距離



 飛ぶことは好きだ。

 体に受ける風の感覚は心地よく、地上からでは見ることが叶わない広大な景色は美しい。共に空を飛ぶ風の精霊の声も聞こえる。

 この世の自然に宿る精霊たちは、長い時を共にできる存在だった。


 自由に空を飛び、出先から戻っていると、すぐに住居である城が見えてくる。

 目指す私室を捉え、翼をしまい、巨大な体を変化させ──人の姿で、しなやかにバルコニーに降り立つ。


「おっとっと」


 勢い余って、硝子にぶつかるところだった。

 寸前で事なきを得て、改めてバルコニーからの出入り口となる大きな窓に近寄る。


「……開いていない」


 窓は開かなかった。

 それもそうか。出てきたときのことを思い出す。出たときは、普通に庭辺りから飛び立ったし、ここから出ていたとしても、誰かが戸締まりをする。

 下から入れば良かったか、言って行っておけば良かったか……。


「ん? 何だ?」


 髪をつんつんと引っ張られた感触に、近くを見る。

 精霊が、白に近い銀色の髪を一本ずつ引っ張っていた。リリスが気がついたと見ると、精霊たちは一様に窓の向こうを示す。

 それどころか、するりと窓の向こうに通り抜けて、カーテンの向こうを示しているようだ。

 窓は、上から下まで白いカーテンで覆われている。外からの視界を塞ぐ役目を大いに果たし、部屋の中は見えない。

 人の目では。


 窓に限界まで近づき、リリスは目を凝らす。

 リリスの紫の目、黒く丸い瞳孔が──細くなる。

 同時に、リリスの視界は変わる。景色ではより遠くのものが見えるような視力になり、カーテンの向こうもわずかに見通せる。

 否、布で覆われている先が本当に見通せるようになるのは無理だ。向こうにあるものを感じとり、頭の中に形が浮かび上がる。

 横へと繋がる扉、テーブル、椅子、そして──生き物の気配が一つ。


「誰かいるのか?」


 正解だと言うように、ちょうどのタイミングで、ゆらゆらとしていたカーテンが、横に退けられた。

 精霊の仕業だ。


「ヴィル」


 リリスは、瞳孔を丸く戻す。


 部屋の中に感じ取った生き物の正体は、側仕えを勤める若い男だった。

 寝室の扉の脇の椅子に座っている。ただ、頭は垂れていて、寝てしまっているようだ。

 リリスは、その姿を見た瞬間、喜びに表情を明るくした。唇は綻び、笑顔になる。


 しかし、相変わらず窓は閉まったままだ。

 中に人がいるのだから、叩いて知らせるという案は……ヴィルヘルムの姿を見て消える。起こすのはもったいない。

 窓を壊すのは忍びなく、残す案は、精霊に開けてもらうか。

 精霊たちは、カーテンを開けるくらいは気が利くのに、肝心の窓は開けてくれない。自分たちは通り抜けられるからと失念するところがあるのだ。


「精霊たち、この窓を──」


 ふわふわと宙に浮いている精霊を見上げ、頼んでいたときだった。

 部屋の中の男が、動いた。

 空気の流れでも感じたのか、頭を上げ、目を開き周りを見る。ぼんやりとした目は窓の方に向けられた瞬間に、ぱっちりと覚醒した。


「──」


 何かを言ったようだが、聞こえない。

 しかし起きてしまったなぁと思っていると、ヴィルヘルムは椅子から立ち上がり、窓を開け放った。


「やっと帰って来やがったか──って」


 素の口調で言ったヴィルヘルムは、リリスを見下ろし、


「服を着ろ!」

「うわっ」


 自らの上着を脱ぎ、正面からリリスを覆った。

 丈の長い布は、ヴィルヘルムより背の低いリリスの全身をすっかり覆ってしまう。


「うぅ、乱暴だ」

「それは悪かったですね。さっさと入って下さい」


 背に添えられた手が、リリスを室内へ押し、窓をきっちり閉める。


「言いたいことは色々ありますが……それ」


 リリスを見たヴィルヘルムは、何かに気がついたようになった。


「血、ですか?」


 ヴィルヘルムは、指でリリスの鼻の辺りに触れた。その指に微かに乾いた何かがついた。


「ああ、それか。昨日の夕刻頃、ごろつきからお嬢さんを助けたのだけれど、そのときに殴られた。中々いいパンチだったな」


 顔面に拳が入り、派手に鼻血が出たのだ。

 助けたお嬢さんの介抱もあってすぐに止まったが、どうも名残があったらしい。

 あとで洗おう。


 話を聞いたヴィルヘルムは顔を険しくした。

 いつもはほとんど真顔と言って差し支えのない顔で、そういう種類の顔はしないのに、時々こんな顔をする。


「……どこでやられたんですか」

「そんなことを聞いてどうする」

「不敬罪で引っ張って来ますよ」

「物騒だな。問題ない。最終的には一睨みで去ってもらった」


 それなりの恐怖は感じただろうが、まあ殴ったり切り裂いたりして傷を負わせるのと比べれば、平和的な方法だったと思う。


「そうですか」


 ヴィルヘルムはそれ以上は聞こうとしなかった。

 代わりに顔をじろじろ、髪を避けたりして、大層見てくる。

 間近に迫る顔は、真剣そのもので、青い瞳は今日も綺麗だ。


「……それ以外には怪我はないようですが」

「うん」

「あんた、そういうところは直した方がいいですよ。すぐに追い払えるのに、それを使わずに、殴られたりするところ」


 だって、怪我をすると痛いだろう?

 人間が殴るだけでも、それなりに痛いのだ。


「それと」


 間近にある顔がもっと近くなる。リリスの顔の横に来たから、髪が頬に触れてくすぐったくなる。


「あまいにおいがする。一体、どこに行っていたんですか」


 耳元で聞こえる声音には、勘繰るような響きがあった。


「助けたお嬢さんが花街の子でな。送りついでに泊まっていった」


 花街とは、一見飲み屋が連なる場所で、性別を問わず娼婦の女や男がいる店がある区域を指す。

 昨日リリスが助けた娘は娼婦を生業にした者で、たちの悪い客に当たってしまったようだった。助けついでに誘われて、リリスはそのまま一晩泊まっていったというわけだ。


 顔を離したヴィルヘルムは呆れた目をして、口を閉じた。何なのだ。


「そのまま帰ってくる発想はなかったんですか」

「あったはあったのだけれど……」


 と、言う途中、主不在の部屋の中、座っていた姿を思い出した。


「ヴィル、私の部屋で待ち構えていたとは──さては寂しかったか」


 ふふん、と言ってやると、


「そうですよ」


 と、ヴィルヘルムは表情を変えず、平然と応じた。

 話を振った方のリリスがむ、と詰まってしまう。


「寂しいと言えば、何も言わずに行かないでくれますか」

「言ってはいるだろう?」

「出かけること自体は。ただ、一晩どこかに泊まってくることは言っていかれた試しがないですし、出かけるときもほとんど思い付きでこちらの返事も聞かずに行ってしまうでしょう」

「ヴィルも一緒のときがあるだろう」

「ときがある、だけでほとんどはそうじゃないですよね」

「それは……今に始まったことではないからな」

「そうですね。もういいです」


 青い目が、ふいっとリリスから逸れる。それが酷く残念な一瞬に思えて、ちょっと気分が沈む。


「陛下が帰って来たぞ!」


 突然の大声である。

 リリスは大きな声で自分が帰ってきたことを知らせたヴィルヘルムを見上げ、「そんなに盛大に言わなくとも」と言う。ゆっくりしたいのに、見つかるではないか。

 だがヴィルヘルムはこちらを見ず、そうしている間に、足音が聞こえ、扉が開いた。


「陛下、お帰りなさいませ」


 一人の女を筆頭に、侍女が現れ、一斉に頭を下げた。


「すぐに湯あみの準備を致します。どうぞこちらへ」

「んん、湯あみなら」

「つべこべ言わず、行ってきて下さい」

「む、ヴィル」


 リリスを侍女に明け渡そうとするヴィルヘルム。

 見ると、彼はちらりと、その鮮やかすぎる青をこちらに向け、


「俺はその匂い嫌いです」


 と、一言のみ述べ、背を押した。

 リリスは、くんくんと腕をにおう。人間は自分たちほど嗅覚は鋭くないだろうに、変なことを言う。

 でも、まあ、嫌いと言われたら落としてこようと思うものである。

 リリスは、ヴィルヘルムを置き、浴室へ行くことにした。





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