暴君
陛下と呼ばれている通り、リリスは国の王だった。それも一国のみならず、周辺国を下に置く王でもあった。
「ヴィル、遅いぞ」
「待ってください。準備があります。──絶対に勝手に行ってしまわないでくださいよ」
コツコツとブーツを鳴らし、城の廊下を歩いていたリリスは立ち止まった。
広い廊下は、隅々まで磨き上げられ、歩く者の姿が映るほどだ。
リリスの姿も、足元からブーツ、ぴったりとしたズボン、ブラウスと石の床に映っていた。
リリスは、性は女であったが、ドレスを着なかった。人間にとってはもう一生分になろう昔、王位を継いでからドレスを着たことはない。
元々まどろっこしい衣服だとは思っていたのだ。
そういうわけで、ズボンにシャツとかいう男がする格好を好んでいた。
「むぅ、何を準備するものがあると言うんだ」
「街に徒歩ならいいですが、遠出の際に下手すれば陛下がいつも忘れそうになるものです」
今回の外出は、見抜かれて、ヴィルヘルムを連れて行くことにした。
あとからやっと追いついてきた彼を待っていたリリスは、近くにあるテラスに出られる窓を開ける。
「もうここから出る」
「いや、狭いんじゃ──」
手すりに飛び乗るや、リリスは姿を変じさせる。
リリスは、人間ではない。
竜人と呼ばれる、竜の姿と、人の姿を持つ存在だった。むしろ竜の姿が本体なのだろうと、本能から思う。
小柄な少女の姿は、変わってゆく。肌に鱗が浮かび上がり、爪が長くなり──という細かな変化から、みるみるうちに体が大きくなり、人の姿など跡形もなくなる。
瞬きの内に手すりにとまっているものは、大きな翼を広げ、全身を銀色の鱗で覆われた竜となっていた。
目は紫で、瞳孔は細い。いつもは人と同じように丸くしているが、この姿ではそうもいかないのだ。
爪は大きく鋭く、大きな口から覗く牙も同じく。
遠くへ行くには、この姿は便利なものであった。
「行くぞ、ヴィル」
自分よりちっぽけな存在になったヴィルヘルムを見下ろし、大きな口を開け、リリスは促す。
「陛下」
そこに、現れた者があった。
丈が長く、重そうな衣服を身につけた老人だ。政務に携わる高い地位にある臣下だった。
人間だ。
この国にいる臣下は、いずれも人間だ。
この国には、リリスしか竜人がいない。人間にとって昔、リリスにとっては少々前、そうなったのだ。決して他の竜人がいなくなったわけではなく、他国の主としている。
国の中に貴族が領地を持つようなもので、元々数が少ない竜人は、国一つをそれぞれの領地のように与えられ王の役割を果たしていた。
今は巨大な体をするリリスの存在は当たり前で、恐れる様子はない老人は、リリスを見上げ引き留めた用件を伸べる。
「目を通していただきたい書類があるのですが……」
「む」
執務ときた。
リリスは王だ。竜という、人間とは一線を画す存在として、絶対的な君主でもあり、全ての最終的な決定権はリリスにあった。
しかし、
「任せる。良きように計らえ」
その一言で片付け、臣下は一礼して去って行く。
真にリリスの判断が必要なものではなかったのだろう。
「いつも思うんですけど、あまりに任せすぎじゃないですか?」
下で言うヴィルヘルムを見下ろし、リリスはゆっくりと瞬いた。
「任せることの何が悪い?」
「悪いと言うより……任せきりにして、都合のいいような判断がされたりするとか、考えないんですか?」
そういうことか。
ここが、人間の思考と竜人の思考の違いなのだろう。
竜人とは、強さを重んじる。王は、強き血が流れる王族の中の最も強き者がなる。余程のことがなければ、王族の子は他の竜人を遥かに凌ぐ力を持って生まれるはずなのだ。
竜人は、本能的に王に絶対服従をし、決して逆らわない。争うならば、力が変わらない者同士のみであろう。王族内になるとそういった例もあるようだが、別の話だ。今はリリス以外にいない。
ところで、一方、人間は、竜人とは異なりそんな本能はないようだった。
その昔、竜人は、人間から神とも崇められていたという。
ただ、竜人が人間より遥かなる力を持った存在だから従う。それは、竜人と同じ姿勢であるように見えて、異なる。本能ではないのだ。
畏怖などを感じ、無意識的に流れで従っているが、竜人のような種類の本能ではないため、可能性としては裏切る可能性はある。
歴史上、数えるほどだが、人間の民が王に異論を唱え、無謀にも狙った事実があるのだという。
「自分の欲に従い悪いようにするならば、すれば良い。この国は、わたしの国であると同時におまえたちの国でもある」
だがリリスは構わなかった。
するならば、すればいい。
リリスは、竜人の本能的な在り方より、人間の在り方の方が嫌いではなかった。小さな争いが頻発しようと、その方が。
「そもそも、前の代からこんなものだぞ? 正さなければならないところが見つかれば、後で正せばいい。その程度だ」
自由を謳歌し、暴君に。竜人の王とは、そのようなものだった。
ヴィルヘルムを伴い城を離れたリリスは、悠々と空を飛び、人が切り開いた土地よりも何の手も入っていない土地の方が多く広がる場所にやって来た。
リリスは、国中の人里に出向く。今回は国の端にも近い、小さな村があるような場所だ。
ヴィルヘルムには小言を言われるが、国中を回ることはちゃんとした効果が伴うことであったりする。
竜人に従い、力を差し出す精霊は、王であるリリスに最もよく集まり、なつく。
リリスが国中を回ることで、精霊はこぞって大地を豊かにし、国は豊かになる。
ちなみに、その予定のときはリリスとて着替えを持って行く。民を見回るのだから、仕方ない。
ただし、人里を見回る予定がなければ、行って戻るだけなのでわざわざ着替えは持っていかない。
「おい、まさかこのまま飛び込む気か!」
ごうごうと空気を突っ切る中、背中にいるヴィルヘルムが、叫んで尋ねてきた。
眼下には、緑の森の中に、丸い水色が見えていた。泉だ。
明らかに地上へと近づく傾きで、リリスは一直線に泉に向かっていた。
「そうだ」
「冗談じゃない! 降ろせ──いや、降りる!」
泉がすぐそこ、というまさに寸前で、背中にいた存在は言葉通りに飛び降りた。
直後、激しく水が乱れる音が立った。リリスが竜のその巨体のまま、泉に飛び込んだのだ。
高く波打ち、落ち着きをなくした水の中で、竜の姿が縮む。否、人の姿に変じる。
人の姿に戻ったリリスは、泉の中心からすいすいと泳ぎ、泉の淵に至る。
「ヴィル、大丈夫か?」
無事、泉ではなく地面に降りられたらしいヴィルヘルムは、服をはたき、土を払っていた。
こちらを見た彼は、短く息を吐く。肩からかけていた荷物から何かを引っ張り出し、泉の淵にいるリリスに突き出す。
「服を着て下さい」
「どうせ濡れる」
「裸でいられるよりましです」
ほら、と、差し出されるものは衣服のようだった。荷物はそれだったらしい。
ここで一人で遊んで戻るつもりだったリリスは、衣服を用意していなかった。
でも、どうせ戻るだけなのだ。
「俺が男で、貴女は女であることを忘れないでもらいたい」
けれど、その一言で、リリスはすすす、と水の中に沈んだ。衣服に手を伸ばす。
「言えば自覚してくれるようで何よりです」
ヴィルヘルムは自らも視線を外し、リリスが衣服を身につけるのを待った。
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