惨劇






 バルコニーに飛び込み開いていない窓を叩くと、侍女が開けてくれた。


「陛下! お帰りなさいませ、本日中にお帰りになられるのかと……」


 何も言わずに出てきたがための言葉に適当に返事し、用意された衣服を身につけながら目を配る。

 精霊のざわめきが収まらない。

 だが何かあった様子はない。

 なぜ精霊たちはこんなに騒いでいる。彼らはひたすらにこぞって危機を囁くのみで、肝心のところが分からない。


「陛下、こちら、ヴィルヘルム様が陛下のもだと……」


 名を耳にしてピクリと震えた。

 侍女が示した方に目を向けると、丸い小さなテーブルの上に、くまを模しているのだと聞いたぬいぐるみが鎮座していた。

 昨日偶々入った店で、「ベッドにでも置いておけばいいんです。くまにしますね」とヴィルヘルムが選んだものだ。

 見るからにふわふわで、本物のくまには似ても似つかないもの。


 ヴィル

 ヴィル

 ヴィル


 精霊たちが出てきた名前を連呼しはじめた。

 リリスの、ぬいぐるみに触れかけた指が止まる。精霊たちを見て、「何だ……?」と聞こうとして、ぶわりと嫌な予感が駆け巡った。


「ヴィルは、どこだ」


 彼は、部屋にはいなかった。



 侍女は「お城の中にはいらっしゃると思いますが……」と曖昧な答えしか持っていなかった。

 リリスは精霊が導く先に従い、走った。

 廊下を進むと臣下たちとすれ違う。何事か話しかけられたようだが、無視する。ヴィルヘルムがいない。


 嫌な予感がする。理由など分からない。根拠はない。

 どうしてこんな予感を抱くことになるというのか。ここはリリスの城だ。リリスが主として君臨する城なのだ。

 何が起こると──ぴちょ、と音がした。


 靴が、何か、液体を踏んだ。

 人の身でも鋭い嗅覚が、そのときになり、『におい』を捉えた。

 思わず走ることを止めた足を、一歩、一歩、進めていく。

 その度に、濡れた音がする。一歩ごとに靴の底が、液体を踏む。

 床に、液体が広がっていた。バケツから水をぶちまけてしまったように、石の床を液体が覆っていた。

 ただし液体は透明ではない。水ではない。


 赤かった。


 赤い。そして、その赤い液体が広がる元に、誰かが倒れていた。

 うつ伏せに倒れた姿は、体格からして男のもので、髪は一見黒く見える。顔は見えない。

 見えないが、リリスはその服装と、姿を知っていた。

 いつも側にいた者の姿だから。


「……ヴィル……?」


 名が、唇から零れ、落ちた。

 ヴィルヘルムだ。うつ伏せでも、分かる。だけれど、頭がよく分からない具合に混乱している。

 様子がおかしいからだ。状況が。

 床に広がっている液体は、血だ。確信があり、しかし血だとすればかなりの出血量だった。その血の源は、ヴィルヘルムだ。

 何が、なぜ。ヴィルヘルムは大丈夫なのか──


「ヴィル!!」


 叫ぶように名を呼び、やっと少しの距離を駆けつけられた。

 ぴくりとも動かない姿の側に膝をつく。


「ヴィル」


 反応がない。

 顔を窺うと、瞳がうっすらと開いていたが、青い瞳は色褪せて見えた。

 ぞっとした。

 頭にある記憶が駆け巡る。


 急いでヴィルヘルムの顔に触れる。体温がある。首に触れる。まだ生きている。

 でも、血が。どこから出ている。どれだけの怪我を。止めなければ。

 ヴィルヘルムを中心に広がる血が目に入り、焦る。


「起きろ、ヴィル、反応を、してくれヴィル──ヴィルヘルム!」


 微かな命がまだ残っていたが、血と共に、命が流れ出してしまう感覚がした。


「精霊よ──」


 精霊に命を繋いでもらおうとした。

 しかし気がつく。既に精霊が辛うじて命を繋いでいた。その上で、この状態なのだ。


 気がついてしまって、愕然とした。

 これほどの怪我を負っている。人間の回復力では治らない。体が耐えられる領域ではなく、治る前に死んでしまうだろう。

 さらに精霊の力が及ばない域にまでいってしまっている。

 本来なら即死していたのかもしれない。

 死にほとんど傾いているところを、糸一本くらいで繋いでいるだけ。


 ヴィルヘルムは死ぬ。

 間に合わない。どれほどの精霊を集めても、間に合わない。人間の身が耐えられず、死を迎える方が早い。だからこの状態なのだ。

 ヴィルヘルムの死を感じた。

 大切なものを、また失ってしまう。


「いやだ……」


 いつか別れがくると思っていても、こんな別れなんて想像もしていなかった。想像するはずがなかった。


「ヴィル……!」













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