涙
ある住宅街の一角に別名“魔女の館”と呼ばれる屋敷があった。
資産家の家なのだが、十年前の“魔女狩り”で生き残った魔女が住んでいるという噂がたっていた。
科学の進んだ世界にも関わらず、十五世紀から十七世紀にヨーロッパで起こった魔女狩りと同じことが起こっていた。
といっても十年前のことなのだが、今の時代にあっても、生きたままの火あぶりでの処刑を強行した惨劇であることには変わりなかった。
魔女狩りの首謀者は“天の羽”という名前の宗教団体だった。
政府の数々の失態続きから政府への政治不安が起こり、判断力をなくした人々は現実から目を背け、狂信的に神の力を求めていった。
その結果、天の羽という宗教団体が力を持つようになったのだ。
そして、すべての禍は悪魔と通じる魔女が引き起こしているとして、魔女狩りが始まった。
現実的に考えれば、魔女なんているはずもない。
それでも人々が信じてしまったのは、同調圧力によるものだろう。
天の羽が人々を従わせるため、魔女狩りに意義を唱える者を年齢性別に関係なく魔女として処刑した。
正しい心を持った者も、自分の身の危険を恐れ、魔女狩りに意義を唱えることはなかった。
この同調圧力により、人々は天の羽の洗脳され、まともな判断ができなくなる程心を病んでいた。
もう、すでに何が正しいのかさえもわからなくなっていた。
そして、年齢性別に関係なく何の罪もない人々が殺される状況が続いた。
この異常なまでの状況を終息させるべく、政府は魔女狩りの終息に乗り出した。
天の羽の上層部を刑務所に送り、人々の心のケアに努めた。
その政府の努力のお陰か、魔女狩りは三年で終息した。
しかし、その三年の間に失われた命は戻ることはない。
その事件の爪痕は人々の心の中に未だ残っている。
家族を失った者、殺されかけて生き残った者、それぞれに心の傷を抱えていた。
噂では、その時の生き残りの魔女として命を狙われた者が、その屋敷にいるとういうことだった。
今日は珍しく、魔女の館と呼ばれる屋敷の庭から組手をする青年の声がしていた。
一人は筋肉はついているが、細身の二十代前半の青年だ。
もう一人は肉厚のボディビル―ダーのような体格だが、両足の太ももから下は義足で細身の青年よりいくらか年上に見える青年だった。
「かかってこい!
目の前で息切れしている細身の青年である慎に向かって、義足の青年が余裕の表情で笑って言った。
汗にまみれた慎は、義足の青年に殴りかかる。
しかし、すでにスタミナは切れかかっていて、あっさりと、かわされた。
慎は、そのまま芝生の上に倒れこむ。
「もう、ギブアップか?」
慎は答えず、仰向けになり空を見上げる。
空を見上げながら肩で息をする。
その顔は悔しいというより、さっぱりした表情をしていた。
「
慎は義足の青年をそう呼んだ。
「ん?」
仁は慎を見下ろした。
「空が青いな。空気もうまいな。外で体動かすのって気持ちいいな」
慎は仁に笑顔を向ける。
「なに小学生の作文みたいなこと言ってんだ」
仁はニヤリと笑う。
「また、そうやってからかう。でも…仁の言う通り、外で練習してよかった」
「ん。そっか。そりゃよかった」
仁はしゃがむと慎に手を差し伸べた。
「今日は、これくらいにして。シャワーでも浴びるか。おまえ、汗だくだぞ」
仁は笑って言った。
「汗くさいかな?」
「ああ、それじゃ彼女できないかもな」
「なんだそりゃ」
笑いながら慎は仁の手をとった。
仁に引っ張り上げられながら立ち上がると、屋敷の北の二階にある角部屋に目がいく。
その角部屋には、魔女狩りで生き残った者がいるらしい。
しかし、慎は一度として会ったことはなかった。
義父からも、その部屋には近づくことを禁じられていた。
義父は資産家で、様々な知識を持ち、政界との繋がりも深いが、実際は何をしているのか慎には明かさない。
屋敷にいることはほとんどなく、どこで何をしているのかわからない。
時々、屋敷に戻ってきては慎に『元気か?』と無愛想に言うだけだった。
何から何まで謎の多い人物だった。
ただ、慎の母親と知り合いだったことから、家族を亡くし天蓋孤独になった慎を引き取っていた。
義父は慎が角部屋に近づかないように、仁にボディーガード兼監視役をさせていた。
だから、仁はいつも慎の傍から離れなかった。
特に屋敷の建物の中にいる時は絶対に目を離さない。
それほどまでに慎に会わせたくないのは、なぜなのか…?
慎は、そのことがずっと気になっていた。
「慎。行くぞ」
慎の視線の先に角部屋があるのに気づくと、仁は慎を角部屋から遠ざけようとした。
「ああ」
慎は返事をすると角部屋から視線を外し、仁と歩いていく。
ある夜、慎は庭の東屋にいた。
その東屋には鮮やかに咲き誇る花で敷き詰められた花壇があった。
レンガで整備された花壇と、花壇の間にある通路が交差する開けた場所に、東屋と噴水がある。
夜になると、その庭は間接照明でライトアップされ、幻想的な空間に変わる。
慎がなぜ、そんな場所にいるかというと、知り合いと二人だけで話をするためだった。
屋敷の中では、角部屋に近づかないように仁がついて回る。
それでは込み入った話もしにくいからだ。
慎の知り合いというのは、慎の実の父の兄の子、つまりは従兄弟だ。
この屋敷で生活するようになってからも、よく連絡を取り合っていた。
慎は東屋にある椅子に座り、テーブルを挟んだ向かい側の椅子には従兄弟が座っていた。
「悪いな、
「いいさ。あのマッチョに付きまとわれるよりは」
そう言うと従兄の光樹は笑った。
サラサラの茶色い髪に眼鏡をかけた光樹の容姿は、聡明で冷静沈着な印象を与えた。
どこか冷めた眼差しは時として冷淡にも見えるが、慎に向ける眼差しだけは優しかった。
普段は笑うことの少ない光樹も、慎の前では穏やかに笑った。
「それで、今日は何の話なんだ?珍しく電話での光樹の声が深刻に聞こえたから、大事な話なんだろう?」
「慎にはかなわないな」
光樹はため息交じりに笑った。
「実は今、担当している事件のことなんだ」
光樹は警察の、いわゆるキャリアで警視庁で管理官をしてる。
重大事件が起これば、事件の捜査指揮を行う立場にある。
光樹の声が深刻だったのは、今かかえている事件の捜査が難航しているのだ…と慎は悟った。
「俺にできることなら、何でも」
慎は笑顔で言った。
「いや、手助けしてほしいわけじゃないんだ。慎の意見を聞きたいんだ。おまえは人の心の中を見通すようなところがある。…なんというか直観が鋭いんだよな。そんな、おまえの意見を聞けば、捜査のヒントが見つかるかもしれない…と思ってね」
「そうか。で、どんな事件?」
「行方不明になった人間が数日後、心臓の死体として発見されるという事件なんだが。この一週間で、すでに二人が殺された」
「一週間に二人?ペース早いな」
「そうなんだ。この手の事件は、このままだと次の被害者がすぐに出る。その前になんとか犯人を捕まえないと…」
光樹は深くため息をついた。
いつも冷静な管理官の光樹の姿は、そこにはなかった。
それも、そのはずだった。
光樹は十年前の魔女狩りで実の弟を亡くしていた。
その弟の命を失った時に人の命の重さを思い知らされていた。
光樹が警察官になったのも、弟のように無残に人が殺されることがないよう、自分にできることがしたかったからだった。
弟の死を忘れることのできない光樹は、未だに誰かの命が失われることに恐怖を感じることがあった。
「で、調べてわかったことは?」
「被害者の二人が同じ病院に入院していたことと、退院後の定期健診に行ってから行方不明になってる」
「その病院、かなり怪しいな。病院は調べたのか?」
「調べはしたんだが…。被害者達が定期健診の後、支払いを済ませて帰った履歴があった。それ以外は何も見つからなかった」
光樹はうつむいて頭を左右に振った。
少し冷静さを失っているようにも見える。
「今聞いた話じゃ、わからないな。だから、光樹。俺も一緒に調べることにする」
慎は光樹の肩に手を置くと、ニッコリ笑った。
「慎…」
光樹は顔を上げて、すぐに視線を逸らす。
「でも、捜査に付き合わせて、慎に危害が及んだら…」
「俺なら大丈夫。マッチョなボディーガードがついてるから」
言いながら慎は笑った。
「慎…」
光樹は少しホッとしたようだが、顔の表情は微かに曇ったままだった。
「心配するなって!こう見えて、あのボディーガードに毎日鍛えられてるんだから。それとも俺のこと信用できない?」
慎は澄んだ嘘のない瞳で、そう言った。
その眼差しは真剣そのものだった。
「…わかったよ」
光樹は、ため息をつくと笑った。
「じゃ、決まり!」
「慎には、かなわないな」
光樹は笑った。
「それで、どうする?何を調べる?」
「まずは病院」
「でも、病院は何も出なかったぞ」
「何か見落としてるかもしれないし…。ヒントぐらいは見つかるかもしれないだろ?」
慎は笑って言った。
「なるほど。慎ならヒントを見つけられるかもしれないな」
「そうだよ。諦めるのは、まだ早い」
「それじゃあ、予定を調整して病院に行く時間を作るから、日程が決まったら連絡するな」
光樹は来た時とは違い、明るい表情になっていた。
「やっと、いつもの光樹らしくなった」
そう言うと慎は笑った。
「あ…。これじゃあ、どっちが年上か、わからないな」
光樹は穏やかに笑う。
これでも慎は光樹より年下だった。
亡くなった光樹の弟が生きていれば、慎と同じ歳になっていただろう。
そのせいか、光樹は慎を実の弟のように思っていた。
だから、危ない事件には巻き見たくないのが本音だ。
しかし、危険だとわかていても、光樹のために事件に関わろうとする慎は頼もしかった。
光樹の不安な心が軽くなり、自然と笑顔が出る程に…。
「じゃあ、また、連絡する」
そう言うと光樹は立ち上がった。
「うん。じゃあ、門まで送っていくよ」
「ありがとう。いつものことだけど、ここの庭って広くて迷うんだよな」
「本当に。無駄に広いんだよな」
そう言いながら、慎は光樹を門まで送っていく。
門の前で光樹を見送り、その姿が見えなくなると、慎は屋敷の自分の部屋ではなく東屋に向かった。
なんとなく、一人になりたかった。
仁と一緒にいない時間を楽しみたかった。
「たまには、いいよな」
慎は独り言を言いながら歩いていく。
慎は東屋が見えるところまで来ると、東屋の前にある噴水に手を浸している人物がいるのに気づいて立ち止まる。
こんな時間に?
使用人や仁が、この時間に東屋に来ることはない。
だからこそ、一人になれる場所なのだ。
慎は不審に思いながら、その人物をよく見た。
それは、まだ十代ぐらいに見える少女だった。
栗色のショートボブの可愛らしい顔の少女だ。
肌は透けるように白く、少し人間離れして見えた。
見たことのない少女だ。
屋敷へ忍び込んだのか…?
少女の表情を見ると、楽しそうに微笑んでいる。
その姿はまるで、美しい幻のようだった。
その人間とは思えない程透き通った白い肌が、闇夜に浮かび上がって見える。
人間なのか?
「誰?」
慎は思わず、声をかけていた。
少女は驚いたように立ち上がった。
慎を真っすぐに見た、その顔は不安にこわばっていた。
「あの、ごめん。急に声かけて。驚いたよな」
どう接していいのかわらずに、慎は困ったようにため息をついた。
すると、少女の表情は急に優しい表情に変わる。
「あたしは
「澪?どこから来たの?」
「ここの屋敷に住んでるの。会ったことはないけど、知ってるよ。あなたのこと」
「ここの屋敷って、使用人の誰かの娘?でも、聞いたことないな…?」
「違うよ」
澪は背を向ける。
「この屋敷が何て呼ばれてるか知ってる?」
「知ってるよ。魔女の館だろ?それが何の関係が…」
言いかけて、慎は澪を見た。
「もしかして、君が魔女…?でも、まさか…」
「あたしがその魔女」
澪は振り返ると笑った。
「でも、だとしたら…。魔女狩りがあったのは十年前。小さな子供の頃、殺されそうになってこと?そんな子供が生き残れるはずが…。仁でさえ、魔女狩りに遭った時に両足を炎に焼かれ失ったのに…」
澪は、どう見ても十代半ばにしか見えない。
十年前の魔女狩りの時は、まだ十歳にもなっていないはずだった。
「そう。そうなの?仁の足が義足なのは、そういうことだったの。可哀相に…」
澪は、心の中を悟られるのを拒否するかのように目を細めた。
目は口ほどにものを言うという、誰にも知られたくない何かを抱えているようだった。
哀しみに満ちた、その眼差しは静かに噴水を見つめた。
間接照明の光が澪の顔に水影を映し出す。
水面が揺れると、同じように澪の顔の水影が揺れる。
それは、まるで澪が水の中にいるかように見え、更に人間離れした色の白さが、この世の者とは思えない美しさを醸し出している。
慎は言葉を失くして、澪に見とれていた。
澪は慎の視線に気づいたらしく、視線を噴水から慎に移した。
「もう、帰るね」
澪はニッコリ笑った。
「え…」
茫然と立ち尽くす慎を残して、澪は噴水を離れ闇の中に消えていく。
その姿は本当の魔女のように見えた。
しかし、現実的に魔女など存在するはずもなく。
ただ、謎だけを残して澪はいなくなってしまった。
もしかして、夢だったのか?
そんな事を考えながら慎は、東屋にある椅子に座った。
噴水に視線を移すと、さっきの光景が脳裏に浮かぶ。
哀しそうに噴水を見つめる澪の横顔が…。
その深い哀しみに満ちた瞳は、美しいという言葉が似合うだろう。
その姿が頭から離れず、慎はしばらく東屋で澪がいた場所を見つめていた。
青い空に白い雲が流れ、気持ちのいい風が頬を撫でる。
その日は、すがすがしい晴天であるにも関わらず、慎は義父の勧めで経営者セミナーに参加することになっていた。
義父には子供がなく、後を継ぐのは慎だからとういう、聞けばもっともらしいという理由なのだが…。
慎は仁とセミナー会場の入り口に立っていた。
そして、不満そうに仁を見てた。
「あの人って経営者?」
あの人とは慎の義父のことだった。
慎は義父に引き取られて十年、一度も義父のことを“父さん”と呼んだことがなかった。
「さあな」
仁はため息まじりに答えた。
この質問をされるのは初めてではなかった。
これまで、何度もセミナーに行く度に繰り返される質問だった。
その質問への答えも毎回同じだった。
「経営者じゃないなら意味ないと思うんだけど」
「直接、本人に聞け」
「……」
慎と義父との間には壁があった。
本音をぶつけられない、見えない壁が…。
仁は、そのことを知っていたが、それには絶対に触れようとしない。
「ほら、さっさとセミナーに行けって。子供じゃあるまいし駄々こねるなよ」
仁は言いながら空を見上げる。
「いい天気だな。おまえがセミナーに行ってる間、近くの公園で昼寝でもするかな」
そう言うと仁は笑った。
「鬼!」
慎は仁を睨みつけて言うと、セミナー会場のある建物へ入っていく。
「頑張れよ。ほどほどに」
仁は楽しそうに笑顔で慎を見送った。
慎が建物内に入ると、そこはエントランスになっていて、待ち時間に座るソファーや観葉植物、窓際には熱帯魚の泳ぐ筒形の水槽が天井まで伸びていた。
窓から差し込む光を水槽の水が天井に照り返し、エントランスの天井に水影を映していた。
慎は天井の水影をぼんやりと見上げていた。
ふと、頭の中に澪の顔が浮かぶ。
あの哀しそうな横顔が、ずっと気になってしかたなかった。
つい、手を差し伸べたくなるような切ない表情をしていた。
誰にも言えない何かを抱えているんじゃないか…?
そう思うと手を差し伸べずにはいられなかった。
慎はセミナー会場とは反対側にある、建物の出入り口に向かう。
仁の姿がどこにもないことを確認する。
どうやら、仁は本当に公園へ昼寝をしに行ったらしい。
仁のやつ…
内心、仁に呆れながらも、今は澪のことが気になってしかたない。
仁のいない今、屋敷に戻れば澪の部屋に近づくのを止める人間はいない。
セミナーが終わるまでの間なら、仁には気づかれないはず。
澪に会うなら、今がチャンスだ。
慎はセミナー会場から出るとタクシーを呼び止め乗る。
タクシーに乗って十分ほどで、屋敷には着いた。
慎はタクシーから降りると、角部屋へ向かった。
東側にある玄関から入り、北側の行き止まりまで歩くと、二階への階段を上がる。
階段を上りきると目の前に角部屋の扉があった。
慎は扉の前で深呼吸をして、扉をノックする。
「誰?」
戸惑った澪の声が扉ごしに聞こえた。
この部屋には、限られた時間に限られた者以外は近づかないのだろう。
そして、ノックなどしない。
だから、澪は戸惑っているのだ。
知らない人間が扉の向こうにいると。
「俺だよ。この前の夜、中庭の噴水の前で会った」
「慎ね」
ホッとした声が扉の向こうから聞こえた。
「入って」
扉がゆっくりと開くと、目の前に澪が立っていた。
白い透けるような肌、その血の気のない肌のせいか、澪は人形のようにも見えた。
「早く中へ」
そう言うと、慎を部屋へ引っ張り込み扉を閉めた。
「澪?」
澪の態度は明らかにおかしかった。
「何しに来たの?もし、誰かに見つかったら…」
「ごめん」
慎は困ったように、ため息をついた。
その表情を見て、澪の表情は優しいものに変わる。
「あたしこそ、ごめんなさい。言い過ぎて」
澪は困ったように笑った。
「ずっと、一人でこの部屋にいて、秘密を守れる人間しか、この部屋には入れないから。つい、神経質になって」
「秘密?何を秘密にするの?秘密にすることなんてないだろ?澪は魔女狩りの被害者だけど、どうみたって普通の人間だろ?」
その白すぎる肌の色を除けば…。
慎は、ふと心の中でそう呟いた。
「どう見たって…。そうね」
澪は、ため息をつきながら部屋にあるテーブルの脇にあった椅子に座る。
「澪?俺、何か気に障ること言った?」
その澪の表情は、少し疲れているように見えた。
「違うの。あたしは普通の人間なんかじゃ…」
「え?何言ってるんだよ?どう見たって普通の人間だろ?」
「慎。こっちに来て」
「澪…?」
慎はわけが分からず立ちすくむ。
「じゃあ、あたしが行くから。そこにいて」
澪は立ち上がると、慎の目の前まで来る。
「手を出して」
「澪…」
戸惑いながらも慎は手を澪の目の前に出す。
澪は、そっと慎の手を握った。
「えっ…!」
澪の手から伝わってくるのはヒンヤリとした冷たさと、柔らかいが人間の肌とは少し違た感触だった。
「なんで…?どういうこと…?」
「あたしの姿は魔女狩りに遭った時のままなの。もう、歳をとることはないの」
「それ、どういう意味?歳をとらない人間なんて。それに、この手…」
「あたしの体、人間のものじゃないの」
澪は哀しそうな表情で言った。
「え…?何言って…?」
「サイバネティック・オーガニズムって知ってる?」
「サイバ…って。サイボーグってことだろ?」
「そう。あたしの体は人工的に作られた体なの。あたしが魔女狩りで失ったのは、自分の体なの…」
澪は哀しそうな目で言った。
人間なら…きっと、ここで涙が零れていてもおかしくはない。
しかし、人工的な体では、涙を流すことができないのだろう。
「このことを誰にも知られたくなかったから…、秘密にしてほしいって慎のお父さんに頼んだの」
言いながら、澪の手から力が抜けていくのがわかった。
それは澪の失意を感じさせた。
澪の手が慎の手から離れそうになった時、慎は澪の手を掴んだ。
「ごめんな。俺、何も考えてなくて。知られたくなかったよな…」
慎は澪の手を握る手に力を籠める。
「ごめん…」
慎は澪を真っすぐに見つめた。
澪は涙を流す代わりに目を閉じた。
慎にはわかった。
涙は出なくても、泣いているのだと。
今は何もできなくても澪の傍にいようと思った。
この手を離して澪を置いていくことなど、慎にはできなかった。
やがて、泣き疲れた澪は眠ってしまう。
それは十年も前のことだった。
その日は澪の誕生日だった。
四月になれば高校生になる澪は進学する高校も決まり、後は入学式を待つだけだった。
そんな最中の誕生日だからこそ、今までにない幸せに満ちた特別な誕生日になるはずだ。
家に帰れば母親がケーキと豪華な料理を用意し、その後帰ってきた父親が誕生日プレゼントを抱えているはずだ。
どんなプレゼントだろう?
そんな期待に胸を膨らませ、学校から家へ向かっていた。
自然と足取りも軽くなり、明るい表情になる。
澪は全身で〝幸せ〟という言葉を表現していた。
そんな澪の心に影を落とすように、目の前に数人のローブを着た者達が現れた。
彼らには見覚えがあった。
ここ数年、魔女狩りをしている宗教団体〝天の羽〟だ。
テレビで何度も見たことがある。
澪は一瞬にして青ざめた。
どうして、あたしの前に…?
天の羽が現れる理由はわかっていた。
魔女狩りの対象となる魔女を捕らえるために現れる。
澪は思わず走り出す。
逃げなきゃ!
彼らには何を言っても通用しない。
魔女として付け狙われたら逃げるしか生き延びる方法はないのだ。
彼らは獲物を狩る獣のように澪を追いかけた。
家に帰れば…何とかなる!
天の羽に追われる恐怖の中で、澪は自分にそう言い聞かせた。
澪は家まで逃げきれれば、きっと!
逃げる澪の先に、クラスメイトの女の子達の姿が見えた。
あの子たちも巻き込まれる!
そう思った澪は叫んだ。
「逃げて!」
クラスメイト達は澪の声に振り返った。
そして、走ってくる澪とその後ろから追ってくる天の羽を目にした。
そして、なぜか冷めた表情で見ていた。
しかし、澪は彼女達の表情に気づく余裕はなかった。
ただ、逃げることで必死だった。
澪が彼女たちに近づくと、腕や体を掴み取り押さえた。
澪には何が起こっているのかわからなかった。
どうして?
青ざめながら彼女達の顔を見ると、冷めた薄暗い表情をしていた。
「離して!みんな逃げないと殺される!」
「殺されるのは、あんただけよ」
一人の女の子が言った。
「自分だけ進学先が決まったからって、調子に乗り過ぎなんだよ!」
そう言われて、澪が彼女達の顔を見回すと、まだ進学先が決まっていない女の子達だった。
澪は成績優秀で、クラスでも一番にレベルの高い高校への進学が決まっていた。
誰もが羨む頭脳と、官僚をしている父親のお陰で裕福な暮らしができ、専業主婦の優しい母親がいつも家で待っていてくれる。
どこから見ても理想的な家庭環境で育ち、全てを持っている。
嫉妬を買わないはずがなかった。
更に自分達の進学先が決まらないストレスから、あっさり進学先の決まった澪への嫉妬は増していた。
「まさか…」
澪の顔は更に青ざめていく。
「こんなに何でも手に入れてるなんて…」
「魔女だよね」
彼女達はニヤニヤしながら言った。
「あなた達が…天の羽に…?」
「魔女は禍の元だものね」
「あたしたちの進学先が決まらないのは、こいつのせいよ!」
そう言うと、彼女達は笑った。
今この瞬間、澪は悟った。
天の羽に澪が魔女だとリークしたのは彼女達だということを。
「違う。あたしは関係ない…!」
澪の言葉など無視して、彼女達は澪を天の羽に渡す。
「違う!あたしは魔女じゃない!」
天の羽に拘束された澪は精一杯の抵抗として、自分の潔白を主張する。
しかし、そんなことはどうでもいいのだ。
彼女達も天の羽も。
彼女達は気に入らない澪にいなくなってほしかった。
目の前にいられると、劣等感で押しつぶされそうになるから。
天の羽は自分達の権力の誇示のための犠牲と、彼女達という信者を手に入れたかった。
それぞれが自分達のために澪を犠牲にしたかっただけだった。
その後、澪は絶望に打ちひしがれながら、炎に飲まれ重度の全身火傷を負うこととなった。
澪の全身火傷は死亡率90%を超えるもので、生身の体で生きていくことは難しかった。
そこで、とある支援者によりサイボーグの体を手に入れ生き延びた。
しばらくして両親が天の羽に殺されたことを知り、絶望の中、支援者であり慎の義父である
眠った澪は、そんな過酷な過去の夢を見ながらも涙を流すことさえできない。
ただただ人間というものへの恐怖に寒気がしていた。
誰か助けて…。
そう心で呟いた時、澪の手が温かいことに気づいた。
それは澪の手に振れているものの温かさだった。
そう、それは誰かの手。
その手の温かさが澪を現実に引き戻す。
目を覚ますと、澪はベッドに寝ていた。
ベッドの脇には澪の手を握って眠っている慎がいた。
「慎…」
澪は慎の手をギュッと握りしめた。
その様子を扉の隙間から見ている者がいた。
それは仁だった。
「やれやれ、やっぱりこうなるか…」
呟きながら扉から離れると、スマホを取り出す。
そして、どこかへ電話する。
「あ…。もしもし、仁です。慎に澪の存在がバレました。…はい、はい。わかりました」
仁は電話を切ると、ため息をついた。
「これから、どうなるかね…」
そう言いながら、階段を下りて行った。
その日は、いつものように慎は仁とダイニングで朝食を食べていた。
セミナー会場を抜け出した日、時間内にセミナー会場へは戻れなかった。
それどころか、澪に付き添って眠り目が覚めたのは夕方だった。
慌てて澪の部屋から出ると、仁が部屋の前に立っていた。
セミナーをサボって、澪の部屋にいることを責められるかと思っていたが…。
「おかえり」
仁は笑顔で、そう言っただけだった。
その日から今日まで、仁は澪の部屋にいたことには触れない。
だからと言って、態度を変えるわけでもなく、かえって不気味だった。
「慎」
それまで黙々と朝食を食べていた仁が、急にナイフとフォークを置いた。
「何?」
目の前には真剣な眼差しの仁がいる。
脳裏に浮かぶのは澪の部屋へ行った日のことだった。
きっと、あの話だ。
とうとう、この時がきたか。
慎は深呼吸をする。
「今日の朝食って、野菜多くないか?」
仁は真剣な顔で言った。
「はぁ?」
慎は間の抜けた声で言った。
「朝は肉多めじゃないと、力入らないよな~」
仁はため息をついた。
「野菜…?何言うかと思えば…」
呆れたように、ため息をつく慎だった。
「あれ?何だと思った?ん?」
ニコニコする仁の顔を見て、その意味を悟った。
コイツ…わざとやってるな…。
いつ澪の部屋にいた日の話をされるのか…と、内心ビクビクしているのを完全に見抜かれていた。
その上で面白がっているのだ。
仁の楽しそうな笑顔が、それを物語っている。
何と言い返そうかと考えていると、スマホの着信音が鳴る。
スマホに光樹の名前が表示されている。
何かあったかな…?
慎は横目で仁を睨みつけながら電話に出た。
「もしもし。光樹?」
「慎。また、行方不明者がでた」
声のトーンが低い。
光樹の気持ちが落ち込んでいるのがわかる。
「そうか…」
「これから捜査会議が始まる」
「うん。頑張れよ」
「…助けられるかな。俺…」
そう言った声はか細かった。
「どうなるかなんてわからない。でも、諦めちゃだめだ。被害者はまだ生きているかもしれないだろ?今、光樹が諦めれば被害者は殺されてしまう」
「そうだな…」
「しっかりしろ。光樹。おまえが動かなかったら、誰が被害者を助けられるんだ?捜査を仕切ってる、おまえなら被害者を助けられるかもしれない」
「そうだよな」
光樹が電話の向こうで、深呼吸しているのが聞こえた。
「だから、諦めるな」
「ありがとう。慎」
光樹の声が力を取り戻していく。
「出来る限りのことをやってみるよ」
力強く、そう言った。
「ああ、頑張れ」
「じゃあ、捜査会議に行ってくる」
「うん。行ってこい」
「じゃあ、また」
そう言うと光樹は電話を切った。
電話が切れると、慎は穏やかな表情でスマホの画面を見つめていた。
ポンと仁が後ろから慎の肩に手を置いた。
「なんだよ?まだ、さっきの続きか?」
いい加減にしろよ…と言わんばかりに、ため息をついて後ろにいる仁を振り返ろうとした。
「おまえって、そういうとこ凄いよな」
仁は慎の肩越しにスマホを見ながら言った。
「え…?」
「ホント、守りがいのやるヤツ!」
仁は笑顔で言った。
「はぁ?どういう意味?」
「じゃ、そういうことで。朝食食べたら組手な!」
言いながら、仁は席に戻って朝食の残りを食べ始めた。
「何が…そういうことで…だ」
慎はため息をつきながら、朝食を食べ始める。
まだ、午前中だというのに雲一つない晴れ渡った空の下にいるせいか、少しもヒンヤリした空気を感じない。
そんな中、慎は仁は組手をしていた。
当然なのだが、二人はすぐに汗だくになった。
それでも仁は気分が乗っているのか、組手を止めない。
しかし、反対に慎は集中できなくなってきていた。
仁の拳を数発、顔や体に食らった。
最後に腹に仁の拳を食らうと倒れた。
「慎!どうした?さっきから集中できてないぞ」
地面に倒れこんだ慎は空を見上げ、肩で息をする。
「こんなんじゃ、練習にならないだろ」
仁は、ため息をつきながら慎の隣に腰を下ろす。
「あの時も、こんな天気だった」
「あの時…?」
「嫌な予感がする」
慎は静かに瞼を閉じた。
それは光樹が管理官になって、初めて担当した事件の時だった。
とある政治家の息子が誘拐された。
光樹は誘拐が起こった所轄の警察署の捜査会議に出るために、数名の捜査員と本庁で出かける用意をしていた。
そこへ、同期の
「よ!光樹。管理官になって初めての事件だってな?」
「ああ…」
光樹は余裕なさげに上の空で返事をした。
その様子を見た礼侍は眉をひそめる。
「光樹。ちょっと、付き合えよ」
「いや…。すぐに所轄に行かないと」
「すぐに澄むから、付き合えって!」
礼侍は強引に光樹を連れ出した。
それから、近くにあった応接室に連れ込む。
「…礼侍。なんなんだよ?」
「おまえ、大丈夫か?」
「大丈夫も何も…所轄に行かないと何もできない。誘拐事件で人の命がかかってるんだ。急がないと…」
そう言いながら、光樹の表情は暗くなる。
「なんて顔してんだよ。俺にできるかなって…顔してる」
「……」
光樹はため息をついた。
「礼侍には敵わないな」
光樹は穏やかに笑った。
「同期なんだから、わかるって」
「人の命がかかってるんだ。失敗すれば誘拐された被害者は死ぬ。そう思うと…」
光樹は、うつむいた。
「そうか。でもな。何もしなければ被害者は死ぬ。おまえは優秀なんだ。ずっと、おまえを見てきたからわかる。できる限りのことをすれば被害者を助けることだってできるはず」
「優秀なだけで、どうにかなるとは思えない」
「光樹。自分を信じろ!運命は自分で切り開くんだ」
「俺は、そんなに強くない」
「だとしたら、目の前の命をあきらめるのか?」
光樹は礼侍の言葉に思わず顔を上げる。
礼侍は光樹を真っすぐに見ていた。
目の前にいる礼侍とは一緒に捜査をしたこともある。
殺人事件を担当する中で何人もの人間が死ぬのを見てきた。
管理官の指示のもと捜査し、犯人を追ってきた。
しかし、もっとこうすれば被害者は少なくて済んだんじゃないか?というジレンマを抱えていた。
そして、いつか自分が管理官になったら、必ず救える命は救いたいと心に誓って今までやってきた。
そんな光樹を礼侍は知っていた。
だから、自分の心のままに、被害者の命をあきらめるなと言っているのだ。
「これまでの事件で亡くなった人のこと忘れてないよな?」
礼侍は呟くように言った。
「ああ…」
「なら、目の前の命を諦めるな」
「……」
礼侍の言葉に光樹の目は涙で潤んでいた。
光樹は潤む両目を右手の平で覆って隠した。
「礼侍。ありがとう。俺は大切な人の命を目の前にして、自分の弱さに負けるとこだった」
「そうだな。でも、今勝てた」
礼侍は笑顔で光樹の肩を叩いた。
「ああ。もう、負けない」
「いい意気込みだ」
礼侍は楽しそうに言った。
「じゃあ、行ってくる」
涙を拭いて、顔を上げた光樹の顔には不安の欠片もなかった。
むしろ、感情をすべてコントロールしたかのように冷静な顔をしていた。
「ああ。頑張れ」
光樹が背を向け、応接室から出て行こうとする。
「光樹。もし、また負けそうになったら、俺が話聞いてやるからな」
礼侍は穏やかに言った。
その言葉に光樹は立ち止まる。
「ありがとう」
微笑んで、そう言うと光樹は応接室から出て行った。
所轄の会議室に用意された捜査本部で、誘拐事件の捜査会議が行われていた。
会議室前方の100インチの巨大スクリーンがあり、会議室のどの席からもよく見えるようになっていた。
スクリーンに映し出されるのは。被害者と、その背景にある人間関係の相関図だった。
「誘拐されのは、
「あの桂木偉明の?」
「次期、総理候補とされる?」
会議室内がざわつく。
「静かに。それで、事件の概要は?」
落ち着きを払ったというより、冷たさを感じる程の冷静な光樹の声に捜査員達は黙り込む。
「一昨日前に塾に行ったはずの桂木海斗が塾へも行かず行方不明になりました。その日の夜に自宅に犯人から桂木海斗を誘拐したと連絡がありました」
「で、身代金の受け渡しの連絡があったのか…?」
光樹は極めて冷静な声で言った。
「いいえ。それが犯人の要求なんですが…。桂木偉明の政治献金隠蔽の犠牲になった者への謝罪を、桂木偉明氏自身がテレビの全国放送で行うことというのが犯人の要求です」
「それが犯人の要求か…?」
「はい」
「だとしたら、桂木偉明氏に恨みを持つ者か。で?桂木偉明氏は何と言ってる?要求に応じるのか?」
「いいえ。政治献金の事実はないと。過去に桂木偉明氏の名前を使って政治献金を騙しとっていた秘書達がいて解雇したことがあり、その時の者達の逆恨みではないか…と」
「つまり、要求には応じない。そういうことだな?」
「はい。要求に応じる道理はないので、警察で解決してほしいと」
「息子の命がかかってる状況での発言とは思えない。政治家は人間じゃないのか…?」
光樹はため息をついて呟いた。
それは、そこにいる捜査員達も同じ気持ちだった。
「それで、犯人の目星はついたのか?」
「はい。桂木偉明氏のいう通りなら、三年前と一年前に解雇された秘書が犯人の可能性が高いと思われます。二人とも現在消息不明で足取りが掴めません」
「桂木氏の息子を誘拐して、どこかに立てこもっているってことか」
「他に犯人に繋がる手がかりは?」
「塾の近くで桂木海斗が拉致され車に乗せられるのを目撃した者がいます。現在、その時に使われた車を追っています」
「そうか…。意外に知能犯ではなかったようだな。こんな手がかりを残すなんて。車が見つかり次第、犯人を確保しに行くぞ!」
「はい!」
それから程なくして、犯人の車が廃ビルの駐車場で見つかる。
それは雲一つない晴れ渡った空の日だった。
捜査員達は犯人確保のために廃ビルに向かう。
その中には光樹の姿もあった。
本来なら管理官であるため現場に向かうことなど、ほとんどないのだが、光樹はじっとしていられなかった。
子供の命を警察に丸投げするような父親を持つ、十五歳の少年が心配でしょうがなかった。
十五歳といえば、光樹の弟が亡くなった時の歳だった。
その可哀相な少年が自分の亡くなった弟と重なって見えたのだ。
「いいか。被害者の命が最優先だ!必ず無傷で救い出すぞ!」
「はい!」
光樹と捜査員達は階段を上り、各階ごとに捜査員を分けて調べさせた。
光樹自身は数名の捜査員と三階を調べていた。
廊下を歩いていると、光樹は幾つかある扉の内一つに違和感を覚えた。
埃だらけの壁と廊下の中にあって、一つの扉の前の床だけが埃が積もっていない。
扉を開閉した範囲に埃が積もっていなかった。
「ここで間違いなさそうだな」
光樹が小声で言うと、一緒にいた捜査員達が頷いた。
「まず、ドアをノックする。犯人が出てきたら、犯人の凶器を奪い取り捕まえる。それでいいな?」
捜査員達は、頷くと扉の両端に分かれて身構える。
光樹がノックをすると、ゆっくりと扉が開いた。
そして、顔を出したのは誘拐された少年だった。
捜査員達は一瞬怯んだが、光樹はすかさず少年を部屋の外へ引っ張り出した。
次の瞬間、伏せて部屋の中にいるであろう犯人を捜す。
「犯人ならいないよ」
そう言ったのは誘拐された少年の海斗だった。
「どうして、いないんだ?」
驚きを隠せず光樹は海斗を見た。
「警察が来るのを知って逃げたんだよ」
妙に落ち着いた口調だった。
誘拐された少年とは思えないほどの。
「そうか…無事で何よりだった。ケガはないか?」
「ないよ」
海斗は冷めた口調で言った。
「そうか。とりあえず帰ろう」
「うん。その前に塾のカバン取ってくる」
そう言うと海斗は部屋の中に入っていった。
その瞬間、銃声がして海斗が倒れた。
光樹と捜査員達は部屋の中に入り、窓際にいた長身の男性に向かって発砲する。
右腕に命中し、犯人は拳銃を落とした。
「確保!」
光樹の叫ぶ声と同時に捜査員達が犯人に飛び掛かり抑え込む。
その中の一人が犯人に手錠をかけた。
光樹は倒れた海斗の右胸を押さえていた。
左胸ではないものの、血が止まらない。
「大丈夫だからな。しっかりしろ!」
「いいんだ。もう」
「何言ってるんだ。君のお父さんが待ってる。生きて帰るんだ」
「あんな人、父親じゃない…」
「え…?」
「家にはほとんど戻らないし、話をしたこともない。名前だけの父親…。それに比べたら…秘書達は本当の家族のように扱ってくれた。話を聞いてくれたり、励ましてくれたり。…なのに親父は利用してクビにした。俺にとっての唯一の本当の家族だったのに…!」
海斗の目から涙が零れた。
「でも、これで親父は終わりだ。犯人の要求に応じず、息子を見殺しにした毒親として世間にさらされる」
「誘拐は父親への復讐だったのか…。にしても、死ぬ必要はないだろ?」
「秘書達は犯罪者としてクビになり、自分の家族を失ったんだ」
「だからって…」
光樹は、ため息をついた。
しかし、この事件の後、光樹は知ることになる。
秘書達の家族が世間のバッシングにあい自殺していたことを…。
海斗は、その亡くなった家族とも交流があった。
まるで本当の家族のように、だから許せなかったのだ。
血の繋がりだけの家族とは呼べない人間が、本当の家族を死に追いやったことが…。
海斗は止血も虚しく病院に搬送される救急車の中で息絶えた。
捕まった犯人である元秘書も、留置所で自殺した。
一人、真実を託されたもう一人の元秘書が海斗の遺書を使い、桂木偉明の政治献金の真実を世の中に暴露した。
誘拐事件が解決した日の夜、光樹から慎に電話があった。
「初めての管理官としての事件、解決したんだろ?おめでとう」
「ああ。でも、被害者を救えなかった」
電話の向こうから、光樹の沈んだ声が聞こえてきた。
「しょうがないよ。そういうことだってあるよ」
「弟と同じ歳の少年だったんだ」
「そうみたいだな」
「こんなに簡単に人が死んでいく世の中ってなんなだろうな…?人の命って、それだけのものなんだろうか…?」
「わからない。でも、失った命は二度と戻らない。だから、失うと哀しいんだよ」
慎は光樹の心の声を代弁するかのように言った。
「そうだな…」
光樹は言いながら、電話の向こうで泣き始めた。
「そんなことがあったのか…」
倒れこんでいる慎の隣に座っていた仁が言った。
「光樹は優しいからな」
「何だかんだ言って、エリートの甘ちゃんだよな。今回の事件でも心折れなきゃいいけどな」
仁はため息をついた。
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