思い知る
「ヴィル」
彼をそう呼んだのは彼の父だった。もう一人、この城でそう呼ぶ人は今いない。
「父さん」
廊下で父と会った。ヴィルヘルムは立ち止まり、向き合う。
ヴィルヘルムの父は重臣の地位にあり、城に勤めている。ヴィルヘルムは王の側にいるので、勤務中に父と顔を合わせることはよくあった。
「こんなところで何をしている。陛下は」
「外出中」
どこに行ったかは分からない。
ヴィルヘルムの主な仕事は、王の側にいて王がいることで発生するものだ。その王が外出しいない今、時間に余裕があるからこんなところをぼんやり歩いている。
父は「外に……」と、近くの窓を見た。「本日中にお戻りになられるだろうか」と続けて呟いた。
王の外出は慣れたものだ。ただ、現在の期間中にはいつもより気にしなければならない点がある。
明日から会議が再開する。王には絶対に参加してもらわなければならない。
「父さんこそ、こんなところにいてもいいのか」
「私は執務室に戻る途中だ。今すぐにでも戻る」
父はお忙しいようだ。
しかし戻ると言ったわりにすぐには行かず、じっとヴィルヘルムを見る。
「家出していたお前が言い出したことだ。しっかり勤め上げるんだぞ」
「家出って言うな。……分かってる」
でも彼女を連れ戻すことは不可能だと付け加えると、父はそうだなと言い、
「
最後に言い残し、執務室に戻っていった。
十年に一度。普段はたった一人しか竜人がいないこの城に、他の竜人がやって来る。
彼らは全て、人間の貴族よりも上に位置する地位を持つ。
ゆえにこの城に勤める者が最も緊張する期間となる。
決して粗相のないように。神経を尖らせるのは召し使いのみならず、人間の重臣たちもだ。
リリスはやりたい放題で暴君なところもあるが、おおらかだ。誰かを罰したところは見たことがない。民を苦しめるという意味での暴君ではない。ただただ、気まま。
しかし約十年に一度の頻度でやって来る竜人たちは、頻繁に接しているわけではないから余計に張り詰める。
絶対的に越えられない線をありありと肌で感じた。
先日、竜の姿をたくさん見た。堂々たる姿を持つ彼らは一人残らず美しかった。
人の姿になっても変わらず、また、人とは異なる雰囲気を感じた。それは単なる感覚での気のせいなのか、すでに人より長い時を過ごしているがゆえに滲み出した空気なのか。
どちらもかもしれない。竜人は、あまねく人間の上に位置する貴い存在だ。そういう意識があるから感じ、また実際そう感じさせるものを発しているのやもしれない。
竜人と人間は違う。
父がいなくなっても、ヴィルヘルムは立ち止まったまま。窓の外を見上げた。
空は憎らしいほど、清々しくも青かった。この空の下、今彼女はどこにいるのだろう。
翼があれば、探しに行くことが出来ただろうか。
「……そんなこと考えて、どうするんだ」
翼はない。それが変わることはない。
昨日のことを思い出す。抑えきれなくなって、全てを言った。愚かな、愚かな、望みを。
一昨日のことを思い出す。婚約者だという竜人と、リリスが一緒にいた。リリスに触れる竜人に嫉妬した。醜い感情ばかりだ。
一月前のことを思い出す。婚約者がいることを知り、その竜人を見た。
──「『随分久しぶり』、か。たかだか十年ほどしか経っていないと記憶しているぞ」
彼女はその竜人に言った。
たかだか十年。ならば、十日は、どんなに一瞬だったろう。
ヴィルヘルムは、リリスに出会い過ごしたあの十日で、深く恋に落ち、忘れることのない日々になった。
そして彼女が姿を消し、首都に戻った日、空に銀色の竜を見た。そのとき、銀の竜が彼女だと分かった。
人ではないという事実は、もう一つの事実を連れてきた。
遠い地で別れ、二度目会えるかどうかも怪しかったところ、そこにいると分かった。
だがそれ以上はないのだと知った。
会えてもこの恋に先はない。
竜人と人間は違う──身分違いの恋だった。ヴィルヘルムの生家は人間としては最高の地位を得ていたが、それでも叶わない。人間だから。
この先側にいても、彼女の隣に誰かが立つことを見ることになる。何と耐え難いことだろうか。
「……もう一回家出するべきか」
側で見ることが耐えられないなら、と馬鹿なことを口に出した。
馬鹿な考えだ。稚拙で、愚かで仕方ない。
側に来たのは自分だ。もう一度会うことを選び──いや、会いたかった。先に待つ未来が分かっていても、幻のような時間を選んだ。許される限り彼女といたかった。
そうして共に過ごす中、想いを得られる可能性があると感じても、彼女から肝心の手は伸ばされない。
「どうして、俺は人なんだ」
リリス、と愛しい人の名を呟いた。
「人間の身で、竜人に懸想するか」
耳にすっと通る声には嘲りが含まれていた。
窓の外を見てぼんやりとしていたヴィルヘルムは、はっと周りを見た。
いつの間にか『その竜人』が立っていた。
月の色を移したような金色の髪をし、蒼い瞳は清廉な水を思わせる。アレクセイという名の、リリスの婚約者。
ヴィルヘルムに歩み寄ってくる。側には他の竜人もおらず一人のようだ。
「人間は人間。竜人は竜人。ここには明確な違いがある」
「……存じております」
嫌というほどに。
覆しようのない決定的な身分の差と性質の違い。
「ならば、ただの人間が目障りな行動は止めておけよ」
先日、割って入ったことへの釘刺しだろう。
あのときこちらに向けられた蒼い目は剣呑な目をしていた。竜人が敵意を向けると、これほどの影響を及ぼすのかと他人事のように圧を感じた。
今も敵意を感じた。先日、自分はかなり危険なことをしたのだろう。
父に言えば血相を変えるかもしれない。
ヴィルヘルムは目の前の竜人を見ていた。
この竜人がリリスと結婚する。自分が生きている間に、この城に定住するのだろうか。
何も言わないヴィルヘルムに対し、竜人はヴィルヘルムの周りの虚空を見て目を細めた。
「まさか、陛下も……」と呟き、少し黙った。沈黙は長くはなかった。
「忠告だ」
突如の言葉に、ヴィルヘルムは怪訝な表情を隠せない。
竜人はこちらを見下ろし、威圧感の籠る声で言い放つ。
「随分陛下に気に入られているようだが、気を付けるがいい」
「……何に、でしょうか」
「彼女の機嫌を損ねると──喰われてしまうぞ」
脅すかのような言い方だった。
ヴィルヘルムにはその意味が分からなかった。単にリリスには恐ろしい面があり、その比喩か。
だが中身云々より、知らない彼女のことを知っているような口ぶりが妙に癪に障った。
「それが、どうした」
自分は異なると言いたげな、含みある言い方が神経を逆撫でした。
自分とこの竜人は異なる。何もかも、許されることが異なる。そんなことは分かっているのだ。
分かっているのに、ヴィルヘルムからすると自分にはないものを持っている者から言われ、考えるより先に声が出た。
まさに子どものような対抗心だったと言えるかもしれない。
それが命取りだった。
竜人と人間には確固たる身分の差があるのだから。
竜人の蒼い瞳が物騒な色を宿した。下等生物、虫けらを見るような目付きに。
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