第4話 Autumn

「少しずつ安全地帯を増やしてきました」


 温かなアップルパイを食べた終わったあと、その女性は言った。


「子どものころは下校の時間でした。元々、家から徒歩五分の小学校に通っていたんですけど、家の建て替えで一時的に引っ越しをして、六倍の時間をかけて登下校することになりました。そのルートに銀杏並木があって、落ち葉を漕いで歩くのが好きだったんです。いえ、好きよりもっと……至福、ですね。歩道部分だけが一段高くなっている道で、車道との段差に落ち葉が吹き溜まるんです。そこに片足を突っ込んで漕いでいく」


 今はちょうど彼女が語るのと同じ季節で、屋敷を囲む森は色づき、絶え間なく落葉している。


「何を考えながら歩いていたのですか?」

「何も。ただ無心で落ち葉の音と感触を確かめていました。それから、回転しながら落ちてくる無数の銀杏を見つめ続けました。この時期は短いですから、ひとつも取りこぼしたくなかった。肺の隅々までひんやりした空気が行き渡るよう呼吸して、いつでも思い出せるようにしておこうと思っていたんです」


 ダージリンティーを一口飲むと、女性はほっと息をつく。彼女の声はとても小さくて、遠くの樹々がさらさらと葉を揺らす音のようだ。


「学校を出て一人暮らしを始めてからは、部屋が安全地帯になりました。狭くて壁が薄くて、すぐそばの大きな道路には絶えず車が走っていましたが。

 真っ先に緑のカーテンを買ってきて、外界との間に頼りない防御壁を作りました。窓から朝日が射すと、色が変わってライムグリーンになるんです。それをベッドに潜りながら、まだ眠たい目でぼんやりと眺めていました。


 洗濯にリネンウォーターを使って、ベッドに入るといつでも花の匂いがするようにしていました。くたくたで仕事から帰って、夕飯を作る気力もなくて、途中のコンビニで買ったお弁当を食べながら、深夜テレビが環境映像を流し続けるのを漫然と眺め、シャワーを浴びて眠る、そんな生活でもベッドリネンだけは頻繁に取り替えていたので、アロマの匂いに囲まれて、いつでも安心することができました。


 休日にベッドから一歩も抜けだせず、タイマーで点いたテレビがいつしかさわさわと不穏を告げて、目だけ開いて見てみたら、凄惨な通り魔事件が起きていました。

 道路についた大量の血と、次々とやってくる救急車の映像。それを、世界で一番安全な私だけの場所から眺めていました。恐怖とか不安とか、そんな感情を超越した何かが、水のようにひたひたと世界に浸透していく様を見ていました。

 明日になれば、私もまた起き上がって、あのめちゃくちゃな場所に行くのだという、それが当たり前の人生なのだということを、うつらうつらしながら感じていました」


 彼女はこの時期にしか来店しない。この街では、ここが一番落葉が多いという単純な理由だ。

 強い風が吹いた。葉は舞い踊り、自身も回転しながら、同時に群れ乱れて大きなひとつの輪を描いている。

 静かな光の嵐を胸に書き留めて、彼女は冬眠の準備をする。その風の中心にあるものには、誰も触れることができない。

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