第5話 灰色の男と鳥と、臨界について

 もう何十年もある人を探している、と彼は言った。


「ここは、彼女がいかにも好きになりそうな場所です。もしかしたら、訪れたことがあるかもしれません」


 もし、あなたの探している方と似た容姿の方に心覚えがあってもお伝えすることはできません。ここでの個人情報は、固く守られているのです。

 そう言うと、その人は表情を変えずに、「わかっています」と頷いた。

 彼はシャツもスラックスも靴も、身につけているものすべてがグレーでまとめられている。そのグラデーションは美しく、衣服の形はシンプルだが、全体として際立つものはない。彼からは所属の匂いがしない。


「彼女は父方の親戚でした。早くに両親を亡くし、祖父の家に引き取られたんです。うちには、何かにつけて親族一同、祖父の家に集まるという習慣があったので、小さいころはよく一緒に遊んでいました。彼女は私より四つ上で、色素のごく薄い茶色の髪と目をしていました。どこかの過程で外国の血が混じったのか、父の家系には、たまにそういう人間が生まれるのです。


 その色のせいなのか何なのかわかりませんが、祖父は彼女を疎んでいました。彼女の母親は私の父の姉……つまり私の叔母でしたが、祖父は、叔母の結婚自体に反対していたのかもしれません。叔母と叔父が亡くなったのは私がごく幼いころだったので、詳しい事情は知りませんが」


 目の前にあるコーヒーには、手がつけられていない。カップのすぐ横に手をおいたままその人は、淡く立ち昇る湯気を見つめている。


「大人たちが家の中で長く話し込んでいる間ずっと、私たちはツツジの蜜を吸ったり、ひっつき虫を付け合ったり、小さな池を覗き込んだりして遊びました。

 彼女は、テレビや漫画の話はひとつもわからなかったし、時にはぼんやりと旋回する鳥の群れを眺めているだけでしたが、それでも私は、なぜか彼女といるのが好きでした。彼女には独特の雰囲気が漂っていて、そばにいるだけで人を心地良くさせるものがあったのです。けれど、祖父の意見は逆のようでした。


 ある日──私が小学校に上がった年の秋のことだと記憶していますが──いつものように庭にいた私たちのところへ、祖父が肩をいからせてやって来ました。そして彼女に向かって、「俺のことを何だと思っているんだ」というようなことを訊いたと思います。

 藪から棒なその質問の意味も、なぜ祖父がそんなに怒っているのかも、私にはわからなかった。でも、もっと意味不明だったのは、彼女の答えでした。

 彼女はじっと祖父を見つめたあと、「ぬー」と言いました。たった一言、それだけです。


 祖父にも、言葉の意味はわからなかったと思います。ただ、馬鹿にされたと思ったのでしょう。みるみるうちに顔が赤らんで……私は、祖父が彼女に手を上げるのではないかと恐れました。

 だがそうはならずに、祖父は背を向けて家の中へ戻っていきました。その日はそれ以上何事もなく、夕方になると私は、両親に連れられて自分の家へ帰りました。


 数ヶ月後、正月の挨拶に祖父の家を訪れると、彼女はもういませんでした。彼女の父方の親族が来て、彼女を引き取っていったそうです。それ以上のことは、誰も教えてくれませんでした。というより、彼女の話題自体がタブーのようでした。

 それ以降、誰も彼女の話をしなくなってしまった。最初から、そんな女の子などいなかったかのように……」

「その少女を、大人になった今もずっと探していらっしゃる」

「そうです。むしろ、子どものころは探す手立てがなく、何もできなかった。大人になってから、親戚からできる限りの情報を聞きだしたり、探偵を雇ってもみましたが、結局彼女が今どこにいるのかは掴めていません。一番事情に詳しいはずの祖父母は、彼女が消えた数年後に相次いで亡くなりました。問い詰めることもできなかった」


 彼はふと湯気から目を上げると、ノートにペンを走らせる手の動きを追った。


「今までの人生の中で、私に深く関わった人間というと、彼女しか思いつかないのです。ただ庭で遊んでいただけなのに。もちろんこれは、私の生き方に大きな問題があるからなのでしょうが、困ったことに、私自身はそれを問題だと思っていない」

「困っていない」

「困っていない」


 と、彼は繰り返した。


「だが、感傷のようなものはある。たとえば……」


 彼が空を仰ぐのにつられて視線を上に向けると、天高く鳥たちが群れていた。

 それは滑らかな曲線で翻り、また元の綺麗な図形に戻り、流れながら精密に移動していた。


「彼女は、鳥がなぜあのように一糸乱れず飛べるのかを知りたがっていました。蜂の生態にも興味を持っているようでした。蟻を観察するのも好きだった。当時は、彼女はただ生き物が好きなのだと思っていました。

 大人になってから気がつきました。彼女が祖父に言った謎の言葉は〝ヌー〟だったのだと」

「ぬー」

「ヌー。和名はウシカモシカです。サバンナに生息している。

 ヌーは、約半年かけてサバンナを大移動します。その過程で、弱った個体は見捨てられていきます。川を渡るときに溺れるものもいるし、ワニに食われるものもいる。けれど、川に流れた死体は何年もかかって骨が溶け、動植物の栄養になるのだそうです。

 そういうことを、彼女はちゃんと私に教えてくれていた。なのに私は、それをすっかり忘れていました。

 ぬーがヌーなのだと気づいたときに、その話をしてくれた日のことを思い出しました。本当はあの瞬間、私だけはわからなくちゃいけなかった」


 彼はそこまでをひと息で喋ると、ふっと力を抜いた。


「でもどちらにせよ、彼女はいなくなったのでしょう。祖父をヌーにたとえることの意味は今もわからないし、その意味を知ったら祖父は多分、もっと怒ったでしょう。

 いや、本当に深いところで彼女を理解していたのは祖父の方で、だからこそ彼女は嫌われていたのかもしれない」


 彼がそっと触れたコーヒーカップは、温かさをだいぶん失っているはずだ。

 彼は言った。


「私は今、両親も含めて親族とは縁を切っています。仕事も一人でできる専門職で、たまに打ち合わせで会うくらいしか、他者との接触がありません。それに、打ち合わせの場所は家の近くにあるカフェと決めていて、他にはあまり出歩かない。

 その店は、特に美味いというのでもないが不味くもありません。そして、ここほど静かでもないし、使っている食器も安物だ。すべてがほどほどで、適度なんです。

 ほどほどというのは、しかし、案外と難しい。ほどほどな立地にほどほどなデザインの店内、その雰囲気に添うように働いている店員たちは皆、いつでも適切に穏やかです。親し過ぎもせず、失礼でもない程度の笑顔を一定して保っている。

 私はそれを見るたびに、鳥の群れを思い出します。あの店は超個体のようで、その運動は連綿と続き、安定供給される湿った息吹きに私は感傷を覚えている。もしくは……いや、わからないな」


 かすかに首を傾げて、彼はカップを包んでいた手を離した。


「仕事が首尾良く終わった日の夜は、近くのコンビニにビールを買いにいきます。家とコンビニとの間には陸橋があって、遠いビル群の灯りや列をなすテイルランプが見える。帰りにそこでもう、プルトップを開けてしまいます。飲みながら、街の営みを眺めます。そんなとき、彼女が教えてくれた様々な生き物の話を思い出すのです。

 大移動するヌーの群れ、そこに混ざるシマウマたち。川岸に這い上がれなくて落ちていくものと、その上を踏みつけて上がっていくもの。すべてが怒涛の中で起こっている。良いも悪いもない。巣から落とされる弱い雛。働かない働き蟻。突然変異で生まれる黒豹。

 それを、遠くの星を観察するように見つめる目。それが彼女だった。個々への共感がない。決定的な距離を感じていた。けれど、それらへと向けられるまなざしは確かにあった。

 もちろん、取るに足らない子どもだった。けれど彼女について説明するなら、こんな大仰な表現にしかならない。

 それを、祖父も感じ取っていたのかもしれません。彼女は、異物だったから排除されたのです」


 これからも探し続けるのですか? と訊くと、その人は「そうですね、多分。一生」と答えた。

 コーヒーは、ひと口も飲まれないままだった。

 私はスカイグレイの表紙を付けて、書き留めた彼の言葉を本棚の一番下に仕舞った。




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