慎は仁とリビングでテレビを見ていた。

午前中、外でトレーニングしていたが、今は昼食を終えソファーに座り、まったりした時間を過ごしていた。

「慎。澪は?」

「東屋に行った」

「元気だな」

「体は普通の人間より丈夫だからね」

「確かに」

澪は、最近では慎と一緒に食事もできるようになったし、昼間でも屋敷の敷地内を出歩くようになった。

「ところで、一人で大丈夫なのか?」

「大丈夫だろ。この前も一人で東屋にいたし」

言いながら、慎は時々不安そうな顔をしていた澪を思い出す。

澪…。

慎は立ち上がっていた。

「やっぱ、行ってくる」

「おっ!さすが!」

からかうように言う仁を無視して、慎はリビングを出た。

姿だけ見れば高校生ぐらいに見える澪は、慎といると歳の離れた妹のように見えた。

しかし、澪が魔女狩りにあった時のままの姿だとしたら、魔女狩りにあった時の年齢は慎と同じか変わらないくらいだったはずだ。

ということは、慎と同じくらいの年齢で魔女狩りの犠牲になっていたことになる。

家族を失い体を失うほどの苦痛を受けた澪の痛みは、計り知れない。

両親を亡くした慎でさえ、生きる気力を失っていたのに…。

そう考えると、澪の苦しみは想像もつかなかった。

時折見せる不安な表情は、心に受けた傷によるものだろう。

その表情を見ると、つい放っておけなくなる。

屋敷を出て庭の東屋に向かっていると、手に持っていたスマホが鳴った。

スマホの画面には、光樹の名前が表示されている。

慎は電話に出た。

「光樹?どうした?」

「慎。今、話して大丈夫か?」

「大丈夫だけど」

「桜介さんを重要参考人として呼びだした」

「…それで?いつ警察署に出頭するんだ?」

慎は、息をつく。

「手術の予定があって、出頭できるのは三日後だという返事だった」

「やけに、あっさり応じてきたな。手術は嘘で、その間に逃げるなんてことはないのか…?」

「いや…。手術の予定の裏はとってある。間違いない。もし、逃げようとしても二十四時間体制で刑事が張り込んでいる」

「万全の体制だな」

「一人の刑事の命がかかってるからな」

そう言った光樹の声は失意に満ちていた。

こうしている今も礼侍は…。

不安でしかたないという気持ちが伝わってくる。

「光樹。絶対に礼侍さんを助けような」

慎は穏やかな声で言った。

「慎…」

「どんなことがあっても…。もし、礼侍さんが光樹の立場なら、きっとそうするはず」

「…」

光樹の言葉は、すぐには返ってこない。

少しの沈黙の後、光樹の声が聞こえてきた。

「そうだな」

その声は重く弱々しかった。

「礼侍なら…。きっと、そうする」

「そうだよ」

「俺がしっかりしないとな。礼侍の命がかかってるんだからな」

光樹は絶望の中で、自分を奮い立たせているようだった。

「ああ。でも、俺と仁もいる。光樹一人じゃないよ」

「そうだな。ありがとう。慎」

光樹の声が少しだけ穏やかになった。

「細かいことは仁に話してから打ち合わせしよう。これから仁に話してみるよ」

「わかった」

「じゃあ、また、連絡するから」

「ああ。ありがとう」

その光樹の声は微かに明るいものに変わっていた。

電話を切った慎は空を見上げる。

そして、礼侍の顔を思い浮かべる。

生きててくれよ。

慎はため息をつくと、澪のいる東屋に向かった。



 その日、慎は水族館の中を澪と歩いていた。

澪が屋敷の外に出てみたいと言ったのだ。

いい傾向だと、慎は喜んで澪を連れ出した。

澪は子供のように目をキラキラさせながら、水槽を泳ぐ魚を見て回る。

十年も屋敷から出たことがないのだから、久しぶりの水族館にはしゃぐのも納得できる。

慎は、そんな澪の姿を微笑ましく見ていた。

この水族館は慎にとっても、久しぶりだった。

十年前に両親を亡くした頃は、一人でよく来ていた。

水族館の中ほどにあるミズクラゲの水槽の前で、じっとミズクラゲを見ていた。

白く透き通ったミズクラゲが水槽の中をフワフワと泳いでいるのを見ると気持ちが落ち着いた。

それと同時に自分もこんな風に、何も考えず水槽の中を泳いでいられたら気持ちがいいだろうな…と。

そんな事を考えながら、ミズクラゲに癒されていたのを覚えていた。

昔の懐かしい記憶に浸りながら澪についていくと、いつの間にか、あのミズクラゲの水槽の前にいた。

昔と変わらず、そこにはミズクラゲが泳いでいた。

「わあっ!きれい!」

澪は目をさらにキラキラさせて見ている。

「気持ち良さそうに泳いでるよな」

慎は懐かしさから笑顔で、そう言った。

「ミズクラゲ好きなの?」

「十年前から、この水族館によく来てたんだ。そして、いつも、このミズクラゲを見てた」

「そう」

「十年前は、まだ、あの屋敷に来たばかりだったし、両親も亡くしたばかりで…。何もする気にならなくて」

辛かった、あの日々も今では懐かしい。

そんな気持ちから、慎は穏やかな笑顔を見せていた。

「知ってるよ。あの頃の慎は毎日のように、どこかへ出かけてた。あの屋敷の玄関って、あたしの部屋から、よく見えるんだ。どこに行くのかと思ってたけど、この水族館だったんだね」

「ずるいよな。俺だけ見られてたなんて」

慎は笑った。

「うん。でもね…、あの頃のあたしは誰にも会いたくなくて。自分の姿を誰にも見られたくなくて…」

そう話す、澪の眼差しは哀しみを含んでいた。

「そっか…」

慎は穏やかな眼差しで澪を見つめる。

「でも…もう、大丈夫だから」

澪は笑って言った。

「他の水槽も見てみようよ!」

澪は慎の手を引っ張って歩き出す。

慎の前を歩く澪の顔は見えない。

まるで、本当の気持ちを隠すかのように…。

生身の人間とは違う肌の感触、体温のないつないだ手、もし、この手を離してしまったら澪は壊れてしまうかもしれない。

だから、この手を絶対に離さないようにしよう。

どんな事があっても…。

慎は、そう思わずにはいられなかった。


 水族館を一通り見て回った慎達は、水族館内にあるカフェにいた。

二人揃って、コーヒーを注文していた。

コーヒーのいい香りが漂う。

二人は落ち着いた気持ちで、コーヒーを飲む。

「今日は楽しかった」

澪は笑顔で言った。

「なら、良かった」

慎も笑顔で言う。

「帰らなきゃいけないのが残念だけど」

コーヒーカップを見ながら、澪は笑った。

「また、来ればいいよ。あの人はまた出かけたから、うるさく言う人間もいないしね」

コーヒーを飲みながら、慎が言った。

「あの人…?希道さんのこと?」

「そうだよ」

「お父さんって呼ばないの?」

「うん。俺にとって、父さんは一人しかいないから」

慎は寂しそうな顔をして言った。

その表情を澪にじっと見られているのに気づくと、窓の外を見る。

「なんていうか、結局、何してる人かわからないし…。知ってるのは、働かなくても贅沢な生活できるだけの資産家ってことだけだし」

「何も聞いてないの?」

「あまり、話をするようなタイプの人でもないし」

慎はため息をつく。

「希道さんは確かに資産家よ。でも、魔女狩りの被害者や遺族を助けて回ってるの」

澪は慎の顔をじっと見て言った。

「え…?あの人が?」

「そうよ。あたしも仁も、あの人に助けられたの。あたしは行くところがないから、あの屋敷に置いてもらってるし、仁は助けてくれた希道さんの力になりたくて慎のボディーガードをしているの」

「澪と仁って面識あったの?」

「あるわよ。でも、あまり話はしないかも…。仁は慎に付きっきりだから」

「そうだったのか…」

慎は顔を両手で覆った。

「どうしたの?」

「俺だけ、何も知らなかったのか…」

「仁からは聞いてないの?」

「いつも、あの人に聞けってしか言わないんだ」

「そうなの?なんでだろ?」

「わからない。仁は飄々としてて、何考えてるかわからないところがあるから」

「じゃあ、屋敷に帰ったら、あたしが聞いてみる」

「澪が聞いたぐらいで、言うヤツじゃないよ」

「でも、何もしないよりマシよ。あたしに任せて!ね?」

澪は笑顔で言った。


 慎と澪が水族館から帰ると、仁はリビングで寛いでいた。

「よ。おかえり。楽しんできたか?」

慎と澪に気づくと笑顔で言った。

「仁。聞きたいことがあるの」

何の前置きもなく澪は話しはじめた。

「えっ…!ちょっと、澪。その聞き方は唐突すぎるんじゃ…?」

「おう。何でも聞いてくれ!」

軽く答える仁は、慎から見ると何を聞いても上手くはぐらかされそうに見えた。

「どうして、慎に希道さんがボランティア活動やってる事、話さなかったの?」

「え?そりゃ、俺が話したら、慎と希道さんの会話のネタがなくなるだろ?ただでさえ、二人はコミニケーションが上手くいってないんだから、話すネタぐらいは残しとかないと」

「えっ…」

仁があっさり本音を明かしたのに、慎は茫然とした。

「そんな理由?」

「そうだよ。ちゃんとした理由だろ?」

「それなら話してくれてもいいだろ?今まで何者なのかわからなくて不信感しかなかったよ」

「何言ってんだ…。希道さんの話を避けてたのはおまえだろ?どのタイミングで話せばよかったんだよ?」

慎は自分の行動を思い返してみる。

確かに苦手意識から、希道の話を避けていた。

「あ…」

「ほら、思い当たっただろ?」

「なんだ…、慎が避けてたんじゃ、しょうがないよね」

「ごめん…」

慎はため息をつきながら謝る。

「でも、良かったね」

澪は笑顔で言った。

「希道さんのことがわかって。いつか苦手意識もなくなるかも」

「だと、いいんだがな」

仁は慎の顔を見る。

慎は二人の話を聞いていて、あることに気づいた。

希道は慎以外とは普通に話をしていることに。

じゃあ、なぜ?俺だけ?

慎の中に不可解な疑問が渦巻いていた。

それに気づいた仁は、ため息をついた。

「こりゃ、だめだな」



 桜介が警察に出頭する日、慎と仁は桜介の病院にいた。

病院の玄関では二人の警備員が院内に入る人間をチェックしていた。

入念なチェックをしているしく、警備員の前には診察に来た人の列ができていた。

「何だ?何のチェックだ?」

待たされるのが苦手な仁が不機嫌に言った。

「何かあったのかな?」

慎は病院内を覗き込む。

警備員が何かを入念に聞いている。

「これじゃ、待ってるしかないな」

慎は、ため息をつきながら笑った。

「マジか」

仁はヘタヘタと、その場に座り込む。

それから三十分経った頃、慎達に順番が回ってきた。

「はい。次の人」

警備員に呼ばれ、慎達は警備員の目の前に立つ。

「お待たせして、すいません。最近、受診される患者さんが多くて、混雑解消のために、ここで行先を確認して行先を案内してます」

「警備員が…?受付があるのに?」

「はい。人手不足なんですよ。すいません」

受付を見ると、確かに人が並び混雑している。

慎は話をしている仁と警備員を静かに見ていた。

何かが気になっていた。

この警備員どこかで…。

「君?どうしたの?もしかして体きついのかな?ごめんね。長い間待たせて」

警備員は申し訳なさそうに慎を見た。

「あ…!」

「え?」

慎の声に警備員は後ずさる。

「何?どうしたの?」

微かに動揺しているのがわかる。

「何だ?おまえ誰だ?本当に警備員か?」

その微かな動揺に気づいた仁は警備員の腕を掴んだ。

「仁。離せ」

慎は仁の手を掴んだ。

「何言ってんた?おまえだって気づいただろ?こいつは明らかに動揺した」

「この人、警察官だ。光樹の部下の。かなり前に一度見ただけだから忘れてた」

慎は仁と警備員にだけ聞こえるように小声で言った。

「マジかよ…」

仁は手を離した。

「俺は聖光樹の手助けをするために来たんだだ。通して下さい。俺の名前は一ノ瀬慎。光樹に確認してもらえばわかるよ」

「…聖管理官の!?」

警察官は正体を見破られたことで明らかにうろたえていたが、それに加えて光樹の知合いという慎の存在の登場に困惑していた。

「少し、お待ちを」

スマホを出すと、警察官は電話をかけ始めた。

光樹にかけているのは間違いないだろう。

警察官が確認するのを待っている間、慎は院内の患者で溢れかえる待合室を見ていた。

その中で一人にソファーの端に座っている老婆に目を止めた。

老婆がソファーから立ち上がろうとしていた。

その老婆は腰がの字に曲がり、立ち上がろうと体を伸ばすと、体が弱々しく震える。

少しでもバランスを崩せば倒れてしまいそうそうに見えた。

そんな状態にも関わらず、老婆の横を通り過ぎた若い青年が老婆にぶつかったが、そのまま行ってしまう。

老婆は予想通りバランスを崩して転ぶ。

「あ…!」

慎は走り出していた。

「おい!慎!」

仁が追いかける。

「あ…!ちょっと!」

電話中の警察官も二人を止めようと後を追う。

慎は老婆の元にたどり着くと屈みこんだ。

「大丈夫?おばあちゃん。どこもケガしてない?」

「大丈夫だよ。ありがとね」

老婆は穏やかな口調で言った。

「立てる?」

「腰が曲がってるから、何かにつかまらないと難しいね…」

「じゃあ、肩を貸すから」

慎は老婆に肩を貸し、老婆の体を起こした。

そして、体を起こした老婆は杖をついて立つことができた。

「ありがとう。助かったよ」

嬉しそうに笑って老婆は言った。

「何ともなくて良かった。転んだのを見た時はビックリしたよ」

慎もホッとしたように笑う。

「優しい子だね。世の中には年寄りってだけで厄介者扱いする人間もいるのに…」

「厄介者か…。いつかはみんな歳をとって年寄りになるのに…。おばあちゃんは厄介者なんかじゃないよ」

慎はソファーに置いてあった老婆のバッグをとって、そっと渡す。

「少なくとも俺にとってはね」

老婆がバッグを受け取ると、慎は笑顔で言った。

その様子を見ていた仁と警察官は慎に声をかけるのも忘れていた。

「これでも俺たちを信用できないか?」

仁は警察官を見て言った。

「いいや」

警察官は、すでに通話の切れたスマホをズボンの後ろ側にあるポケットに戻しながら、穏やかな顔で言った。

「聖管理官に確認もとれたし行っていい」

「ありがとよ」

言いながら仁は警察官の肩をポンと叩く。

「聖管理官から話は聞いた。気を付けて。成功を祈ってる」

そう言うと、警察官は玄関へ戻って行く。

「ありがとよ」

ポツリと言うと、仁は慎の元へ行った。

「仁?何話してたの?」

「行っていいってさ」

「光樹に連絡とれたのか…?」

「まあな」

仁は笑って言った。

「にしても、あの出入り口でのチェックって、やっぱり不審者チェック?」

「だろうな。他に桜介に協力してるヤツがいるのかもしれない。あのお坊ちゃんだけじゃ、犯行は難しいだろうからな」

「確かに…」

「さて、行くか」

「あ…、うん」

慎と仁が歩き出して、すぐにガラスが割れて床に叩きつけられる音がした。

慎と仁が振り返ると、警察官のいる玄関の上部にあるガラスが割れて落ちていた。

その下には、さっきの警察官や病院に入ろうと並んでいる人々がいた。

ある者は落ちてきたガラスの破片で体に切り傷を負い、ある者はガラスの破片が体に刺さり、それぞれが立っていられない程の重症で横たわっていた。

同時に待合室中から悲鳴が聞こえてた。

それは傷を負ったものではなく、傷を負った者達を見た者達のものだった。

ガラスの破片で傷を負った者達は次第に傷口から流れる血にまみれていく。

その光景はまるで地獄と呼べるものだった。

慎は咄嗟に受付に向かった。

受付で茫然としている事務員たちに向かって叫んだ。

「何してるんだよ!早く手当できる医者を呼んで!」

「あ…はい!」

震える手で一人の女性が内線でどこかに電話し始めた。

「手のあいてる人は待合室にいる人間を落ち着かせて!」

「…はい!」

受付の事務員たちが人々を落ち着かせていると、医師と看護師が駆けつけてケガの手当をしている。

医師はケガ人を診ながら、看護師や病院の人間に指示して手当させたり、ストレチャーにケガ人を乗せて運ばせていた。

慎と仁も当然のように手伝っていた。

誰かが呼んだのか救急車が到着し、続いて救助隊が到着する。

今まで看護士か素人に医師が指示を出しながらだったのが、この手のプロの登場で手当ては格段に速く進んだ。

加えて救助隊により二次災害の危険のある玄関は封鎖され、犠牲者が増えるのを抑えた。

その状況を見て、ホッとした慎は床に座った。

その額には汗が滲んでいた。

「これで…大丈夫だな」

疲れ切った顔で笑った。

「よくやったな。慎」

仁はニヤリと笑う。

「よくやったのは…みんなだよ」

そう言いながら、手当をしている医師や看護師、救急救命士や救助隊を見る。

最初は茫然と事故現場を見ていた待合室の人々も、いつの間にか医師や看護師の手伝いをしてる。

「一人でできることなんて限られてる…。こんなにも人間って協力し合えるんだな。ずっと、屋敷にばかりいたから、わからなかったよ」

「…そうだな」

仁は穏やかな表情で答えた。

「もし、十年前の魔女狩りの時もこんなだったら誰も死なずに済んだのかな…?」

慎は哀しそうに目を細めた。

「…どうだろうな。でも、一つだけわかってることがある」

仁の言葉を聞いて、慎は仁の顔を見た。

「魔女狩りがあったから、今、目の前にいる人々はケガ人を助けるのに必死なんだ。二度と誰かが目の前で死ぬのを見たくない。今度こそ誰も死なせたくない。そう思ってるんじゃないか…?」

仁は遠くを見るような目で言った。

「…そうだな」

慎は辺りを見回した。

誰一人として、その状況を傍観して何もしない者などいなかった。

誰もが自分のできることをしてる。

傷ついた人を助けるために…。

目の前の命を守るために…。

慎は、その状況を穏やかに見つめていた。

「きっと、人は変われるんだと思う。二度と同じ悲劇が起きないように…みんなは変わったんだ」

「だな」

仁は笑顔で言った。

「…にしても、何であんなところにあるガラスが割れたんだろ?」

「老朽化って、とこかもな…。たぶん」

「どっちにしても、ガラス以外に変えた方がいいよな。今回みたいな事件が起きるなら」

「だな」

仁は割れたガラスのある窓枠を見上げる。

外からの光を取り入れ、病院内を明るくしたかったのだろう。

こんな結果になるとは、きっと誰にも予測できなかった。

不運としか言いようがない。

仁はため息をついた。

「さて、この混乱に乗じて行くか。これだけの人間がいれば大丈夫だろ」

言いながら仁は穏やかな表情で慎を見た。

「…ああ」

仁に言われて慎は当初の目的を思い出した。

「礼侍さんを助けなくちゃな」

慎の脳裏に光樹の顔が浮かぶ。

「光樹のためにも…」

そう言うと立ち上がった。

「じゃ、とりあえず一番怪しいとこから行くか」

慎と仁はエレベーター横の通路に向かった。


 通路に着くと、一番奥のドアの前に立った。

仁は鍵が掛かっているのを確かめるように、ドアノブを回した。

すると、ドアは簡単に開いた。

「え…。マジか!」

「鍵をかけてない…?」

ドアノブを見ていた慎と仁は顔を見合わせた。

そして、すぐにドアを開けて部屋の中に入る。

部屋の中にあるエレベーターに駆け込む。

二人は嫌な予感がしていた。

誰かに入られて困るはずの部屋に鍵が掛かっていない。

エレベーターで地下一階に着くと、エレベーターから降りた。

エレベーターから降りた先には全面ガラス張りの壁があり、その先の部屋が見えていた。

しかし、そこには朱音の姿はなかった。

代わりにトイレットペーパーやら、何かの備品の入った箱やらに詰めつくされていた。

「朱音は…?礼侍さんは…?」

茫然と立ち尽くす慎をよそに仁はため息をついた。

「やられたな」

「え?」

「桜介が大人しく出頭してきたのは、自分に後ろ暗いことがないことを証明するためだろうけど。出頭してる間に警察が踏み込むことを予測して手を打ってたか…」

「じゃあ、礼侍さんは?」

「わからん。でも、嫌な予感しかしないな」

「そんな…」

「慎。光樹に電話しろ。すぐに事故を理由に、警察に病院内を調べさせるんだ」

「わかった!」

慎から連絡を受けた光樹はすぐに警察を動かし、病院内をくまなく探した。

しかし、礼侍の姿は、どこにもなかった。

それどころか、朱音の姿も見つからなかった。

桜介は二人をどこへやったのか…?

その日は何の証拠も得られず、警察はしかたなく桜介を釈放した。

ただし、警察の監視付きで。


 しかし、監視のかいもなく、数日後、礼侍の死体が街中にある公園で発見された。

礼侍の死体は他の被害者同様、心臓がなくなっていた。


 

 空が明るくなり始める頃、光樹は自宅であるマンションのリビングにいた。

パジャマを着て、ソファーに膝を立てて座っていた。

礼侍が死んだばかりで、捜査会議に出て新たな情報収集や捜査の立て直しをしなくてはならない。

現役の警察官が殺されたことで、警察内にも動揺が広がっている。

この事件の担当管理官である光樹は、理性を失うわけにはいかなかった。

捜査員を引っ張り事件解決に導いて、警察内の動揺を抑えなくてはならない。

だから、早く眠って体と頭を休ませ、明日は何もなかったように、いつもの冷静な自分を装う…はずだった。

しかし、眠ることさえできなかった。

だからと言って、涙が零れるわけでもない。

体はずっしりと重くなる程、疲れていた。

普段、こんな状態なら起きているのが困難程の眠気に襲われる。

しかし、それでも眠ることはできなかった。

カーテンの隙間から朝日が差し込み、リビングの棚にある写真立ての一つを照らす。

それは十年前に魔女狩りで殺された弟の写真だった。

光樹は写真立てが朝日で照らされているのに気づくと、ソファーから立ち上がって写真立ての前まで行った。

そして、写真立ての写真を手に取って見る。

そこには元気で明るい笑顔の少年の姿があった。

ひろ

光樹は弟の名前を呼ぶと、写真立てを胸に押し付け抱きめた。


 弟が亡くなった時、光樹は高校生だった。 

光樹は夕食後に自宅のリビングでテレビを見ながら、ソファーで寛いでいた。

時計の針は夜八時を回っていた。

「光樹。先にお風呂いってきなさい。陽が返ってくる前に」

キッチンで片づけをしている母親が言った。

「わかったよ」

光樹はソファーから立ち上がろうとした。

「ただいまー!」

元気のいい声がして、リビングに陽が駆け込んでくる。

野球の練習着を着た陽は光樹を見つけると、光樹に抱き着いた。

「光樹~!疲れたよ~」

部下から帰ってくると、汗と泥に塗れた汗臭い体で光樹に抱き着くのが、陽の部活がある日のルーティンだった。

「こら!陽。やめなさい!そんな汗臭い体で!お兄ちゃんじゃなくて、お風呂が先でしょ!」

母親がキッチンから出てくる。

「だって、疲れてんだよ~。お風呂まで俺を運んでくれよ。光樹~」

汗臭い頬を光樹の頬にスリスリする。

「もう、しょうがないな~」

光樹はため息をつきながら、陽をお風呂まで引きずっていく。

「光樹も一緒に入ってきなさい」

「うん。わかった」

それから、光樹はお風呂で陽の背中を流した。

陽の腹部に殴れた後を見つける。

「陽。これ…」

「父さんと母さんには言うなよ。心配かけたくないんだ」

「わかってる。で?何があったんだ?」

いつものことらしく、光樹は淡々と聞く。

「学校で、イジメられてたヤツを助けただけ」

「そうか…。陽らしいな」

光樹は穏やかに笑った。

「でも…。無茶するなよ」

「わかってるって」

陽は元気に言うと笑った。

陽は正義感が強く、弱い人間を助けるために度々ケンカする。

お陰で野球部が大会出場を取り消されるのも良くあることで、それでも部員たちは陽を責めなかった。

陽がどんな人間か知っているから。

光樹は、そんな陽が大好きだった。

お風呂から上がると、光樹は陽の髪を拭いて乾かす。

陽は拭いて乾かしてやらないと、軽く拭いて水の滴る髪のままで何もしない。

ポタポタと落ちる水滴で着替えたパジャマの肩が濡れても気にすることがなかった。

大雑把といえば大雑把なのだが…、それにしても度が過ぎる。

体はちゃんと拭けるのに、なぜか髪だけは適当にしか拭かない。

「あースッキリした!」

帰って来た時の、あの疲れようはなんだったんだろう?と思わされる程、陽は元気に食卓についた。

今日は陽の好きなハンバーグだった。

「おお!やったー!ハンバーグだ!生きててよかったか~!」

両手を挙げて喜ぶ陽を光樹と母親は笑顔で見ていた。

「ハンバーグで生きててよかったって、大げさだな」

「何言ってんだよ!この世で一番うまいのはハンバーグなんだぞ!大げさでも何でもない!」

言いながらあっという間に食事を平らげる。

「ごちそうさま!」

両手を合わせて言うと、陽はソファーに寝っ転がた。

「こらこら、ソファーに寝っ転がるな。いつも、おまえをベッドまで運ぶの大変なんだぞ」

「それでも光樹は運んでくれるんだよな」

笑顔で言うとテレビを観はじめた。

「まったく、おまえは…」

光樹は笑いながら、ため息をつく。

時計が九時を回ったのを見る。

「父さん、今日も残業か…」

気がつくと、陽は眠っていた。

「陽」

光樹はソファーに眠る陽を見て呆れたように言う。

「また、ソファーで寝たの?」

お風呂から上がってきた母親が、ソファーで眠る陽を見ながら言った。

「いくら言っても聞かないんだよな」

光樹は笑いながら言った。

「本当、しょうがない子ね」

母親も笑顔で言う。

「母さん、手伝って。陽をベッドに運ぶから」

母親に手伝ってもらいながら、光樹は陽を背負った。

そして、二階にある陽の部屋へ向かう。

部屋に着くまで陽は起きることがなかった。

光樹は陽をベッドに寝かせると、小さな子供のうな無垢な笑顔を見つめた。

「本当に変わらないな。小さい時のままだ」

そう言うと笑った。

「そのままでいろよ」

言いながら、光樹は陽の頭を軽く撫でてた立ち上がった。

「…光樹」

寝ぼけた陽が言った。

光樹の夢を見ているのだろうか…。

「兄ちゃんだろ?」

そう言うと笑って、光樹は部屋から出て行く。


 その日、いつものように光樹はリビングで朝食をとっていた。

父親は、すでに出勤し、母親はキッチンで片づけをしている。

トーストにハムエッグ、野菜の付け合わせとスープに牛乳、それが光樹の家での定番の朝食だった。

しかし、光樹の向かい側の席にはトーストと牛乳、ラップに包まれたオニギリが二つ置いてあった。

バタバタと二階から陽が階段を駆け下りてくる。

「おはよ!やばい!朝練に遅れる!」

「いつものことだけど…。もう少し早く起きればいいのに」

「それができればやってるって」

寝ぐせのついた頭で、光樹の向かい側にある朝食のトーストだけ口にくわえた。

「陽。おはよ!オニギリおいてあるからね」

キッチンから母親の声がした。

「さっすが!母さん!愛してるよ!」

陽は軽い口調で言う。

「はいはい。バカなこと言ってないで早く行きなさい。時間ないんでしょ」

「うん。じゃ、行ってくる!」

トーストを食べながら、陽はニッと笑う。

「気をつけて行けよ。陽」

光樹は、いつものうように穏やかに笑う。

「うん」

陽はテーブルの上にあった、ラップで包んであるオニギリを掴む。

そして、陽は光樹をじっと見た。

「ん?どうした?」

「光樹は毎朝、気をつけていけっていう。それって悪いことが起こらないようにってことだよな」

「そうだけど?」

「なんか…やっぱ、光樹って俺の兄ちゃんなんだな」

陽は嬉しそうに笑う。

「なんだ?俺を兄ちゃんって言うなんて珍しいな」

「光樹が兄ちゃんでよかった」

陽はニッと笑った。

「どうした?陽らしくない」

「いつも、ありがとな」

笑顔で言いながら、光樹に背を向ける。

「じゃ、いってくる」

そう言うと、陽は背を向けたまま家を出て行った。

「どうしたんだ?あいつ?急に…?」

言いながら光樹は笑った。


 それから時間は流れ、数時間後、光樹は学校でいつものように授業を受けていた。

今日は珍しく授業に集中できずにいた。

今朝、陽のらしくない言葉が気になっていた。

しかし、本音を云えば嬉しかった。

嬉しくて授業に身が入らない。

光樹は自分でもバカだなぁと思いながらも、弟の陽が可愛くて仕方なかった。

そんなことを考えていると、授業中に使うマーカーを机の引き出しにしまったままだったことに気づく。

マーカーを忘れるなんて、重症だな…。

そんなことを考えながら机の引き出しを開けると、引き出しに入れておいたスマホに着信が入っていた。

スマホの着信履歴を見ると、この三十分の間に父親から十件以上の着信が入っていた。

え?父さん?

その異常な着信履歴には不安を掻き立てられた。

早く、電話しないと…。

「先生!」

光樹は立ち上がった。

「どうした?聖」

教壇いた男性教諭が、授業の手を止めて言った。

「父さんから着信が何件か入ってて、緊急の電話みたいなんです。電話をかけたいんですが、いいですか?」

「緊急の?わかった。ただし、教室から出て授業の邪魔にならない所でかけろ」

「わかりました。ありがとうございます」

光樹はスマホを持って教室から出た。

そして、廊下の端にある階段を降りて、踊り場で父親に電話をかける。

一回コールし終わらない内に父親は電話に出た。

「父さん?どうしたの?何かあったの?」

「…光樹か」

父親の声は弱々しく疲れ切っていた。

「父さん?大丈夫?」

「私は大丈夫だ」

「何があったの?」

電話の向こうから母親の鳴き声が微かに聞こえる。

「陽が死んだ」

父親がポツリと言った。

「え…?」

光樹は父親の言っていることが理解できなかった。

いや、受け入れられなかったというのが本当だった。

そんなはずないと…。


 光樹は学校を早退すると、警察署に向かった。

警察署に着くと、刑事に地下にある死体安置所に案内される。

「あの…弟は本当に死んだんですか?」

光樹は刑事の後ろを歩きながら言った。

「…そうだ」

刑事は辛そうに言った。

できれば、高校生の光樹に自分の口から伝えたくなかったのだろう。

「…どうして?」

「…天の羽に連れ去られそうになったクラスメイトを庇って、そのクラスメイトと一緒に火あぶりにされた…」

そう言うと、刑事は立ち止まった。

「すまん。警察が非力で…。まだ、若い命を守れなかった」

刑事は肩を震わせて泣いていた。

魔女狩りの行われる現在では警察さえも、天の羽を止めることはできずにいた。

警察といえど人間、自分の命が可愛い、火あぶりにはなりたくない。

自分や自分の家族が天の羽に狙われることを考えると、今一歩踏み込んで天の羽に立ち向かうことができなかった。

しかし、未来ある子供が殺され続ける現実に、それも限界にきていた。

刑事の涙は哀しみを通り越して、不甲斐ない自分達への怒りからくるものだった。

「…」

光樹は、それ以上何も言わずに刑事の後ろをついていった。

死体安置所に着くと、頭からつま先までシートがかけられた遺体があった。

人の血と肉が焼けた、嫌な臭いがしていた。

母親は遺体にすがりつき泣いている。

父親は遺体の脇にある椅子にうなだれて座っていた。

光樹に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。

「光樹か…」

哀しみに打ちひしがれ無気力になった光のない瞳で父親は言った。

「父さん…」

言いながら光樹はシートのかけられた遺体を見た。

「シートの下は見ないほうがいい。酷い火傷で顔もわからなくなっている」

そう言うと目に涙を溜めた。

光樹はシートの下の遺体を見る勇気もなく、シートの上から遺体に触れることさえできなかった。

陽が死んだという事実を受け入れるのが怖くて…。

葬儀は陽の遺体が火葬されてから葬儀場で行った。

あまりにも酷い火傷を負っていて、他人に見せられる姿ではなかったからだった。


 葬儀が終わり夜になると、光樹は両親と家に帰ってきていた。

陽の骨壺は畳の部屋にある仏壇の前に置かれた。

両親は疲れてリビングのソファーで寝ていた。

光樹は骨壺の前に座っていた。

「気をつけろって言ったのに…」

光樹はうつむいた。

「兄ちゃんの云うこと聞かないから…、こんなことに…」

光樹の涙がポタポタと落ちて畳を濡らす。

「でも、おまえは間違ってないんだ…。今の世の中がおかしいんだ…。わかってるよ。おまえは悪くない…」

そう言うと涙でグシャグシャになった顔を上げる。

「ごめんな。陽。守ってやれなくて…」

光樹は骨壺に、そっと手を添える。

「おまえの兄ちゃんなのに何もできなかった。ごめんな。ダメな兄ちゃんで…」

そう言うと光樹は俯いて泣き始めた。


 マンションのリビングで陽の写真を抱きしめていた光樹は俯いた。

「陽。やっぱり、俺はダメな兄ちゃんだな。今度は親友を助けられなかったよ…」

光樹の頬に涙が零れ落ちた。 



 その日は生憎の曇り空だった。

今にも雨が降り出しそうな黒雲が空いっぱいに広がっていた。

葬儀場には多くの人々が押し寄せていた。

そう、その日は礼侍の葬儀の日だった。

光樹はもちろんだが、慎と仁、澪もついてきていた。

澪は、どうしてもついて行くと聞かなかった。

いつもと違う様子の慎が心配だった。

なぜ、そうなのかは仁に聞いて知っていた。

恐らく慎に関わる誰もが気づいていることだが、慎は自分に関わる人間の心に寄り添い手を差し伸べずにいられない。

例え、自分を犠牲にしたとしても…。

そういう意味では、今、礼侍を亡くした光樹の心に寄り添う慎は危険だ。

光樹に何かあれば、自分を犠牲にしてしまうかもしれない。

慎がそんな人間だからこそ、仁も澪も慎を守りたかった。

正直、澪はまだ人混みが苦手だ。

十年以上も魔女の館から出たことがない。

加えて、人への恐怖を未だ持ち続ける澪には、人混は心の底にある恐怖心を引き出す状況でしかない。

それでも澪は慎を守りたかった。

しかし、慎は澪の隣にはいない。

疲れ切った顔をしながら、無理に笑う光樹の隣にいた。

その姿は痛々しく、慎でなくても手を差し伸べたくなるような姿だった。

そんな光樹から慎を引き離すことなどできるはずもなかった。

ただ、その後ろを仁と一緒に歩いていた。

慎達は葬儀場の駐車場から葬儀場の建物へ向かって歩いてた。

「光樹のヤツ…。あの顔、相当きてるな…」

同情に満ちた声で仁は言った。

「本当に…」

澪は慎と光樹を心配そうに見ていた。

「澪…。そんな顔するな。二人に何かあったら、俺がなんとかする」

ニッと笑って、仁は言った。

「うん」

澪にとって、場違いに笑う仁の言葉が頼もしかった。

十年以上も人との関わりの少なかった澪にとって、慎を守るとしてもどうすればいいのかわからなかった。

気持ちだけが先に立って、何かあっても何もできないのが現実だろう。

それでも、慎の傍から離れずにはいられることはできなかった。


 それから、葬儀場に入ると並べられた椅子に座り、葬儀が始まる。

光樹は肩を落として、終始俯いて泣いていた。

その隣で慎は光樹の背中を摩っていた。

葬儀は一時間程して終わった。

葬儀が終わると、慎は光樹を葬儀場の中庭に連れ出した。

そして、中庭にあるベンチに座らせた。

あのまま葬儀場の中にいたら光樹はおかしくなってしまいそうで、外の空気を吸わせて気持ちを落ち着かせたかった。

少し離れたところから仁が二人を見守り、澪は慎達に飲み物を取りに行っていた。

外の空気は人で混雑し熱気を含んだ葬儀場の空気とは違い、少しヒンヤリして気持ちいい。

光樹は相変わらず肩を落としているが、少し気持ちが落ち着いてきたように見えた。

「慎…。ありがとな。俺一人じゃ…葬儀場にはいられなかったかもしれない」

「いいって、気にしなくて。今は余計なこと考えなくていいんだって。哀しい時は哀しいでいいんだよ」

慎は穏やかな口調で言った。

「そうだな…。でも、俺はこの事件の担当管理官だ。いつまでも哀しんでられない。事件を解決する指揮をとる俺が取り乱せば、事件解決を長引かせ、新たな犠牲者がでる」

光樹は宙を見つめながら言った。

その眼差しは真剣で何の迷いもなかった。

今までの関わった事件の犠牲者の数々が光樹を強くしてる。

慎は、そう思った。

そして、光樹は決して冷たくはない。

事件解決の時の冷静さは、周りから見れば冷たくも見える。

しかし、その優しさゆえに強く冷静になれるのだ。

もう、これ以上、誰の命も犠牲にしたくない…と。

幾つもの命が犠牲になっていくのを目の当たりにして、その気持ちは強くなっていった。

だから、光樹は優しくも強い。

部下に慕われるのも納得がいった。

「でも、今は一人の人間だ。この葬儀場にいる間だけは一人の人間として、親友の死を哀しんでもいいんじゃないか…?」

慎は穏やかな笑顔で言った。

「慎…」

光樹は思いつめた気持ちからが少し軽くなったかのように、ため息をついた。

「ありがとう」

光樹は笑顔で言った。

礼侍が亡くなってから、初めて見る光樹の笑顔だった。

「あの…。礼侍さんのお友達の聖さんですか?」

声がする方を見ると、一人の中年の女性が立っていた。

彼女も光樹同様、泣きはらした目をしていた。

「はい。そうですが…。あなたは?」

「私は礼侍さんの担当看護師でした」

「礼侍の…?」

「はい。こんなことになって、相当気を落とされているように見えますが。大丈夫ですか?」

看護士は疲れた顔で優しい眼差しを向けてくる。

「俺は何とか…。それより、あなたこそ大丈夫ですか?」

穏やかで優しい声で、光樹は言った。

その声に看護士は肩を震わせた。

その目には涙が滲んていた。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい!」

「…?どうしたんです?」

光樹は立ち上がると、看護士の肩に手を置いた。

看護士は泣きながら声を震わせた。

「とにかく、ここに座って下さい」

光樹はさっきまで自分が座っていたベンチへ座るように促す。

慎も立ち上がり、ベンチを開ける。

看護士はベンチに座ると顔を両手で覆った。

「私…、私…おかしいとわかっていながら、何もしなかったんです」

「それは、どういう意味ですか?」

光樹は言いながら、慎と顔を見わせた。

「最近の心臓のない死体が見つかる事件の犠牲者は、みんな桜介先生が手術を担当した患者さんなんです」

「え…」

「桜介先生はこの二年間で数百という手術を行ってきましたが、その中の何人かだったので…最初はたまたま殺されんだと思ってました」

光樹と慎は、ただただ看護士の言葉に聞き入っていた。

仁も離れたところから、その話を聞いていた。

「でも、私…見てしまったんです。桜介先生のパソコンにあったフォルダーを。それは殺された患者達のデータだけが入ったフォルダーでした」

「そこに礼侍のデータも…?」

「はい…。本当に、ごめんなさい!早く警察に知らせるべきでした。でも、あの桜介先生が殺人犯だとは信じられなくて…。でも、私が担当していた礼侍さんが殺されて…」

「信じるしかなくなった。そういうことですね?」

光樹は冷静に、そう言った。

「はい…」

看護士は肩を震わせた。

「あなたの云うこともわからなくない。桜介さんがどんな人か知ってますが、確かに人を殺すような人とは思えなかった。でも、彼が殺人犯だというのは事実のようです」

光樹はため息をついた。

「本当に、ごめんなさい!私が早く警察に言っていれば礼侍さんは…」

看護士は声をあげて泣き始めた。

「自分を責めないでください。誰だって、そう思いますよ。あなたは悪くない」

光樹は穏やかで優しい口調で言った。

「ううっ…」

看護士は声を殺しながら泣いた。

親友を亡くした光樹の前で、声をあげてなくことはできなかった。

その親友を助けることができなかったのだから。

光樹も慎も、それ以上何の声もかけることができずにいた。

彼女が自分を責めているのがわかっていたから…。


 葬儀場内で飲み物を探していた澪は、礼侍の遺体の入った棺桶を遠くから見ていた。

そこには死がある。

かつて自分も味わった死の寸前の先が・・。

もし、あの時、死んでいれば楽だったのかもしれない。

そんなことを考えることがある。

体を失っても生きていられることを人は幸運だと思うだろうか?

血の通わない普通の人間より冷たい体、皮膚の感触はすでに人間のものではない。

泣きたくても涙は出ない。

哀しくても辛くても、誰にもわかってもらえない。

そう、澪を理解してくれる人間は少ない。

もしかしたら、本当は誰もいないのかもしれない。

それでも人は生き残った澪を幸運と云うだろうか?

澪はそんな想いを振り払うように頭を振った。

深呼吸をすると、慎の顔を思い出す。

気を取り直して飲み物を探そうと歩き出した、その時だった。

澪は線香の煙の臭いに気づいた。

それまで、慎や光樹、礼侍のことで頭がいっぱいだった澪は、線香に煙の臭いに気づく余裕がなかった。

でも、今は違う。

「この臭い…」

遠い記憶の中にある、同じような焼ける臭いを思いだす。

それは澪が魔女狩りにあった時のことだった。

ただ、その臭いは線香の臭いとは少し違っていた。 

自分の体の血と肉が焼ける臭い。

炎の中で、体が焼ける痛みに襲われながら、嗅いだ臭いだ。

痛い、痛いよ…!

誰か助けて…!

心の中で叫んでいた。

その時の記憶が鮮明に頭の中に湧きあがった。

「あ…。あ…!」

澪は俯き体を丸めた。

今は感じるはずのない体の痛みに襲われていた。

これが恐怖体験をした者に現れるフラッシュバックというものなのだろう。

「う…」

澪は、その場にうずくまった。

澪の様子に気づいた周りがざわつく。

一人の中年の男性が澪の前にしゃがみこんだ。

「大丈夫?」

男性は穏やかな口調で言った。

「ううっ…!」

苦しそうな澪を見ていられず、手を取った。

「私は医者です。少し診せて下さ…」

男性の医師は言いかけて言葉を止める。

澪の手に触れ、その人間ではない肌ざわりと、生きているとは思えない程冷え切った手から伝わる体温に…。

「君は…」

澪は医師の手を払いのけると周りを見た。

周りにいる人間が皆、澪を見ていた。

それが、澪には人間ではない異端の者を見る目に見えた。

それは、あの時の天の羽や同級生と同じ目に見えた。

自分を排除しようとしているかのうように…。

実際は体調の悪そうな澪を心配しているだけなのだが、過去の恐怖心にとらわれた澪には周りにいる人間が自分を殺そうとしているかのように見えていた。

それほどまでに誰かに殺されかけた過去は重かった。

その過去で負った傷は、この先癒えることはあるのだろうか?

少なくとも今は癒えていない。

恐怖にかられた澪が後ずさると、医師は澪の手を再びとる。

「君…!大丈夫か?」

「イヤ…!」

澪は医師の手を振り払うと立ち上がり、走り出した。

イヤだ!

殺される!

人間が恐かった。

恐くて、泣きたかった。

いや…心の中では泣いている。

ただ、涙が出ないだけ…。

心の中の恐怖を、気持ちを、本当にわかってもらうことができない。

こんなにも苦しくて辛いのに…。

走り出した澪は中庭にたどり着いた。

そこには慎達がいた。

慎は澪の様子がおかしいことに、すぐに気づいた。

「澪?どうした?」

澪は慎達以外に、知らない女性がいることに気づくと立ち止まった。

「あ…」

もし、涙が流せたなら、今の澪の顔は涙でグシャグシャになっていたかもしれない。

そう、目の前にいる看護士の女性のように…。

看護士を見つめる澪を見て、慎は澪の気持ちがわかった気がしていた。

慎は思わず澪を抱きしめる。

「大丈夫。もう、大丈夫だから」

慎は澪を抱きしめ、子供をなだめるように頭を撫でた。

「俺がついてるから…」

澪の体から力が抜けていく。

澪は瞼を静かに閉じた。

涙を流すことはできない。

心の中では泣いているのに…。

でも、そんな澪の気持ちをわかってくれる。

澪の辛さも哀しみも…すべて受け止めてくれる。

慎だけが…。

澪と慎のやり取りを見て、仁と光樹は澪が不安にかられていることに気づいた。

しかし、慎のように澪を受け止めることはできないような気がしていた。

それは慎だからこそ出来ることだと思っていた。

慎は優しいが、それだけではない。

理屈抜きで、ボロボロになった人間の心に寄り添える。

それは慎が人の心というものを、その人の命と同じように大切に思っているからだった。

その場には穏やかで温かな空気が漂っていた。

そこにいる誰もが安らぐような空気が…。

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