に出る。

「はい…」

「光樹だ。悪いな。朝から」

「光樹?どうした?」

「病院のアポが取れた」

「病院…?ああ、事件の」

「忘れてただろ?」

電話の向こうで光樹が笑う声が聞こえた。

「ん…。色々あって」

「珍しいな?いつも退屈だって言ってたのに」

「確かに退屈じゃなくなったかもな。光樹の手助けもしなきゃならないし」

慎はからかうように言った。

「それは助かるよ。ありがとう」

電話の向こうから、楽しそうな光樹の声が聞こえる。

「で、いつ?」

「それが…今日の十時」

「…は?何で早く言ってくれなかったんだよ?今、六時半…。後、三時間半後には病院に着いてないとってダメってことじゃないか!」

「悪い。でも、病院から連絡があったのが、ついさっきなんだ。どうしても、今日の十時じゃないと時間が取れないって」

「なんだよ?それ!」

「これは推測だけど、急に日時を指定して、警察に調べる余裕を与えないつもりかもしれない。もし、病院が事件に関わってるなら…だけど」

「言われてみれば、そうかもしれないな。朝、連絡して、その日の十時なんて…不自然すぎる」

「で、どうだ?来れそうか?」

「行くよ。丁度、昨日の夜、あの人が帰ってきたから、まだ屋敷にいて顔を合わせたくなかったんだ」

「おじさんが…?そうか。なら、丁度よかったな」

「すぐに用意して屋敷を出るよ。どっかの店で朝食でも食べてから行く」

「それなら、その朝食を食べる店で待ち合わせしよう。一度、署に寄ってから行くから、どの店に行くか決まったら連絡くれ」

「わかった」

「じゃあ、また後でな」

「ああ。後でな」

慎は通話を終えると、ベッドから起き上がった。

そして、着替え始めた。

出かける支度ができると、慎は玄関に向かう。

「慎?どこへ行く?」

後ろから仁に呼び止められ、振りかえる。

「光樹の手伝い」

「また、警察の追ってる事件に首突っ込むのか?」

「光樹を助けるためだよ」

「せめて、朝食を食べてからにしないか?希道さんも帰ってきてる。たまにしか会えないんだから、今日ぐらい朝食を一緒にしてもいいだろ?」

「俺は会わなくていいよ」

不機嫌そうに慎は言った。

「慎…」

仁はため息をつく。

「なら、俺もついていく」

「いいよ。来なくて」

「俺は、おまえのボディーガードだ。危険なことに首突っ込んでるってわかってて、一人で行かせられるはずないだろ?」

「だから、いいって」

慎は背を向けて足早に歩き出す。

「いいわけないだろう!俺は、おまえの両親と約束したんだ。おまえを守るって」

慎は立ち止まる。

「だから、着いていく。いいな?」

慎はため息をついた。

「好きにすれば…」

今度はゆっくりと歩き出す。

「好きにするよ」

仁は慎の後について歩き出す。


 とあるカフェで仁と朝食をとった慎に光樹が合流したのは、九時過ぎがだった。

「悪い悪い。色々と出てくる前にやることがあって」

そう言いながら、光樹は仁を見る。

「毎回、すいません。お手数かけて」

光樹は笑顔で言ったが、実は仁のことが苦手だった。

仁にも、それは伝わっているようだった。

「いや…別に。慎を守るのは俺の仕事だから」

よそよそしく答える。

二人が揃うと、いつもこうだった。

最初は慎も気を使ってたが、二人が仲良くなる気配はなく、今では諦めていた。

この居心地の悪い空気も、今では慣れてしまった。

「じゃあ、早速行こうか」

光樹の言葉で二人はカフェから出ると、光樹の乗ってきた覆面パトカーに乗り、病院へ向かった。

その病院は街中にあるにしては、広い敷地を有していた。

建物も大きく、光樹の話では医療設備も最先端のものが多く揃っているので、難しい病気の患者が多かった。

病院に着くと、院長室に案内される。

窓辺にある仕事用のデスクの前に、来客用のソファーとテーブルがあり、院長らしき白髪交じりの髪と口ひげを生やした六十歳前後の白衣の男性がデスクにいた。

来客用のソファーには、二十代後半に見える白衣の青年が座っている。

青年の持ち物か、テーブルにはバインダー付きファイルが置いてあった。

「ようこそ、管理官のひじりさん。私が院長の阿久津あくつです。そこにいるのが息子の桜介おうすけです」

デスクにいた院長は、落ち着いた穏やかな声で言った。

ちなみに聖とは光樹の苗字である。

「桜介です。院内は僕が案内します」

ソファーに座っていた青年…桜介が立ち上がり、穏やかな笑顔で言った。

「すいません。お忙しいのに時間を作っていただいて」

光樹は礼儀正しく頭を下げる。

「いえいえ。物騒な事件ですから、早く解決していただきたいものです」

「ご協力感謝します」

「ところで、そちらの方たちは?警察の方ですか?」

「はい。捜査のために私服を着てはいますが、れっきとした警察官です」

「そうですか。それでは桜介。院内を案内して差し上げなさい」

「はい。院長」

桜介はテーブルにあったファイルを持つと、慎達に笑顔を向ける。

「さっ、行きましょうか」

院長室の扉を開けると、慎達が出て行くまで扉のノブを持ち、慎達が出た後に扉を閉める。

「それでは院内を案内します。その前に、これをどうぞ」

桜介はファイルの中から、数枚の用紙を取り出し慎達に配った。

「これは院内地図です。これを見ながら、案内していきます。わからないことがあったら、何でも聞いてくださいね」

桜介は笑顔で言った。

「助かります」

光樹も笑顔で返す。

「さっ、まずはこちからから」

桜介は地図と照らし合わせながら、丁寧に院内を案内していく。

穏やかな口調での説明と笑顔の対応が、とても感じよく、案内される側は安心して話を聞いていられる。

「ここはカフェになっています。院内外問わず利用できます。結構歩きましたし、カフェで少し休憩しましょうか。ここのコーヒーは絶品ですよ」

笑顔で言うと、カフェの扉を開け慎達が入るように促す。

そして、自分は最後にカフェに入る。

窓際のテーブルにつき、それぞれ飲みたいものを注文し、しばらくすると運ばれてくる。

桜介はキリマンジャロ、慎はカフェラテ、光樹はエスプレッソ、仁はブレンドコーヒーをオーダーしていた。

「さあ、どうぞ」

慎達は桜介に促され、それぞれにカップを持った。

それぞれが香りを楽しんだら、コーヒーを飲む。

すると、口いっぱいにコーヒーの香りが広がる。

思わず、ため息がでる。

「美味しい」

最初に、そう言ったのは慎だった。

「本当だ。落ち着くな」

仁はニッコリ笑った。

「そうでしょ?おかわりしていただいてもいいんですよ」

桜介は満面の笑みで言った。

「あの、桜介さんは医師なんですよね?」

光樹がふいに言った。

「そうです。この若さですが、院長の息子ということもあって、外科部長をしています。医師としての腕はまだまだなのにベテランの方々を差し置いて外科部長なんて、申し訳ないです」

そう言いながら、桜介は笑顔を崩すことがなかった。

「謙虚なんですね。私たちへの言葉使いマナーにも、その謙虚さがでてますね。院長もいい後継ぎがいて、将来は安泰ですね」

光樹は穏やかに言った。

「さすがは警察で捜査を担当されてる方だ。細かいところまで見てらっしゃる。でも、僕なんてまだまだです」

笑顔で言うと。桜介はコーヒーを飲んだ。

それと同時に、白衣のポケットに入れていた携帯電話が鳴った。

「すいません。ちょっと、電話に出てきますね。みなさんは、ゆっくりしてて下さい」

桜介は携帯を手に取ると席を立ち、カフェの外に出る。

「不自然だな」

仁がポツリと言った。

「何が?」

光樹は不思議そうに言った。

「あの笑顔…だろ?」

仁を見ながら慎が言った。

「どこが?とても感じのいい人じゃないか?」

仁は光樹の肩にポンと手を置いた。

「その、おまえの感覚は捜査官としては致命的だぞ」

「ええ…?」

「光樹は表向きは冷静な管理官をよそおっているが、基本的には優しいんだよな。だから、疑うより信じたい派なんだよ」

「マジかよ。よく、そんなんで今までやってこれたな」

仁は、ため息をついた。

「え…。それじゃ、ダメなのか…?」

「光樹は、それでいいんだよ」

慎は笑顔で言った。

「慎…」

光樹はホッとしたように笑う。

「今、甘やかしたら、いつかつまずくぞ」

「その時は、俺が光樹を助けるから大丈夫」

「ここに、もう一人同類がいたか…」

呆れたように慎を見て、仁はため息をついた。

だが、慎は知っていた。

仁も同じようなところがあることを…。

なんだかんだ言いながら、仁はいつも最後は慎の味方をしてくれる。

「それにしても、俺たちがれっきとした警察官だと紹介されたのには笑ったよ」

笑いながら慎は言った。

「本当に…。かなり無理がある」

仁もおかしそうに笑う。

「他に誤魔化しようがなかったんだから、しょうがないだろ」

光樹は困ったように、ため息をつく。

そんな話をしながら三人で騒いでいると、桜介が慌てて戻ってくるのが見えた。

「すいません。急患が入って案内できなくなりました。お渡しした地図で院内を回ってもらっても、次の機会に院内の案内をしても、どちらでもいいです。警察の方にも色々と都合があると思いますから。取り敢えず僕は患者の元へ行きます。案内が必要なら、またご連絡下さい。その時は、できる限りの対応をします」

「わかりました。すいません。忙しいのに」

光樹は頭を下げた。

「いいえ。ゆっくりご案内できず、すいません。それとコーヒーの代金は病院持ちですから、ゆっくりコーヒーのおかわりなど、楽しんでいって下さい」

穏やかな笑顔で桜介は言った。

「ありがとうございます。もう、いいですから行って下さい。患者さんの容体が心配ですから」

光樹は優しく柔らかな眼差しで言った。

「すいません。バタバタして。それでは失礼します」

桜介は頭を下げると、カフェを出て行った。

「患者さん、助かるといいけど…」

光樹は呟く。

「…まったく。そんなんで、よく管理官なんかできるな。バカのつくお人好しだな…」

ため息をつくと、仁はコーヒーを飲んだ。

「仁。光樹は、こう見えても優秀な管理官なんだ。おまけに、この性格のお陰で人望もあって、部下からの受けもいい」

「…理想的な管理官ってことか?」

「そういうこと」

「理想だなんて、俺もまだまだだよ。それより、まだ見てない残りの院内を見て回ろうか?案内を頼んだら、アポがいつ取れるかわからないからな。次の被害者が出ることを考えたら、できるだけ急ぎたいんだ」

光樹は立ち上がる。

「わかった。行こう」

慎も続いて立ち上がる。


「じゃ、行くか」

仁が立ち上がると、慎達とカフェを出た。

「…にしても、あの院長の息子。神対応過ぎて気味悪いな」

仁はブツブツ言いながら、慎達の後ろを歩く。

「仁。まだ、言ってるの?」

「だって、そうだろ?殺人事件に関係あるって知ってるんだろ?つまりは、この病院が疑われてるっていうのに、対応を見る限り不機嫌さの欠片もないんだぞ」

「そうなんだけど…。本当にやましいことが何もないだけかもしれないし。それは調べてみないと…」

「悠長だな」

「慎の言う通り、事実かどうか調べないと。間違って、何の罪もない人間を捕まえるわけにはいかないからね」

慎の隣を歩いていた光樹は、落ち着いた口調で言った。

「そりゃ、そうだけど…」

仁は答えながら気に入らない様子だった。

そんな会話をしながら地図に書いてある場所を見回ってきたが不審なところはなかった。

「…と、院内はこんな感じかな。地図によると…」

そう言うと、光樹は立ち止まった。

「何?もう、終わりか?」

「君がブツブツ言ってる間にすべて見終わったよ」

「悪かったな」

光樹が笑顔で言うと、仁はムッとしたようにそっぽ向く。

「光樹。本当に、これで全部?院内の施設って」

「地図にある施設は全て見たはずけど」

「地図にある施設は…か」

慎は地図をじっと見つめ考え込む。

「慎…?何か引っかかるのか?」

「一階のエレベーターの横にトイレに行く通路があったよな」

「ああ。地図にも載ってる」

「地図を見ると、手前から身障者用トイレのドア、男子トイレのドア、女子トイレのドアだったよな。だとしたら…一番奥のドアは何だ?」

「一番奥の…?」

光樹は地図を見る。

「地図にない…」

「そういや、案内された時はこの先はトイレになってるって軽く流して、すぐにエレベーターに乗ったな。地図にも、そう書いてあった。だから、その先にはトイレしかないと思っていた」

仁が思い出したように言った。

「…ていうか、慎。おまえ、すごいな。トイレのある場所を案内されたのって一瞬だったよな?あの一瞬であの通路にドアが4つあるなんて、よく見てたな」

光樹は慎をまじまじと見つめていた。

「あの場所だけ案内がやけに雑な感じがした。たから気になってて、よく見てたんだ」

「なるほど…」

「かなり、怪しいな。4つめのドア」

仁は慎を見る。

「取り敢えず、行ってみよう。慎」

「だな」

慎は、うなずいた。

 しばらくして、慎達は四つめのドアの前にいた。

「本当にあったな」

光樹が慎を見る。

「開けるよ」

ドアノブを掴むと回す。

しかし、ドアは開かない。

「鍵がかかってるのか?見せてみろ」

仁はドアノブの近くにある鍵穴を見る。

そして、胸ポケットからピッキング用のピックを出して、鍵穴に差し込んだ。

「ちょっと、まさか。ピッキング?」

「そうだけど。何か?」

「いやいや、俺、一応、警察官だからね。その俺の目の前でピッキングって…」

ため息をつく光樹の肩を掴み、慎はドアと反対の方向に光樹を向かせる。

「え…?慎」

「見なかったことにすればいいよ」

「いやいや、そういう問題?」

「そういう問題にしとこうよ。次の犠牲者が出る前に事件解決するんだろ?」

「そうだけど…」

光樹は困ったな…という顔をする。

ガチャと鍵が開く音がする。

「おーい。鍵、開いたぞ。それで、どうする?警察官様としては、こんな状況ではドアの向こうには入れないか?」

仁は鼻で笑いながら言った。

「いや…、その…」

光樹は返事に困って口ごもる。

「光樹!人命がかかってるのに迷ってる場合か?」

「慎…」

「俺は行くからな。俺は警察官でもないし、人の命が優先だと思うし」

「慎が行くなら、俺もボディーガードとして慎の命を守るために行く」

慎と仁はドアを開けると、中に入っていく。

「ちょっと、待ってよ!」

光樹は二人を追いかけるようにして入っていく。

ドアの向こうには六畳ほどのフロアがあり、エレベーターがあった。

エレベーターは地下一階にしか行けないらしく、停まる階を指定するボタンには1階である1と表示されたものと、地下一階のB1だけしかなかった。

「地下一階に行くだけのエレベーターか?鍵のかかった部屋に?」

仁は首を傾げた。

「乗ってみよう」

慎はエレベーターの下矢印のボタンを押す。

「おいおい。勝手に…!」

光樹が慌てて、慎を止めようとする。

「光樹。このまま帰るの?地下には手がかりがあるかもしれないのに」

「それは…」

光樹はため息をつく。

「俺は行くからな」

仁が扉の開いたエレベーターに乗る。

慎も続いて乗る。

光樹は立ち止まったままだ。

「乗らないの?」

「いや…。警察の俺が不法侵入っていうのは…」

「じゃあ、ここで待ってて。俺たち行ってるから」

そう言った慎の顔をじっと見ていた光樹は、ため息をついてエレベーターに乗る。

「慎達だけを行かせられるわけないだろ。もし、危ない目にあったら…俺の責任だ」

「光樹らしい」

そう言って笑うと、慎はB1のボタンを押した。

そして、エレベーターの扉が閉まっていく。

エレベーターは、すぐに地下一階で止まった。

エレベーターを降りると、すぐ目の前に全面ガラスばりの壁に隔たれた病室があった。

通常の病室にはないような医療機器があり、どうやらICUのようだった。

そのICUにはベッドが一つだけあり、患者らしき人間が眠っていた。

昏睡状態のように見えた。

「なんで、こんなところに?」

光樹はICUの中にいる患者を見て言った。

「知られたら困るからだろう?」

仁は辺りを見回す。

「誰なんだ?」

慎は病室に近づく。

そして、ドアノブに手をかけようとする。

「ダメよ」

どこからか声がして、慎達は辺りを見回す。

すると、慎から一メートル程離れたところに少女が立っていた。

さっき、慎達がエレベーターから降りた時には誰もいなかったはずだった。

その少女は胸の辺りまで伸びたサラサラの黒髪と、それとは真逆の血の気の薄い白い肌をしていた。

「ドアノブに触れたら警報器が鳴って、あの人が来るわ」

「あの人?」

「あの人が来たら殺される」

少女は悲しそうな顔で言った。

「あの人って?君は誰?」

慎は少女に近づく。

「あたしは朱音あかね

そう言うと、朱音はICUで眠っている患者を見る。

「あそこで眠っているのは、あたしの体よ」

「え?体って…?じゃあ、目の前にいるのは…?」

「おいおい。幽霊とかいうんじゃないだろうな」

仁が呆れたように言った。

「え!幽霊?」

光樹は朱音をじっと見る。

朱音はフワッと笑った。

「違うわよ」

「じゃあ、目の前の君は何?」

「ホログラムよ」

「ホログラム。立体映像?」

「そう、意識だけがホログラムとして存在して、自由に動き回れるようになってるの」

「そんなことって…できるのか?」

慎は光樹に視線を移しながら言った。

光樹はわからないと首を横に振る。

「おいおい。冗談だろ?生きてる人間の意識をホログラムにできるなんて、そんなもの聞いたことないぞ」

「あの人が開発したのよ。まだ、誰にも知られていないの」

「いやいや。嘘だろ。あり得ない!」

仁はずかずか朱音のところへ歩いていき、朱音の肩を掴もうとする。

「仁!」

慎は仁を止めようと、走り出そうとして立ち止まる。

仁の手が、朱音の肩をすり抜けたからだ。

「げ…。本当かよ!」

「これで、わかったでしょ?さあ、早くここから出て行って。あの人が来る前に」

「君はなぜ、こんな事になってるの?」

「それは知らない方がいい。早くここから離れて。もう、誰にも死んでほしくないの」

朱音は悲しそうに目を潤ませる。

「君は殺されないの?大丈夫なの?」

慎は朱音を放っておけず、つい、そんな事を聞いてしまう。

「ありがとう。心配してくれるのね。でも、大丈夫よ。あたしは殺されないから」

朱音は穏やかだが、どこか寂しそうな笑顔を見せた。

「でも、いつまでもここにはいたくはないだろ?」

「あたしは…あたしの体がここから出たら、あたしは死んでしまう。だから、ここにいるしかないの。でも、意識だけなら、どこへでも行けるから大丈夫よ」

そう言うと朱音は微笑んだ。

「さあ、もう帰って。このままだと、あなた達の命が危ないわ」

そう言うと、朱音は背を向けて消える、

「朱音…!」

「さあ、早く出て行って」

その言葉を残し、朱音は二度と姿を現さなかった。

慎達は、他にどうすることもできず、病院を出ることにした。

しかし、明らかにこの病院では何かが起こっている。

朱音という不自然な存在と、桜介が朱音がいるICUを隠そうとした行動が、それを教えていた。

慎達は光樹の覆面パトカーに乗り、屋敷まで送ってもらう。

慎は車で屋敷に向かうまでの間、ずっと、朱音の寂しそうな笑顔が頭から離れなかった。

 屋敷に戻ると、玄関で希道が待っていた。

「話がある」

そう一言、言うと書斎へ向かって歩き出す。

ついてこい…という意味だ。

慎は助けを求めるように仁を見る。

一人で行け!と仁は首を横に振る。

慎はため息をつきながら、希道の後について歩く。

書斎に着くと、仕事用のデスクの前のソファーに希道は座り、慎にテーブルを挟んで向かい側にあるソファーに座るように促す。

「久しぶりだな」

希道は少し戸惑ったような話し方をする。

慎の前では、いつもこうだった。

どう扱っていいのかわからない。

そんな動揺が伝わってくる。

慎も希道のそんな気持ちを感じ取り、苦手意識を持っていた。

「本当に。帰ってくるなんて珍しいですね」

「ああ、予定していたことがキャンセルになってな」

「それで、話って何ですか?」

希道は一度視線をテーブルに落とす。

目を合わせたくなかった。

「…澪のことなんだが」

「誰にも言いませんよ。俺はそんな人間じゃない」

慎は不機嫌そうに視線を逸らす。

この屋敷で起こったことは、仁がすべて希道に報告していることを知っている。

だから、澪の話が出ることは容易に予想できた。

「そうか。ならいい」

希道はホッとため息をつく。

「もう、いいですか?」

「悪かったな」

ポツリと言った。

「別にいいですよ」

慎は立ち上がりながら言った。

そして、書斎を出ようと、ドアノブに手をかけた時だった。

「慎。何も不自由ないか?いつも留守にして、何もしてやれなくて…。父親として悪いとは思ってる」

血がつながっていないのに…?

慎は心の中で、そう呟いた。

「大丈夫です。いつも仁が傍にいるし。澪って新しい家族も増えたし」

「そうか。ならいい」

希道のため息を聞きながら、慎は書斎を出た。

書斎出ると、書斎の前で待っていた仁と目が合う。

「どうだった?」

「澪の話だった。また、告げ口した?」

慎は仁を横目で見る。

「告げ口とは酷いな…」

仁は苦笑いした。

「ちょっと、外の空気吸ってくる」

「相変わらず苦手か…」

「苦手意識持たれてるのが嫌という程わかる人を、苦手に思わない人っている?」

「言われてみれば、そうだな」

仁は苦笑いしながら言った。

慎は書斎を後にして歩いていく。

その姿を見送ると、仁は書斎のドアをノックをする。

「仁か」

「はい」

「入れ」

仁は書斎に入っていく。

書斎では仕事用デスクに座り、ぼんやりと窓の外を眺める希道がいた。

「また、上手くいかなかったようですね」

「難しいな。あの子の前だと何も言えなくなってしまう」

「それだけ、大切に想ってるってことじゃないですか」

「…そうなんだが。どう伝えていいのか」

希道はため息をつく。

「いっそのこと、本当のことを話してみては?」

「そんな事をすれば、あの子は困惑してしまう」

「墓まで持っていくつもりですか?でも、今のままでは何も変わらない」

「わかってる。でも、少し時間をくれ」

希道は深くため息をついた。

仁は、そんな希道に見守るように温かい眼差しを向けていた。


慎は屋敷から出ると、東屋に向かった。

そこに行けば、きっと会える気がした。

澪に…。

何で、そんなことを思ったのか…。

慎にもわからなかった。

東屋に着くと、東屋にある椅子に座って噴水を眺めている澪の姿があった。

普段なら人のいる日中は、姿を見られないように外に出ないのだが…。

澪の中で、少しずつ何かが変わりつつあった。

外に出たい。

そう思ったら、澪は日中にも関わらず東屋に来ていた。

そんな澪の姿が一瞬

そんな澪の姿が朱音と重なって見えた。

「澪…」

慎は澪が本当に東屋にいたことに驚いたが、何より澪の姿が朱音と重なってしまったことに少し驚いた。

「慎」

なぜ、朱音とかさねて見てしまうんだろう?

そんなことを考えながら澪を見ていた。

「おかえり。どこかに出かけてたんでしょ?」

澪は笑顔で言った。

「う…ん」

歯切れの悪い返事をして、慎は立ちつくしていた。

「どうしたの?こっちに来れば?」

不思議そうに首をかしげながら、澪は言った。

「うん」

慎は東屋まで行くと、テーブルを挟んだ澪の向かい側にある椅子に座った。

「何かあったの?」

澪は穏やかな表情で言った。

その穏やかな表情からは、何でも受け入れてくれそうな温かさが感じられた。

人を思いやる優しさがそこにはあった。

その優しさが朱音に似ている気がしていた。

澪も朱音も、時々哀しそうな顔を見せる程辛い境遇のはずなのに、他人を思いやり手を差し伸べられる。

そんな優しさを持っていた。

「今朝、光樹と事件のことを病院に調べに行ってたんだ」

「光樹って、慎の従兄弟の?管理官だったよね?」

「うん」

「それで、何があったの?」

「うん。朱音って女の子に会ったんだ。朱音の体は意識がなく、ICUのベッドに眠っているんだ。でも、意識だけはホログラムとして動き回れて、そのホログラムの朱音と話をしてきたんだ…」

話ながら、慎は自分の言ってることがどれだけ非現実的で、あり得ない話かに気づく。

実際に目にした人間なら信じるだろう。

ただ、言葉だけで聞いたら、おかしいとしか思われないような話だ。

言わなきゃ良かった。

そう後悔しながら、慎はため息をついた。

「意識だけがホロクラムなの?そんなことができるなんて…」

澪は少し戸惑ったように言った。

「でも、あたしだってサイボーグの体で生きてるものね。そんな事だってあるのかも…」

慎は、その言葉を聞いて澪を見る。

澪は慎の言葉を何とか理解しようとしているように見えた。

「信じるの?俺が言ったこと」

「どうして?当たり前でしょ?」

澪は慎を真っすぐに見て、不思議そうに言った。

「当たり前…。そっか…」

その言葉で慎は心が温かくなるのを感じた。

信用されるのって、こんなに嬉しいものだったっけ?

慎は自然と穏やかな笑顔になる。

「きっと、魔女狩りの犠牲者ね。可哀相」

澪は哀しそうに目を細め俯いた。

その哀しそうな瞳は、魔女狩りの犠牲になったからこその憂いを帯びていた。

慎はテーブルの上に置いてある澪の手に自分の手を重ねた。

澪はゆっくりと慎を見た。

そこには慎の穏やかで温かい眼差しがあった。

「もう、魔女狩りのようなことはないから。大丈夫だから、安心して」

「ありがとう」

澪は安心したように笑った。


 その夜は月の綺麗な夜だった。

慎は窓辺から夜空に浮かぶ月を見上げていた。

漆黒の空に、限りなく白に近い黄色の月が鮮やかに浮かんで見える。

月を眺めていると、月が放つ光に引き込まれる。

まるで、それは闇に包まれたような殺伐とした現実の中で光を求めるように…。

こんな夜は、よく考えることがある。

どうして、俺は生きているんだろう…?

亡くなった両親の顔が頭の中に浮かんでくる。

大切な家族は、もういない。

「生きる意味なんて…あるのか?」

慎は、うつろな瞳で言った。

家族を失った哀しみの過去があるから、人の気持ちには寄り添える。

他人の心を満たすことはできるかもしれない。

けれど自分の心は未だ満たされない。

これが大事な人間を失った者の宿命なのか…?

慎は、ため息をついた。

その瞬間、スマホから着信音が響く。

スマホを見ると、それは光樹からだった。

深呼吸して気持ちを落ち着かせると、慎は電話に出た。

「どうした?光樹」

「…慎。事件について新しい手がかりが入ったんだ」

喜ばしい内容のはずなのに光樹の声は重かった。

「光樹?何かあったのか?」

「被害者が死体で見つかったんだ」

光樹はポツリと言った。

「そうか。残念だったな」

「もう、次の犠牲者がでてる…」

声を詰まらせながら光樹は言った。

「もう?ペースが速すぎないか…?」

「そうなんだ。早すぎる…」

その光樹の声からは落胆が伝わってくる。

「今度は礼侍が行方不明者だ…」

慎は思わず、光樹にかける言葉を探した。

それは光樹の言葉を受けれることができなかったからだった。

礼侍が次の被害者である…という事実を。

本音を言えば信じたくなかった。

慎にとっても、礼侍は関りの深い人間だったからだ。

「…礼侍さんが?」

やっとのことで、その言葉を絞り出した。

「礼侍は、あの病院で桜介さんの手術を受けていた。他の被害者も調べたら同じだった…」

光樹は動揺しようとする自分の心のバランスを取ろうと、言葉だけでも極めて冷静なものを選んだ。

そのお陰か、慎は気持ちを落ち着けることができた。

「つまり、被害者はみんな、桜介さんの手術を受けて、定期健診に行った人間ってことか…?まさか…あの人が…」

穏やかな桜介の笑顔が頭に浮かぶ。

あの人が殺人犯なのか…?

慎はため息をついた。

「何か知っているとは思っていたけど。桜介さんが犯人なんて…」

「まだ、証拠はない…。だから、桜介さんを重要参考人として呼びだし、事情聴取する」

「そうか。桜介さんが犯人なら、桜介さんが警察にいる間は礼侍さんが殺されることはないからな」

「そうだ。それに呼び出しに応じなければ、犯人の可能性が高いとして逮捕することもできる」

「光樹。なんか、らしくないな。焦ってるのか?」

「焦ってる…。そうかもしれない。でも、礼侍を死なせたくないんだ。そのためなら、できることは何でもやるつもりだ」

光樹は落ち着いた口調で言った。

「そうか。それなら、俺も協力する」

「ありがとう。でも、これから先は警察が動くから慎の出番はないかもしれないな」

「それがあるんだな。桜介さんが警察で事情聴取を受けた場合、その間、俺と仁で病院に忍び込み礼侍さんを探して助ける。これは警察にできないだろ?」

「確かに」

光樹のため息がスマホから聞こえてくるが、その声は落胆というより、少しホッとしているようだった。

「でも、それじゃあ、慎が危険な目に遭うかもしれない」

「仁がいるから大丈夫だって」

「そうだな…」

光樹の安心したような微かな笑い声がスマホ越しに聞こえた。

「俺って頼りになるだろ?」

「ああ。頼もしいよ」

「必ず礼侍さんを助けような」

慎は笑顔で言った。

「最初から、そのつもりだよ」

光樹の明るい声がスマホ越しに聞こえてくる。

「じゃあ、桜介さんが事情聴取に応じたら連絡くれよ。すぐにでも病院に向かって礼侍さんを探するから」

「わかったよ。ありがとな。慎」

「いいって。俺たち従兄弟だろ?」

「そうだな」

光樹は嬉しそうに言った。

「じゃあ、また連絡する」

「ああ。またな」

そう言うと通話を切った。

慎はスマホを置くと、夜空を見上げた。

その瞳は少し寂しそうに見えた。

夜空の月を見つめながら慎は、礼侍のことを思い出していた。


 そう、あれは三年前のことだった。

相変わらず希道との仲はぎこちなく、仁は口うるさく、全てにうんざりしていた時だった。

仁の義足は定期的に技師がメンテナンスしにやってくるのだが、その日は丁度、義足のメンテナンス日だった。

メンテナンスの時に仁が義足を足から外すのを慎は知っていた。

仁の部屋に技師が入っていくのを見届けると、慎は屋敷から出た。

庭を抜けて塀を乗り越え、外に出た。

正面の門と塀の数か所には監視カメラがあり、警備室のモニターに映し出される。

敷地内から出た時点で、警備員が追いかけてくる。

誰にも見つからないように屋敷の敷地内から出るには、監視カメラが設置されていない塀を乗り越えるしかない。

しかし、その塀の向こうは大通りになっていて、乗り越えた時点で多くの人の目にとまる。

すぐに誰かに見つかり、屋敷または警察に連絡がいくのは時間の問題だった。

それでも、見つかる前に逃げきれれば何とかなると慎は思っていた。

だから、慎はその塀を乗り越えた。

そして、地上に立つと、思いっきり深呼吸をした。

「やっぱり、外の空気は違うな」

笑顔で言うと慎は走り出す。

誰も追いかけてこない。

今は、まだ…。

ただ、いつも慎を監視していた仁から離れることができた。

それは今までにない解放感だった。

慎は自由を噛みしめながら走っていた。

そんな慎の行く手をふさぐように一台のバンが止まる。

後部座席のスライドドアが開いて、バンの中から二人の黒づくめの男達が出てくる。

「何だ?お前たちは!」

抵抗も空しく慎は捕らえられ、睡眠薬を嗅がされ眠る。

眠った慎を乗せると、バンは走り出す。

そして、目を覚ますと、慎は見知らぬ部屋にいた。

天井、床、壁がすべてコンクリートの冷たい感じのする部屋だった。

あるのは背伸びしても届かない場所にある小窓と、外から鍵のかかった扉だった。

扉にも小窓あり、この小窓は覗くことができる高さだが、部屋の外からカバーのようなものがかけてあり、部屋の外を見ることはできない。

手足は拘束されていないので自由に動ける。

それだけが救いだった。

誰かいないかと扉を叩いたり、叫んだりしたが、部屋の外からは何の反応もなかった。

何が起こっているのか、慎にはわからなかった。

しかし、自分が何者かに誘拐されたことだけは、わかっていた。

誘拐されてから、どれだけ時間が経っただろう。

覗くことができない高さにある小窓から差し込んでいた太陽の光はなくなっていた。

もう、きっと夜なんだな。

そんな事を思いながら、自分のお腹を押さえる。

「お腹空いた」

そう呟いた時、部屋の扉が開いた。

黒づくめの男達によって、一人の眠らされた男が放り込まれる。

黒づくめの男の一人が慎に銃を向け、もう一人が扉の前に紙袋を置く。

そして、扉は再び閉められ、鍵がかけられる音がする。

紙袋の中を見ると、パンや飲み物が幾つか入っていた。

「ふう…。やれやれ…」

投げ込まれた男は、そう言いながら体を起こした。

眠っていたと思っていた慎は不信そうに男を見た。

男は二十代半ばで、スーツを着ていた。

「そんなビックリするなよ。眠らされてたのに、なんで?って顔してるな」

男は笑った。

「眠らされたフリしてただけだよ。睡眠薬を嗅がされる時に息を止めて、眠らされたフリをしたんだ。上手く騙せたみたいだけど」

笑顔で言うと、慎に近づいて慎の体を見回す。

「ケガはしてないみたいだ。良かった。君が慎くんだね?」

「あの…」

「あ、俺?水上礼侍。一応、捜査一課の刑事で光樹の同期。少なくとも、俺は光樹のことを親友だと思ってるんだけど。あいつはどうかな~?」

礼侍は笑顔で言った。

「礼侍さん?光樹から聞いてます」

「おお。そうか聞いてたか。俺のこと」

「光樹から頼まれて助けに来たの?」

「いや…。頼まれたからじゃないんだ。立場上動けない光樹の代わりに助けに行きたいって、強引に押し切ったんだ」

「え…、あの光樹を?」

「そう。あの光樹を」

礼侍は笑いながら言った。

「知ってるとは思うけど。家族や親戚、友達等が事件に関わってる場合、その事件の担当からは外される。冷静な判断ができず、捜査の足手まといになるとういうのが理由なんだけど」

光樹は被害者が従兄弟の慎であることから、事件から外されていた。

「礼侍さんは大丈夫なんですか?」

「俺は任務じゃなく、プライベートで君を助けにきたんだ」

「え?そんな、理由通るの?」

「痛いとこつくな。どうなるかは、やってみないとわからないけど。俺は出世に興味ないし…。光樹が今動いたら、あいつの将来は台無しになる」

「光樹のために…?」

「まあな。あいつなら、これから先もたくさんの人間の命を助けていけるはず。だから、あいつには上に行ってほしい。一人でも多くの人間の命が助かるように」

礼侍は嬉しそうに笑って言った。

「でも、光樹の大事なものも守りたい。あいつの力になりたいんだ。それが、どんなことでも」

一瞬、真剣な眼差しで礼侍は言った。

「光樹が大事なんですね」

「まあ、そう言われれば、そうかもな。光樹がどんな人間かわかれば当然だよ」

礼侍は照れたように笑う。

「そうなんですよ。光樹は冷たく思えるくらい完璧で意外に弱い、そして優しすぎる」

「そうなんだよな。最初に警察学校で会った時は、俺も完璧で冷たいヤツだと思ったよ」

そう言いながら、礼侍は光樹と出会った頃のことを話し出した。


 それは礼侍が大学を卒業後のことだった。

数々の難関を乗り越え、キャリア警察官として警察学校に入校した。

しかし、礼侍の表情は暗かった。

その瞳は何者かへの憎しみに満ちていた。

ストイックに訓練や勉強に挑むも…常に勝てない相手がいた。

それが光樹だった。

 ある日の夕食の時、食堂での会話が耳に入ってきた。

「聖光樹って、授業全般、訓練や勉強の時って、ありえなくらい冷めてるよな?」

「でも、授業時間終われば優しいんだけどな。スポーツマンシップ?的な感じかな?」

優しい…?

聖が…?

礼侍は自分より優れている光樹が気に入らなかった。

いつも自分が一番になれないのは光樹のせいだと、極力、距離を置いていた。

だから、ほとんど話をしたことがなかった。

授業中の冷静で冷たい光樹の姿しか知らなかった。

そんなはずないだろ?

何言ってるんだ。

礼侍は同期達の会話を聞き流して、黙々と食事を進める。

光樹に勝つためには、食事の時間さえ惜しいのだ。

夕食が終わると食堂を出ようとした。

「光樹。後でな」

礼侍と同じタイミングで食事を終えた同期の青年の声が聞こえてきた。

「ああ、後で」

光樹は笑顔で答えた。

礼侍は光樹と話をした同期の後を追いかけ、肩に手をかける。

「おい」

同期の青年は礼侍だと気づくと、一瞬引きつった顔をする。

「なんだよ…?」

礼侍は警察学校で光樹の次に優秀だが、常にストイックで他の同期との交流がなかった。

だから、同期達には無口で少し怖い人間だと思われていた。

「聖と何を話してた?」

「後で勉強を教えてもらう約束だよ」

「あいつ、他のヤツに勉強教えてるのか?」

「そうだよ。教えてくれって言ったら、誰にでも教えてくれるけど」

「なんでだ?」

「そんなの本人に聞けよ。俺が知るわけはないだろ」

そう言うと同期は走り去っていく。

礼侍でさえ、自分のことでいっぱいいっぱいなのに、そんな人間がいることが信じられなかった。

「なんでだ…」

礼侍は部屋に戻ると勉強が手につかなかった。

なんで、あいつは…。

髪をクシャクシャと両手でかき回す。

「くっそっ…!聖!」

礼侍は部屋から出ると、廊下の端にある非常口に走り、非常口のドアを開け外へ出た。

その先は上の階から下の階まで続く非情階段の踊り場になっていた。

礼侍は踊り場に出ると、手すりを掴んで夜空を見上げた。

夜空には星ひとつなかった。

真っ暗な暗闇の中で、踊り場を薄暗く照らしてる非常口の緑色の誘導灯だけが唯一の灯りだった。

礼侍は一面闇の夜空を見上げ、思いっきり深呼吸する。

なんで、あいつのことが気になるんだ。

「大丈夫か?」

誰かの声に非常口の方を振り返ると、心配そうな顔をした光樹が立っていた。

「…なんで?おまえが…!」

「他の同期から聞いたんだ。水上の様子がおかしいって。非常口に向かって走っていったって」

「別に俺はおかしくなんかない!」

なんだ?イライラする。

「本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫だって!」

「そうか…」

光樹はホッとしたように深呼吸をした。

その表情からは本当に心配しているのがわかった。

「よかった。何でもなくて。俺は、てっきり、水上が非常階段から飛び降り自殺するのかと…」

そう言いながら光樹は笑った。

「なんだよ。それ…?俺が死ぬって?」

「ああ。ごめん。だって、ここの訓練ってきつだろ?おまけに勉強だってある。他の同期の愚痴聞いてたら。結構、精神的に追い詰められてるヤツもいたから。もしかしら、水上もって…」

「おまえ、それで他のヤツらに勉強を教えていたのか?」

「ああ。去年、この警察学校で自殺者が出たの知ってるだろ?」

「知ってる」

「連日の厳しい訓練と勉強と規律の中で、耐えきれず自殺した人間がいたって」

「…」

「俺は誰にも死んでほしくないんだ。だから、そのためなら何でもできる。警察官になろうと思ったのも、魔女狩りの時のように誰かを死なせたくないからなんだ」

「そのために…」

礼侍は目を細めた。

礼侍も魔女狩りで、唯一の肉親である母親を目の前で殺されていた。

「そっか。俺は人を殺す人間を捕まえて、必ずその償いをさせるために警察官になろうと思ったんだ。人の命を奪っておいて逃げようなんて…。俺が許さない!」

「人を殺す人間が憎いのはわかる。でも、君の言葉を聞いていると、まるで知ってる誰かを殺した人間への憎しみを殺人犯にぶつけているように思える」

礼侍は心を見透かされ、ハッとする。

なぜ、光樹にイライラするのか…。

光樹には自分の心を見透かされそうでイライラしたのだ。

知られたくないことまで、知られてしまいそうで。

「だとしたら、何だ?魔女狩りで人を殺した人間は全てが捕まったわけじゃない。逃げ切った人間だっている。人を殺しておいて、何もなかったかのように生活してるのを許せるわけないだろ!」

「そうか…。君も魔女狩りの犠牲者の遺族か」

礼侍はまたも光樹に本音を知られ、口を押える。

光樹は少し哀しそうな、それでいて包み込むような優しい目で礼侍を見ていた。

何だ?その目は?

同情してるのか?

しかし、光樹の目に微かに宿る哀しい影は同情ではないものだった。

礼侍は光樹の目を見ていて、そのことに気づいた。

「君もって…?もしかして、おまえもか?」

「ああ…。まだ、十五歳の弟を殺されたよ」

光樹は哀しみに満ちた眼差しで俯く。

「そっか…。俺たち、同じ理由で警察官になろうとしてたんだな」

それまで、とげとげしかった礼侍の表情は穏やかなものに変わっていく。

魔女狩りで肉親を殺され傷ついているのは自分だけじゃない。

そのことを目の前に突き付けられ、少しだけ心が楽になった。

とはいえ、殺された肉親が生き返ることはない。

その事実から逃げることはできない。

目の前にいる光樹でさえも…。

そう思うと、礼侍は光樹に手を差し伸べずにはいられなかった。

礼侍は俯いた光樹の肩にポンと手を置いた。

光樹は驚いて顔を上げる。

「おまえ、俺と同じだったんだな。だから、警察官になったんだな」

「ああ…。ただ、君とは違って、俺は助けられる命を助けるためなんだ。もう、何の罪もない人間が殺されることがないような世界を作りたいんだ」

「…」

礼侍は言葉を失った。

復讐のために警察官になる礼侍とは違い、光樹は人の命を救うという。

明らかに自分とはスケールが違う。

礼侍は自分自身がどれだけ小さな人間かを知った。

こんな光樹を追い抜こうなんて、最初からできるはずがなかったのだ。

なんて、俺はバカだったんだ。

礼侍は苦笑いした。

それまで、抱えていた憎しみが軽くなっていくのを感じた。

憎み続けることに意味なんてないのかもしれない。

「俺、おまえを応援する」

礼侍は笑顔で言った。

「え?」

突然の礼侍の言葉に光樹は目を丸くした。

「よし!決めた!何かあったら、俺が力になって、助けてやる!」

礼侍は楽しそう言った。

「え…?水上が…?」

「悪いか…?」

「いや、そんなことは…」

「なら、いいだろ!約束だ!」

そう言うと、礼侍は光樹の肩を叩いた。

光樹は茫然と礼侍を見ていたが、礼侍は満面の笑みだった。

しかし、礼侍は心の中で思っていた。

本当に助けられるのは自分だろうな…と。


 光樹との出会いを話し終えた礼侍の表情は幸せに満ちていた。

「俺があいつを守って、出世して目的にたどり着けるように助けるんだ。世界を変えるのは、できるかどうかわからないけど。あいつなら、きっと何かを変えられるはずだからな」

礼侍はニッと笑った。

「光樹は幸せだな。こんな親友がいて」

慎は笑顔で言った。

「だろ?光樹にも言ってやってよ。その言葉」

礼侍が言ったその瞬間、慎達のいた部屋の扉が外から破壊された。

扉のあった場所には扉をけり倒した仁が立っていた。

「おい。無事か?」

「仁…」

「何で逃げた?」

仁はツカツカと慎の前まで歩い来ると、慎の襟首を掴んだ。

「わっ…!」

「おい!やめろって!あんた、慎のボディーガードだろ!」

仁は、じっと慎の目を睨んだ。

「俺を信じろ!おまえが嫌でも俺は必ず助ける。今だって、そうだ」

「仁…」

「俺はおまえの両親と約束したんだ。命をかけて、おまえを守ろうとした、おまえの両親とだ!おまえの両親の命は俺が約束を破るほど軽くない。違うか?」

慎の目は涙で潤んだ。

「違わない…」

「だったら、二度とこんなことするな!いいな!」

「わかった…。ごめん…」

その言葉を聞くと、仁は慎を下した。

礼侍は、その様子をホッとしたように見ていた。

 慎達が外に出ると、数台のパトカーと警官、光樹の姿があった。

誘拐犯らしき数人の男達が手錠をかけられ、パトカーに押し込まれいる。

パトカーの先には、その場に不似合いなリムジンが停まっていた。

後部座席の窓から希道の姿が見えたが、希道は慎と目が合うと窓を閉め、リムジンを走らせ、いなくなる。

「希道さんが総力を挙げて、おまえを探させたんだ。そして、警察を動かして、おまえを助けさせたんだぞ」

仁は慎の背中をポンと叩く。

「…のわりには感じ悪い」

「照れてるんだって」

「そうかな…?」

冷めた表情で言うと、光樹が駆けつけてきた。

「礼侍、ありがとう!慎!無事でよかった」

光樹はホッとしたような嬉しそうな笑顔を向ける。

「光樹…。おまえ!こんなところに来て大丈夫なのか?」

礼侍がため息をつきながら言った。

「希道さんが警察の上層部に手をまわしてくれたんだ」

「なんだよ~。俺の犠牲は意味がなかったってことか~!」

礼侍はしゃがみこんだ。

「まあ、気を落とすなって。礼侍が処分されることはないから。希道さんのお陰でね」

「マジか~!」

礼侍は大きくため息をついた。

仲のいい二人を見て、慎は自然と穏やかな笑顔になっていた。

こんな楽しそうな光樹を見たことがない。

光樹は本当に礼侍さんが好きなんだな。


しかし、今、その礼侍の命は危険にさらされていた。

光樹のためにも礼侍には無事でいてほしい。

そう願う慎だった。











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