懇願
手を引かれ入り込んだ先は、建物と建物の間だった。賑やかな通りが隣にあるのが嘘だと思えるくらい静かになり、同時に夕陽が届かなくなり暗かった。
「ヴィル、急に何だ──」
また、言葉は最後まで言い切ることができず、途切れた。
腰を抱き寄せられ、顔に手が触れた。ヴィルヘルムの手だった。壁際でリリスを上から見下ろす彼は、リリスに触れる。帽子が静かに地に落ちた。
けれど、リリスもヴィルヘルムも視線をやらない。
「なあ、リリス」
声がとても近く感じた。
合う瞳が、いつも見ているものと異なるように見えた。暗いからか。そうなのだろうか。
「愛してる」
気のせいだと思おうとするところは、容易に破られた。
その言葉を聞き、リリスは動けなかった。凍りついたように体が止まり動けない。
そんなリリスを前に、ヴィルヘルムは囁き続ける。
「一年前、首都から遠く離れた場所で、リリスに出会った。俺はリリスの地位を知らなかったし、竜人であることも知らなかった」
言わなかった。教えなかった。
その場で出会っただけの、少し道を同じくしただけの関係で終わろうと思って、その場だけはと思っていたから。
けれど、単なる旅人であると思っていた人間の男は思いもよらない地位を持っていた。
それはヴィルヘルムにとっても同じだったのかもしれない。
「後から知って、せめて側にいられればと思って、俺は側仕えになった。だが、俺はリリスを諦められなくて、だから足掻いて側仕えになろうとしたのかもしれない」
ああ、どうしよう。どうしよう。どうしよう。
リリスはその視線から逃れられない。手を引き離せない。
その続きを望む心に反対する心が叫ぶのに、動けない。
「婚約者といるリリスを見ると、俺はどうしようもなくなる。触れられているところを見ると、妬かずにはいられない。でも、俺はリリスと釣り合えない、俺は絶対にあの『婚約者』と同じ立場にはなれない──どう足掻こうとしても、人間である俺には越えられない差がある」
哀しそうな感情が、目と声に濃く滲む。
リリスの心が悲鳴を上げる。
そう。決して越えられない差がある。自分とヴィルヘルムという存在は違う。
それなのに、リリスはヴィルヘルムに惹かれてしまった。好きになってしまった。
表情を歪めてしまったリリスを、引き寄せる力の強さが増した。
より近くなった彼が、言う。
「誰と結婚するかは知らない。──だが、その心は、俺にくれないか」
──手が届かないものに、手を伸ばす。懸命に手を伸ばす、懇願だった
リリスの紫の瞳が揺れる。
心はくれないか。その言葉に、大きく揺れる心がある。竜人と結婚しなければならない義務を背負い、葛藤するリリスには甘すぎる言葉だった。
心を預ける場所ができる。諦めなくてもいい。
「わたしは──」
無意識に何かを言おうと口を開いたあとに、リリスは我に返る。
違う。
自分が考えていたところは、そこだけではないのだ。義務により、してはならないと思うだけでは。
リリスは唇を引き結び、顔を背けた。やっと、そうすることができた。
「……駄目だ。出来ない」
言葉でも言い表した。
ヴィルヘルムに心をあげることはできない。そうするべきではない。
「──どうして」
顔を見ずに聞いた声は、喪失したようなものだった。
「リリス」
切なげな声に名前を呼ばれ、心が締め付けられる。
苦しい。どうしてか泣きたくなる。
「俺を見てくれ」
懇願の声と腰を抱く手の強さに、少しだけ上を見てしまう。
見て、後悔する。
この目から、次、どうやって逃れるというのだろう。
ビクリとして無意識に下がろうとしたが、できない。手があると再度認識して止まってしまう。
「いつも、嬉しそうに笑ってくれるのに? そんな目で、俺を見てくれるのに? 出会って過ごしたあの十日の旅路、」
止まれ。
駄目だ。
言うな。
「確かにリリスは──」
「ヴィルヘルム」
リリスは堪らず、制した。
「やめろ」
苦しい、苦しい、拒絶だった。
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