第6話 少年と懺悔と、静かの海について

 温室のうちのひとつは、ハーブ園になっている。細く長い水路がぐるりと部屋を一周していて、そこには小さな魚が泳いでいる。硝子張りの天井から陽射しが降り注ぐと、それを反射して魚たちはちらちらと光り、俯瞰すればまるで、竜がこの部屋を抱いているように見えるだろう。

 少年はマジョラムの葉をそっと摘むと、指先を鼻に寄せる。清涼で少し苦味のある香りが掠めたはずだ。ミルクティーとジンジャークッキーをテーブルに並べる。紅茶にクッキーを浸して食べるのが英国風ですと伝えると、苦笑いされた。


「子どもっぽいよな」

「いえ、英国ではダンクという言葉があるくらい……」

「いや、そうじゃなくて。子どもなのは俺。すみません」

「お話を、買い取ります。ミルクティーとクッキーで」


 少年は、立ち昇る湯気に目を細めた。


「家族の話なんです」

「はい」

「俺はあまり上手く喋れないし、人に自分のことを話すのも好きじゃない。だけど、一度、自分の外にこれを出さなきゃならない。それだけは、わかってるんです」

「井戸ですね」

「井戸?」

「王様の耳はロバの耳、です」

「ああ」

「ですが、この井戸は国中に繋がっていたりはしません。記録はさせていただきますが、誰の目にも触れないことをお約束いたします。安心してお話になってください」


 少年は頷いた。


「四年前、父と母が死にました。交通事故でした。母さんは、息子の俺から見ても浮世離れしていて、いつも夢の中にいるような危なっかしい人だった。

 父さんは実業家のくせに、家にいるときは母さんと同じくらいふわふわしていました。子どもっぽい夫婦だったと思う。多分、母さんのことが好き過ぎてそうなっちゃったんだろう。仕事振りはすごかったらしいけど、そんな姿を見る前に逝ってしまったな。


 俺たち家族は、海の近くに住んでました。母さんがそうしたいと言ったから。父さんは、母さんが気に入るような物件をすぐに探してきました。元々は別荘だった白い洋館を買って、サンルームに白いグランドピアノを入れました。俺は、これで毎日海に行けると、母さんと飛び跳ねて喜びました。

 いつもそんな風だった。母さんが夢見がちなことをぽつりと言うと、父さんはそれを実現しようと、現実的な処理を一手に引き受けて走り回った。


 世間からは、おっとりした奥さんとすべてを取り仕切っている旦那さんなんていう風に見えていたらしいけど、実際の主導権は母さんが握ってたんだ。父さんは、母さんの前ではいつまでたっても少年で、見ていて恥ずかしくなるくらいだった。

 そんな二人を見て育ったからか、俺は妙に冷静な子どもで、内心父さんに呆れてました。

 父さんは、いつもこう言っていた。


「大切な人ができたら、自分の全部で守ること。決して手放さないこと。父さんとお前の大事な人は母さんだ。二人で母さんを守っていこう。そして、父さんと母さんの一番大切な人は、お前だよ。この翼が届く限り、永遠に守ると誓おう」

 

 父さんは言葉だけじゃなく、本当にそうしていました。

 母さんはピアノが上手でした。両親を早くに亡くし、親戚の家をたらい回しにされたそうです。最後に親戚とも言えないくらい遠縁の、人の良い一家に引き取られて、中学を卒業するころにやっと落ち着いた。そこの一人娘がピアノを習っていて、母さんも一緒に習わせてもらったそうです。

 本当に優しい人たちだったと、何度も話してくれました。母さんはピアノが好きになって、毎日夢中で弾いたそうです。近所に住んでいた父さんはその姿を窓越しに見て、母さんに一目惚れした。

 父さんの猛攻で付き合いが始まりまったそうです。でも三年続いたあと、父さんが外国の大学に留学することになって別れた。

 何年も経ってから偶然に再会して、父さんの再度の猛アピールで結婚してもらったんだそうです。


 再会したとき、母さんはピアノをやめていました。それで食べていけるほどの腕ではなかったし、そもそも音大に行けなかった。そんな金を出して欲しいなんて、世話になっている家に言えるわけがなかった。

 その遠縁の住んでいる街には音楽大学があって、いつでもどこでも楽器の音が聴こえていたそうです。だから学校を卒業して独り立ちしても、その街からは出ずに、小さなアパートを借りて、その音を聴きながらひっそりと暮らすことにしたんだそうです。


 父さんはそんな母さんをもう一度見つけて、捕まえて、ピアノをプレゼントした。

 そのころの母さんは精神的に不安定だったけれど、ピアノを再開した途端良くなったそうです。

 放っておくと、足が地面から離れてしまう人なんだ。俺を生んだあとでさえそうだったんだから、そのころはよほど酷かったんだと思います。

 母さんのことを、本物の天使だと言う人もいた。容姿も性格も、とにかく地に根差している雰囲気がひとつもない人だったんだ。

 それを、かろうじて大地に留め置いていたのが音楽でした。父さんは母さんをもう一度鎖で繋いで、空へ飛んでいってしまわないようにした。でもそれはとても長い鎖で、大気圏に突入して宇宙まで吹っ飛ぶ前に、戻ってこれるくらいのものだったんだろう。

 父さんはそうやって、母さんをずっと守っていた。

 

 母さんは夜の海が好きでした。星空も好きだった。晴れてさえいれば、街から離れた俺たちの家からは、ふたつともよく見えました。

 夜空と海の闇は等しく底が見えなくて、浜辺に立つと、大地はそのふたつに挟まれてほんのわずかに許された、ほの明るい場所なのだとわかる。

 母さんは、海の底から音を拾ってきた。星の光が音になって零れ落ちるのを、手のひらで受け止めていた。そうやって作った曲は、不思議な音がしました。音楽を鳴らすことで、静けさをもたらしていた。

 その場所には熱がなかった。生物がいなかった。完全なる真空で、不純物は存在できない。音楽の届く範囲すべてが静かの海に変わって、月明かりを遠ざけた海底に、母さんと聴衆だけが降り立つ……そんなイメージ。

 でも、俺たち聴き手は宇宙服をしっかりと着込んでいて、直接には海と触れ合えない。母さんだけが、何の防備もなく素足でそこに立っている。

 俺が特別詩人ってわけじゃないですよ。母さんの曲を聴いた人は、表現の仕方に差こそあれ、多かれ少なかれ同じような感想でした。


 父さんは友達が多かったから、色んな人が家に遊びに来ました。母さんのピアノは仲間うちでは有名で、そのうち業界の人から声をかけられるまでになった。

 母さんの作る曲は、物哀しさと同時に癒しがあると絶賛されて、胃薬のCM曲やゲームのBGMに起用された。現代人は皆、疲れてるんでしょうね。そういう需要に、上手いことマッチしたんじゃないかな。

 そうやって母さんは、父さんがお膳立てしてくれた環境で、父さんの人脈を使って、何とか社会と関わりを持っていた。いくら浮世離れしてるといっても、人間は社会的な生き物だから、そういうのがなかったら、母さんはもっと早死にしていたと思う。


 ある日、俺が一人で家にいるときに電話がかかってきました。警察からでした。母さんを乗せた父さんの車が、多重事故に巻き込まれたと。二人とも即死でした。

 父さんは宣言通り、最期まで母さんを守って一緒だった。

 でも、一人で放りだされた俺は途方に暮れました。母方の親類は、最初に言った通りでほとんど付き合いがなかったし、母さんの面倒を見てくれた親戚に俺のこともお願いしますとは、言いにいけない。

 その上、俺たち家族は、父さん側の親類とも疎遠になっていました。昔父さんと、父さんの父さん……祖父との間でトラブルがあって、そこから音信不通になったらしい。

 とにかく俺は、親戚付き合いというものをしたことのない子どもでした。養護施設に行くしかないと腹を括りました。

 だが、父さんは抜かりがなかった。通夜にきてくれた例の遠縁の女性が、一緒に暮らそうと言ってくれたんです。母さんと一緒に、ピアノを習っていた娘さんです。

 叔母の家は、俺たちの住む場所からだいぶ離れたところにあるので、直接の行き来はなかった。でもずっと、手紙のやりとりはあったそうです。

 数年前に父さんから、突然電話をもらったそうです。私たち夫婦にもしものことがあったら、息子のことを頼みたい。父さんは、そう言ったと。


 笑える。何だよそれは。早死にする気満々みたいじゃないか。でも、父さんの根回しのおかげで、俺はスムーズに叔母の家に引き取られました。本当に翼は届いていた。父さんが死んだあとも、なお」


 硝子天井の向こうを、大きな雲が通り過ぎていった。テーブルクロスの一点を、早春の光が貫いた。少年ごと一緒に。


「そういうわけで、俺はこの街に引っ越してきました。叔母さん一家は、本当に良い人たちです。居心地良くさせてもらっている。俺は母さんの若いころにそっくりらしいです。正直この女顔はコンプレックスだが、叔母さんに度々見つめられて涙ぐまれたら仕方ない。

 自分で言うのも何だが、俺の子ども時代はおとぎ話みたいだったと思います。傷ひとつない玻璃のようだ。……そう思ってました、ずっと。

 でも、それは違いました。


 ある日、見知らぬ人から手紙が来た。売り払った海辺の家に父宛てに届いたものを、親切にも新しい住人が転送してくれたんです。そこには、真実が書いてありました。父さんが俺に隠していたことが。

 手紙主は、俺の姉でした。姉の母親が亡くなったという知らせでした。わけがわからなかった。叔母が真相を知っていました。問い詰めて、教えてもらった。


 父には、母と結婚する前に家庭があったこと。なのに母と再会して、また惚れてしまったこと。離婚が決まってもいないのに、強引に母を捕まえた。あまつさえ、子どもまで作った。数年間、父には家庭がふたつあったんです。

 父は母を手に入れるために、家庭をひとつぶち壊していた。すべてを金で解決し、あとを振り返りもしなかった。叔母は、ずいぶんオブラートに包んで説明してくれましたが、要するにそういうことだった。

 父が自分の親族と絶縁している原因も、これでした。周囲の猛烈な非難と反対を押し切って、父は母だけを求めたんだ。


 大切な人ができたら、自分の全部で守ること。決して手放さないこと。

 ……どんな気持ちで言ったんだんだろう。たとえ他の誰を傷つけても、自分の大切なものだけを守れと、そう息子に教えたのか?

 幸せに満ちた俺たち家族の生活は、母の純粋世界からはじきだされた人たちを踏み台にして、成り立っていたんです」


 終始囁くような声音は、何かを耐えているように聴こえた。ひと息に喋ったあと、少年は冷めたミルクティーで喉を潤し、唇についた滴をぺろりと舐めた。


「叔母が、密かに姉について調べてくれました。俺より六つ上で、今は一人暮らしをしている。家は、彼女の母親と住んでいたままの場所で、そこから毎日通勤している。折り目正しく慎ましく、この世界の片隅で、姉はたった今も生きている。一人きりで。父と母がいるのとは、真逆の場所で」


 震えるような溜め息のあと、彼は呟いた。


「俺は、どうしたらいいですか」


 私は言った。


「わかりかねます。私はただの記録者ですので、答えを出すことはできません」


 少年は俯いたまま、しばらく動かなかった。


 不純物だらけのこの世界に少年は生きている。彼の姉と等しく。

 私は藍色の表紙を付けて、本棚の三段目にその本を仕舞った。





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